「お昼の放送」の思い出

何故悪いことをしてはいけないのか?

A 回答 (18件中1~10件)

この問題は難しいですよね。


「悪いこと」は、その成員が属している社会的共同体によって決まる倫理なのか、それとも絶対的な倫理として決まるのか(宗教のように)、という時点でその位相も異なってきます。
また「してはいけない」はある倫理に基づく行動ですが、これも社会的共同体が慣習的に決めてきた行動的規範であるのか、あるいは絶対的な規範であるのか。
もちろん、社会的共同体というのもくせ者で、ある狭い地域か、グローバルな範囲かと、階層が変わるたびに倫理が変わることもあります。
またここではあえて「倫理」と行動的「規範」を分けましたが、規範も倫理の範疇の一つ(表現型の一つ)とも思えます。
結局、特に宗教的な背景が無ければ、それが絶対的な正しさを担保するできるものはないという前提で言えば、社会的共同体の一員であることに根拠を求めるしかないと思います。
子どもに答えるのであれば、これまでの暮らしの営みの中で、そのように決めてきた(意識的な決定があったにせよ、慣習的であったにせよ)ことで、皆がお互いによりよく生きられる、と考えたから、というところでしょうか。
もちろん、そうであるから、ある倫理が、ある個人の存在や利益を疎外してきたことは歴史の中に数々見受けられるところです。
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この回答へのお礼

なるほど。ここでは、ある倫理が、ある個人の存在や利益を疎外しうることを子供には言ってあげるべきですよネ?。

お礼日時:2001/01/17 11:30

なぜ、悪いことをしてはならないのか。


それは、悪さをすることによって他の人に迷惑、
または不幸を与えるだけでなく、
それが自分自身にもかえってくるからです。

「人生の結果=考え方×能力×熱意」という方程式を説く哲人がおられます。
「能力」と「熱意」は、ともに1~100までの点数があります。
従って、たとえ能力の低い人であっても、ひたむきで懸命な努力をすれば、
つまり熱意の点数が高ければ、頭のよいことを鼻にかけ、あまり努力をしない
人よりも高い点数が出てきます。つまり、素晴しい人生を築き上げることがで
きるわけです。
そこにもうひとつ「考え方」という要素が加わります。「考え方」にはマイナ
ス100からプラス100まで点数があり、人を恨んだり、そねんだり、妬んだり、
または自分さえよければいいというネガティブな考え方は、マイナスの点数に
なります。一方、物事を真正面から受け止め、明るく前向きに考えたり、利他
の気持ちで他にやさしく接したりするポジティブな考え方は、プラスの点数に
なります。

ここで、「なぜ悪いことをしてはならないのか」という質問に戻ります。
悪いこと────、たとえばそれを泥棒だとしましょうか。しかも、とても頭
のよい泥棒で、研究熱心だし、日々の体力トレーニングも怠っていない泥棒だ
としましょう。先の方程式で言えば、「能力」「熱意」ともに高得点の泥棒で
す。ところが、他人のものを盗んでやろうと考えていますから、「考え方」は
マイナスの点数になります。さあ、この泥棒の人生の結果は?
もちろん、能力、熱意の点数が高いだけに、大きな大きなマイナスの人生にな
ってしまいます。能力もチョボ、熱意もチョボのこそ泥は較べものにならない
ぐらいの。

私はこの方程式を人生の理(ことわり)だと信じています。従って、冒頭にあ
る答えをいたしたわけです。

なぜ、悪さをしてはならないのか。
それは、他の人に迷惑をかけるだけではなく、
それが自分の身にかえってくるから。

子供さんには、ウーム、なんと答えてあげたらいいでしょうね。

「悪さをすれば、友達がイヤな思いをするだけではないんだよ。
 それを神さまはちゃんと見ていて、
 今度は神さまが、おまえさんにバチを与えるんだ。
 恐ろしいバチが当たるんだ。
 そんなバチは当たりたくないだろ?
 だから、悪さをしてはならない」

てな感じになるのかなあ。

しかし、どういうことが悪で、どういうことが善なのか。善悪の基準や定義付
けも必要になってきますね。それは時代や環境、社会風土などによって変化す
るだろうから、最もシンプルで最もプリミティブな観点、つまり「人間として
何が正しいのか」というところで、色分けしなければならないのかもしれませ
ん。
たとえば、モノを粗末にしてはならないとか、人の悪口を言ってはならないと
か、生き物をむやみに殺してはならないとか、時代を超えても変わらない、普
遍的なものを善悪の基準に据えなければならないのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。なかなか思い切った考えですね。
>そんなバチは当たりたくないだろ? だから、悪さをしてはならない
しかしこれでは悪さをしてばちがあたらなかったとき子供はどう思うのかとか、子供のためになるのかという疑問もあるし、根本的に解決されないように思うのですが、、、

