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都市は「碁盤型」と「放射型」に分けられると思います。東京は「放射」大阪は「碁盤」。無論、京都、奈良は碁盤。N.Y.、ロスは碁盤。パリ、アムステルダムは放射。
結果、東京の育ちの人は歩行中「東西南北」を意識しないなどの違いが出るようです。又東京の中でも日本橋、東京から銀座新橋までは碁盤、渋谷、六本木、池袋、飯田橋あたりは放射状です。
1.他の都市はどうなんでしょう?
2.この二つの形の分かれ目はなんでしょう?どういう発想で二手に分かれるのか? どっちが自然なのか。
3.他の形はあるでしょうか?(むちゃくちゃ型?)
4.2パターンの功罪はなんでしょう。又好き嫌いはありますか?。

A 回答 (6件)

 MONKEYMONKEYさんは非常に理解が早いですね。

こちらも手を抜くことができません。ところが、僕の手元に、現在資料がほとんど残っていないため、今回の回答は「自信なし」です。
 言い訳がましいのですが、会社の業務でこれをまとめたものですから、その際に使用した資料は当然ながら会社のものなので、当時勤めていた会社にほとんど置いてきているのです。
 私は都市計画の専門家ではなく、ましてや歴史の専門家でもありません。ここに書かせていただいていることは、都市の防災を考えるにあたって、都市の発達史を明確にしておく必要が業務上でてきたため、まとめたものなのです。(私の素性は、回答者の私のハンドルネームをクリックして、私が出している回答を覗いて下さればすぐご理解いただけると思います。)
 従って、歴史上の細かい具体的なことになると、正直言って手元に資料がないとお答えできないのです。
 ごめんなさい。

1)争奪戦は、わかりやすく言えば「戦国時代」のことです。室町末期の群雄割拠のように捉えて下さっても良いかと思います。細かくは、手元に資料がないので説明できません。すみません。
 都市の時代として捉えると、「大将が住む一つの街」=「大将の国」=「ある程度経済的に自己完結する都市」のように考えることができます。

2)「一つの都市」=「一つの国」づくりが終わったことを象徴的に捉えて、「江戸時代」と言いました。国同士の争いがなくなり、日本全部の都市が集まって一つの国となったことから、都市間相互の経済的交流が本格的に始まった、という事です。

 これら1~2については、「日本の城下町」という名前だったと記憶しているのですが、この本を参考にしました。この本は、日本国内のいくつかの代表的な城下町について、都市形成の初期から最近の鉄道駅までの歴史を、各歴史段階ごとに地図で示しながら、都市の発達を解説している本です。この本を見れば、具体的に答えられるのですが、すみません。

3)「放射状の街」というのは、実は全く意味が異なるのです。日本の都市開発を見てみると、放射状の街が造られる(または計画される)のは、明治以降だと記憶しています。争奪戦に強い町作りは、放射状のように整然とした町作りではなく、全くその逆で、入り組んだ複雑な街路と家に象徴されます。これは、大将を守るため、自分の都市に入った敵方が、容易に大将の陣地まで近づけないように配置したものです。
 こような入り組んだ配置は、戦国時代には明確に形成されていましたが、荘園の頃までさかのぼっても形成されていたのか、僕の記憶にはないのです。すみません。ただし放射状の都市ではなかったことは、確実です。
 ここで話題が少しずれますが、僕が書いている「都市」と「街」について明確にしておかなければなりません。僕は「都市」を、「街」のたくさん集まった、例えば広義の「東京」や「大阪」と考えています。「街」は「渋谷」とか「新宿」のように考えています。
 東京も、江戸時代頃まで遡ると、小さな宿場町(例えば新宿:新宿は内藤さんが造った新しい宿場町でしたので当時は内藤新宿と呼ばれ、そして現在の新宿という地名になった)を、街道によって接続され、形作られていました。
 明治以降から昭和の初め頃まで、東京には「街」を開発する地的余裕があったたため、新たに「モダンな」町作りが行われていました。この時の開発は、争奪戦の頃のように「独立した経済」圏としての「都市」や「街」を造る必要がないため、「住居」専門の町作りが行われていました。もちろんその背景には新しい職業「サラリーマン」の出現もありました。この際に参考になったのが、外国の住居の街でした。これが「放射状の街」です。「放射状の街」は、設計思想として明確な考え方があります。僕の記憶では、思想的・宗教的象徴を中心に配置して、そこから放射状に街路を配置することで、中心への帰属意識が高まると同時に集まりやすい。さらに同心円状に街路を配置することで、目線として行き止まりをつくり、こぢんまりとした小さい生活集合体意識を持たせる、確かこのようなものだったと記憶しています。間違っていたらごめんなさい。この思想的中心を鉄道の「駅」に置き換えて、開発した街として、「田園調布」をあげることができた記憶していますが、これも間違っていたら、ごめんなさい。
 しかしこの僕の3に関する記憶は、たぶん間違いです。すなわち「放射状」は小さい「街」単位のみで、「東京」のような大きい都市には計画されていない、と記憶している事です。なぜなら、おっしゃるように、東京には放射状に郊外へ延びる幹線と、環状の幹線がいくつもあるからです。
 放射線と環状線の幹線道路基本計画は、これも僕の記憶では、関東地震(大正11年)の復興計画だったと記憶していますので、前に紹介した本を、なんとか入手して読み直さなければなぁ、と思いました。

