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タイトルのように「現代は軽薄なのだろうか」と思うことがしばしばあります。独断とも思われますが、その理由と思う例があります。

私自身がほとんど歌謡曲(J-POP)を聞かないほうなのですが、それでも時々は耳に入ってきます。その最近巷でかいま聞く歌謡曲にほとんど印象に残るものがありません。なぜかというと、歌詞があまりにも皮相的でオリジナリティに欠ける、別の言い方をすると凡庸である。最近20年位前のJ-POP(アイドル歌謡)を何気に聞いてみたのですが、その歌詞の完成度に舌を巻きました。あれはプロだなぁと思います。で、こういう強力な歌詞を一般的には求めなくなったのかなぁと。

市町村合併やら改変で新名称を募集するとき、いかにも安っぽい名前に落ち着いてしまう。それを採用してしまう。

やたらとカタカナ表記がはびこる。

その他、この傾向を感じることは山ほどあります。

理由として考えられる事は、とにかく民主化の悪影響があるかと思います。質の低いものもどんどん市民権を与えられてしまう。

かなり辛口の批評になってしまいましたが、どうも納得できないで生きています。なにか納得する考えはあるでしょうか?

A 回答 (6件)

納得は無理ではないでしょうか?


現実を受け入れるしか無いのだと思います。
私は、No,2さんのご意見に、ものすごく共感を覚えます。

歌謡曲全盛期に生まれ育ちましたが、
私も、もう長い事、まともにJ-POPは聞きません。
まぁ、TVやラジオで、流行の曲くらいは、なんとなく聞きますが。
まれに良い詞を作ってるシンガーも居ますよ。
NHK「プロフェショナル」のテーマ曲の「Progress」や
ニュースZEROのテーマ曲「春夏秋冬」などは、好きです。
スガシカオというミュージシャンですが。
歌詞って作った人の人生観とか人間性とかが表れます。
深みの無い人間に深みのある詞は作れないだろうし、
昨年、お亡くなりになった阿久 悠氏などは、
アイドル系の流行歌も作っていて、楽しませて頂いた人間ですが、
あんまり意味はなくても、ストーリー性や想像力を掻き立てる
面白さなども、あったように感じますね。

2年前くらいから、大卒20代後半の女性の面倒みてますが、
当初、あまりの精神的な幼稚さ、社会常識や社会的責任感の無さに
驚愕しました。少し神経やられたくらいです。
自分と引き比べるなら、
「私は15歳の時でも、今のこのコより、いろいろ考えてたなぁ」と
思いました。見た目は、決して変なコではなく、きちんとしてます。
また、れっきとしたオトナの女性のはずの年齢ですが「女のコ」としか
表現できません。
言われた事は出来るけど、逐一、注意や指示をされなければ、わからない、自分の頭でモノを考えるという事を知らない。
知恵や工夫といったコトバは、そのうち死語になるかもしれません。

そういう人種を商売のターゲットとしているわけですから、
人生の深みとか、情を分かち合うような歌詞を訴えたところで
理解も出来ないだろうし、売れもしないんじゃないでしょうか?
一応、恋愛や結婚には興味があるみたいなので、
そのテの軽薄な歌詞になるのは致し方なし。
私には、20代後半にもなって「なんで料理をしようと思ったんですか?」という質問をする事自体が理解できなかったし、
それでいて「料理の出来る男性がいいなぁ」と言う矛盾さは
全く理解できなかったし、
いろんなストレスにさらされ、稼いで、食事の支度まで期待される
男性諸氏は、お気の毒だな、としか思いようがなく、
まぁ、納得しようなんて、
浅はかな考えは捨てたほうがいいと思います。

私も、普段、いろんな疑問や矛盾を感じまくってますよ。
まぁ「無責任」の一言に尽きる気がします。
「責任放棄」をしている人種が30%、
「自己責任」の母国語すら理解できない人種が50%
残りの20%が、なんとか日本を持たせてるって感じかな?と
漠然とした個人的な感覚ですが・・・・。

