
昔の剣術道場の経営について質問です。江戸時代、或いはそれ以前の剣術道場の収入源としては、とりあえず指導料のようなものが考えられるのですが、それ以外に何を糧として経営していたのでしょう? 例えば、漫画『バガボンド』の吉岡道場の当主は相当の規模の屋敷に住んでおり、かなりの富を有しているように思われます。時代劇等でも、大道場の主は概ね富裕であるように見えます。しかし、いくら門下生が多いとはいえ、その多くは庶民であっただろうし、指導料もそれ相応に抑えなければ人は集まらなかったのでは、と個人的に考えてお]の結果がみつかりませんでした
A 回答 (3件)
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No.3
- 回答日時:
記録に残る戦国末期から江戸初期にかけての剣豪は、上泉秀綱も塚原卜伝も柳生宗厳も、武将であったようです。
武将であるとともにお殿様の公認を受けて剣術の指導もやっていた、というのが実態に近いでしょう。宮本武蔵は仕官することを熱望しましたがかなわず、絵を描いたり書を書いたりと「趣味人」として一生のヒマをつぶすしかありませんでした。幕末になると時代が騒然となって「剣術ブーム」が起きていわゆる「技の千葉、力の斉藤、位の桃井」といわれるほどの隆盛を極めますが、平和だった江戸中期では剣術道場なんてのは4コママンガに出てくるような貧乏道場というのが一般的だったようです。ただし、お殿様の公認を受けている道場はいってみれば「学校指定の業者」みたいなもので、その場合は嫌でもその道場に通わなければならなかったりしてそれでメシが食えるというのはあったようです。だから、幕末を除けば、江戸時代の剣術というのは実戦ではなく「型」を重視したものです。今でも、空手や薙刀のように「演武」を本来とする武道が残っていますよね。
江戸時代は剣術は「武士のたしなみ」であって、そうでない身分の者には「学んではいけない」ようなものです。実際問題、あの岡田以蔵は武士の身分ではなかったために最初は独学で剣術を学び、その才能が認められて武市半平太の下で道場入りしますが、身分が低いことで武市からも含めて門下生には相当いびられたようです。幕末になって、武士階級以外でも剣術への興味が広がり、農民などでも剣術を学ぼうという人たちが出てきました。ただ、当時は身分制度ですから、武士が農民に剣術を教えるわけにはいきません。だから、同じ農民出身で腕に自信のある連中が自ら道場を立てたりしました。近藤勇や土方歳三なんかはこういう人たちですね。
詳細な解説ありがとうございます。
成る程、大名公認道場みたいのがあったんですね。
型重視の稽古が思ったより昔からあったようで驚きです。
自ら望む望まないを問わず集まった大勢の門下生を指導するには、体系的な稽古の方法が必要でしょうし。
当時の道場の存在意義が解り、すっきりしました。
No.2
- 回答日時:
吉岡道場は本業は染め物商を経営していました。
余技として剣術を教えたので、それで生活したわけではありません。
同時代の槍術指南で有名な宝蔵流も寺院の法師の自衛術が発展したもので、寺院への喜捨があったと思われます。
江戸時代になると束修といって授業料が定着しましたがそれ以前はスポンサーが負担したようです。
吉岡憲法が染物商であったということは以前聞いた事があります。
やはり食い扶持として道場を経営する(できる)というのは殆ど無かったことなんですね。
ありがとうございました。
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