南郷継正について知っていたら教えてください。また、かなり批判も出ているようですが、どんな情報でも結構です。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

 私の三番目の回答で、ご紹介させて頂いた元玄和会会員の方のブログ名は、「ー心ー」でした。

このブログの中の一つの記事の件名が、「南郷継正の洗脳術」ではなく、「南郷継正にみる洗脳術」でした。記述の正確さに欠いてしまい誠に申し訳ございませんでした。ここに慎んでお詫び申し上げます。

 ついでと申し上げては何なんですが、長い間、高橋洋一氏の理論については賛否両論ありましたが、玄和会のオープントーナメントの開催によりはっきり結果が出てしまいました。その高橋氏も既に表舞台から去って行かれました。もう過去は、忘れていい頃なのかもしれません。新しい時代が幕を開けようとしているからです。

 私が、ここに書き込みをすることも、もうないと思います。皆様方がこれから歩んで行かれる武道修行の道が、光に充ちている事を心よりお祈り申し上げます。
    • good
    • 3

 一昨日、Youtubeで、久し振りに玄和会の動画を見ました。

驚いた事に、オープントーナメントの動画でした。見たところ、ローキックありのものとローキック禁止のもの二種類のトーナメントがあるようでした。また、ローキックありのものも、胴を着用したものと胴を着用せず、スーパーセーフの面だけを着用して行われるものの二種類があるようでした。

 正直申し上げて、以前見た玄和会の組み手試合の動画はかなりひどいものでしたが、こちらは他流との交流のおかげでしょうか、随分とまともなものになっていました。

 ただ、実力に関しては、まだまだのようで、他流の大した実力のない選手に勝てても、他流の例えば練武会の一流選手には、まだ歯が立たないようです。

 高橋さんは、随分前に師範の座を退かれたと聞いていますが、その後、玄和会は随分と風通しのいい組織になったのかもしれませんね。ともかく、オープントーナメントを実現なさった現玄和会の指導部の方には、心から拍手を送りたいと思います。

 まあ、高橋さんに言わせれば、今の指導部は他流との交流に精を出す「枯れ枝諸公」という事になるのかもしれませんが・・・・・・

 でも、「武道の理論」の初版が刊行されたのが1972年ですから、いくらなんでも、もう他流と交流して、その理論の有効性を問うべき時に来ているでしょう。そして、その結論も出たようです。一つの歴史が終りました。(2013/2/6 現在)
    • good
    • 0

 またまた、昨日回答させて頂いた者です。



 玄和会を退会なさった方が、お書きになっている「南郷継正の洗脳術ー心ー」blogs.yahoo.co.jp/ph_seiji/22808068.htmlというブログもあります。こちらは、ご覧のとおり、高橋さんにかなり批判的な方の書かれたものです。ある程度、(ときどき思いっきり)バイアスが掛かっていますので、それを覚悟でお読み下さい。こちらは、玄和会内部にいらっしゃった方がお書きになったものなので、お読みになれば、ある程度組織内の雰囲気のようなものが、把握できるかもしれません。

 因みに、高橋さんの奥様は、看護学の権威で、薄井担子(うすいひろこ)さんと仰り、現宮崎県立看護大学の学長さんです。

 高橋さんに対する評価は、極端に分かれています。彼を神のように崇拝している人たちと蛇蝎の如く嫌い厳しく批判している人たちの両極端が、存在しているんですね。

 ついでですが、彼がその著書の中で展開した「技を創る⇒〈技の使い方〉を創る⇒技を使う」と同じ構造を持つ修行体系は、伝統的な柔術や剣術、或いは沖縄の古伝空手の中に、普通に存在しています。ただ、その呼称が違うと言うだけで・・・・・・。それを、あんなに大上段に振りかぶって、書く必要があったのかな?というのが、わたくし個人の感想です。

 またまた、因みにですが、「技」という漢字は、古式の拳法では「わざ」とは読まず、「ぎ」と読み、長い歴史の中で洗練された必殺技の事を言います。高橋さんが言うところの「技の使い方」ですね。高橋さんが言っている「技(わざ)」というのは、古式では単に「基本」と呼びます。
    • good
    • 1

