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こんにちは。
先日、本を読んでいて、こんなフレーズに出会いました。
「外的宿命など存在しない。だが、内的宿命というものは存在する。自分が傷つきやすいことに気付く瞬間がやってくる。すると、過誤がめまいのようにひとを引き寄せるのだ」
サイクロンに巻き込まれたパイロットが死闘しているという背景です。要するにここでは気を緩めたら終わり、宿命を決定づけるのは自分という意味なのでしょうが、客観的にこのフレーズを考えた場合、
外的宿命は存在しない。内的宿命は存在する、について皆さんの考えを聞かせてください。何のひねりもない質問で申し訳ないのですけれど。未来に関する考えを絡めると未来は外側にあるのか?内側にあるのか?となってきます。何でもいいので、考えを拡げるヒント下さい。

A 回答 (6件)

客観は時に逃避の手段として用いられるんじゃないでしょうか?


問題を出している人と、答えをほしがっている人は別人でしょうか?
現在からの逃避の手段として宿命という未来を夢想しているんじゃないでしょうか?
その時、未来は外側にあるのか?内側にあるのか?という問いに意味があるでしょうか?

この回答への補足

回答ありがとうございます。
私にとって恐ろしいのは「宿命」ですので、宿命という未来は逃避手段になりません。私は「絶対」を恐れます。例えばここでは、パイロットが自分自身を不定形な未来に投機する形であってほしい。絶対的未来に投機されているのではなく。少なくともここでの状況ではそれのがここではよっぽど希望があります。
これはあくまで私の願望になりますので言ってもしょうがないのですが、、、、
客観的に外的宿命についての意見が窺いたいと思いました。
 
未来は内側にあるのか外側にあるかについても、、、。私自身は未来は外側にあるのかと言われるとない気がします。(ここで未来は内側にも無いと言ってしまうとここにいる私は過去の軌跡も未来の約束も何も無い虚しい存在になってしまいますね!?)


問題を出している人と答えを欲しがっている人は同一人物です。

補足日時:2007/05/23 23:32
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>宿命という未来は逃避手段になりません



そうでしょうか。
今やるべき事をせず、悪い結果を宿命のせいにするのは人間の癖じゃないでしょうか。テストの点が悪いのは宿命でしょうか、それとも勉強不足でしょうか。このとき外的宿命であるとするなら、努力は無意味となります。努力せずにいい結果だけがほしいと願うなら人生は惨憺たるものになるんじゃないでしょうか。それを宿命と呼ぶのでしょうか。それとも自業自得でしょうか。

宿命を問題にするのは因果からの逃避という心理じゃないでしょうか。

ついでに言うなら、自分にとって宿命という不可抗力なことを想像して、自分を無力なものにおとしめるのは自慰行為じゃないでしょうか。

この回答への補足

とても実務的な考えをなさるのですね。
 
こういったことを考える場合、良い、悪いの有無、私自身の人生においての効用はよそにおきます。イマジネーションの作業に、私は自分の欲望を導入しません。私は宿命を想像して努力を怠ることはないですけど、かりに私がそういう人間であったとしても、今私がここで提起している「外的宿命は存在するのか?」という問題を考えることと私自身の問題はほとんど関係がありません。それはまた別に考える問題です。カタルシスのために私が本を読むのであればそれは文学の悪用です。考えも及ばないことです。

あくまで探究心として提起させて頂けませんでしょうか

補足日時:2007/05/24 20:12
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まず、宿命という言葉で何を意味するかを限定しましょう。


宿命という言葉を、「人間の意志とは独立に、人間の行為を支配する力」とここでは理解します。
例えばある人が、自分はある決まった日に死ぬことが決定しており、
そこから逃れるいかなる行為もないし、いかなる行為も無駄であると信じている場合などです。

さて、人間から独立で、人間の行為を支配する力は存在するか?
存在するとした場合、われわれは自分の行為がまさしくその力によって
なされたことをいかに知ることができるのか?
宿命があると主張する人は、自分を支配する力が存在することを
認識する方法があるということを証明しなければなりません。

