メモのコツを教えてください!

自由に論じてください。

ウィキペディアの《自由意志》です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1% …

わたしは 責任との関係および神学との関係に関心があります。

たとえば こうです。約束をしたとき それを果たせなかったとします。事情を説明し――多少の償いをしつつ―― 詫びて治まると思いますが ここには 自由意志がからんでいるのではないでしょうか。意志の自由な選択によって 約束をしたのであるからには それを違えたことについて 何らかの責任が発生するという具合いです。

一般に表現の自由を言うからには その言動責任ないし文章責任が生じていると考えられるのだと思いますが いかがでしょうか。つまり 自由意志が ほんとうに存在するか否か これは 分からないかも知れないのだけれど 社会的な取り決めとして 上のような事態にかんして 自由意志はあると想定されていると考えるのですが そのあたりについて 自由な見解をおしえてください。

A 回答 (25件中21~25件)

kaitara1ですがここで言っている責任というのは不可逆的歴史を変更しようという試みのように思います。

もし歴史を変えられるならば変えたいということで実は自由意志というのは時間をさかのぼることではないかと思います。下種の後知恵といういささか響きの悪いことわざがあります。又時間ではありませんが岡目八目というのもあります。又一般的には評論家的とか結果論といういいかたなどなど。すべて歴史を変更することと関係しています。学歴詐称などもその典型です。自由意志の本質がここにも顔を覗かせています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

《自由意志というのは時間をさかのぼることではないか》――なるほどと思いました。責任をうんぬんするという場合には そのような内容を伴なっているようです。

ただし 《不可逆的歴史を変更しようという試み》ではないと思います。というのは 責任を取ると言っても ごめんなさいで済むわけですから。

むしろ 責任を取らない・取ろうとしない側が 自分の行なった発言などとの矛盾を突かれて なんとか言葉を並べて その《不可逆的歴史を変更しようと・・・試み》るのではないかと見られます。

大筋で理解させていただいたのですが 自由意志を想定する立ち場にもよくない側面があるかに響いたものですから 上のように解釈してみました。いかがでしょうか。

お礼日時:2007/08/26 14:58

あるいは逆から考えると、



責任が発生するのはその行為が自由意志であったかどうか、

ということですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

選挙公約――予算を いくらか一定の額 減らすといった内容だったでしょうか――を違えても 《少々の公約違反は 大した事ではないよ》と言ったとか言わなかったとか。

自由意志がないとなれば このような答弁で済むと思います。というよりも 何も責任はないし 答弁の必要さえないということになります。答えてもよいし 答えなくてもよいということになります。《何でもあり》です。

まちがったなら 訂正すればよいと思うのです。面子よりも 自由意志のほうが 大事だと思うのですけれど どうなのでしょう。

というふうに考えていました。つまり はい 《責任が発生するのはその行為が自由意志であったかどうか》なのだと。レイプもチカンも 自由意志のないところには それに遭った被害者のほうは 責めも咎めもないはづです。

(少々柄の悪い見方をも交えるならば 挑発するような衣服を着ていて しかも その被害者は 挑発してやろうと思ってその衣裳を選んだというように 自由意志がはたらいた場合には どうなのかとも 捉えられますが この場合は 挑発された者に責めがあると決まっているようです)。

お礼日時:2007/08/26 14:47

こんにちは、



やっぱり意思が自由かどうかが問題なのですか?

自由であろうと無かろうと因果というルールから逃れることができないのだから、自分の発した言葉や行動には責任という結果が付きまとうのは必然だろうと思ったのですが。
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この回答へのお礼

こんにちは。さっそく答弁をいただきありがとうございます。

次のお答え(No.4)でも分かりましたが 質問に例示した考え方と おおきく言って 同じご意見だと思いました。

ただ さらに細かいことを持ち出すとしますと 因果関係は そうは簡単にわかるとは限らないとも 思われます。自分の心に聞けというようにも言えるかも分かりませんが そして むしろそのほうが筋だとさえ考えていますが 別の妥当な筋もあったらいいなと思います。

それで たとえば 自分の意志で自由に選択したことに責任を持つといった考え方です。まちがったなら まちがえましたと言えばいいのですから そのほうが簡単だと思うのですが。

お礼日時:2007/08/26 14:30

風が頼りのヨットでも風に逆らって航行できます。

ポットもお湯は電源を抜いておけば冷めるばかりです。しかし電源を入れれば再びお湯は温まります。流体力学や電気や熱力学の知識がなければこういうことに対処できません。知識や判断力の欠如が罪になるかならぬかということと自由意志なるものがあるかないかということとは密接に関連しているように思います。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

世界の成り立ちを知ろうと努め そこで得た科学知識を活用しようとするところに 人間の自由意志が 認められるというご見解でしょうか。

すなわち 《知識や判断力の欠如が罪になる》とすれば 自由意志をはたらかせるよう努めなければいけないし 自由意志はあるのだと。

微妙なところだと思います。あえて思うところを述べてしまいますが これだと 《欠如》の度合いが問題になるということにはなりませんか。一般には ある程度の――たしかに 或る程度のとしか言えませんが――努力は 誰もがおこなっているはづです。行き届いた気遣いができなかった場合には すみませんと謝って 事はおさまります。

つまり ものごとに注意を怠らないかどうかの問題であるようにも思います。そして この緊張感のような意識とその反応は 人の意志というよりも 環境や情況からの要請である度合いが大きいようにも捉えられます。(私見では この要請を強要に変えることは いけないと思います)。

その方向で進んでしまいますが たとえば 一たん定説となった科学知識が まちがっていたと分かった場合――というよりも 日常生活の中で 一たん科学的にして合理的な判断をくだした後で その判断が間違っていたと分かったり そうでなくとも 望むべき結果が得られなかったりした場合―― その知識の所有や判断力のあり方について 自由意志およびそれがあるとするなら責任の問題が どうからんでくるか ここに焦点があたるように わたしとしては 考えます。もしくは そのようなところへ焦点を持っていこうとしています。(この質問としてはです)。

もしよろしかったら そのような方面についてもご意見をお寄せくださるとありがたいです。

お礼日時:2007/08/26 07:10

私には因果という言葉で十分です。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

因果関係が 明らかで しかもその原因となっている発言や行動が わたしのものであったなら 責任が生じるのだし そこには 自由意志が存在するという見方 このように理解してよろしいでしょうか。
補足要求できますか。

お礼日時:2007/08/26 06:36

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