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こちらの続き…とうより一度思考を整理し、質問内容を改めたいので改めて質問させて頂きます。
http://okwave.jp/qa3513527.html

現実は、【「正解」を知っていたとしても、「解決」するのとはまた別問題】、ということがあります。
例えばの話、人生に絶望し価値観が崩壊している者に、「現実に目を向けろ、超人になれ」と薦めても、恐らく無理でしょう。
仮に、それが正解だったとしても、「良薬口に苦し」。正解がその者にとって耐え難い苦難の道であったとするならば、自らすすんでいばらの道を進める者はそうはいません…。

逆に、どこぞの怪しい宗教が「あなたは神に選ばれた存在で、この世はかりそめの物で、我々の教団に入れば貴方は天国に行ける」と言ったとしましょう。
その者にとってそれが心地よければ、善い悪いに関係なく入信するかもしれません。
まさに麻薬です。

途中で気づいて、甘い汁より苦い薬を選ぶ人も居るかも知れませんが、実際には「最早問題の解決などどうでもよく、放棄して安楽こそが至上である」、と錯覚してしまう人が意外と多いように感じられます。
それもある意味、「現実」なのかもしれませんが、「幸せになれるなら麻薬を使用しても良い」、とはならないと感じております(まぁ、実際には合法ドラックとか、煙草も含め多数ありますが、あまりに依存性の高いものは危険です)。

そこで、では苦難の道と分かっていながら、それでも歩もうとするのは何故でしょう?
それを何と言うのでしょうか?
探究心・希望・信条・興味…etc
みなさんの考えをお聞かせ下さい。

A 回答 (15件中11~15件)

ニーチェを妄信することを哲学とは言わない。



価値観が崩壊した人はニーチェが否定したキリスト教を信じるのもよいでしょう。それでも「神が死んだ」ことを事実であると仮定するならば、自らの生を肯定しなければならないと思う、生きる意味を見つけることですニーチェがそうであったように。生きる意味は見つからないのではないか?ニーチェと同じ末路に至る恐ろしさ…それでもニーチェは生を肯定し続けた。未来にニヒリズムやペシミズムが蔓延するだろう未来を現代を予想しつつそれでも、生を肯定し続けた。なぜでしょう、生を肯定し続ける意味があったというのが彼の思想の本質だからでしょう。

生に意味が無いわけではない。絶望する意味はない。「この世は所詮は無意味です」という言葉を吐く人は哲学をする者ではない。答えが無いと断定できる問題ではないから、生を肯定しつつ前に歩むしかないのです。そこに悲しみに酔う自分(悲観主義)はいらないから、永遠と思索に励むのです。

この回答への補足

>ニーチェを妄信することを哲学とは言わない
私もそう思いますが。

補足日時:2007/11/15 18:18
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まず最初に私はこの世は全て一義的でないと思っています。

見る視点を変えれば解釈も変わってきます。
貴方にとって正解でも私にとって正解とは限りません。逆もまた然りです。
もし本物の正解、つまり真理めいたものがあるなら法律は世界で1つでいいし、道徳や宗教も1つでよい。もちろん哲学も1つでよい事になる。
そんな正解の無い世の中で私達はいったい何を基準にして生きていけば良いのでしょうか?
右に行くべきか左に行くべきか人生の岐路に立った時、何を基準に(見せかけの)正解を導き出せばいいのでしょうか?
人は悩み苦しみ自分なりの正解を探そうとしているのだと思います。
それが哲学なのではないでしょうか?何も大好きで悩み苦しんでいる訳ではないと思います。


>「幸せになれるなら麻薬を使用しても良い」、とはならないと感じております(まぁ、実際には合法ドラックとか、煙草も含め多数ありますが、あまりに依存性の高いものは危険です)。

