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私は、復讐が悪いとはあまり思いません。
例で挙げると、いじめられてた子がいるとして、いじめっ子から「親の財布からお金かっぱらって来い」と言われて、結局出来なくて、いじめっ子から殴られたとしますよね。その場合は、いじめられっ子はいじめっ子を殴っていいと思います。先にやったんだから、こっちにだってやる権利はあります。あるいは、殴る勇気がなければ、なんらかの形でいじめっ子を追い詰めるのはいいと思います。目には目をです。
それでいじめっ子が嫌な目をしても自業自得です。
それと、通り魔に刺され殺された遺族は加害者を同じ目に遭わす法律があってもいいと思います。
すなわち、向こうが嫌なことをしてきた場合は、相手がやった同じことをやり返してもいいと思うのです。
言葉の暴力の場合でもそうです。
言ってやればいいんです。
「死ね?じゃあお前も死ねよ!俺はお前が死んでも悲しくねえよ」って。
みなさんはどう思いますか?復讐について。

A 回答 (16件中1~10件)

私も、他の回答者さんたちと同じで、復讐はよくないと思います。



昔子どもの頃見た銀河鉄道999のアニメで、「何でも自由な惑星」だったかな?がすごく印象に残っています。

その惑星では、何をしても法律で罰せられないんです。

で、ある人が、突然、嫌いな人を殺してしまうんです。
哲郎がびっくりしていると、
「この惑星では何でも自由なんだ。人を殺すのも自由。それをあんたがダメだということはできない」
というようなことを言う・・・そんなシーンだったと思います。

こういうの、無法地帯とかいうんでしょうね。

法律で復讐が認められていないのは、字のごとく、「無法地帯」になってしまうからでしょうね。

ちなみに、聖書では旧約聖書(キリスト誕生以前)には「目には目を」と書かれていますが、
新約聖書(キリスト誕生以後)には、「目には目を、ではいけない」と反対のことをキリストが言っていますね。

憎しみを蒔けば、結局憎しみを刈るだけです。
愛を蒔いて、愛を刈る方が幸せだと思いますがねぇ。
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昔聞いたことがありますが、憎しみによる復讐というのは連鎖するんです。


その復讐の世界は関係者・当事者が死ぬまで終わるということがない。
いじめられて、いじめ返すのはいじめたやつと同類だというので、復讐は正当な方法が一番だと思います。

そもそも自分の復讐というのは第3者にバレないようにするのが一番賢いですね。
私は高校のころ、殴られたことがあるので、学校に匿名の電話をかけてタバコを吸っている、誰かが殴られていた。といい、電話をする前に私の友達が、誰かがタバコを吸っていた、私が殴られたら仕返しはいいのですか?と私と友達が当事者、もしくは目撃者のように見せかけ、電話の翌日に呼び出されて、その場で誰かをいわざるを得ない状況を自分で作り、二人で口裏合わせてチクるという方法で相手の受験合格資格を剥奪させました。

当然電話したのは私じゃないと白を切りましたけどね。
電話をかけた人は一人、目撃者は2人という状態を作り上げたので、疑いは浅いですね。

正当な復讐は頭次第でどうにでもなります。
相手と同様なことは絶対にいけないと思います。
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40代のおじさんです。



個人的には、まぁ気持ちとしてわかるのですが・・・。もし、そういう制度が本当にできてしまったりしたら、世の中住みにくいものになりますね。少なくともわたしゃごめんです、そんな社会は。

その復讐する権利は、誰がどうやって決めるのでしょう。当人が、勝手に決めてよいのでしょうか。だとすると、「すぐに逆恨みする人間」と、「すぐに相手を許す人間」がいたら、前者はやりたい放題、後者は損ばかり、ということになってしまいませんか。心の狭い人間が得をし、心の広い人間が損をする、そんな世の中がすてきなものでしょうか。

当人が行うから不公平になる。もっと公共の組織が時間をかけてチェックし、どの人間にどれだけの罰を与えるかを決める、そうすべきだ。――それが、「法」というものです。つまり、今の世の中です。私は、こっちのほうがいいですね。