早く自分で自分の首を絞めてるって事に気づいて欲しいですが、
もう無理かもしれないなぁ、とも思ってますね。

「軽薄」ってコトバで、表現しきれるものなのだろうか?という気も
いたしますが・・・・。

この回答への補足

ご指摘になった人物の言動
「なんで料理をしようと思ったんですか?」
「料理の出来る男性がいいなぁ」
実は、私も「何でなろうと思ったか」と聞くのは、それほど違和感はないですね。聞く前にいろいろ、自身の体験とか、その人物の雰囲気で想像してからにしますが。しかし、下の言葉とセットとなると、やはり「人のことを何も想像する力がない」という感を抱かざるを得ません。表面だけをなでているのがコミュニケーションだと思っている。そもそもその奥に行く力も想像力もないということでしょうかね。

思うに、流行の歌詞が表層的だと思うのも、昔の歌詞というのは、「ストーリー性」があったんですね。いかような語り手がこういう状況でどうこう・・・という。そういう7変化みたいなものを、選んだ言葉から十分に発散させてイメージを最大限まで広げている。そういう、心の技法と言葉の技法の協同作業だったのではないかと。それが今はほとんどなくなってしまった。饒舌ではあっても、いかにも貧相なストーリー性しかしたがっていないというのが、標準になってしまっているのではないだろうかと感じます。

補足日時:2008/01/12 23:15
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。
ご論旨はもっともで、そうだったのかやっぱり!という感覚を素直に持ちます。
この質問をしたのは、ちょっと古いアイドル歌謡を何気なく聞いていて、何だコリャ!すばらしいじゃないか!と感慨にふけったわけです。けっして深みとか人情が厚いという類じゃなく、若い女の子の何気ない気持ちを大の男が作ったやつですが、その言葉遣いの巧みさとか、何気なく張られた技巧の数々、そういう「ああこういうのが歌詞っていうもんだよ」という再確認をしたんです。
やっぱり教育なんでしょうかね。ご指摘の人物は、やはり平均的な若い世代を代表するような感じなんでしょうか?なにかあまりそうでもないなぁという気がするのですが、やはりですか。どうも細菌の流行歌(とかいろいろな製品、サービス)は、果たして人間の質に合わせたものなのか?でも多分そうなんでしょうね。いいものをいいともあじわう鑑賞力も失われているんでしょうかね。
インターネットに代表されるように、実にくだらない素人のたわごとが活字に名っていしまうということ、そういう低質なものがしゃしゃり出ることを許されてしまった社会というものが、どういう意図で作られたのか(あるいは無意図?)と疑問に思い続けております!

お礼日時:2008/01/12 21:52

お礼コメントありがとうございます。


過去にも、いろんな後輩の面倒も見てきましたし、
おっしゃるように、このコより年下でも、ちゃんとしたコも居ますよ。
でも、私には、高等教育を受けて、こういうオトナが育ってる、
というのは、大きなカルチャーショックでした。
たまたま、出逢っただけで、他にも存在すると思われますし、
(このコ曰く、みんなそうですよ~、らしいです)
このコは、一応、職に就かなければいけない、という事が
わかってるだけでもマシなのかもしれません。
この延長線上に、ニートや引きこもりが存在するんだな、
と分析しました。

驚いたコトは他にもあり、30代半ばの子供も居る主婦ですが、
手が濡れるのが嫌、という事で、食事とか、どうするの?と聞くと
全てスーパーのお惣菜なのだとか・・・・。
「へっ???」って感じです。
だってパートで来てて、そんなにハードな仕事でもないんですよ。
私は食育ってあるなぁ、と、このテの人種に遭遇して思いました。
親の家庭教育だと思います。
以前から、子供がキレやすいのは、砂糖の取り過ぎだ、などという
栄養管理士さんの言葉などは、聞いたことありましたが。