そんな事はありません。現実の世界は結構なんでもありです。ある種のドラッグが合法の国もありますし、
日本でもガンの末期患者には痛み止めとしてモルヒネを使いますのでこれは視点を変えればある種の「幸せになれるなら麻薬を使用しても良い」だと思います。
合法かどうかはある人たちが決めた事でそれが正解かどうかは別問題です。(先に述べたようにどの点で正解かは解釈次第です。)
医療従事者の私としましては視点を変えればドラッグも高カロリー高脂肪食品の大量摂取(現在の日本では当たり前の食事)も大差はありません。

この世にここから善でここから悪という、又はここから正解でここから間違いという真理をついた明確な境界線はありません。
「20歳未満は体に悪いからタバコは禁止です。」って、私からすればタバコが体に悪いのは年齢で境界線を引けないと思います。
大人だけ合法なのは正解ではなく大人のエゴだと思います。誰が吸っても身体に影響はありますから。

ちょっと脱線しましたが私なりの結論は「苦難の道と分かっていながら、それでも歩もうとする」のではなく
「真理をついた正解がないのに正解めいたモノを探さないと生きていく指標がないから苦しみ悩んでいる。」
この様が「苦難の道と分かっていながら、それでも歩もうとする」に見えるのではないでしょうか?

この回答への補足

話の論点がかなりずれてると思います。

補足日時:2007/11/15 18:17
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哲学とは、問題意識を持つことです。


問題意識のないところから、進歩はないから、敢えて問題点を凝視するのではないでしょうか・・・・・な。
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この回答へのお礼

>哲学とは、問題意識を持つことです
なるほど…たしかにそうかもしれません。

>問題意識のないところから、進歩はないから、敢えて問題点を凝視するのではないでしょうか・・・・・な
仰るとおりですね…。
問題だと気づかなければ始まりませんものね。
しかし、問題と気づき、正解まで用意されていても、なお解決へとは至れないとは…。
難しい…。

ありがとう御座います。
とても参考になりました。

お礼日時:2007/11/15 18:16

"心頭滅却すれば火もまた涼し"と時として言いますが、(質問者さんを含む!?)第三者の視点からは"茨の道"であっても、当事者には苦に感じぬ、からではないでしょうか?



或いは"狭き門より入れ!"云々との新約聖書(マタイ福音書)の文言に当て嵌めるなら、(狭さを掻い潜って)門を通過した心理的充足感の為せる技かも知れません。

この回答への補足

>門を通過した心理的充足感の為せる技
つまり、「達成感(もしくは、幸福?満足?)」ということでしょうか?
ただ、これに至れぬうちはどうなのかと…。
いえ、ひょっとすると、「茨の道を歩む事そのものが幸福である」という事でしょうか?
う~む…;

補足日時:2007/11/14 18:38
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この回答へのお礼

>"心頭滅却すれば火もまた涼し"
う~む…;なるほど…;
つまり、探求者にとって茨は茨ではないと…。
確かにそうなのかもしれませんね。哲学者も宗教家も、ある意味「おお!我が祝福の道よ」といって進んでる事が少なからずあります。

しかし、ニーチェさんの面白いところは、「何言ってんだい?苦しい道は苦しいに決まってるだろ?」と、現実を肯定した上で、さらに「それでも俺は進む」と言ってる所なんですよね。
でも、これってある意味、彼が超人(に近い?)から出来る事であって、一般人に薦めるにはやや荷が思いかと…。
では、一般人的視点に立った時、もしくは茨の道と認識していながら、それでもなお進もうとする猛者の心理とは如何に?
と、いうのが私の命題で御座います。

でも、ある意味、「認識を変える」というのは、実は意外と使える手なのかもしれません。
ありがとう御座います。
とても参考になりました。

お礼日時:2007/11/14 18:36

自分の思っている目的に到達したいという願望。


あまり深く考えて、苦難の道を歩む人は少ないでしょう。(保身行為が働きますので)
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この回答へのお礼

>あまり深く考えて、苦難の道を歩む人は少ないでしょう。(保身行為が働きますので)
なるほど…;
言われてみれば、たしかにそうかもしれませんね…;
しかし、それだと途中で気づいてしまった場合、やはり投げ出してしまうのでしょうか?

ありがとう御座います。
参考になりました。

お礼日時:2007/11/14 17:25

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