A 回答 (58件中11~20件)
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No.48
- 回答日時:
No.40のおまけです。
shift-2007さんのいちばん嫌がる極端に抹香臭い―― 一般に芝居としても 臭い演技に映るような――文章を ご紹介しておきましょう。こちらも たまには いいかも知れません。
《アウグスティヌスの息吹き》とも言うべき文章で これほどちからづよい言説をわたしは知らないと感じると同時に だれかかみくだいて説明してほしいと言わずにはいられないものです。
* * *
この世に対して死ななければ――もちろん 肉体が魂によって棄てられる一般的な意味での死のことを言っているのではなく いまだ死すべき肉体の中にとどまっているときにおいてさえ 選びによって心を上に向けている選ばれたものの死のことを言っているのであるが――だれもそのところに達することはできない。
そうした種類の死については使徒(=パウロ)は
あなたがたは死んだのであって あなたがたの命は キリストと共
に神の内に隠されているのです。
(『コロサイ書』3:3)
と言っている。・・・
なぜなら わたしたちは 未だそうした朽ちるべき肉体の中に組み込まれていても この世に対して死んでおり わたしたちの命はキリストと共に神の内に隠されているということが キリストの愛によって起こっているからである。
であるから 愛はまさにこの世に対するわたしたちの死を意味し 神と共にある生を意味する。なぜなら もし魂が肉体から出て行くときが死であるならば わたしたちの愛がこの世界から出て行くときがどうして死でないことがあろうか。・・・
(アウグスティヌス:『ヨハネによる福音書講解説教』第65説教)
* * *
フルクサイですよね。
もし とてつもないべらぼう話しをするなら わたしは 望んでもいないのに こういう死の世界へ押し除けられ それでも どういうわけか のこのこと ここに還って来てしまった人間です。
ですから 《かみくだいて説明してほしい》と言いましたが かなり実態としては わたし自身 読めるのですが それにしても こんな物語は とおりますか? 理屈は合ってますか?
>この世に対して死ななければ―
ここは自由でなければという意味ですよね?
それ以外はさっぱりです。
私は私の理解できるところから始めます。
過去の偉人には正直興味ないです。
ご回答ありがとうございました。
No.47
- 回答日時:
ご返答ありがとうございます。
No.41です。私が言わんとしたこと、既婚、離婚を持ち出したのは
並存しえない対立概念A・BにおいてAの状態であるとき同時にBであるとは言えない
というだけのことです。
つまり、Aの状態であるときのみを考察期間にするならば同時にBが現れないのは当たり前である。
ということです。このような視点からみて意味がないと私は思ったのですが。
すこし、視点を変えて書いてみます。
たとえば私たちは現在生きている以上、出産を経験したはずです。
しかし、その出産という事実を自覚的に体験していません。自覚していない以上出産は存在していないでしょうか。そうは言いません。
私たちが出産を事実としてとらえているのは、出産を経験したと私自身の自覚的体験でなく、私が世界の情報として知っているからです。
自覚的な体験でなく、情報、つまり私の自覚的体験以外のものでもって、事実としてとらえています。
私たちが直接体験しうるもの以外も事実としてとらえるのが私たちの事実・存在概念です。
自覚的に直接体験できないことと、事実として存在することとは別問題です。
生きている間は死なないといっても、高層ビルから飛び降りるでしょうか。ナイフで首を掻っ切るでしょうか。青酸カリを一気飲みするでしょうか。
普通しません。なぜなら、死ぬことを理解しているからです。自殺者はします。なぜなら、死ぬことを理解しているからです。
体験していなくても、本人にとって死が存在していることを他者の事実として理解し、そして自分にも事実であると理解しているからです。
私たちの死を避ける、死に向かう振る舞いこそが死が存在していることを示しています。
質問者さんも死にそうな行為は当然さけて日常生活を送っているかと思います。
歩道が赤信号の時に車道に飛び出したりしませんよね。
死を避ける行為を選択しているのに、私は死なないと言われても……と思います。
私にとって死は存在する、しかし私は死を生の経験として自覚することは出来ない、死は生における経験でない、
という書き方なら疑問に思うこともありませんが。
長々、申し訳ございません。これにて失礼させていただきます。
No.45
- 回答日時:
まず、論議がめんどくさくなるので
肉体と精神の「死」は同時だとあつかって・・・
(1)死後の世界がないと仮定するなら
(2)私にとって私の死を自覚できないので
(3)私は死なない
(1)(2)から(3)を論じるには「自覚できないモノは(私の世界には)存在しない」という事が前提条件ですよね?