お礼日時:2001/01/21 20:52

善悪って、よく考えてみると人間の基準なんですよね。


人間の勝手な都合で決められているような物。
つまり自然界の絶対的真理とは余り関係がない。

善悪と言うよりは秩序に対する基準なのだと考えれば
理由付けにはなるかも知れません。
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この回答へのお礼

なるほど。ご回答ありがとうございます。「するな」とはいえませんね。

お礼日時:2001/01/21 20:27

3回目です。


>倫理が私達(倫理を体得した人)を苦しめる悪者になっているということのようにおもわれます。

倫理は悪者ではなく、よりよく生きたいとする時、自分を見つめ直す観点になります。どうでもいいという人に、倫理は必要ありません。

>悪人は、倫理を捨てた人たちです。

倫理を捨てなければならない原因があります。個々人によって違いがありますが、一般的に言えば、次の点にあると思うのですがどうですか。

今の社会は、自分のことを人にやらせることが認められ、それがよしとされています。金持ちになることを求めるのは、お金で自分の本来しなければならないことを、人にさせるためです。お金の奴隷。
人間が自由ということは、自分に由る。すなわち、自分の生き方は自分で作り、自分が欲しるものは自分で作り出すことです。他に頼る(共同とは違う)ことはすでに自由ということではありません。
自分のことは自分が行い、それ以上の生産物があれば、分け与えるそんな社会であれば、悪は生じません。悪を行えば、皆から相手にされなく共同作業に加われません。それこそ、一人で生きるしか方法がなくなります。

現在は、人に物事をやらせ自分は何もやらないという人が増え、その人達が社会的地位も高く、富が集中していると考えています。当然、奪うこと、楽をすること、人を傷つけることに鈍感になり、悪を行うことが生きがいになっている人が多くいます。

悪をしたら、生きていけないそんな社会の仕組みを作ることが大切ななのです。今の社会は、私から言わせれば、悪魔に支配された社会だと思っているのですが、言いすぎでしょうか。悪魔にならないと生きていけない、悪魔が有利になるシステムです。

この質問は、貴方が疑問として思っていることか、子どもに説得する方法を知りたいのかどちらですか。わたしは、貴方の疑問として答えています。
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この回答へのお礼

三回目のご登場ありがとうございます。
>この質問は、貴方が疑問として思っていることか、子どもに説得する方法を知りたいのかどちらですか。
両方です。もはや自分の疑問にもなっているので、、、
>悪魔に支配された社会だと思っているのですが、言いすぎでしょうか。悪魔にならないと生きていけない、悪魔が有利になるシステムです。
 大事なこと(子供の疑問)は、「何故そうなることがいけないのか」ということじゃないでしょうか。悪魔は悪を好みます。善人は倫理を好みます。何故、悪がいけなくて、善が優先しようとするのか?という点が疑問になっていると思うのです(少なくとも私の解釈で)。むしろ、もっともっとシンプルに考えていることでしょう。まさに表題のとおりですが、、、、
>倫理は悪者ではなく、よりよく生きたいとする時、自分を見つめ直す観点になります。
 その際の苦しみは代償ということですか?何かを得るときにだれしも無償がいいのではないでしょうか?
「よりよくいきる」の「よく」は倫理的に「よい」ということで、倫理的でない人も自分にとって「よりよく」いきようと、自分の価値観で行動するのは普通なこと思います。
倫理という一価値観が何故特別に普及されるようになったのか?これが、「私」の今の疑問ですね。はたして倫理を設定しなければ共同体の運営は難しいのか?むしろ、倫理的な人々の中では倫理的でない人は自分の価値観のみで行動できるので、より自由に生きれるはずです。したくないことはしなくてすむのではないでしょうか?その人はそれでも生じた自分でしなければならないことと、自分にしかできないことや自分のしたいことをしていればいいのです。
 話が「子供の疑問」から離れたように思いますが、私の今の考えでは、子供には、「世俗には「倫理」というものが一般に普及しているから、それをふまえて自分のしたいようにするのがいい。」というようなことを言うと思います。決して「倫理的になれ」とは言わないし、そうなるようにも仕向けません。自分の子供が(例えばですが)見返りもなしに川に飛び込んでおぼれでもしたら嫌ですから、、、、

お礼日時:2001/01/21 20:22

二回目の登場です。

前回の続きとして読んでください。

「何故悪いことをしてはいけないのか。」とは自分が問うているのですね。

大人の社会でも、よりよく行きたいと言う他の人の権利を侵害して、自分だけよりよく生きようとしている。まったくその通りですね。
今の社会は、皆が苦しみを受ける条件が揃っているのです。しかし、全ての人が罰せられているのかというと、そうではありません。悪いことをしていると自覚している人がやめよう、がまんしようという気持ちを持ったとき、心に平安があります。自分の権利が侵されても、相手は心の病気を持っている、罰せられている人だと考えれば、哀れみを持ち自分の心の中は平安です。