 日本の主な都市は、第二次大戦時のアメリカによる空爆で、ほとんどが壊滅しています。それ以前は、東京のように地震による壊滅が発生していない限り、戦国時代の幹線のままです。
 現在各主要都市に見られる放射状の幹線は、大部分は終戦後に計画されたものと記憶しています。これもまた、間違っているかも。

 最後は、お粗末になりました。
 だめですな、こりゃ。

 あれっ、関東地震って大正11年でしたっけ?
 本当にだめだ。

この回答への補足

みなさま、ありがとうございました。
とっても勉強になり、また楽しかったです。

補足日時:2003/10/05 19:55
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この回答へのお礼

ありがとうございます。防災から都市へのアプローチとは非常にスリリングです。他に渋滞なども私は大変ミステリアスに感じています。私は裏道見つけがほとんど病的なくらい好きなのですが、あれは競馬や株価と似ていて大衆心理が矛盾となる。つまり、本来幹線道路こそ最良のはずが、最良と信じるものが大勢いると、非幹線道路が逆転して有効となる。そして裏道も又、有効と認知された瞬間その機能が劣化し始める。そのメカニズムは複雑すぎて(大衆心理が介在するため)結局正解はない。
1)2)勘が悪かったです。争奪=戦国ですね。敵対する甲斐と越後間で交通はありえないですよね。甲斐の国内で交通は完結してしまう。江戸時代が交通の始まり。
3)防御はやはり、放射でもないのですね。わかりました。しかしその名残は残ってないのでしょうね。残しておくと不便ですからね。しかし、計画的に街を複雑にするというのは大変な労力ではないかと想像します。
街と都市という分け方でまたすっきりしました。よくわかります。放射が宗教的というのも大変納得できました。大阪と比較して東京の「所属感」は大変強い。隣県まで拡大して東京への帰属感があるのは放射状の為でしょうか?。どこにいても「この道は皇居に続いている」というか。大阪は地域感が強い。京都・神戸・奈良・和歌山は大阪への帰属感は皆無で、ある種意識として独立・敵対している。それにしても東京が放射して大阪が碁盤しているのはいまだ疑問です。

お礼日時:2003/08/30 03:28

 まず「風水」ですが、僕が忘れたと書いた考え方が元になってできたものと聞いています。

ですので基本的な考え方は、多分ですが、同じではないのかなぁと思います。

 平城京や平安京はわかりませんが、荘園以降はいずれも街を経済的に発展させていくことを主眼に置き、それが争奪戦であったり、流通であったり、街が一つの「国」という経済的にある程度独立する事を目的として、形作られていたと思います。
 江戸時代に入り、街が経済的に周囲から独立して運営される必要性が薄れてから、町作りが大きく変わったのではないかと思います。ですので街相互関係を発展させる基本として、僕は「流通」と表現しましたが、異なる表現もあると思います。