という事は認識できない「私の死」という概念自体使えなくなります。
その場合(2)が論じられず、条件内でのパラドックスが生じます。
また「私の死」を考えている(3)も論じられません。
(1)(2)から導いた(3)によって(2)(3)が破綻することになりますね。
そして第一、
(1)で「死後の世界」の存在を持ち出し、
それが正しいとすれば、
これは自分が「他者の死」を認識している事の証明であり、
それにより「他者から見た自分の死」という概念が生じます。
つまり自分の世界ではなくなります。
さらに言うと
皆さんが用意に思いつくであろう
「私は(今現在は)生きている・死んでいない」
という表現も現在という時を表す概念、
つまり他者の視点が盛り込まれているわけです。
よって、
→「私は(今現在)生きている・死んでいない」
→「私は(私が生きている限り)死なない」
→「自分は死ぬ(自分は他者によって死を決定される)」
→「私は生きている限り(他者から見て)死んでいない状態にある」
という結論に達しました。(表現パターンはもっとありますがここでは一部だけ・・・)
無論、どれも”第3の視点を取り入れた上での言い回し”です。
ようするに
「私は”死”なない」と言うには「他人の死」の存在を認めることが必要あり、それを証明するには「第三者の視点」という概念がどうしても生まれてくるので、「”自分から見た”私は死なない」という表現は間違いである。という事だと思います。
長々と哲学かどうか怪しい事を語ってお恥ずかしい限りです
&既出でしたらすいません^^;
No.44
- 回答日時:
こんばんは、shift-2007さん。
お返事ありがとうございます。
●お題は回答する方によって変化しています。
二つの文を繋ぐ関係代名詞
題名があるのか?ないのか?と、そんなことを思い巡らしていると『題名のない音楽会』が思い起こされます。そういえば、長年司会を務めておられた羽田健太郎さん亡くなられましたね。日曜日の朝、TVをつけると軽妙なトーク、その後に流れる心地よい音の響き「ほら、朝だよ、聞こえてるかい」と、朝起き鳥が告げる朝の声のようにその日の始まりを教えてくれていたように思います。眠りと目覚め、その間を繋ぐ音楽の調べ、『題名のない音楽会』。亡くなった人のことを語るとき、いまはいないその人を何故だか思い起こしてしまいます。いないのに、そこにいるような気に…なる。知っているようで知らない、その人を…。他人の死ではなく私から見た私の死。他人の死を通して私を見るとするならば、他者の心の内に生きている。しかし、それは細切れに散らばった記憶の断片。ホントウの私を誰も知らない。この私でさえ、ホントウの私をまだ見たことがない。未だ見ぬワ・タ・シ。人は語る、思い思いに…。思い思いに想いを語る。想い想いに…。まるで、木にたわわに実がなるように、記憶の断片がその人を形づくっていく。♪~この木なんの木気になる木~♪と、『オーケストラがやってきた』とばかりに、山本直純さんも歌いだす。♪~おおきいことはいいことだ~♪音が響きあう。けれど、何処にも彼らはいない…。
後何日かで、成人式だ。
そのせいか20歳からは、未成年ではなく成人として社会の中で取り扱われるとついつい思いがちになる。知らないこといっぱい。結婚ひとつとってみても、未成年の内に婚姻届を出し受理されればその日から成人として取り扱われる。その未成年が20歳に達しない内に離婚したからとて未成年者には戻れない。成人として取り扱われていく。方や20歳を越えた者同士の婚姻は、お互いはじめから成人同士、離婚前も婚姻後もまた離婚後においても取り扱われ方は成人のまま。少年法が改正施行され、未成年として守られる年齢枠が狭ったと聞くけれど、身体の発育・精神の発育をよそに飛び級するかのような婚姻による成人としての取り扱いがある。
**************************************************************************
私にとって私の死を自覚できないので
私にとって私の死は無いという結論になりました。
別な言い方をすれば私は死なないとも言えます
**************************************************************************
未成年が婚姻をすると未成年ではなくなる。その自覚のないまま20歳に達する前に離婚をする成人は自身が成人であるという認識をもたない。未成年には戻れない。未成年はいない。そこにいるのは成人。同一の人物の身の上に起こるちぐはぐな事象。未成年として取り扱われる私はいない。私はいるが私はいない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A
http://www.numazu.to/~sz_gyousei/rensai/gaikoku/ …
http://www.bochao.jp/article/13144521.html
No.43
- 回答日時:
(1)死後の世界がないと仮定するなら
(2)私にとって私の死を自覚できないので
(3)私は死なない
(1)(2)から(3)を論じるには「自覚できないモノは(私の世界には)存在しない」という事が前提条件ですよね?