宿命論は自分に対して外的な力が自分の行為を決定すると主張するものですが、
自分の過去の行為が現在の行為を決定するといえばそれは決定論になります。
決定論は意思の自由の問題と表裏一体をなします。
過去によって人間の行為が全面的に決定されるのであれば、
われわれが「こうしよう」と自由に意思しても、
それは過去の自分の行為から必然的に出てきたものであり、
つまり自由に考えたつもりであっても実はそうではないとなります。

これらの問題にある一定の考え方を示すとすれば、
それは時間について考えることでしょう。
ある人が自分はある決まった日に死ぬことが決定していると思う場合、
彼は「すでに未来は存在しており、現在はそれを徐々に実現していく」と
考えていると理解できるでしょう。
また、過去の行為によって人間の行為が決定されると考える人は、
「現在と過去は連続しており、逃れることはできない」と理解できるでしょう。
しかし、時間とはそのようなものなのでしょうか。

例えば、われわれが三日月を見るとします。
月はそれ自体ではただの月であり、それ以上でも以下でもありません。
しかしわれわれが見ると、「今、欠けていて三日月であり、将来満月へと満ちていく」と
いうように、一定の価値を帯びるようになります。
われわれが満月という実現されるべき未来を見るからこそ、
今の月は欠けた三日月というように欠如を持って見られるのです。
つまり、未来は人間が存在することで初めて世界に到来するのです。
そうすると、「すでに未来は存在しており、現在はそれを徐々に実現していく」という
考えが誤っていることが理解できます。すでに存在する時間などはありません。
時間は人間が世界の中に現れることで初めて到来するのです。
過去についても同様です。私が「あの時あれを買っておくべきだった」と悔やむ時、
それは「今、または今後、あれがなければ困る」と思うからであり、
「あれは今や必要がない」となれば、過去の意味は変わってきます。
過去に意味を与えるのは未来におけるわれわれの目的です。
ですから、過去から出発して未来に意味を与えようとする決定論は支持できなくなります。
さらに進めると、宿命や運命があらかじめあるのではなく、
未来において宿命や運命の存在を求めているからこそ、
運命的・宿命的な考えに惹かれるのではないでしょうか。
時間は人間を越えたものではないと私は思います。
まったく逆で、人間こそが世界を時間化するのです。

ここまでで概略を示すことができたでしょうか。
運命や宿命は、「時間とはなにか」に還元できると私は思います。
上述の時間に対する考え方はサルトルの時間論の乱暴な、単純化した要約です。
時間には他にもさまざまな考え方がありますので、ご自身でも勉強してみてください。

外的と内的な区別については、文脈がわからないのでなんともいえませんが、
例えば「身体など物理的な外的世界にとっては宿命は存在しないが、
心の中という内的な世界にとっては宿命が存在する」という意味だとすると、
「身体(外的世界)と精神(内面的世界)という二元論はそもそも成立するか」という
いわゆる心身問題が立ち上がってきます。これも哲学的には大問題なのですが、
さしあたり質問における文章に関しては、私は外的宿命と内的宿命という風に、
宿命をわざわざ二つにわけて書く必然性はなかったのではないか、と思います。
いわゆる文学的表現というところではないでしょうか。哲学的にはあまり重要性は感じません。

この回答への補足

回答感謝です。まいりました。
カユイ所から全部説明して頂いた感じです。まず、質問するに当たって疑問の土台があやふやであったことお詫びします(汗 
 
考えていた通り、この質問は時間に関する問題に帰するようですね。
人間が実現されるべき未来を見るからこそ未来が存在し、未来における目的のために過去に意味をあたえるからこそ過去が存在する。未来も過去も人間によって初めて到来し、要するに人間が世界を時間化している、、 
という部分ですが、こう考えていくと確かに、宿命論や決定論には誤りがあるとなってくる。ただし、私が人間である限り、世界を時間化し続け、時間化された世界を生き続けるでしょうから、宿命論や決定論における立場を決めておく必要がありそうです。

人間の頭の中には当然のように自然と未来と過去の観念があるようですね。私はよく、窮地に追い込まれた人間や、不幸に追い込まれた人間はなぜ希望や欲望を持てなくなるのだろう?と考えるのですが、窮地に追い込まれ前後不覚になると、未来に対する見通し、予知する力がなくなるせいで、願望を持てなくなることに原因があると考えつきました。つまり、願望というのは「こうしたい」と願うことですが、「こうしたい」と願うからには、ある程度「こうなるだろう」という未来の可能性を考えていることになる。願望をもつにはある程度、未来を予測する能力が必要であると。よって未来を予測する力のない前後不覚状態へおいこまれた人間は、願望を持てず不可抗力状態へ陥ってゆく..。
話は脱線しましたが、願望の例に始まり、自然と未来という観念を持っているのは何とも不思議です。

