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つまらない質問ですが、何かひっかかってモヤモヤするので投稿します。
例を出します。

難民の子供達に対して募金活動をする団体があります(ユニセフ募金とか)。学校やスーパー・コンビニなどでも回収していますよね。

私の学校であれば約700人、とても多くの金額が集まります。
「100円で~ができる(ワクチンを○○人に打つことができる、など)」と聞き、この金額で多くの子が助かるだろう、と思っていました。日本の中の小さな学校でもこんな集まるのだから、世界ではもっと集まっているだろう、と。



でも募金してこうなった、という結果(といったら変ですが)が出ないので募金しても実感が湧きません。

募金をして変化は発表されないのでしょうか(私が知らないだけかもしれませんが・・・)。

今のままじゃ足りないのでしょうか。

今募金などをしても変わらず苦しんでいる子は減っていないのでしょうか。

そもそもその子たちを「助ける」といいましたが、「助けた」ってどんな状況になった時を基準とするんでしょうか。




そんなこと気にせず「力になっている」と思って募金すればいいことなんですけど、気になるので、回答、よろしくお願いします。

※カデコリー間違っていたらすみません。

A 回答 (5件)

一応、募金を募っている団体のサイトなどで収支報告がなされていると思いますが、仮にそのデータを見ても自分のお金がどのように使われたのかまでは分かりませんから、実感が湧かないかも知れません。



そもそも、募金が盛んに行われている地域と日本とで比較しますと、根本的な思想・理念・感覚に隔たりがありますので、どうしても納得出来ないようでしたら募金されないのが賢明かと思います。
(↓の「■お互い様、義理による贈与交換をする日本人」をご参照ください。)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/0020 …
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こんばんは。



 いくつかの団体を支援しています。といっても、数千円の会費を払ったり、ボーナスが出た月にちょびっと寄付するぐらいですけど・・・

 団体によっていろいろですが、たいてい会報やHPで収支や活動実績を報告しています。
 援助物資を届けたり、井戸を掘ったり、経済的自立を促す作業所を建てたり、学校を建てたり・・・
 ある意味、地味で微々たるものですけど、熱心に活動している団体は、確かに実績を積んでいますね。(あぁまぁ、あの学校のレンガの何個かは自分の出した分かしらん??などと思ったりします。)

 ただ、人の生活というものは、日々続くものですから。
 最貧国の困窮者や難民などは、何も持っておらず、放っておくと何も得られないまま死んでいきます。そういう人々は、一度援助したから終りでは済まないので、結局援助や支援というのは日々の延べ人数の問題になります。10億人に1食分の食料を支給すれば良いなら、先進国から寄付金を募れば大丈夫でしょうけど、1回食べてそれで終りではないですから。
 支援し続ける、というのは難しく、目に見え難いものだろうな、と思います。

 それと「助ける」ということについて。
 これは難しいことです。自分は、いつも考えます。ご質問者さんよりも随分年上の人間ですが、正直わかりません。
 援助されたワクチンを接種して助かった赤ちゃんが、食べ物がなくて餓死したら、その責任は誰にあるのか?
 食べ物を援助された子供が、十分な教育を受けられなかったら?援助された学校で教育を受けたのに、その国にまともな仕事や産業がなく、結局学んだことを活かせなかったら?少年兵になって人を殺したら?自らの境遇を呪ったら??
 
 限られた環境許容限度内で、人類の一部がどうにかこうにか科学文明を享受し消費社会を維持できているのは、「最貧国の人間が極貧のまま死んでくれているお蔭」ではないか?
 中国で資源やエネルギーの消費が増えたことぐらいで揺らぐこの世界で、援助によって最貧国の人々が続々と助かった場合、彼らが消費する食料・資源・エネルギーを考えれば、援助者は自分で自分の首を絞めたことにならないか?

