アリストテレスにおける「支配」の概念について教えてください。

A 回答 (1件)

現実主義者のアリストテレスは、まず何よりも人間関係の根本にある第一は男と女であり、もう一つは支配と非支配の上下関係であると言いました。



種の保存のための男女関係は当然として、人間が自己保存を図っていくためには平等であってはならない、誰かが指導して誰かがそれに従うという関係に立たなければならない、そして知恵あるものが指導者に、知恵なきものは部下になって汗を出すという関係が欠かせないと彼は言います。上下関係のない社会つまり平等な社会は全員が奴隷になってしまう社会だとも言っています。民主主義社会でも同じことで、民主的とはもちろん全員が奴隷になることではないが、さりとて全員が指導者になることでもない、誰か一人が指導者となり他のものたちはその指示に従っていかなければならない、それが嫌ならその組織は滅びるほかないと彼は考えているのです。そして、その被支配者の最下層にいるのが奴隷だ、という奴隷肯定論が出てくるわけです。

「支配」の概念については、このURLも参考になるかと思います。
http://cosmicus.terrashare.com/book05/5-3-1.html

参考URL:http://www.117.ne.jp/~t-hnfs/aristetle_int.html
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この回答へのお礼

丁寧に教えていただきありがとうございます。とても参考になりました。

お礼日時:2001/01/21 21:59

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Q「美」と「崇高」という芸術の概念にをご教示下さい

10年ほど前なのですが、坂本龍一氏がつくった「LIFE」という
オペラに関し、これは「崇高」ではなく「美」なんだという論評を
見ました。私は坂本氏の音楽はそれなりに聴き続けてきたもの
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か最近またとても気になっています。(その後も何度か「日曜美術館」
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ここからが質問なのですが、芸術論、および哲学の中で(おそらくカントで
しょうか)「崇高」と「美」という言葉はどういう文脈で使われるのでしょうか。

専門の方にとっては初歩的なことかと思いますので、申し訳ございませんが、
ご教示いただけると幸いです。坂本氏のオペラとは関係ない一般論のご回答
でかまいませんので、ご教示いただきたく、よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

「美と崇高」について書かれた初めは1759年のエドマンド・バークの「崇高と美の観念の起源」で、それに次いだのが1764年のカントの論文「美と崇高との感情に関する考察」です。
バークは美と崇高を区別して、崇高は人間に恐怖と畏怖の念と不安をもたらすが、美は人間に安らぎと陶酔をもたらすといっています。
ともに人間の感性を超えている点では共通しますが、方向がまったく逆です。
カントが論文を書く際にバークの本を参照していたかどうかは定かではありません。
カントは崇高の感情を、恐怖と高貴と豪華に区分しました。
そしてその堕落した形態として怪奇と茶番があり、豪華は崇高と美の中間の感情であるといいました。
それに対してカントのいう美は芸術作品の美が挙げられますが、それよりもかれは道徳的な人間の在り方、人間の尊厳を美の模範と考えました。
そのような考え方に当てはめてみると、坂本龍一がオペラを「崇高」ではなく、「美」といったのも当然だと思われます。
なぜなら、オペラを観て「恐怖感」に駆られたり、「畏怖の念」を抱くことは稀だと思うからです。

Qアリストテレスの「不動の動者」

アリストテレス哲学に「不動の動者」という概念がありますね。
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ところが、八木雄二『神を哲学した中世』という本を読むと、
「アリストテレスの形相質料論が新プラトン主義と結びついて、純粋な形相や、上位の形相と下位の質料という考え方が生まれた」
と書かれています。
つまり、「不動の動者」という考え方は新プラトン主義の産物とのことです。

しかし、私の記憶では、「不動の動者」「上位の形相と下位の質料」という考え方は、『形而上学』において示されていたはずです。
つまり、アリストテレスの自然観は新プラトン主義の産物ではなく、アリストテレス自身の思想だと思うのですが、どうでしょうか?
あるいは、「不動の動者」の箇所はアリストテレス自身が書いたのではなく、後世に加筆されたのでしょうか。

Aベストアンサー

☆> そもそも、アリストテレスと新プラトン主義では、時代が合いませんし。。。
アリストテレスが新プラトン主義と結びついたものがアラビアに伝えられ、イブン・ルシュド(アヴェロエス)の注釈を経て、13世紀にヨーロッパに逆輸入された、と八木雄二の本に書いてありました。

◇よく、ご存知で。
イスラム哲学では、アリストテレスの哲学が新プラトン主義的に理解されました。アヴェロエスによって、アリストテレスの哲学と新プラトン主義的なそれとを分離しようという試みが行われたけれど、アヴェロエスはギリシア語が読めなかった。アラビア語の翻訳に頼らざるをえなかった。自ずとそこには限界があった。

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☆上位の形相や不動の動者という考えになったと述べている
◇これが新プラトン主義の《流出論》的な解釈なわけですよね。
こうした《不動の動者》や《純粋形相》のとらえ方は、アリストテレスのオリジナルではない、と言っているわけでしょう。
八木氏は、《不動の動者》や《純粋形相》といった概念がアリストテレスのものではない、と言っているわけではないと思います。