「悪に対してどのようにすればよいか。」と言うことをトルストイ研究会のサークルを作って考えようとしています。下記にアドレスを載せておきます。

参考URL:http://circle.excite.co.jp/club.asp?cid=m0900034
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この回答へのお礼

二回目のご登場ありがとうございます。{悪いことをしていると自覚している人がやめよう、がまんしようという気持ちを持ったとき、心に平安があります。}そうです、わたしたちは、、、。しかし、その不安(悪いことをするときの)は、倫理的な人において、その倫理自体が、良心の呵責が、私達にもたらしているものですよね。これではまるで、倫理が私達(倫理を体得した人)を苦しめる悪者になっているということのようにおもわれます。

追伸:「悪に対してどのようにすればよいか。」悪人は、倫理を捨てた人たちです。それが、悪とわかっている人達をとがめるのに、倫理を持ち出しても、それは無理な話です。なぜなら、彼らは一度倫理を考慮の入れたうえで倫理を選択しなっかった(倫理を捨てた)のだから。さらに言うと、さらに悪なのは(倫理にとって)悪いことと認識せずに(悪意なく)悪いことをする人でしょう。なぜなら、彼らには倫理が存在すらしてないのですから。しかし彼らは、最も幸せになりやすい立場です。他人を見捨てても(見捨ててるとも思ってない)苦しまないですむからです。彼らは、自分にとって大事な人や事だけ大事にすればいいのです。

お礼日時:2001/01/18 11:57

自信はありませんが。



「悪い事」と判っているなら、しない方が良いでしょう。
何故なら、その事で誰かが迷惑し、困るからです。

「迷惑し、困る誰かなんて知ったこっちゃない、少なくとも自分は
迷惑でも無いし、困りもしない。むしろ、気持ちがいい。」と思う
かも知れません。

でもね、自分がそれで納得しても、人間社会は多くの知らない人達が、
努力して組み立てられているのです。自分が好きな時にテレビを見るのも、
好きな時にジュースを飲むのも、飯を食うにも、本を読むのも、必ず、
知らない誰かが必死で働いているのです。その必死で働いている人達も、
家庭を持ち、家族に対して、「飯を食わせる」という責任を背負って
いるのです。自分の記憶を辿っても、三歳以下の記憶は無いでしょう。
しかし、三歳までの人間など、放っておけば簡単に死んでしまう、
無力な存在です。それを大人達が努力して生かしてくれたのです。
(当たり前の義務ですが・・・。)

さて、「悪い事」ですが、「悪い」と思えなければ、そこに境界線が
無いので、何をやっても構わないのです。しかし、さっきも言った様に、
それが「悪い事」であれば、誰かがその責任を負わねばなりません。
それが、自分であったり、親であったり、肉親の誰かであったり、
友人の誰かであったり。

知らない他人の迷惑は、無視できても、自分や自分の肉親、大切な友人
が、人生を棒に振る様な「悪い事」はしない方が良いって思いませんか?

「人生を棒に振る」って本当に情けないものです。それまで我慢に我慢を
重ねて、少ずつ何十年もかけて築いてきたものが、一瞬で無になるのです。
その時の気持ちを想像すれば、その「悪い事」がどれだけくだらないものか、
理解できます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>人生を棒に振る様な「悪い事」
つまり、何らか制裁を受ける(嫌な思いをする)かもしれないから「するな」ということですね。リスクをはかるように言うほうがいいし、善し悪しにかかわらず、子供には小さい間は何が危険かを教えて「危険だからするな」ということですね。何かしらごく一般でもされていることですが、わたしの答えとしては、悪いことは「してはいけなくはない」。小さい間の些細な体験で大きいリスクをはかれるように成長すればいいのですが。わたしはそのように成長できてませんから、、、

お礼日時:2001/01/21 21:24

「悪いこと」って言うのはね、


されると迷惑なんですよ。
社会生活が、円滑に進められない。
だからやってほしくないのです。

単純に言えばそういうこと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。多数決と言うことですね?

