
この分野は無知なのですが、ポスト・モダンについて興味が
ある者です。
リオタールは『ポスト・モダンの条件』のなかで、近代とは、
「愛による原罪からの解放というキリスト教の物語、
認識による無知や隷属からの解放という啓蒙の物語、
労働の社会化による搾取と阻害からの解放という
マルクス主義の物語、産業の発展による貧困からの
解放といいう資本主義の物語」
という「大きな物語」が信じられた時代
としていますが、どうして「大きな物語」が信じられなくなった
のでしょうか。
また、どうして近代以前では「おおきな物語」が信じられていたの
でしょうか。
教えて下さい。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
どうもです。
ポスト・モダンとは近代をいろいろな角度から見て、疑問を投げかけていく事だと思うんですが、このポスト・モダンは結構やっかいで、確かにそうだよなぁ...と思ってしまうんですよ。例えば『産業の発展による貧困からの解放といいう資本主義の物語』の終焉なんですが、確かに今は昔のように、中流階級、労働階級なんてふうに別れているわけでもなく、私たちは生活しています。ある意味みんな労働者だし、中流階級です。さらにインターネットなるテクノロジーの登場により更に階級が不鮮明になったと思います。(インターネットの中では階級、つまりアイデンティティが不鮮明、誰でもジャーナリストのように書きたいように書けるし、チャットなど目上とか、偉い人達と対等に話せます)。階級など存在しない.... 本当にそうでしょうか?お金がなければインターネットなどできませんし、ネットワーク自体、capitalists がコントロールしています。持つもの、持たないものの格差は確実に存在しています。
僕は去年までメディアの生徒だったので、ちょっとメディアについて話しますね。19世紀の近代において写実主義/リアリズムといのが一部中流階級の間で流行っていました。(これはロマン主義の反義語です)これは美化したり理想家することなく、客観的に存在する物をありのままに描かきだすという思想です。しかしこれは中流階級の人達による”見方”現実だったんです。つまりそれは真実であっても、中流階級に住む人達による真実だったんです。そこで現代に戻って、今のメディアを見てみると、なんらこの19世紀の写実主義/リアリズムと変わる所がないように思います。メディアは彼らの目線で世の中を言葉に写し、そしてその言葉を売っています。
思うんですけど、確かに17-19世紀の世の中と今の世の中は違います。僕らはいろいろ見方ができるほど知識も豊富に持てるようになりました。でもこのmodernityは続いていると思うんですよ。だからpost-modernとpost-modernityという言葉は、うーん って感じなんですよね。でも僕はpost-modernの哲学者は嫌いではありません... むしろ好きです。
僕もまだ学校で勉強している者です。お互いがんばりましょう。
メディアの話おもしろいです!
中流階級意識を持つ人が圧倒的な割合を占めている
中で、マス・メディアも(中流階級と上流階級
との、「上流階級は働かなくても豊かである点で中流階級とは
異なる」という定義に従えば、)中流意識を持っているという風に
とれるから、そういう立場の現代のマス・メディアは
写実主義/リアリズムの19世紀の中流階級は視点の面で
なんら違いはないから、実は、近代っていうのは一貫性から
言って、終焉していないのでは、
ってことですよね。
いま、僕たちは現代を生きていて、エジプトとかメソポタミア文明
なんて言ったら、それは古代文明でしょっ、ていう風に感じるけれども
それって、その時代時代でそれが古代にも現在/現代にも
なる訳で、う~ん、うまく言えないけれども、
とりあえず、近代、現代等の時代区分と
啓蒙主義、近代主義、ロマン主義などについて知識を増やそうと
思います。知識がなくては議論出来ませんからね。
それと、ポスト・モダンがあるならば、近代や中世にも
こういう、ポスト~っていう考えがあったのかな、って
思いました。そっちも調べてみようと思います。
ken-deleuzさんのおかげで新たな道が広がりました。
どうもありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
すでにいくつか回答が出ていますが、少し別の角度から。
まず、この「物語」、どういうことだかわかりますか?
物語の基本的な構造というのは
(始め)桃太郎が桃から生まれました。
(なか)桃太郎は鬼退治をしました。
(終わり)桃太郎はお姫様をつれて帰ってきました。
この、始め-なか-終わりの構造を持つものです。
そうして、物語は時間を追って進んでいきます。
時間を追って進む、というのはどういうことかというと、原因と結果、という対応をなす、ということなのです。
桃太郎はどうしてお姫様を連れて帰ったのか?