 先ほど、回答させて頂いた者です。

高橋洋一さんの、ご出身大学は、法政大学だと書きましたが、これは滝村隆一さんのご出身大学でした。お二人は、以前、親交があったようなので、私が混同してしまったようです。大変失礼致しました。確か、私の記憶が正しければ、高橋氏は、埼玉大学のご出身だったような。

 さっきああ言った私が、著しい事実誤認をして、どうするんでしょうね?ホントにお恥ずかしい。(>_<)

 ま、私は、高橋氏と違って、体系なんか作ってませんから、ご容赦下さいませ。(*^_^*)
    • good
    • 0

 高橋洋一さん(ご本名)は、宮崎のご出身で、法政大学で学ばれたと聞いています。

空手の流派は、元々は松濤館流で、後に祝嶺正献先生の玄制流を学ばれたそうです。

 実力は、うーん。ある人の話によると、参段くらいの実力があったらしいですが、そろそろ80歳におなりなるので、どうでしょうかね?

 ウィキペディアで、「南郷継正」を引くといい事しか書いてありませんが、「防具付き空手」で引くとありのままの現状が書いてあります。

 一番いいのは、お弟子さんたちがやっていらっしゃる防具付きでの組み手試合とその他の団体、例えば練武会や少林寺流空手等の試合をYoutubeなどで、比較なさる事じゃないでしょうか?試合じゃなくても、少林寺拳法の防具乱取りの動画と比較なさっても結構です。ご自分の目で、お確かめになれば、彼の理論が本物かどうかが分かると思います。

 高橋さんの事を詳しくお知りになりたければ、無門会の創始者、富樫宜資先生の『富樫宜資自伝 ─ 極限の空手道』(福昌堂刊)をお読みになると、よろしいんじゃないでしょうか?富樫先生は、高橋さん主催の玄和会とは無関係の方だし、何より直接お会いになっているわけですから、高橋さんの事を判断するには、一番客観的な資料になると思われます。

 
 高橋さんの著書「武道の理論」は、三浦つとむ先生の「弁証法はどういう科学か」を下敷きにして書かれていますが、高橋さんが師と仰いでいた三浦先生は、最後まで高橋さんが書かれたものをお読みにならなかったそうです。これも、ちょっと意味深ですね。

 三浦先生の「弁証法はどういう科学か」は、ヘーゲルの「小論理学」の補遺の部分を随分下敷きにして書かれているようです。この補遺は、ヘーゲルが大学で講義したものを書き取ったノートが元になっているそうです。それで、素人にも分かりやすい説明になっているんですね。

 ただ、ヘーゲル自体は、あるロシアの数学者から、「ヘーゲルは、事物が時間との関係において、螺旋状に発展すると述べているに過ぎない。」と評価されています。彼はヘーゲルを批判していたわけではなく、「この宇宙の螺旋的な発展性は、誰でもわかることだよ。ただヘーゲルは、それを述べているだけだ。」と言っているんですね。つまり、ヘーゲルの弁証法を不当に高く評価する必要はないと言いたかったんですね。

 美しい体系の理論を読むと、ついその体系自体の美しさに幻惑されますが、その体系を創り上げた人が、著しい事実誤認をしていた場合は、全体系が嘘になってしまいます。その点は、十分ご注意下さい。

 
 わたくしは、この回答をあくまでニュートラルな立場で書いたつもりです。後は、ご自分で、直接、書籍なり、動画なりでお確かめ下さい。ご友人で空手か拳法の経験者の方がいらっしゃれば、その方とご一緒に動画をご覧になっても、よろしいんじゃないでしょうか?

 こんな説明でよかったですか?
    • good
    • 2

こういうのはどうですか?