お礼日時:2001/01/18 11:33

 他の方へのコメントに関してですが、僕の立場から考えを述べさせていただきます。



No.86095 atsuotaさん発言へのコメント
>「自分がされて嫌なことは相手にもしないようにね。」 というのが、感覚的に分
>かっている」状態に子供を育てあげるのは子供にとって幸せでしょうか?
 「幸せです」。それが分からない子に育つよりは。

No.86073 masmasさん発言へのコメント
>はたして、私達のように倫理を体得すること(良心のかせをえること)が、子供
>の幸せになるのでしょうか?
 「幸せになります」。良心の枷をまったく得ないよりは。

Caballeroさん、あなたは「子ども」というものを見くびっておいでのようです。
 「教育」というのは、多かれ少なかれ「先行世代による後発世代の教化」です。それは洗脳であり、マインド・コントロールです。有史以来、人間はずっとこれをやってきた。ですが、子どもたちは、人間は、その洗脳によって創造性を完膚なきまでに潰されてきたでしょうか? …そうでないことは、歴史が証明しているでしょう。
 子どもたちは、「先行世代の呪縛」を断ち切って自分たちの未来を作る力を持っています。もし、われわれ大人が、子どもたちに「倫理」「良心」という形で与える「呪縛」が、子どもたちを不幸にしてしまう、潰してしまうとお考えなら、それは「子ども」というものを不当に過小評価するものと申せましょう。ガキのパワーをなめちゃいけない。

 それから、「先行世代が何もしなくても、子どもは何の問題もなく育つ」とお考えなら、その考えも完全に間違っています。間違いなく完全に間違っています。
 「倫理」や「良心」を含めて、先行世代の知恵・知識は、子どもたちが彼ら自身のものを創造する上で不可欠の材料になります。それを与えないことは、人を裸で砂漠に放り出すのと同じことです。精神的な殺人行為です。

 この件に関しては、僕はしばらく黙ります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。{子どもたちは、「先行世代の呪縛」を断ち切って自分たちの未来を作る力を持っています。}しかし,はたして私達はその呪縛を断ち切ることができているのでしょうか?

お礼日時:2001/01/18 11:31

悪いことってのはね、してもいいんだよ。

援助交際も殺人も、本人が本当に正しいと思ってりゃやればいいよ。ただね、そういう事をすりゃあおまわりに追われるよ。それだけ。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。やっぱりそう考える人って結構いますよネ。

お礼日時:2001/01/18 11:25

 masmasさん、atsuotaさんの御意見に賛成です。



 中学校の教員を目指す学生に、「援助交際している少女と、それを止めようとする教師」とか、「人を殺すことが何故いけないかわからない子と、教えようとする教師」という割り振りで、ロールプレイングのようなことを毎年やらせています。やってるうちに熱くなってくるのが楽しいです。はっはっは。…あ、失礼。
ところが、ですね…勝てないんですねえ、教師が…。(「勝ち負け」と言うのも変ですが)

 善悪の基準は、時代により地域により文化によって変わってきます。決して普遍的なものではない。「教えようとする側」は、確実な基盤を持つことができません。ちょっとやそっとの「根拠」は援交少女レベルの知性・語彙力でもカンタンに突き崩せてしまいます。実際、そうなんです。
 でも、かといって、大人が諦めてしまっては元も子もないわけです。現実の問題として、譲れないところは譲れない。大人として、絶対に引くことができない一線というのは、確実にある。ではどうするか。
 現場での実践的な問題としては、「理詰めで納得させる」のは不可能です。また納得させる必要もないでしょう。ある意味、「ダメなものはダメ」でいい。「強制」でいい。「押し付け」でいい。そう思います。
 でも、そこには「愛と情熱」が求められます。自分で書いてて赤面してしまうようなクサい言葉ですが、実際そうです。
 最初に「教師役の学生は勝てない」と言いましたが、後で援交少女役の学生に聞いてみると「ちょっとあぶなかった」(説得されそうだった、という意味)と言うケースがあります。そういう場合、教師役が理詰めで説得するタイプ「ではない」ことが多いのです。かといってまた、一定でもないのが興味深い。若さと勢いに任せて情熱的に語り、叱咤するタイプ…聞き7、しゃべり3くらいで接する冷静なタイプ…ある程度の共感を示しつつも優しく諭すお姉さんタイプ…など。一定ではありません。一定ではありませんが、その共通するところはと言うと、「まごころがおもてに出ている」という点以外には思い当たりません。「自分のことを本気で考えてくれている」ということが伝われば、それは何かしら心の中のスイッチを動かすことになるのだろうと思うのです。
 実際には、これでもダメな場合が多いでしょう。しかし、少なくとも、子どもの心に何らかの種を蒔くところまでは、何とかいきたいものです。その種をどう育てていくのかは、もう子ども自身の力になってくるでしょう。

 ただ、今は教師と子どもの関係で話をしたわけですが、親と子になると別です。親が子に対して「愛と情熱」を持つのは当たり前。それが、親と子という距離の近さ故ゆえに空回りしてしまうことが考えられます。効果がなかったり、逆効果になって、かえって傷を広げたり…。そこがまた、難しい問題です。
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この回答へのお礼

実体験をもとに書いてくれて、参考になりました。ありがとう。親が子に対して「愛と情熱」を持つのは当たり前。親が思う子どもにとっていいことと、子ども自身が思う自分にとっていいことは、しばしば食い違うものですね。

お礼日時:2001/01/17 15:35

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