もうこのぐらいの年になると、世の中ってのはそんなに単純にはできてないということがなんとなくわかってきます。おそらく質問者さんはまだお若いのでしょうね。質問者さんにとって、世の中はずいぶんとシンプルで単純なものに見えるのでしょう。「やられたらやりかえせ」――世の中の人が「やる側」と「やられる側」にきっちりわかれている、わけて考えることができる、とお考えなのですから。

復讐する側の人間だって、どこかで誰かの恨みを買っているかもしれない。やる側もどこかでやられる側になっているし、やられる側だってどこかで誰かにやり返している。それが世の中でしょう。それをすべて「やられたらやりかえせ」にしたら、世の中が立ち行かなくなってしまいます。誰だって、どこで誰にいやな思いをさせているかわかりません。質問者さんも、その一人であるはずですよ。


・・・例えば、ここに、33回も質問を繰り返していながら、たった4つのお礼しかしていない不届き者がいたとします。こういう人間は、例えば「以後、質問できなくする」とか「IDを剥奪する、除名する」というように復讐すべきです。――質問者さんは、賛成されますか?
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いいか、悪いかだけの選択でいえば悪い。


やりかえしたら、倍にやりかえされたりする。
お互いに復讐を延々やってろよという気もする。

でも復讐されるような憎まれることをした人が
復讐されて、両者とも完全に世の中から
消えてくれたら一番いい。

復讐とかに関係しない人だけが残る社会だ。

私はそのどちらにもならない位置にいるようにする。
復讐とかそういう発想になっちゃう人もかわいそう。
もう頭の中はそれしかないんだろうな。
そうなりたくないので、どちらにも関心ない。

世の中、復讐にエネルギーを使うより、
もっと楽しいこといっぱいあるからね。

「あなたはいじめられた事がないから、そういうことがいえる」
という反論されても、実際に過去にいじめられたことないし、
いじめたこともない。面倒だもん。
場のそういう空気を読めるので、いじめから回避できる能力が
私はあるので仕方ない。傍観者をつらぬく。面倒はごめん。
すみません。
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気持ち的にはそうしたいんですけどね。



例えばAさんがBさんに殺されたとして、Aさんの家族CさんにはBさんを殺す権利ができた。そしてそれを実行し、Bさんは殺された。
そしたら、今度はBさんの家族Dさんにも同じようにCさんを殺す権利を与えなくてはならなくなりますよね。
・・・人類が消滅しちゃうじゃないですか。

だから犯罪を犯した人には、国という仲介役を通して「懲役」「禁固」などの「刑」という名の復讐が与えられるのではないでしょうか。そう考えたら納得いきませんか?
確かに刑罰に関してはそれが加害者のためである側面もありますけど、裁判所は、刑罰を与えることで被害者→加害者への復讐を代行している、と考えることもできないでしょうか。
被害者からすれば、加害者は憎い。憎くて仕方がない。殺してしまいたい。でも、本当に殺してしまったら前述のように人類が滅んでしまいかねない。だから、裁判所という第三者が被害者と加害者の間に入って、社会的に妥当な刑罰と言う名の復讐を与える。

こどものいじめに関しても、今、いじめってコロコロターゲットが変わるらしいですよ。
つい最近までいじめられていたあの子が、ふとしたきっかけで立場が逆転。いじめていたあの子を思う存分いじめ返す。クラスの中でかわるがわるターゲット変更。いじめられていた間は話してくれもしなかった友達が、自分がターゲットじゃなくなると手のひらを返したように優しくなる。おーこわいこわい。
仕返しするのは、ダメではないと思います。ですが良くはありません。
ダメではない、と思うのは、仕返しされた相手も悪いことをしているから自業自得なため。
良くはない、と思うのは、何かイヤなことをされて自分が傷ついた、悲しい思いをした、そう言ったとき、その悲しさや苦しみを自分は知っているのだから、他人に同じ思いをさせてはいけないというのが良識ある人間だと考えるからです。
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復讐はいけないことだと思います。



