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武田信玄とか上杉謙信等は出家した後も
それまでと同じように武将として活躍して
ますが、出家とは俗世間と縁を切る事では
ないのですか?そんな事を寺が許したので
しょうか?

A 回答 (6件)

 NO.3さんの>「その人物になりきって、ものを考える」の考え方や、その内容について賛成。

権力者は権力を維持するためにはなんだって利用します。
 最近でも、大東亜戦争(太平洋戦争)で大勢のお坊さんが出征されました。そして戦功を挙げた僧侶兵士も存在します。
 「殺生」を禁じている仏教の教えと、どう折り合いをつけるのか僧侶兵士の方は苦しんだと思いますが、「無益な殺生はいかぬが国民を守るためにはやむを得ない」として出征されたのだと思います。そして戦いながら毎日お経を唱え、自分の心を静まらせたのでしょう。
 仏門に入った戦国大名も同じことだと思います。支配者として、領民の庇護者として、領民の生活の安寧を守るため外敵とは戦わざるを得ません。また領土を拡大すれば、ますます領民の生活の安寧化は深まります。戦国大名も「無益な殺生はいかぬが」と整理したんじゃないでしょうか。理屈や折り合いは何としてでもつけられます。
 領内のお寺さんも、治安がよくなれば布教もやりやすくなりますし、仏教界が大名に物言いをつけることはなかったと思います。また実際問題怖くてクレームはつけられんでしょうな。
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戦乱の時代の武士は、何の恨みのない人を敵として殺したわけで、仏道に帰依したくなるのは当然でしょう。

  ××入道と名乗った武士は大勢います。 
 信虎は「釈信玄」と称し真宗ですから、彼が帰依していた快禅和尚とは宗派が違います。  一向一揆との友好を意識したものでしょう。 信仰心の篤い彼のしたたかさがわかります。
 謙信はちがうようです。  入道より在家出家?という所で多くの寺に参じ、大覚寺義俊の執奏により、法印大和尚に任ぜられ、のちに阿じゃり権大僧都になったそうで、帰依の深さがわかります。  謙信のような武士は例外のようです。
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質問者さんもほかの回答者さんも「出家」と「入道」を混同しているようです。

ウィキペディアなどでも、入道と書くべき所を「出家」と書いていますから無理ないですが。

鎌倉時代から戦国時代まで、俗人が在家のまま法体(僧の姿)となり、「入道」して「道号」を名乗るのはごく当たり前のことで、例が多すぎて挙げるのに迷うほどです。信玄も謙信も「入道」したのであり「出家」したのではありません。入道しても特に生活は変わらず、普通の武士として生活して妻(正室・側室)もいますし戦争にも出ます。信玄の場合、入道した後も側室から子供が生まれています。戦国大名にとって子供は多いほど良く、「入道したら女を近づけてはいけない」などという発想がないのですから当たり前すぎることです。

法皇というのも「入道した上皇」であり、僧ではなく俗人として生活します。単に僧の姿をしているだけです。
後白河法皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD% …
は、1169年に法皇になっていますが、1181年に子供の宣陽門院
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E9%99%BD% …
が生まれています。これは、当時の「入道」の常識では当たり前のことです。

こういった「入道」の生活実態は、「僧が腐敗しきった生活をしていた」こととは直接は関係ないことです。僧は、実態はどうあれ禁欲的な生活を求められていました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
基本的な事ですが、しっかり説明されて
いる物がないですね(私が知らなかった
だけかもしれませんが)
とても丁寧な解説で、感謝しています。

お礼日時:2006/12/04 10:43

私は、歴史上の人物について、考えるとき、その人物になりきって、ものを考えることが、多いです。


このふたりについての出家を考えればいいのですね。
謙信は、武将としては、優れていましたが戦いをゲームを楽しむかのようにしていました。
義に弱く、欲がありませんでした。
本気で、不動明王に傾倒していたので、全てを捧げる代わり、「戦いに勝たせてくれ」と、願いました。
寺という、人間の組織には、興味がなかったと、思います。
信玄ですが、野望も欲も人並み以上にありましたから、それをオブラートにくるむ意味で、宗教を利用したのだと思います。
信仰心は、厚かったと思いますが、それを上回る、欲や野望があったということです。
そして、したたかに、仏教や、寺を利用しました。
潤沢な、寄付や、寄進をしていれば、寺も文句を言える筋合いでは、なかったと、思います。
このふたり以外に僧籍に入った大名は、おのおのそれぞれの思惑があったと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
他の方と違った視点で大変
勉強になりました。