私は親に逐一、料理なんて教えて貰った経験ないです。
でも、私の母はフルタイムで働いてたけど、
出来合いの物や、冷凍食品なんて食べたコトなかったし、
ちょこっと手伝う中で、何を使ってるかも自然に学ぶし、
私の場合は父が食べ物にこだわり派でしたが、
決して贅沢なモノや高級な店に行くわけでもなかったけど、
食べ物を美味しく頂く工夫というのは、自然に身についてました。
勿論、本などでも、より美味しく頂く為に勉強もしましたけど。

何より舌が覚えてるんですよね。
私は食べ歩きも好きだし、仕事してると忙しい時には
いつからか、たま~にお惣菜を買うコトもありますが、飽きます。
食べる事は、生きること。
食べる事が好きで、食べ物に拘る人間は、
だいたいエネルギッシュに生きてる人が多いです。
これは、仕事で出逢った人達を見てて、以前から感じてました。
料理って想像力が必要なんですよ。
今、あるモノで何が作れるかなぁ、とか。
料理研究家の方たちの想像力って、スゴイな、と思います。
「え~っ、コレとコレ合わせるの?ウソっ~!!」って思っても
実際、作ってみると、すごく美味しかったりする。

この後輩の「なんで・・・・」発言には続きがあって、
「だって買った方が早いし、安いじゃないですか」と言われました。
あとですねぇ、私たちの職種は、お客様に生活提案をする仕事で
(ちょっとわかりにくい?)キッチンなども扱っているのです。
だからこそ、なおさら、料理もしないで、
こういう職種に就くことも理解できず、幼さを感じてしまうのです。

私に言われてから、少しチャレンジする気になったみたいですが、
なんと炒め物で、火事を起こしそうになったと聞き、
ホントに火事になったら、近所迷惑だから、
揚げ物はするな、と言っておきました。
コレって職場の先輩が教えるべきコトでは無いと思うんですよね。
過去、先輩方とはレシピの情報交換とかは、していましたが。

全く、質問の回答とかけ離れてますが、
こういう現実を知ったら、納得しようなんて思わなくなりますよ。
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この回答へのお礼

想像力の欠如が一般化しているということで、出来合いの惣菜とかインスタントがはやっている昨今なのでしょうかね。いわれてみれば料理は想像力です。日々芸術しているようなものでしたね。
生の状況をご紹介いただいて、非常に参考になりました。

お礼日時:2008/01/14 08:55

私自身、昨今の大合併によって生まれた新しい自治体名などに「なんだかなぁ…」と感じることは良くあります。


ただ、それが本当に、「安っぽい」のか、「軽薄」なのか、と言うとちょっと疑問を感じる部分もあります。つまり、私の感覚としては「安っぽい」と思えても、他者にとってはそうではない場合は多々ありますし、また、「何をもって安っぽい、軽薄とするか」と言う基準そのものが時代によって変化するものだからです。

判りやすい例で言えば、浮世絵です。
浮世絵画家、例えば、葛飾北斎であるとか、安藤広重であるとかは、現在では「偉大な芸術家」として美術の教科書や、歴史の教科書にすら顔を出すわけですが、当時の評価はどうだったか、と言えば、「軽薄なものを描いている人物」に過ぎなかったわけです。現在でいうと、イラストレーターみたいなものでしょうか。仕事として、必要なことは認められても、決して尊敬されるような存在だったわけではありません。その作品の扱いも非常に悪いものでした(だからこそ、輸出品の緩衝材として古い浮世絵が使われ、それが欧州でゴッホなどに影響を与える結果になったわけですが…)
同じような例で言えば、文豪・夏目漱石は、一高を出て教職についたのにそれを蹴って、小説などを書き始めた軽薄な変人でしたし、また、石原慎太郎氏は、エログロ小説を書き散らしていた有害図書作家に過ぎませんでした(当時の評価は)
軽薄である、とか、そういうものは、時代によってまず変わってしまうのです。