参考URL:http://www.hoops.ne.jp/~izayohi/kougi.html
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q表に出す情報と裏にしまっておく情報

噂話などで、あの人はどういうことがあるないということを言っていて、会話している当人同士の関係性はもちろんあるのですが、そのときに、これは知っているけども公開するべきだとか公開すべきじゃないとかいう価値判断が問われる場面がありますね。例えば、あの人は障害を持っているとか、悪癖があるとか、養子だとか、一般的に、ちょっとさらっとした会話で口に出すのがはばかられるような事があります。しかし、この価値基準というのは、いったいどうやって生まれるのでしょうか?世間一般に拡大しても、この価値基準は普遍的にあって、「明るく公開すべきもの、暗くて基本的には伏せておくもの」という、ほとんど無意識的な規制のようなものが存在しています。この規制の

※発生原因
※価値基準の作成基準システム

のようなものをどう考えたらよろしいですか?
それからなぜ、こういうものは暗い、こういうものは明るい話題だという、価値観が生まれるのでしょうか?下衆な宇宙人にとっては、障害があるなんていうのは最も賛辞されることかもしれませんよね。

Aベストアンサー

「暗い/明るい」という感覚は、ある事柄に関して、「人間としての可能性が収束傾向にあるのか、あるいは増大する傾向にあるのか」ということに対する判断の結果ではないかと思います。
ここで、人間としての可能性とは何かということが問題になります。
物的な面での豊かさが喧伝される(あるいは顕著な)現代においては、資本の蓄積能力がその可能性の基準として圧倒的優位を保持しているように見えます。
当然のこととして、強いもの、速いもの、正確なもの、均等なものetc.が可能性としてクローズアップされます。
弱かったり、遅かったり、不正確であったり、均一でないものは可能性に逆行するものとして排除されがちでしょう。
ただ、これらは概ね非常に表層的な判断に基づいたもので、何より本質的には全ての人間が(外面的であったり内面的であったりしつつ)抱えている要素でもあるはずです。
にも拘らず、その自他共の本質と対峙するのが面倒なので(あるいは怖いので)「>基本的には伏せておくもの」という規制を働かせることによって、表層的な要素だけで様々な判断をしたがるのだろうと思います。

いずれにせよ、こういった感覚は非常に狭量なものと言えるでしょう。
最大の可能性の収束は(肉体的であれ精神的であれ)展望の皆無状態だと思いますが、現代人は、あらゆる方面に対する展望を幅広く考慮する能力を獲得する進化段階には未だ至っていない、ということになるのではないかという気がします。
 

「暗い/明るい」という感覚は、ある事柄に関して、「人間としての可能性が収束傾向にあるのか、あるいは増大する傾向にあるのか」ということに対する判断の結果ではないかと思います。
ここで、人間としての可能性とは何かということが問題になります。
物的な面での豊かさが喧伝される(あるいは顕著な)現代においては、資本の蓄積能力がその可能性の基準として圧倒的優位を保持しているように見えます。
当然のこととして、強いもの、速いもの、正確なもの、均等なものetc.が可能性としてクローズアップされ...続きを読む

Q批判精神がありません。でも、欲しい。

 私は、批判精神をあまり持ち合わせておりません。例えば、社会学者の宮台真司さんの本を読んでも、うなずく事は多いのですが、これはオカシイと思うことがありません。私がこれは違うのではないかと稀に批判できるのは、例えば、正高信男さんが書くような『他人を許せないサル』のような自身のイメージを調べもせず世間に迎合するような文章を書き、他者を陥れ、自己が正しいという枠を強化するだけの本です。
 先日、東浩紀さん、大澤真幸さんの「自由を考える」を読みましたが、ヘェーと発見・納得する事があっても、ここは違うのではとは思えませんでした。おそらく、私のような読者はこの文章に上げた学者に「何も考えていない」典型人物なのだと思います。どうすれば、批判精神が身につくのでしょうか?それとも、私の知識不足とリテラシーのなさが原因なのでしょうか?
 批判精神がないということは、私という固有性が疑われて、今後の生きる気力がなくなります。アドバイスをよろしくお願いします。

Aベストアンサー

人間の傾向としてよくあることなのですが、ある情報が与えられた時、それを受けて判断するにあたって、最初にまずその情報をそのまま頭の中で反復するので、その時にそれが間違っているかもしれないという可能性について考えない場合は、批判せず鵜呑みになってしまうのです。
先入観として持っているものを覆すのが難しいので、なかなか批判できないでいるのでしょう。