 いいトシして、頭でっかちなんでしょうねぇ・・・でも、どうしても考えてしまいます。そして、何をどうやっても「助けた」ことにはならないのではないかと思って暗澹としてしまいます。(それでも、なぜか少しばかりの援助を続けています。自己満足ですね。たぶん。)
 「助けた」という絶対的な基準は、ないと思います。団体が現地での作業目的を達したら、援助者の自己満足的思い込み、ある程度の実績や方向性が見えたら等、いろいろでしょう。

 人が人に何かを為すことは、何もかも難しく、完全に為し得ることはあり得ないでしょう。教えること、裁くこと、伝えること、助けること・・・
 ご質問者さんも、いろいろとお考えになって、ご自身なりの「落とし所」を見つけていただければと思います。それが、その人にとっての「解」なのだと思いますし・・・長々と失礼しました。では。
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2様がおっしゃる実例としまして


ある地域で実子が死んだ際に母親が自分の体の一部を切り離すという習慣がありました。
その地域は平均的な家庭でも子供は数人死ぬので
母親はそのたびに切り離すことになり大変です。
その事実を某巨大宗教宣教師が見つけましてやめさせたそうですが
その後は出産数と亡くなる子供の数がさらに増えました。
保護や援助をすることはその国(地域)の文化についても
細かい配慮が必要なので
気楽に食料や医療の援助だけでは逆効果にもなりますし
偏った援助は世界状況、環境のバランスにも大きく影響するようです。
教育?と援助を同時進行した上で安定するまで継続しなければならないので
莫大な資金が必要なようです。
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慈善行為は今はボランティア団体が主流ですが、歴史的には宗教団体が行っていました。



寄付する人は神や仏の教えを信じて、教会やお寺にお金や食べ物、ときには土地などを寄付したわけです。
目に見えるリターンはありませんが、「これで少しは救われた」という精神的なリターンがあったことでしょう。
そして、教会や寺が孤児院を建てたり、あるいは飢えた人に粥を施すなどして、救済行為に当たっていたわけです。

しかし、現代の日本人の中で、本気で宗教を信じている人はあまりいないでしょう。
かつてはお寺を信じて寄進するだけでよかったのですが、今はお寺を信頼する人もあまりいないでしょうし、ボランティア団体には宗教的な価値はあまりありませんので、信じる人は本当に人柄がいい人でないと難しいと思います。

では、この懸念をどう解決するか。
答えは、あなた自身がボランティア活動に関わって、お金を出すだけでなく、体を使って苦しんでいる人を救う活動に参加するしかありません。
これなら、自分が何をして、結果がどうなるか全てわかるわけですから、全ての疑念は解消します。


まあ世の中は広いもので、日本人の中でも身を粉にして、貧しい人や恵まれない子供を救う活動に参加している人もいます。
以下のURLを、参考にしてください。

参考:izaブログ『希望の学校 後藤神父とカンボジアの「子供」たち』
 http://tokumitsui.iza.ne.jp/blog/entry/50410/
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確かにお金は集まってますよ。

ただ世界の状況が悪く
ただ大勢いて すべての人に平等に渡っていないというのが本当でしょう。また日本のマスコミが知らせていないというのもあるみたいですね

後本当にやることが多いし国一つ一つ見てもすべて状況が違う
食料 医療だけでなくすべてが足らないということですね

後助けたとい基準はあなたがあなたの手で何かひとつした。
それが助けるということですよね。難しいことを考えないで
あなたのできる範囲でできることをしていく。もしお話できる機会が
あればお話してあげてください

あと本当に色々なところでいろいろな形でやっているために
たぶん誰も把握できていない状態ですね
参考としてユニセフのHPと参考になるものを
http://www.unicef.or.jp/about_unicef/index.html


後助けるのはお金でもありません 行くことでもありません
愛が大切ですね。少しでも募金したお金により困っている人が
一時でもいいから それによって平安な時期を過ごせればいいのかな?
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