お礼日時:2006/12/04 10:44

出家にもいろいろあります。



当時、寺社というのは今とはだいぶ違い「非常に口煩い」集団だったのです。しかも、僧兵という自衛組織・・・というよりもはや武家なみの集団を保有している寺社も多くありました。
旧仏教はともかくとして(それでも奈良とかはかなり強い基盤があるのですけどね。筒井なんかは僧兵出の大名ですし)、一向宗とよばれる浄土真宗本願寺派はさらにすさまじいです。加賀1国を一揆と言う形で完全に奪取したこともありますし、天下人信長と10年間も戦い抜きました。最終的には講和という形で敗北しましたが・・・
なににせよ、教祖の一声で日本中の信者が襲い掛かるわけです。まあ、一声掛けなくても年貢とかで不満たまると襲ってくるんですけどね。

こういう具合ですから、大名にとっては非常に厄介な存在なのです。また、仏教は腐りきっていたとはいえ、伝統があります。

信玄なんかはまさにこれを抑えて利用するための出家でして、寺社の武力を自分のほうに引き寄せ、他国への抑えに使用するとともに、寺社の権威を利用する目的もあったと考えられます。

謙信も近い行動と考えられます。ただ、あの人はほかの大名とは一線を画すほどの不思議な行動をする人物でして、やっていることは直情的な女性のように考えたほうがわかり易いです。行動的には思い立ったが吉日ですから。実際女性説も非常に強いですし。

また、当時の出家にはあと2つ大きな意味があります。
1つは跡取りの問題。跡取りというのは非常に大きな問題でして、信玄は嫡男を処刑していますね。
で、出家したら妻は原則もてませんし、そうなれば家を継ぐという概念から外れますので、「仏門にぶち込んでしまえば跡目候補では無い」という表明になるのです。
この場合、親(現在の当主)が無理やり寺に押し込みます。ただ、この出家の場合は還俗、つまり俗世に簡単にもどります。信仰に寄る出家ではないですしね。

今川義元なんかが有名です。彼はこの理由から仏門に入れられましたが、兄が死んだ後跡目争いが起きたため、還俗して争いに乱入。大名になりました。ほかにも、長男次男討ち死にしたので仏門の三男を還俗させて・・とか例には事欠きません。

なお、跡目(嫡男など)を仏門にいれる場合は、「お前はもう跡目ではない」という意思表示でもあります。羽柴秀次なんかはまさにこれで実質的な廃嫡です(彼はその後斬首となってしまいますが・・・)。

そしてもう一つの理由は、降伏とかの意思表示です。
たとえば、戦で負けた後に出家して降伏したという例は非常に多いです。
これは、「私はもう出家して政治などにはかかわらないから家は許してほしい」「もう出家して戦の意思はないからとりあえず命だけは・・」といった感じの意思表示です。
ほかには、明智光秀に味方しないと表明した細川のように「あんたとはもう手を切る」という表明でもあるのです。まあ、本来の出家とはかけ離れた使われ方をしていると考えてください。

なお、当時の仏教は文字通り「腐りきって」いました。
寺の坊主が酒を飲み、肉を食らい、女を抱くのは当たり前(本願寺はちょっと違いますけどね。あれはそういったのを禁止していないので。教祖も妻子もちです)。なかには強盗とかを行う僧も珍しくなく、もはや仏教とは名ばかりでほとんどが破戒僧だったのです。
許す許さない以前に自分たちが守っていないわけですから、文句が来るわけはありません・・・。
なので、兼好や長明のように本当の意味で出家をした人なんて、武家は当たり前として、純粋な坊主であってもほとんど存在しなかったのです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/武田信玄
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なにしろ権力者で大旦那(パトロン)ですから。


そんな例はもっと昔からあります。
院政時代にも出家して法皇になっても権力を手放さなかったような例もありますしね。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/12/04 10:46

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