 ご紹介させていただいた本は、いずれも一般の方向けの大変読みやすい本です。私は読んでいて、特に関東地震(関東大震災)時の、東京の防災都市作りを基本とした、復興にかける方々の情熱ある活動は、読んでいて大変感銘を受けました。この方々のおかげで、江戸という「争奪型」都市から、「車流通型」の都市へと、江戸が一大変貌を遂げることができ、戦後の経済発展(敗戦国から先進国へ)をすることができたと言われています。これらのことが、非常にわかりやすく書いてあります。
 もちろん町作りと言うことで、東京の碁盤の目化についても、わかりやすく書いてあります。

 「帝都物語」私も見ました。確かにおっしゃるとおり、都市計画の話でした。公開当時、ちょうど前の回答に書いたようなことをまとめていた時期でしたので、都市計画を基本とした娯楽映画として、楽しく見た記憶があります。
 都市計画も、こういう視点で見ると、すっごくおもしろ~い。と友人と話していました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
よーくわかってきました。
1.争奪戦を具体的に教えていただけませんか?
2.江戸時代に入って独立運営の必要がなくなったというのも具体的にはどうからどうなったことを意味しているのですか?
3.軍事防御的な意味で碁盤より放射が優れているポイントはどこですか?
今の東京と大阪どっちが便利・有効ですかね?東京がパリよりましな気がするのは中心が皇居という「無機能」だからではないかと思います。郊外からは向かってくるのですが、中心に近づくと分散する。本当の中心に向かうベクトルは最後にはゼロになる。東京の環状道路は中心に行くにしたがって渋滞が緩和される。
大阪は碁盤で一方通行というのが大変な発想。しかし碁盤といっても御堂筋に全てが集中している。横の線が弱いのはN.Y.に似ている。大阪は車に乗っていて実に裏道が有効に機能している。東京に比べてかなり使える裏道がある。

お礼日時:2003/08/28 23:28

都市計画上の歴史で見るとおもしろいですよ。


すごく簡単にまとめてみました。

 碁盤の目のような都市作りは、中国のある思想に基づいたもので(その考え方の名称を忘れました)、東西南北に山や川などが配列された地域に都市を造ることで、繁栄できるといわれ、平城京や平安京が造られました。
 その後、荘園(都市としての街)の発達とともに、争奪戦に対する都市作りが基本となり、新しい都市を造る際には、それらに弱い碁盤の目の都市は消えていきます。その最も最終形態は、江戸と言われていたと思います。ただし江戸末期は、国内も安定したため、争奪戦の町作りから、舟運を基本とした流通の良い住みやすい町作りへ変わっていきます。
 その後、都市計画の基本は流通へ変わり、舟運から鉄道の駅を中心とした町作り(都市解像:新しい都市作りは行えないので、改造しかない)になっていきます。
 さらにその後、車の発達による車の流通を良くした経済発展を基本とする町の再構築へと変わってきています。
 また地震火災などによる都市の見直しや、一次二次世界大戦による都市の再構築も、その時代時代で行われています。
 国内の主要都市は、このような歴史的変遷を経て、街が造られています。
 日本の主要都市については、なぜ現在の形態になっているのかについて、都市計画史の研究者によってかなり細かく研究がされ、対比するように海外の都市計画も研究されています。
 非常にたくさんの書籍が出版されていますので、いちど図書館などで「ざっと」目を通してみることをお薦めします。
 なお明治以降の東京については、大変おもしろい本がいくつかありますので、ご紹介させていただきます。いずれも必ず図書館に置いてある本です。

 藤森 照信 著
  「明治の東京計画」 岩波同時代ライブラリー
 越澤 明 著
  「東京都市計画物語」 筑摩書房
  「東京の都市計画」岩波新書
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この回答へのお礼

有り難うございます。
かなりすっきりしてきた気がします。
あーそうですよね4方位があって、白虎とか龍とか鬼門とか。風水ってやつかしら?。
なーるほど。
まず、「碁盤が思想上出現」し、次に「対争奪型」として(城中心ってことでしょうか?)がでて、「舟運主義」、「鉄道主義」「車道主義」と移るわけですね。
ご紹介頂いた書籍も読んでみたいですね。
(別に学者やるわけではないですが)
因みに、「帝都物語」という映画が大好きなんですが、あの映画は要は「都市計画物語」なんですね。前面ではチャンバラをやってますが、実はそう。「軍事都市」「風水都市」「地下都市」などの案が出る。