たとえば、私があなたを殴ったとします。
そこで、あなたは私に殴り返したとします。

一見、殴るに殴るで返したのだから、
プラスマイナスゼロになったように見えます。

しかし、私はあなたの復讐を受けて「2倍返しされた」と思ってしまうかもしれません。
人によって力の差はありますから、誤差が生じてしまったのです。
そうなると、お互いに殴り合いが続いてしまいます…。

このように、復讐は力の加減が本当に難しいものです
だからこそ、良識のある人が殴る相手をオトナの心でなだめてあげなければならないと思います。

どんなに残虐な殺傷事件でも一緒です。
冷酷な殺人犯と同じ道を歩んではいけません。
涙を飲んで、法のもとで適正な裁きを与えるべきでしょう。

「目には目を、歯には歯を」という言葉は、「やられたらやり返せ」という意味ではなく、
「やられたのと同じ程度にやり返せ」ということを伝えているのだと思います。

なお以上は私の個性的な理論です。
あくまでも参考程度にとどめてください
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復讐と言っても、無限な種類の復讐がありますよね。


私はケースバイケースだと思います。

いくら復讐でも法を破ることと、法で復讐を肯定することは、してはならないと思います。
人間は集団で生きる限り復讐ではなく法で罰するべきだと思います。

●復讐をするかしないかは個人の自由
(でも復讐は自分を幸せからさらに遠ざけるだけだと思っています。)
●法は犯すべきではなく法で復讐を肯定すべきではない
と思います。

悪いとは思いませんが、自分をさらに不幸にさせるのが復讐であると思っているので、自分を不幸にする行為を肯定はできませんね。

遺族を刺された悲しみは、相手を刺しても変わりませんし、
人を指してしまうだけで、さらに自分を追い詰めると思います。

人に死ねと言われたら、死ねと言い返すことで怒りはおさまるかも知れませんが、人に死ねなどという人間など相手にするのはやめよう と思ったほうが自分が汚れずにすみます。

虐めに関しても、復讐したところで受けた心の痛みは消えません。
怒りとなって発散したところで、心の痛みは消えません。
いじめに関しては、特に理不尽な問題なので、復讐を肯定したくもなりますが・・・虐められた人にとって、どう立ち直るか、どう仲良くしていくかが課題だと思います。そこに復讐の二文字があるとは思えません
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私も復讐したいと思うことが多々あります。


今も誰かに復讐をしたい思っているのかもしれません。

でも、私は復讐よりも大切な事があったから、その選択肢を選んで今まで生きてきたんだと思います。

復讐をしてもし捕まって、大切な人を悲しましたり孤独にするのは死ぬことよりつらいですから。
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気持ちは、判らないでも無いけど。



やはり、現実的にむずかしい。

憎しみや復讐は、算数じゃない、感情だから。
量刑をコントロールするのが、難しい。

人間には、個性があるし、復讐の方法も手段も得意技もそれぞれ、違う。
だから、全く同じ苦痛を相手に返すというのは、算数みたいにいかない、不可能だ。

プータローで独身の犯罪者には、息子を奪われた大人の気持ちを理解できない。だって、プータローは、子供を養えないし、欠けがえのないものを、育てた経験がないから。

つまり、反社会的な犯罪者と、社会的被害者の価値観は、一致しない。
かなり食い違う。食い違った存在に、同じ苦痛を与える算数みたいな方法は世の中に存在しない。
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私個人としては、もし家族を殺されたら相手を殺してやりたいと思うでしょう。

いや、それ以上のことを考えると思います。もしかしたら何をしても満足できないかもしれません。
でも私個人から離れて考えると、それをやってしまうと復讐の連鎖が発生してしまうように思います。
子供のけんかレベルならいいですが、それ以上になると問題があると思います。

私には復讐ができる世界=暴力があることを前提とする世界よりも、暴力をなくそうとしている世界のほうがいいです。暴力をなくそうとするためには復讐はあってはなりません。

もちろん理想論だということは分かっています。また、私がそう思っているからといって、本当に家族が殺されたとき冷静でいられる自信もありません。でも、個人も世界も間違いを犯しながらでいいから、そういう方向を目指すべきだと思います。
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