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身分が固定している江戸時代で側室はどれくらいの身分や禄高から置けますか。大金持ちが囲う2号さんではなく将軍や大名の側室のことです。お家断絶防止のためだからそれなりの身分でなければならないし、側室を置くには住まわせる屋敷がいるし、付き人、女中などを雇う経済的基盤も要ります。
1.旗本や御家人 大身の数千石の旗本なら側室を置いたのでしょうか
2.家老以下各藩士 大藩なら万石以上の家臣もいますが。
3.公家 大臣や大中納言と身分は高いが五摂家を除けば数百石ですが、経済的におけたのか。
4.豪農豪商 財力はあるし、本間家など一部には苗字帯刀で士分もいます。

A 回答 (3件)

側室といっても、江戸時代初期はともかく中期以降は単なる使用人でしかありませんので、他の使用人とそれほど違った待遇をしなければならないわけではありませんから、特別に経済的余裕がないとおけないというわけでもありません。


側室(妾)をおくかどうかは本人の考え方にもよります。
数百石の旗本クラスなら側室(妾)のいる例もありました。ただ、家族がやっと食べていける程度の御家人クラスではちょつと無理です。
公家や大名の家臣についても同様なことがいえます。
豪商などでは経済的余裕がありますが、こちらは娘に婿を取るという例が以外に多い(能力のあるものを婿にする)ので、嫁が見逃してくれるのでないとなかなか妾を囲うのは難しかったかもわかりません。
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先賢の答えは 側室=妾 と考えた時のものです。

   妾は財力があれば誰でも置けました。
側室の言葉にこだわると身分の高い人の妾を側室と言うので、江戸時代では武士、公卿のうち身分の高い人の妾に限られ、財力は関係ないので豪商、豪農の妾は呼ばれません。
石高の多いか又は高位の武士、高位の公卿の妾に限られます。    武士では大名なら問題なく側室ですが、旗本、陪臣でははっきりしていません。    準大名で五千石以上であれば側室と呼ばれたでしょうが、千石以下の武士では妾でしょう。
三千石以上が大身と言われていたので、この辺が境かもしれません。
千石クラスでも四位の冠位を持つ武士では側室と呼ばせていたでしょう。
旗本は妾宅を持ってはいけないしきたりで、(正妻と同居)、屋敷が狭い何百石の旗本はこっそり囲っていたようです。
 
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側室と言っても、実態はなかなか漠としたものです。

制度としては確立していないと言った方が正確なのかもしれません。

最初から「側室(妾)」として召しだされた女性はむしろ少数で、多くは侍女などに「お手が付いた」上で、寵姫となるか子供が出来るかすると「側室」として特別の扱いを受けるようになった、というのが多いのではないかと。その意味では、身分はあまり関係ないのでは。
当然、侍女などの人数は経済力に比例しますから、側室の人数も経済力にある程度比例はするでしょうが。
天皇家や公家では、こうした愛人?と女官・侍女の中間形態?の女性を「家女房」と呼びます。天皇も公家の当主も大半は家女房から生まれています。例えば、大正天皇の生母は典侍柳原愛子ですが、この典侍とは宮中の女官の階級であり、皇后・妃など天皇・皇族の「妻」を示す言葉ではありません。
最初から側室として召しだされた一部の女性を除けば、前の方が書かれているように、身分はあくまでも「使用人」であり、それは大日本帝国の天皇陛下の生母であっても例外ではない、ということですね。
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