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表題のタイトルの絵本があるのですが

なぜ 接続詞?が「の」なのでしょうか?

うさぎ「が」くれたバレーシューズではないのでしょうか?

うさぎのくれたバレーシューズ・・・

「の」が 気持ち悪くてたまりません

こういった「の」の用法は これに限らず案外見かけます

ここでの「の」はいったい何なのか?使い方として正しいのか? 

教えていただけないでしょうか?

A 回答 (5件)

きわめて正しい使い方です。


辞書の説明だと、たとえば以下のようになります(『明鏡国語辞典』)。

《連体修飾節で使って》節中の述語が表す動作・作用の担い手を表す。「先生のお書きになった本」「雪の降る夜」「時の過ぎゆくまま」(以下用例省略)

では、ここではなぜ「うさぎがくれた」ではなく「うさぎのくれた」なのか?

この場合、「が」と「の」には意味・用法上の大きな違いはありませんが、とある辞書の解説によると、一般的に、「が」はその前の言葉に重点が置かれるのに対し、「の」は以下に続く言葉に重点が置かれるという特色があるようです。

私は「うさぎのくれたバレーシューズ」の内容を知らないので、小川洋子さんの「博士の愛した数式」で説明すると、
「博士が愛した数式」→「私」でも「ルート」でもほかの誰でもなく、「博士が」愛した数式
「博士の愛した数式」→博士が「作った」のでも「解いた」のでも「事務的に計算した」のでもなく、博士の「愛した」数式
というイメージを、たしかに醸し出すように思います。
この場合は、物語の内容に照らすと、適切なタイトルが後者であることは間違いないでしょう。

意味や用法が同じならより一貫性のあるほうで統一する、という考え方も合理的ではあります。しかし、論文ならともかく、文学作品などの場合は、作者が助詞のたった一文字にまで特別な意味や感情をこめるということはありえます。それを入れ替えるだけで、そこに作者が表現したい本当に微妙なニュアンスをこめることができるし、読者はそれを半ば無意識のうちに感じ取ることができる。このように、言葉ではうまく説明できないかもしれないけれどもたしかに共有され受け継がれていく感覚を文化と呼ぶのです。まったく合理的ではないかもしれませんが、論理だけでなく人の感情や微妙な心のひだをも表現しうる、ある種ファジーな側面が、日本語の懐の深さ、美しさであるとはいえないでしょうか。

…というような説明をしたからといって、仮に論理的に納得できたとしても、感覚的に気持ち悪いものはおそらく解消しないでしょう。
すでに文化の断絶が起こりつつあるのかもしれません。日本の古典文学や近現代の名文とされる文章などをたくさんお読みになるのもいいかもしれません。
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こんばんは。


私や私以外のみなさんの回答はひとつひとつの考えであって、そのそれぞれの考えを冷静に分析することをお薦めします。

特にANo.2のnakaizuさんの回答が私と違うしっかりした考えだと思って、そのしっかりした考えと違う考えも紹介したいと思ったので回答します。

つまり、結論から言うと、私の考えも質問者であるchubeeさんと同じ考えであって、主語を示すために用いる格助詞である「の」を使う用法は一貫性が少ないので、より一貫性がある、格助詞の「が」を使う用法の方がより良いと考えています。

私にとって、昔からの用法であることや多くの人が使っている用法であることは、正しくてより良い用法や文法であることと関係がありません。
一貫性がよりあって、少ない決め事でより多くのことを表せる用法や文法がより良いと考えています。

ANo.2のnakaizuさんの回答で挙げられている例や考えに特に関係させて述べたいと思います。
「うさぎがくれたバレーシューズがこわれた」という文の主語は、ANo.2のnakaizuさんが言っているように、「うさぎ」と「バレーシューズ」です。
ここから考えが分かれるみたいです。
ANo.2のnakaizuさんが紹介している考えは、「うさぎ」はバレーシューズを修飾する従属節の主語であって、従属節でない全体の主語をはっきりさせる方がより良いという考えです。そのために決め事が増えています。
私の考えは、主語には主語であることを示す語である格助詞の「が」を付属させるという考えです。全体の主語であることや部分の主語であることには関係がありません。決め事は増えていません。

一貫性をより少なくしなくても、文法をしっかり学べば、全体の主語も部分の主語もちゃんと分かり得る仕組みである文法だと思っています。
また、全体の主語であることや部分の主語であることに関係しないで、主語には「が」を付属させれば、一見して「が」が連続していて文法に合っていないと思う文法に合った文は、文には全体の主語や部分の主語があることに気付く機会になることもあると思っています。
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この回答へのお礼

ものすごくお返事が遅くなってしまいもうしわけありません

私と同じ考えですが 文法的な側面から論理的に説明して下さり
大変参考になりました

ありがとうございました

お礼日時:2008/02/27 23:04

どちらも、昔からある正しい日本語です。


大野晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』
中公文庫 978-4-12-001616-5 (4-12-001616-1)
に詳しく述べられています。
いま、ちょっと手元に見つかりませんが。
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「の」が正しく、「が」は間違っていると言いたいところですが、最近は「が」を許容する傾向にあり、一概に間違っているとは言えなくなりました。


それでも「の」を使用する方がより正統的日本語という気がします。
「うさぎがくれた」という文であれば「が」を使い、「の」を使いません。「が」はうさぎが主語であることを表わします。
では「うさぎがくれたバレーシューズがこわれた」という文を考えてみます。この文の主語は何でしょうか。「うさぎ」と「バレーシューズ」に主語であることをしめす「が」がついていますが、よくみれば主語は「バレーシューズ」で「うさぎ」はバレーシューズを修飾する従属節の主語であることがわかります。この様なときに従属節の「が」を「の」に換えて全体の主語が何であるのかはっきりさるのが本来の使い方でした。
前にも書きましたが現在では従属節でも「が」を使うのが許容されつつあるように思います。
歌詞にある例
君の行く道は 果てしなく遠い…(若者たち)
僕らの住んでるこの街にも…(遠い世界に)
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この回答へのお礼

なるほど~

従属節 なんていう表現はもう数十年も使っていませんでしたが
たしかにそのようなカテゴリーがあったようなきもします

ところで
「うさぎがくれたバレーシューズがこわれた」の場合
「うさぎにもらったバレーシューズがこわれた」になるのではないでしょうか?

感覚的には 絶対に うさぎ「の」くれた が気持ち悪いんです

でも 歌詞を見て 思いました

うさぎのバレーシュース
僕の道
僕らの町

「の」を用いた場合 修飾する動詞を抜かすと 気持ちいいです

お礼日時:2007/10/19 22:31

回答ではないのですが、私や回りの人もよく、『の』を使います。

私達はおそらく方言でしょう。「うさぎのくんしゃったバレーシューズ」になります。作者が九州人?な訳ないかぁ……もしくは『もとはうさぎのシューズだったのを誰かにプレゼントした話しなので『の』』 『誰かにプレゼントするために、うさぎが用意したので『が』』はこじつけでしょうか?難しい事は専門家におまかせします。一九州人の考えでした。
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この回答へのお礼

こんばんわ 書き込みありがとうございます(^^)

なるほど 方言ですか・・・・

そう言われてしまうと 返す言葉がなくなってしまいますねぇ ・・・

(--)ん~・・・・

お礼日時:2007/10/18 22:52

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