ところで、人間がいなくなると世界から時間は消滅するのでしょうか。。?たとえば世界がキリンだらけになってしまったら。過去も未来も無く濃淡のない時間(時間とは呼べない?)が綿々と続くのでしょうか。キリンが人間のように事物に意味をあたえ、過去や未来を生み出すとは思えないので。でも、キリンにも意思の希望が組み込まれているとしたら話は別?キリンの首が伸びたのは、高いところにある草を「食べよう」という願望によって起こったという進化だ、という説が確か心理にございましたね?(キリンじゃなくてもいいのですが)
とすると、もしキリンがそういう願望を持つとしたら、本能的に未来の観念がないと言い切ることはできない!?

滅裂になってしまいました。

ご指摘されて改めて気付いたのですが、私の外的宿命、内的宿命の提起は、哲学的重要性はございませんね、文学的表現、その通りだと思います。

最後に、「身体と精神という二元論は存在するのか」 これはとてつもなく大問題ですね、、、
 
自分でも色々と勉強したいと思います。

補足日時:2007/05/25 12:36
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仮にAさんという優しい人がいたとします。


Aさんは心優しい人間なので交通事故を起こしそうな子供をかばって死んでしまいます。
それは運命で決まっているとします。だとするなら、Aさんは何故死んだのでしょうか。外的運命のよって死ぬことが決まっていたから飛び込んだのか。
かばっても軽症で助かるという可能性を除外すれば、AさんはAさんの優しさゆえに飛び込んで子供をかばったのです。死なない=子供をかばわないという選択肢は、Aさんが優しい人間だから選べません。つまりAさんに子供をかばって死ぬという道を強制したのはAさんであり、それが内側にある運命というものだということでしょう。
すべてはラプラスの故神の導きのままに。

この回答への補足

まず、ここで質問、回答のやりとりをしていくうちに外的、内的運命の提起に意味があるかどうか疑わしくなってしまったのですが、それでもお答えいただき、感謝いたします!ここでは一応、外的、内的運命という定義があることとして続けさせて頂きます。

avarahamdarさんは外的運命以前に、内側の運命(Aさんの素質による因果応報?)を支持なさるのですね。
しかし私にはいくつか疑問が残ります。Aさんは自分の優しさのせいで死にいたる選択肢を選ぶことになったかもしれませんが、それだけで外的運命を否定できるとは思えません。不十分です。
Aさんの素質うんぬん、彼の意思うんぬんを越えて、彼の内側の運命自体を決定する外的力が働いている可能性があります。

補足日時:2007/05/25 17:17
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この回答へのお礼

すいません、まず、補足からよんで下さい。後から考えたんで、お礼でプラスします。
avarahamdarさんの考え方でいくと、partreさんがコメントして下さった宿命論or決定論が応用できそうですね!
宿命論 自分に対して外的な力が働く
決定論 過去の行為が現在の行為を決定
Aさんの例をいれると、「優しい」Aさんの行為は過去の優しい行為から決定されてきそうなので、avarahamdarさんの考えは決定論である。と考えてみました。

お礼日時:2007/05/25 17:53

その人がその時点でそう思ったということでしかない.

この回答への補足

回答感謝です。すみませんでした、この抜擢はよくなかったです。下記で質問を展開してますのでお許しを!