ですから、例えば一つの重要な文章を取り出してみて、それに否定語をつけて反対の意味にして口で反復してみる、というのは批判のために役立ちます。
反復してみて、考えてみると、「あれ、反対でも正しいんじゃないだろうか」とか思えてきたりすることもあるかもしれませんよ。初歩的な批判精神というのは、こういうので芽生えます。

しかし、批判というのは、何もたたき台にあがっているものを悪く言うことだけが能ではないと想います。正当に評価することこそが批判なので、もし悪いことがないならば悪いことが見当たらないと堂々と言うことも立派な批判だと私は思います。
他人の言っていることを腐してばかりな人の固有性なんて、大したことないと思いますよ。

人間の傾向としてよくあることなのですが、ある情報が与えられた時、それを受けて判断するにあたって、最初にまずその情報をそのまま頭の中で反復するので、その時にそれが間違っているかもしれないという可能性について考えない場合は、批判せず鵜呑みになってしまうのです。
先入観として持っているものを覆すのが難しいので、なかなか批判できないでいるのでしょう。

ですから、例えば一つの重要な文章を取り出してみて、それに否定語をつけて反対の意味にして口で反復してみる、というのは批判のために役...続きを読む

Qこの批判の姿勢についての批判をお願いします。

批判するときには相手の受けていれているドグマ、相手の自己矛盾などなどを基盤として、、、つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。
同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。
そうでなければお互いが自分の宗教論争と同じく、全くもって何も産まないものとなってしまう。

私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。もしかしたらアタリマエのことかもしれませんが。

これに対して批判があるとすれば問題点の指摘からお願いします。ただ、問題点の指摘の最後にはよりよりと思う批判のあり方について書いていただけると助かります。

Aベストアンサー

No20です。
再回答です

まず確認します。
「相手の土俵に立つ」

このフレーズの意味を一番詳しく述べているのは、No19さんに対する「この回答へのお礼」の欄の中の記載でよろしいのでしょうか。
下にそこの箇所を引用します。

No19さんの回答より
「同じ土俵に立つ、などといわずに、相手の基盤なりを十全に理解する、…(中略)…だめでしょうか」

314hさんの「この回答へのお礼」の欄より。
「(1)いいとは思いますが哲学的批判すべてについて当てはまる姿勢を追及したいと考えています。(2)例えば相手が100個の考えを述べたとしても先ほど上げたように最初の2つがすでに矛盾していて、それと次の3つの考えを元に他の95の考えが構成されていたとします。(3)そういった場合批判するにおいて最初の2つで十分となりませんか? (4)そういった批判においてはあなたが先ほどおっしゃった、十全に理解というのとは少し齟齬が生じる可能性のある言葉となるような気がします」

主に(2)(+(3))で示される内容が「相手と同じ土俵に立つ」ですね。
言い換えると、
「相手の考えのうちのごく一部の問題点をベースにする姿勢を、そしてそれだけを「土俵に立つ」
と表現していたということになり、そしてそれに(1)の内容を加えたのがこのスレッドの質問文になると考えてよいのですね。


だとしたらこのスレッドにおいてこの解釈が314hさんの中でぶれています。
それがいちばん分かりやすいのはNo7さんとの質疑においてです。
以下、説明します。



No7さんは、
>相手の土俵に立つ必要はないと思います。
と仰っていますが、その次の文では
>相手の土俵を一部(もしくは全部)包含していればいいと思います。
と述べています。

No7さんがお書きになった前の文が否定文となってしまったのは、単に314hさんが土俵について明確な定義をしなかったためなので、後の文だけに注目します。するとNo7さんが意味されたであろう「土俵」についての考えは、上述の314hさんの「土俵」の考え方とほとんど変わるところはありませんね。

そしてその説明なのですが、No7さんへの「回答へのお礼」の欄では、「土俵」とは、「世界のうちにあるもの」であり、「世界観」という言葉で表されるものであり、「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」、と述べていますね。さらにもう少し後では、「霊能者(などの特殊能力者)は除外して考える」旨の記載もあります。

