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死後の世界がないと仮定するなら、
私にとって私の死を自覚できないので
私にとって私の死は無いという結論になりました。
別な言い方をすれば私は死なないとも言えます。

他人から見た私の死ではなく、私から見た私の死のみが問題です。
理屈は合ってますよね?

A 回答 (58件中41~50件)

もうどえらい昔、小学生のころを思い出しました。

よくこういった考えにふけっていたものです。思い出させていただき、サンキューです。

>私にとって私の死を自覚できないので
>私にとって私の死は無いという結論になりました。

そうですね。理屈はあっていると思います。ただ、そういったスタティックな観方をするよりは、

死とは、「死の到来が、わたしの人生を無にすることであり、後戻りできないことに怯えること」そのことである、というダイナミズムがその本質であると、考えたりします。

>私は死なない
というより、やはり
「私は私自身の死を経験することができない」でとどめておいたほうがいいのでしょう。

この場合、「じゃ、理屈って何? 自覚って何?」と茶々を入れたくなる誘因を含んでいる点で、実りの少ない議論に落着する可能性が大きいですね。

ま、哲学的な解釈から人生論的な解釈まで幅広く解釈可能な点で、死ほど魅力的なテーマはないでしょうね。
世界はそれを知覚している私自信の統合のすべてである。私の死とともに私の世界は消滅する。死をはじめ、すべてのことは常にわたしの世界の中で起こるものである。よって、私のいない世界に私の死はない。

このような議論は本当に魅力のないものであると思いますが、如何でしょうか。
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この回答へのお礼

私は少々ダイナミズムってやつに飽きてしまったんです。
いってみれば『死』についてもうあれこれ考えるのはやめたいという気分です。
死ぬのが怖い、死後の世界はあるのか、輪廻は・・・・
あーめんどくさい、分かっている事実を並べただけでも十分納得できる答えが出るじゃないかってね。
死について言えばつまらなければつまらないほどいいです。
さっさと処理して次の議題に移りましょうって感じですかね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/05 01:40

#15さんが訂正してくれましたね。


感謝です。
無論、当初は正しく覚えていたのだろうが、
「門松ー正月」「一休ー一茶」という連想を必死でやっていたのかと思うと、わが無意識ながら健気でもある。(^^;)

「私の死」を私が考察することは無意味ではないと思うのですが、あくまで生への対比としてより語れないということなのでしょうね。
お詫び方々、どさくさまぎれに補足したりして・・・。
 
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この回答へのお礼

私にはザビエルの言葉といわれても納得する自信があります。

補足ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/05 00:44

これはちょっと区別が必要です。



世界があってもなくても
あなたの認識主体「私」が
あるのかないのか。

「世界」と「私」の区別をつけておく必要があります。

古代ギリシア哲学者のように魂の不滅性を考える人にとっては
この世界がなくなったところで、そして、あの世がなくなったところで

あなたの魂が存続する限りは何かを認識できるのではないでしょうか。

つまり世界のあるなしではなくて、魂の…それが宗教チックになると言うのなら、自我の存続性の可否を最初の問題にする必要があると思います。

それなら、
>私から見た死のみが問題です。
が適用できるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

魂の存在について、今現在分かっていることは「分からない」ということだけじゃないでしょうか。
死後の世界を否定はしませんが、分からないことを前提にするわけにはいきませんので無いとさせてもらいました。
肉体の死を自覚できたら死後の世界はあったんだなと思うだけなので、問題ないと思っています。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/05 00:38

死は存在しないというのはエピクロスも言っているのは前の人の書いた通り。

この主張はヨーロッパにも受け入れられて、アナトール・フランスなんかは「エピクロスの園」の巻頭にその文言を載せていますし、ショーペンハウエルなんかも同じことを言っています。
ですからまあ、この考え方はshift-2007さんにオリジナリティがあるものではないです。

その理屈を呑み込んだ上で、ちょっかいを出したくなるのが私(回答者)の性分というやつでしょうか。

まず、「私から見た私の死」は存在しない、これは正しいものとします。
そうすると考えなくてはいけないのは、「私」が「私」であると認められるのはどの範囲までか、ということです。
shift-2007さんは死を自覚できるかということを問題としていますので、自覚が条件になるのでしょう。
それを平たく言えば、生きているということになります。
(ここで、生きていることと自覚することは別だ、という議論ももちろん出てくるかもしれませんが、あくまで平たく)
つまり、「私は私であるのは私が生きている間だけ」ということです。
で、それを踏まえて考えると、本当の本当に厳密な意味で確実に言い当てている部分は、