そうでないとすれば、八木氏が誤解なさっているのではないでしょうか。

☆> そもそも、アリストテレスと新プラトン主義では、時代が合いませんし。。。
アリストテレスが新プラトン主義と結びついたものがアラビアに伝えられ、イブン・ルシュド(アヴェロエス)の注釈を経て、13世紀にヨーロッパに逆輸入された、と八木雄二の本に書いてありました。

◇よく、ご存知で。
イスラム哲学では、アリストテレスの哲学が新プラトン主義的に理解されました。アヴェロエスによって、アリストテレスの哲学と新プラトン主義的なそれとを分離しようという試みが行われたけれど、アヴェロエスはギリ...続きを読む

Qキリスト教の予定説に何故「悪魔」の概念が必要なのですか。

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誰に迷惑をかけるでもなく、真面目に働き家族を養っていたとしても、結果として家族が残酷な犯罪に巻き込まれ、辱められ、皆殺しにされ、その家族も自分も魂の救済も得られずに地獄に行く場合もあると考えるのですよね。

そういう人間の側の論理でみれば徹底して理不尽で無慈悲な存在が神というものであると考えるのが予定説だと理解しているのですが、であるならば、「悪魔」は別に必要ありませんよね。
何故、予定説を採用した場合でも、「悪魔」の概念が必要なのでしょうか。

御回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

> そういう人間の側の論理でみれば徹底して理不尽で無慈悲な存在が
> 神というものであると考えるのが予定説だと理解しているのですが、

そもそも、予定説の「理解」が違うのではないでしょうか。

予定説は神様の救いに関する「説」なので、神様が理不尽だとか、
無慈悲だとかいうことは、この際、主観的な感想だと思います。

敢えていうならば、予定説によれば、神様は、その救いにあずかる
人たちを(聖書には「求めよ、さらば与えられん」と書いてあるので、
つまるところ、救いを求める人たちを)決して見捨てることがないと
いっているわけですから、むしろ神様は、理不尽なくらい慈悲深いと
いえるのではないでしょうか?

No. 8 >> 調べてみたところ、予定説を考え付いた人はジャン・カルヴァン。

そういうわけではありません。例えば、Goo 辞書(国語)を調べて
みてください。http://dictionary.goo.ne.jp/
あるいは、Wikipedia 英語版で “Predestination” を調べてみてください。

No. 8 >> で、予定説を採る人は「自分達が救われるかどうかはわからない。」
No. 8 >> ではなく、【自分こそ救済されるべき選ばれた人である】としたわけ
No. 8 >> ですね。

これは、「予定説を採る人」の考えとは、相容れないように私には
思われます。ぜひ、よく調べていただきたいように思います。

> 何故、予定説を採用した場合でも、「悪魔」の概念が必要なのでしょうか。

予定説というのは、救いに関して聖書に書かれていることから導かれた
説なわけですから、聖書に悪魔について書かれているときに、「悪魔の
概念が必要」かどうかという質問は、あまり、意味をなしていないように
思います。

> そういう人間の側の論理でみれば徹底して理不尽で無慈悲な存在が
> 神というものであると考えるのが予定説だと理解しているのですが、

そもそも、予定説の「理解」が違うのではないでしょうか。

予定説は神様の救いに関する「説」なので、神様が理不尽だとか、
無慈悲だとかいうことは、この際、主観的な感想だと思います。

敢えていうならば、予定説によれば、神様は、その救いにあずかる
人たちを(聖書には「求めよ、さらば与えられん」と書いてあるので、
つまるところ、救いを求める人たちを...続きを読む

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人は、支配を欲するのか、支配されることを欲するのか?

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よろしくお願いします。

わたし、SMのSです、Mでも結構です。
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ホニャララさんは、わたしの《神》です、
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この質問に関係することならば、どのような内容でも大歓迎です。

Aベストアンサー

基本的には、人は「支配されたい」という欲求はなく、あるのは、「所属したい」「つながっていたい」という欲求だと言われています。

アメリカの心理学者のアブラハム・マズローは、人間の基本的欲求を低次から述べると、以下の通りであると述べています。
1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96

1と2は生物の本能的な欲求で、3番目から社会的欲求と言われます。
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ただ、欲求の大きさが大きいほど、支配の幅が広がり、欲求が小さいほど、支配されない状態になると言えると思います。


4が「認められたい」という欲求で、高じて支配への欲求となります。
5は自己実現で、これは支配への欲求がさらに高じて、支配を使命と考えるようになる時の欲求といえます。

基本的には、人は「支配されたい」という欲求はなく、あるのは、「所属したい」「つながっていたい」という欲求だと言われています。

アメリカの心理学者のアブラハム・マズローは、人間の基本的欲求を低次から述べると、以下の通りであると述べています。
1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E...続きを読む

Q主体という概念と主権という概念はどういう相互関係にあるのですか?

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主体と主権は主が存在すること、主体は体がメイン主権は権利がメイン
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