という事は認識できない「私の死」という概念自体使えなくなります。
その場合(2)が論じられず、条件内でのパラドックスが生じます。
また「私の死」を考えている(3)も論じられません。
(1)(2)から導いた(3)によって(2)(3)が破綻することになりますね。
そして第一、
(1)で「死後の世界」の存在を持ち出し、
それが正しいとすれば、
これは自分が「他者の死」を認識している事の証明であり、
それにより「他者から見た自分の死」という概念が生じます。
つまり自分の世界ではなくなります。
さらに言うと
皆さんが用意に思いつくであろう
「私は(今現在は)生きている・死んでいない」
という表現も現在という時を表す概念、
つまり他者の視点が盛り込まれているわけです。
よって、
→「私は(今現在)生きている・死んでいない」
→「私は(私が生きている限り)死なない」
→「自分は死ぬ(自分は他者によって死を決定される)」
→「私は生きている限り(他者から見て)死んでいない状態にある」
という結論に達しました。(表現パターンはもっとありますがここでは一部だけ・・・)
無論、どれも”第3の視点を取り入れた上での言い回し”です。
ようするに
「私は”死”なない」と言うには「他人の死」の存在を認めることが必要あり、それを証明するには「第三者の視点」という概念がどうしても生まれてくるので、「”自分から見た”私は死なない」という表現は間違いである。という事だと思います。
長々と哲学かどうか怪しい事を語ってお恥ずかしい限りです
&既出でしたらすいません^^;
No.42
- 回答日時:
死と眠りとは、よく引き合いに出されますが(もちろん本質的には全然違うものだと思いますが)要するに、この御質問は
睡眠中、夢を見ている私は夢を見ているという自覚がなく夢の中を現実だと思っている、あくまでその只中にある限り私にとって、その夢は現実なのだということを仰りたいだけのようですね。
>死後の世界がないと仮定
という前提から
そりゃまあ目が覚めない限りは現実だと思って夢を見続けるんでしょうけど。(たまに夢の中で、これは夢だなと気づくこともあるそうですが、これは例外として)
いえ、睡眠については触れましたが、夢に関しては一言も触れていないと思うのですが。
死後の世界が夢のような世界なら自覚できないかもしれませんね。
ご回答ありがとうございます。
No.41
- 回答日時:
私、死を既婚者、離婚に置き換えてみます。
離婚後の世界がないと仮定するなら
既婚者にとって既婚者の離婚を自覚できないので
既婚者にとって既婚者の離婚は無いという結論になりました。
別な言い方をすれば既婚者は離婚しないとも言えます。
他人から見た既婚者の離婚ではなく、既婚者から見た既婚者の離婚のみが問題です。
理屈の構造は同じですが、どうでしょう?
私には意味があるものとは思えません。
最初の回答に私の質問を選んでくれてありがとうございます。
ただし、このカテは変人ぞろいなのでご了承ください。
同じように見えますが違います。
なぜなら、既婚者は以前、独身だったからです。
既婚者は離婚により独身にもどり、私は離婚したと言うのではないでしょうか。
これを生死に当てはめると、生の前は何だったのでしょうか。
婚姻を出産に置き換えると分かりやすいですか?