「生きている間は死なない」

だけになりはしないでしょうか。
だとしたら、随分と陳腐でしかも確実なことに気づいたものです。

そもそも、「私から見てどうなのか」ということについては、往々にして「私の言ったもん勝ち」になってしまうので、他人がどう矛盾を指摘しようとそうそう覆るものではありません。
しかし、それが「私の独り善がりな妄想かもしれない」ということはいつまで経っても否定できないので。
私自身は、「私の自覚・感覚」なるものに全面的に信頼はしない人間なので、このような書き方になります。

※門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし、は一休ですね。
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この回答へのお礼

「生きている間は死なない」は面白みにかけますが、言ったもん勝ちは間違いないですね。
今わの際になれば新しい発見もあるでしょうが、今はこんなところが限界かなと思っています。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/05 00:26

「死後」の世界がないと仮定するなら、


「死んだ」私にとって私の死を自覚できないので(←正しい)
「死んだ」私にとって私の「死」は無いという結論になりました。(←正しい)

これならすんなり質問者さんが導き出した不死との矛盾が認定できるでしょう。
いくら死後の状態をならべたてたところで
「生きている私」の不死を獲得した証明にはならないのです。
すなわち

別な言い方をすれば「死んだ」私は「もう」死ぬことはないとも言えます。(←正しい)
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この回答へのお礼

やっぱり「私は死なない」というところがカンに触るのでしょうか。
たいして意味も無く書いたのですが、皆さんの反応を見ていると少し意外ですね。
もう少し説得力のある理屈にしたいと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/04 17:40

>死を肉体と精神にわけることが出来るなら、


>死にながら生きることも、生きながら死ぬことも可能

日和らないでいただきたい。

>死後の世界がないと仮定するなら、
を維持しなさい。
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この回答へのお礼

まあそんなムキにならなくても

お礼日時:2008/01/04 17:32

でも生きていないですよね。



死の反対は生。

死んでいないから生きている。

生きていないから死んでいるともいえるし。
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この回答へのお礼

私たちが問題にしているのは「死」ではなく、
関係の終焉ですよね。
私の仕事、私の車、私の恋人、私の家族・・・・
それらとの終わりを恐れているんじゃないでしょうか。
私たちが恐れているのは肉体の死ではなく、精神の死ですね。
死を肉体と精神にわけることが出来るなら、
死にながら生きることも、生きながら死ぬことも可能かもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/04 17:24

No.9です。

補足説明。
だから、それはあなたが意識するとしないとに関わらず、
死んでいないということを示さなければならないのです。
それとも、
ひどい認知症で自分が生きているとも死んでいるとも分か
らなくなったような人間のことをおっしゃっているのでし
ょうか?そんなのは論外です。
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この回答へのお礼

ちょっと?なんですが、

肉体が死んでいるのになぜ死んでいないと示すんですか?
どうやって?、そして誰に対して示すんですか?

お礼日時:2008/01/04 16:44

「正月は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠んだのは一茶だったと思います。


今さらとも思いますが、時宜的なお題を頂戴したということで参加させていただきます。

「私」という概念自体が「生」を対象にして発するしかないものだと思うので、その意味で「私は死なない」というのは正しいと言えるのでしょう。
水自身が「私は熱くない」と言うのと似ているでしょうか。
熱くなった時点で水は存在しておらず、しかも存在しなくなる瞬間というものを水自体が認識することは不可能ですから、「水はいつまでも熱くはない」と(水自身の言葉として)言えるでしょう。

そういうことで、「私から見た私の死」というのは想像するしかないということになり、想像するしかないことを断言するのはなかなか難しい、ということになるような気がします。
 
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この回答へのお礼

一茶もうまいこといいますね。

どうも客観というのは曲者だなと思います。
他人の死を自分に当てはめて、死ぬのが怖い、死後の世界はあるのかと悩み始める。
このQAで「客観性の限界と問題点」という新たなお題をいただきました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/04 16:24

あなたが「死んだ」あとで、別の世界からメールでも送って


来たら、あなたは死なないと認めましょう。
未だにそれが達成されていない以上(※)、あなたは死ぬのです。
否。人は死ぬ。あなたは人である。よって、あなたは死ぬのです。

※小学5年生の男子が死後の世界を証明するため、死んでから
 また戻ってくると遺書を書いて自殺した。しかし、彼はその
 後この世に帰ってきて両親や友人のまえに姿を現すことはな
 かった。すでに10年以上前の事件。
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この回答へのお礼

ごもっともですが、そういうことじゃないんです。

>他人から見た私の死ではなく、私から見た私の死のみが問題です。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/04 15:12

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