それから、質の低下、に関してですが、質問者さんは、「たまに耳に入る現在の歌謡曲の歌詞は印象に残らない凡作ばかり。昔のものは良い」と仰っていますが、ここには大きな見落としがあります。それは、比較対象が間違っている、と言う点です。
20年前でも30年前でも50年前でも良いのですが、その頃から現在まで残っている作品、というのは、当時の作品の中の「選りすぐりの傑作である」と言うことです。当時だって、何百、何千、何万と言う駄作はありました。しかし、それらは時代の経過と共に消え去って、当時の傑作が現在に残っているのです。その前提を忘れ、当時の傑作に劣るものが多いから現在の質が低下した、と言うのは暴論に過ぎません。
先日、手塚治虫氏の全集というものを読む機会がありました。手塚氏と言えば、日本のマンガの父と呼ばれる偉大な漫画家で代表作には事欠きません。けれども、全集に収録された作品を読むと、実にくだらなく、実につまらないものが多いのです。しかし、その多くの駄作の中から傑作が生まれ、現在にそれらだけが残っているわけです。音楽にしろ、何にしろ、同じではないでしょうか?
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この回答へのお礼

長文のご回答ありがとうございます。
作品の評価は状況によりけりということ、まったくその傾向はあります。つまり、どう評価するか、作家の意図を離れて、傑作だったり駄作だったりしてしまうし、浮世絵など、本来ありふれたもの?が過大な評価を受けるという気まぐれもあります。
しかし、前半出していただいた例は、それを生み出すに当たって、非常に鍛錬したわざと教養を要したのではないでしょうか?その点が、昨今の軽薄?な地名とは一線を画するように思います。
歌謡曲の例ですが、私があまり聞かないせいか、トンと聞いたこともないようなマイナー作品を偶然聞きまして、素晴らしいなと感じたしだいです。もちろんメジャーだったのかもしれないですね。でも、現在ヒットしているものをかいま聴いて、こりゃちがうんじゃないか?という感覚があるんです。四半世紀のときを経て、同じ番付同士が土俵に上がってみると、随分様相が違う。勝負になるのか?と。

分析してみれば、作品傾向が違って、プロにしかかけない詞か、そこらへんの凡人が妄想したものかというものが歴然としているようです。そんな気がします。

当時の駄作を多く当たる必要があると思います。

お礼日時:2008/01/08 09:36

貴方が社会の軽薄化の原因と考える「民主化」は、戦後60年以上大して変わりませんし、20年前の民主主義システムと現在の民主主義システムの変化といったら、中選挙区が小選挙区・比例代表並立制に変わった事位でしょう。

これは、政界再編と言う意味では大きな変化でしたが、この変化の前後で民主化前・後と呼ぶのは無理があります。それよりも、市場の自由化の方が遥かに大きく社会変化の原動力となってるのではないかと思います。ここ十数年と言う時期は、インターネットの普及やテレビの多チャンネル化等、メディアの種類と受信側の趣向が劇的に細分化された期間です。細分化された趣向に従ってニッチ化した配信物が幅広く広がった結果、質の面でのケアが行き届かず、奥行きが浅くなってしまっているのが現状でしょう。例えば、テレビ番組を例に取りますと、1970年代初頭の某人気番組が視聴率20%を切った段階で打ち切られましたが、現在で視聴率20%弱程度ならば、打ち切りなど考えられない大人気と言えます。TVアニメでは視聴率5%でも大健闘と言われているのが現状です。逆に、昔は良く作り込まれた良い物が多かった反面、選択肢も少なかったのは事実でしょう。「本当はそれ程好きでも無いけど、他に比べればまだ自分の趣向に合っている」程度の受信者も人気のパーセンテージに含まれていた訳です。質の高い物の比率は高かったが、顧客の要望に答えているとは必ずしも言えない、と言う状況です。どちらが良くて、どちらが悪い、とは一概に断定出来ないと思いますが、物作りに携わる人間としましては、ゲリラ的にでも芽を出す機会が豊富な現在の方が暮らしやすいですね。「玉石混交」ならば、石が多くなった分だけ玉も増えると期待する事が出来ますし、「水清ければ魚住まず」とも言います。繁栄の原動力は何と言っても寛容です。
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この回答へのお礼