お礼日時:2003/08/27 19:19

1. 明白に碁盤(直交路型)や放射(放射環状路型)に分類される都市もありますが、どちらとも分類しにくい都市が大部分だと思います。


放射路型の例にはモスクワを追加しておきます。クレムリン宮殿を中心に同心円+放射路形状に街が広がっています。またドイツのカールスルーエは計画的に造られた都市ですが放射状です。
アメリカは碁盤目が多いですね。有名どころで他にサンフランシスコがそうですし。碁盤目都市では北京も外せないでしょう。ドイツのマンハイムはカールスルーエと同様に計画的に造られた街ですがこちらは碁盤目です。ただ、ヨーロッパではこのような規則的な街区の都市は少数派だと思います。

2. 碁盤目の街区というのは申し上げるまでもなく、都市計画の存在と密接に関わっています。日本で碁盤目というとMONKEYMONKEYさんが挙げておいでの京都と奈良、あとは札幌、旭川、士幌、名寄といった北海道の都市、あるいは大規模な団地などですが、いずれも計画的に新たに造られた場所ばかりです。marinoriさんのご意見のように震災・戦災復興もこれの範疇だと思います。自然発生に近いものでは名古屋と大阪が挙げられますが、戦災復興の影響も大きいでしょう。
放射状は計画的・自然発生的のいずれでも生じ得ると考えられます。特にヨーロッパの都市ではmartinbuhoさんのご意見のように、町の中央に教会と市庁舎、広場(市場)がまずあって、それを中心に放射状に発達することが多いですので。(ただそれはラテン系に限らずゲルマン系都市でも同様に見られます)
絶対とは言えませんが、自然発生の都市で何らかの秩序だった構造ができるとしたらそれは放射状が成りゆきであり、人工都市は都市計画のやりやすさから碁盤目が多くなる傾向があるように思えます。
ラテン民族が造った人工都市としてブラジルの首都ブラジリアを挙げておきます。ブラジリアは飛行機の形状を模した都市計画がなされていて両翼のブロックに住宅街が配置されています。それぞれのブロック内は直交路配置です。機首部分に国会と最高裁、機首に続く胴体部分に各省庁、尾翼部分に天文台があります。都市の中枢部分に向かう流れで考えれば放射状的であり、ブロックの中で考えれば碁盤目的ということになります。詳細は参考ページ[1]をご覧下さい。
アジアの人工都市では例えばパキスタンのイスラマバードがあります。もともと存在した街ラワルピンディに対しその双子都市のように造られた新首都です。旧市街とも言うべきラワルピンディは迷路のような構造で、他所の人は大抵迷うそうですが、イスラマバードはきれいな碁盤目です。

私は碁盤目で育ったわけではありませんが自分の位置を掴むのにやはり東西南北は意識します。逆にぐにゃぐにゃした曲がりが連続する場所(北に進んでいたつもりがいつの間にか西向きになるような場所)では迷いやすいですし、放射状の街区は特に苦手です。例えばドイツのネルトリンゲン(Noerdlingen)[2]では手こずりました。この町は全体が円形の城壁に囲まれていて、さらに道路が放射状のために、自分がどこに位置しているのかどうしても掴めず、最後まで地図を手離せませんでした。
日本で放射型の街区が計画的に造られた例として東京都大田区田園調布3丁目(田園調布駅西口)が挙げられますがここも迷う人が多いそうです。縦横でなくて、進むうちに角度がだんだんと変わる道は鬼門なのでしょうか。

3. 放射型(放射環状路型)と直交路型以外の分類としては「放射直交路型」を挙げておきます。その代表例はワシントンで、碁盤目形状に斜め方向の道路が組み合わさった独特の配置をしています。日本で探すなら帯広がそれに近いです。
私は他には知らなかったのですが、調べてみましたら「迷路型」「幾何学的曲路型」「不規則型」という分類があるそうです。詳細は参考ページ[3][4]をご覧下さい。

4. 放射型は街の「へそ」が分かりやすく、またそこに人が集まるのには便利だと思います。ただ人が集中し過ぎると渋滞してしまいますし難しいところです。
直交路は自分の位置は分かりやすいですが、駅などの特異点のない限りは人が集まる場所ができにくいと思います。目印がないと直交路も結局は迷いやすいですし。
最近の団地などは団地の中央に集会所、スーパー、郵便局と銀行、バス乗り場などを配置し、そこを中心に放射的にブロックを配置し、ブロック内は直交的に建物を配置する例が多く見られます。これなどはうまい折衷案だと思います。