この世に存在したときから既婚者であるなら離婚を知りえないでしょう。
これなら私の結論と同じですね。
ご回答ありがとうございました。
No.40
- 回答日時:
No.36です。
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私にとって私の死を自覚できないので
私にとって私の死は無いという結論になりました。
別な言い方をすれば私は死なないとも言えます。
他人から見た私の死ではなく、私から見た私の死のみが問題です。
理屈は合ってますよね?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これに対して 初めには この文章は 《息をしている限り わたしは 生きている》あるいは《受精が成る前までは わたしは 存在していなかった》という類いの当然の内容を言う命題であるのではないですかと お返ししました。
次には わたしたちの誰もが いわば《か弱い葦のごとく 生きている》情況を踏まえると この《わたしは死なない》という当たり前の言説も なにがしか意味あいを持つのではないかと 考え直してお応えしました。
その後 《死》の定義・判定の問題が起きました。(初めからあったのかも分かりません)。
★ 心臓が止まった遺体が目の前にあるとして・・・
☆ この事態で 認識すればよいのではないでしょうか。あるいは というよりも 《日本語では 〈死ぬ〉というふうに表現する》といったかたちだと述べたと思います。
社会的には・あるいは社会現象にあっては
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
存在論は理解しました。
ただ、他人の死をどう定義しましょうか、ということに対しては
・医師の判断に基づく
ということでよろしいのですね。
肉体だけでなく彼の自我も同時に死んだということでよろしいですか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ということになると考えざるを得ないと思います。
社会において是とされる死の判定は 文化と自然科学との綜合的な判断にもとづいてその基準が決められます。ですので いくらか変わりうるものであって その点 あいまいですが そのときの共同主観として 一定する限りでは 《不明》というわけではないと考えられます。《心臓が止まった遺体が目の前にある》という実際が誰もによって確認されているという現実です。
★ 肉体だけでなく彼の自我も同時に死んだということでよろしいですか。
☆ これについては もっと複雑でしょうね。哲学にとっては。
ですが こう問い返してみたい誘惑にかられるのですが。つまり 《彼の自我》といったものは shift-2007さんには 《不明》だということではないですか。不明であるなら 《死んだ》も《死なない》もないはづですから。
★ ####################
ただ、他人の死はどう考えればいいのかってことですが、
肉体が死んだのだから『死んだ』と言いたい所ですが、本当のところは『不明』ってことじゃないでしょうか。
例えば、逆に考えて他者の自我をどうやって確認しましょうか。
声をかけて返事が返ってくるかでは決められませんね。
生体として生きているのであれば、他者の自我も生きていると定義する以外現時点では出来ないと思います。
このあいまいさゆえに肉体が死んだときに彼の自我も同時に死んだのか疑問が残ります。
今のところ他者の自我は他者には確認するすべが無いんじゃないでしょうか。
つまり他人の『私』(自我)は生死問わず『不明』でどうでしょう。
####################
☆ 《自我》などは 《不明》でよいと思いますよ。確認する必要もないのではないでしょうか。
わたしの考えでは やはり《意志》の問題だと思います。たとえば 《おはようございます!》つまり《きょうも 明けました。ご機嫌いかがですか?》という意思表示 これで その人は 生きています。互いに 存在していると認め合います。それだけで充分ですし その人の人格が不明だということはないと思います。そして この意志行為の蓄積は 人生という歴史として 残ります。そういうことだと思いますが。
つまり 肉体も精神も その人格に納められていますし もしお望みなら 自我も そこに含まれているでしょう。
☆ 動かなくなり冷たくなった遺体を前にして わたしたちが 《わたしは死なない》という言葉を発しても まちがいではないという意味を持たせて それもおもしろいのではないでしょうかと述べていました。(不謹慎だという誤解をも生みますが)。
どうでしょう。どうですかねぇ。shift-2007さんに 何がひっかかっているのか 残念ながらわたしは まだ 見分け得ていないのですが。
いや、よく分かりました。
長い間お付き合いいただきありがとうございます。
たまにはこういうのもいいですよね。
またのお付き合いよろしくお願いします。
No.39
- 回答日時:
shift-2007さん、読むだけでもたいへんだね。
前の回答者さんに続き。違うかな。
あなたが死なないとか、死後とかいっているものが全部終わった後。
そこからあなたが始まります。とう終わらせるか、意識と意志で。
どんな意識と意志で。それはたくさんの先輩がいます。
こういうことについては、欧米は私達には参考にならないけれども、身近なら身近ほど、唸るほどの、素晴しい参考が。
関連して、≪自分に限り≫というような内容のこのような次元では無意味なフレーズとなります。自分は万人、万人は自分。
小さな一粒は、創造界全体。創造界の全体は今の、この一粒にある。
というものだと存じます。
だから、理念化した受け取りだが、犬死で結構。武士道は死ぬることにあり、そして心理の体認は生きている自分を死ぬ作業・勤行にある。
ということになるわけです。
難しい・・・
自分自身を律するために『死』を利用するのですね。
気持ちは分かります。
なので次のステップとして、それを否定しませんか。
ご回答ありがとうございました。
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