それは鬼ヶ島で鬼退治をしたからだ。
物語では、結果というのは、先行する出来事から導かれています。
つまり、原因-結果、というのは物語の構造を取っているのです。
(始め)人間は罪を負って生まれてきた。
(なか)キリスト教を信仰する。
(終わり)キリストの「愛」によって救済される。
「キリスト教の物語」を荒っぽく言うと、こうなります。
そうしてまた、ここには原因と結果がありますね。
「ああ、どうして毎日が苦しいんだ?」
「それは人間が罪を負って生まれてきたからだ」
「じゃどうしたらいい?」
「キリストの教えを信じれば救われる」
これが「キリスト教の物語」です。
「大きな物語」とは、荒っぽく言ってしまうと、あらゆる人をすっぽりと包摂するような物語、社会そのものを包み込んでしまう物語、あらゆる人にその原因と結果が当てはまってしまうような物語といえます。
ところがリオタールはそんな物語は近代で終焉したという。
ここで「どうしてか」とそれにすっぽり答えるような回答をだしちゃいけない、っていうのはわかりますか?
それはさらに大きな物語を用意してしまうことになるからです。
社会全体を覆うような物語が信じられなくなったいま、わたしたちにできることはなにか。
ひとつの大きな物語を信じることではなく、問いは問いのまま、宙づりにして、ひとりひとりがよく考え「小さな物語」を作っていくことではないのか、ということなんです。
回答ありがとうございます。
ひとつの大きな物語を信じることではなく、問いは問いのまま、宙づりにして、ひとりひとりがよく考え「小さな物語」を作っていくことではないのか
そういうことを主張していたんですか。
理解出来ました。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
はじめまして、大雑把に説明したいと思います。
でも補足は受けますよ。どうして「大きな物語」が信じられなくなった
のでしょうか。また、どうして近代以前では「おおきな物語」が信じられていたのでしょうか。
まず啓蒙主義、近代主義に関して言えば、大きな物語が信じられなくなったとか、信いられていたとかいう質の問題ではないように私は思います。
17世紀後半から20世紀前半にかけて私たちは近代主義と呼んでいるわけですけど、17世紀、modernityの前は封建制度が世の中を横行していたんです(乱暴な言い方ですみません)。社会は秩序や規律で守られるよりも、暴力によって統制され、また宗教などが知識、認識の枠組みを形成していました。そして科学の発達が啓蒙をもたらしました。暴力から秩序による統制、宗教の教えに対する、疑問の投げかけ、そして資本主義のはじまりなどです。人々はより高度な知識をつけ、社会を運営していたんです(大きな物語の始まりです)。しかし啓蒙によってもたらされた資本は持つもの、持たないものいうクラス分けという側面も持ち合わせていました。しかし資本の思想、近代科学(言葉、数学、化学などなど)が社会をおおい、私たちはその中で生活してきたわけです。信じるといえば信じていたんでしょうけどね。
1940頃になって、リオタールのいうmodernityの物語の終焉をむかえます。これは近代主義にたいする疑問の投げかという事だとおもいます(post-modernism)。(僕はこのpost-modernityとかpost-modernismという言葉があまり好きではありません、つまり、物語は終焉していないからです)
かなり(相当)大雑把でしたけど、こんな所だと思います。もしポスト近代主義を勉強なさるなら、まず啓蒙主義、近代主義、ロマン主義について詳しく勉強されたほうが良いと思います。参考まででした。
回答ありがとうございます。
ken-deleuzさんのおっしゃる
「物語は終焉していない」について
補足して頂きたいです。
「物語は終焉していない」はこういうこと
かなっていうのは思いつくんですが、
うまく説明できません。
啓蒙主義、近代主義、ロマン主義などの
ポスト近代主義を理解するための方向を指示
して下さったこと感謝しています。
どうもありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
以前、マスメディアが登場した時、これで、民衆が誰でも政治に関心を持ち、誰でもが正しい判断をするようになるという期待がありました。
しかし、実際は、違いました。つまり、人々は、個人的な楽しみを追及するようになってしまい、マスメディアも権力批判と言うその本来の機能を果たさなくなっていってしまったわけです。ちょうど、二つの疑問を出されていますが、自分も、二つの理由があると思っています。
>どうして近代以前では「おおきな物語」が信じられていたの
でしょうか。
大きな物語を信じなければやっていけないような社会状況にあったと言うことでしょう。アメリカ移民が高らかに独立宣言をしたのは、母国での階層社会化による逼迫した生活があったからです。ロシア革命にしても、当時の貴族たちの農民に対するひどい搾取がありました。また、もっと広い意味で言えば、人々が健康で清潔な生活を送っていなかったわけです。多くの人が20とか30で死ぬと言う状況が方々で見られ、「生きる」とは何かと言う悩みが非常に切実に感じられていたわけです。
>どうして「大きな物語」が信じられなくなった
のでしょうか。
そして、近代になり、生活状況が改善され、少なくとも多くの人は、健康で清潔な生活がまあまあ送れるようになったということで、「大きな物語」の必要性がなくなったということですね。ヒーロー喪失の時代とも言うと思います。
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