[1] 「ブラジリア概要」
http://www.br.emb-japan.go.jp/nihongo/guiabrasil …

[2] Noerdlingenの地図
http://de.img.maps.yahoo.com/scripts/gcis.dll?si …

[3] 「都市とは」
http://www2.ocn.ne.jp/~hiroseki/city.html

[4] 「地理」
http://www5.plala.or.jp/VIOLETWA/mame/mamekoku/c …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
非常にわかりやすくまとめていただきました。
すごいですね。
ただ、自分の中でまだ、若干噛み砕けていません。
簡単にいうとこういう事でしょうか?
(1)自然に任せると交易上放射になる。
(2)計画されると(自然に)碁盤となる。
(3)計画されたものでもあえて放射を選択するケースがある。
街にそういう分類法があるとは知りませんでした。でも、個人的には、ワシントンは折衷案といえど、斜めの道があってもその発想は碁盤の改良型と受け取ります。本厚木や八王子がそうですね。
ブラジリアとネルトリンゲンは大変興味深い例ですね。ネルトリンゲンは放射といえど中心がぼやけている。あれは迷いますよ。
なかなか難しいですね。

■裏道
ところで放射型だと裏道を勘で走るとどつぼにはまります。裏道の肝は「東西南北」感覚だけを頼りにしてるわけですから。つまり「通過する街」として非常に不便。
一方碁盤の目の場合、裏道を利用してもおおよそ間違うことなく目的地に近づく。
■記憶
逆にたとえば渋谷で一度行った店は大体もう一度いける。なぜなら風景にオリジナリティがあるから。公園通りと道玄坂を間違えることはない。微妙な道のカーブなどが記憶法として別の道と混同することがない。
ところが、銀座で見つけた店はもう一度行くと「あれ?もう一本裏の道だっけ?」となる。風景を混同しやすい。僕は赤坂の店も全然覚えられない。

いかがでしょう?

お礼日時:2003/08/25 23:25

部分的回答にとどまりますが、東京で碁盤目になっているところは、関東大震災後の復興事業による街路整備のためだろうと思います。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうなんですか?明治以前は銀座は碁盤じゃなかったんですか?ほんとかなー?

お礼日時:2003/08/25 22:45

あくまで自分の経験の範囲内の意見になりますが、放射線がたはラテン系の国、碁盤目はアングロサクソン、不整系


はアジア、アフリカ、新大陸の先住民等に多いような気がします。不整系を好む民族は碁盤目型に落ち着きを感じないようです。人工的に作られる現代の都市部では、このような民族特有の形は影を潜めるので比較が難しくなります。

ラテン系の好む放射線型は町の中心に大聖堂、凱旋門、大統領府、教会などに囲まれた広場を作り、その一点から四方八方へと道を作るためです。町の規模が小さい内は中心に向かっている道路を直進したり、円状に道路を回ったり
出来て便利が良いと思います。しかし、大都会になれば中心地の広場で8~10本の道路が合流するので車の整理が大変です。合流点(ロータリ)で内側に入った車は、運転が下手な場合、永遠に自分の進む道へ出られない事態も起こります。知らない街で放射線型道路をたとえば左、左、左と回っても元の場所へは帰れません。(碁盤目なら可能)元の場所へ戻るためには放射線状に走る道路の本数-1だけ
左折を繰り返す必要があります(地理に慣れていなければ)

放射線型は小さな町用であり、大都市向けとしては不便だと思います。地方へ延びる幹線道路は放射線とは別に作ってある都市が多いのがその証拠です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。民族で好みがあるのですか?そうなんだ。現在では田園調布など選択したケースなどがそういう民族わけに当てはまらないということでしょうか。放射状は大都市向けではないのですね?東京と大阪はほんと好対照というか。東京は皇居中心主義。で、すでにそのことは意味が剥奪されている。皇居という誰にも利用されない場所が中心になっている。大阪は碁盤でさらに幹線道路がなんと一方通行になっている。便利か不便かわからんけどとにかく機能性を目指している。中心は存在しない。N.Y.は不便なとこだと思う。縦方向に比べて横が全く機能していない。

お礼日時:2003/08/25 22:44

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