私も、政治よりも市場が大きいと思います。言い方を変えれば、心よりも物が効いたということで、副作用あるいは副産物として、バランスを取るように精神の低下があるんでしょうかね?
人間の質というのは、個人でも集団でもある容量があって、その入れ物の形が、そこが広く高さが低いという、巨大な子供用プールが出現したかのような様相です。選択肢を広げる事は必然なのかもしれませんが、あまりにも質に無頓着だったのではないか?というか、市場性がそのように流れた、低質は必ずしも市場を滞らすことなく、むしろ加速した?

疑問はクリアーになってきたのですが、ますます「どうするのどうなるの?」という思いが強まりますね。

私自身そんなに上質な人間じゃないですが、こだわりが激しくて、どうもこの手のアレルギーが消えません。

お礼日時:2008/01/07 10:55

先日、カーナビを使って御殿場、箱根を5年振りに訪れました。


そうしたら、以前、カーナビなど無くても覚えていた道を、かなり忘れていて愕然としました。
今、携帯は、通話料の関係で、メールを使うことが多いようですが、携帯のメールは一度に表示される語数も少なく、省略した表示になってしまいます。
そう考えたら、ここ最近の新入社員は、自分で考えて判断するということが出来ない者があまりにも多いです。

今の生活は、非常に便利になり、深く考えなくとも普通に便利に生活していけるようになりました。
その代償として、思考能力が低下しているのではないでしょうか?
ですから、漢字の、言葉の意味を理解するということすら出来なくなっているのではないかと思います。
民主化云々ではなく、思考能力が退化して、難しいこと、物事を深く考えると言うことが出来なくなった結果だと思います。

ちなみに「日本」は、日いずる国、日の本の国、天照大神のおわす国と言う意味で、1000年以上昔から使用されていたもので、決して安直に付けられたわけではありません。
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この回答へのお礼

もっともだと思います!ご論旨は私がもっとも知りたかった事です。そのような原因が考えられます。
こうなる事は分かっているのに、事前に止めようとも思わなかった為政者というのは、どういう感覚なのかさっぱりわかりません。
便利なものは便利でもよいわけですが、それが教養を奪ってしまうように野放しにしてしまうということは、人間の中身に問題がある。そもそも、不便を強要されないと、まともにならないというジレンマは容認しがたいものです(事実でしょうけども)

お礼日時:2008/01/07 10:47

そういうものも社会の内だと割り切るしかないんじゃないでしょうか?


価値観は個人によって違いますし。

安っぽく感じるのはまだまだ歴史が浅いからじゃないでしょうか?

確かにカタカナ表記が流行って、市町村の名前までカタカナにしてしまう所もありますし
ネーミングセンス
もともと漢字(元は中国語)を使って、「日本」なんて安直な名前がついた国ですが、
日本における漢字には歴史があるし、日本という名前にも歴史があるから重みもあるのだと思います。

また確かに質が下がっていると感じることもありますが、質が悪いものは悪というわけではないという理論もありますしね。
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この回答へのお礼

語論旨はいかにもだと思います。
伝統がよしにつけあしきにつけ、重みと価値観を与えてしまう事は間々あります。質とはとりあえず関係なく。

しかし、往年のネーミング姿勢と、今日のものは、その姿勢が違うのではないでしょうか。そもそも、地名などもっとも考慮してしかるべきもので、軽率なものを検閲しないという事は常識も分かっていないのでは?という感を抱きます。

お礼日時:2008/01/07 10:44

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