補足日時:2007/05/25 20:39
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若干の補足をします。



>人間の頭の中には当然のように自然と未来と過去の観念があるようですね。
>でも、キリンにも意思の希望が組み込まれているとしたら話は別?
さきほどの回答では話を単純化するために人間という言葉を
特に断りなく使いましたが、実際は少し事情が違います。話はむしろ逆です。
サルトルは「世界を時間化し、つまり世界に未来・現在・過去という
三つの次元をもたらし、未来の目的から発して世界に意味をもたらす存在」を
対自存在と呼びました。
そして一般に人間と呼ばれる存在者は、対自存在というタイプの存在であるからこそ、
現在・過去・未来を持ち、自由な存在であるのです。
ですから人間には自然に未来と過去の観念を持つというのは適切ではなく、
未来と過去をもつ存在者、すなわち対自存在であるからこそ、
人間と呼ばれ得る、というのがより正確な表現だと思います。
ですから、対自存在というタイプの構造が適用されていれば、
キリンだろうがゴリラだろうがそれは人間的現実をもつと言って良い。

これで次の質問に答えることができます。
>ところで、人間がいなくなると世界から時間は消滅するのでしょうか?
私はそう思います。例えば台風で街が壊滅的被害を受けたとします。
しかしここで注意してください。誰にとって街が被害を受けたのでしょう。
人間が、正確に言えば対自存在が、「街はわれわれにとって必要であり、
破壊されることは嘆かわしい」と考えるからこそ、「被害を受けた」と表現するのです。
世界に意味を与える対自存在がいなければ、台風が通過してもそこには端的に
地形の変化があるだけです。被害があるともないともいえません。
時間についても同様です。時間があるとかないとか言いうるためには、
世界を時間化する存在者、すなわち対自存在がいなければなりません。
対自存在がいなければ、誰が世界から時間が消滅したと言うのでしょう?

ここで一つ注意を喚起したいのは、「自然」という言葉を不用意に使っている点です。
ここでは哲学的問題として時間を論じようとしているのに、
自然という言葉を使うことで、時間は生物学的・解剖学的研究で
解決できるかのような印象を受けてしまいます。
それはそうなのかもしれませんが、あくまで哲学の問題として論じようとするならば、
こういった用語は避けたい。本能という語も同様です。
哲学は科学と違い、理論を実験で検証することはできません。
(実験で検証するのなら、それは哲学ではなく科学になってしまいます)
哲学のもつ武器は言葉と論理のみです。ですから、言葉と論理には徹底的に
厳密になるほかありません。言葉に対する厳密さ、どれだけ言葉を尽くして
議論しようとするかで、その人の哲学的徹底性が図れると思います。

>未来に対する見通し、予知する力がなくなるせいで、願望を持てなくなることに原因がある
まず注意したいのは、対自存在は常に未来を持つということです。
未来現在過去の三次元をもつことが対自存在の条件です。
「たとえさえぎられていても、未来はやはり未来だ」というようなことをサルトルも言っていました。
また、予知という用語は、未来をわれわれは正確に知ることができるという印象を与えます。
なにが起こるか知ることができないというのは未来の語の定義に属します。
ただ、われわれは未来についてまったく知らない、予想できないというわけではありません。
現在の上に未来を素描している、とでも表現すればいいのでしょうか。
嘔吐新装版p52の老婆の描写、ここは時間に関するすばらしい文学的表現だと思います。
参照してみてください。

この回答への補足

再度ご親切に、回答感謝です。
対自存在というタイプの構造が適用されていれば、キリンだろうがゴリラだろうがそれは人間的現実を持つと言ってよい。>かねてから疑問に思っていたことで、これですっきりいたしました。動物が即自存在なのか対自存在なのかは私にはよくわかりけども。。

哲学は科学と違い、理論を実験で検証することはできません。哲学のもつ武器は言語と論理のみです。>今回質問した中で、最も参考になったことでした。どうも私は知識ゼロですから、一緒くたにしてしまう傾向がありますし、言葉の厳密さに欠けるせいで、そもそも自分が提起してること自体明確じゃない。ダメですね。言葉を厳密に使うのは本当に難しいです。若者なので、お許し下さい(笑

partreさんが仰る嘔吐の描写、是非確認したいのですが、私が持っている嘔吐はかなり古いサルトル全集のもので、ちょっとそのペ-ジを見つけるのは難しそうです。ただ、近いうちに読み返してみたいと思っています。ひっかかる所が多々ありましたので。特に、「冒険」に関することがかなりしつこく書かれていましたけど、個人的にあれがやたら気になるんです。読み返した時はご指摘の箇所に注意を払いたいと思います。

大変参考になりました、またサルトルに関する質問をした時など、目に留まりましたら宜しくお願いします!

補足日時:2007/05/25 23:08
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