この中で「世界」、「世界観」とは多義的な言葉であり、実際はその内容についての説明を要するものです。したがって文脈上はこれらの文の後に続く箇所、すなわち「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」という箇所、つまり「古の多神教世界、あるいは現在の世界宗教である二つの一神教を信奉する人類の中で、霊能者などの特殊能力者以外の人間に共通した世界」、あるいは「それらの人類に共通で、かつ不変の認識方法を有している世界」という意味内容が、「世界観」を限定しかつ説明したものとして読む者には受けとめられます。

この世界観について、314hさんは、「土俵は前の方もおっしゃってくださったように世界観です」とおっしゃっていることになります。

言うまでもありませんが、この「回答へのお礼」の欄で述べられている「土俵」に関する説明は、No19さんの「回答へのお礼」の欄で述べられていたもの(上述)と明らかに異なります。

またNo7さんの回答につづいて述べてられている古典力学、相対論の例ですが、私は適切だと思います。物理学における革新的進歩を、「新たな世界」が開けたと314hさんは表現しましたが、しかしそれらを記述した人物(17世紀イギリスのニュートンや20世紀西欧社会のアインシュタイン)と、それらの成果を享受した人々において、いったい「認識すること」や、その生活していた「社会」について、古代ギリシャ人と現代のキリスト教徒、イスラム教徒ほどの差異はあったでしょうか。十分に「共通した世界観」の範疇に入ると思いますが、それでも314hさんは同じ土俵であるとは認めておられませんね。

これでは、わからない。
同一人物に対する質疑においてすら、「土俵」の概念が首尾一貫しておりませんので。
「ぶれ」という表現を使いましたが、この相違は「ぶれ」以上のものであり、また「齟齬」として片付けられるものではないと思いますよ。

さらに付け加えます。
このNo7さんへの「回答へのお礼」の箇所で314hさんが用いた「土俵」なる概念は、きわめて広大な世界を意味しています。広大すぎて、「同じ土俵に立つ」ということが、古今の全人類(除外・霊能者、シャーマン)とすら思えてくるため、前提自体が無意味のないものに思えてきますし、そのいっぽうで広大過ぎる世界の中の各要素(人種、国籍、宗教などなど)の隅々まで「同じ」であることを要請してしまう非常に厳しい条件だと解釈されてしまう怖れもあります。この後者の解釈の下に回答されたのがNo8、No9の方々といえるでしょう。


さて
No9の方はそれを「100%」という数字で表していますが、そのすぐ後で、
「普通は99%以下の理解で相手を批評する」と述べており、その意味するところはNo19さんとの質疑で示された「土俵」の定義とほぼ同じ内容であると私は解釈します。
同様にしてこのスレッドを通覧すると、No2さんも「土俵」に関する考えはほぼ同様ですし、No5さんも、「「相手のドグマに立つ」のではなく、「相手のドグマを理解して…」」と仰っており、ドグマという語を用いていても基本的には314hさんと同じ理解をしているものと思われます。

したがいまして314hさんが欲していた回答も、それらの方々の回答の一部にすでに記述されているものもあるのでは。


以上が前段です。
後段はシンプルに当初の質問に対してお答えします。
その回答内容はNo20の2行目と変わりありません。

「相手の立場に立つというのは、批判する際に気にかけたらいいひとつの心構え」でしょうね。

説明します。
ある言説Aの正当性に関してし、相手が提示したa(1)からa(n)の証拠や説明が仮にあったとしても、たったひとつの証拠bによって言説Aが否定されれば、それで十分に反論は成立します。よって相手と同じ土俵に立つ必要はありません。つまり質問の文は必要条件とはなりません。

また相手と同じ土俵に立っていれば十分かと言うと、相手の矛盾点、論理思考の飛躍や誤謬などが見出せない場合、同じ土俵に立っていても反論は成功するどころか、その糸口さえ見出せないでしょう。したがって十分条件とも言えません。
要するに御質問の文は必要条件でもないし、十分条件でもない。言わば単なる参考事項にすぎません。というわけです。でもまあ実社会ではたいへん役に立つやり方だと思いますよ。

よりよい方法。
そんな万人、そしてあらゆるケースに共通な魔法のやり方があるんでしょうか。あるならすでに誰かが発表していそうなものです。
ただこのスレッドのように言葉の意味がぶれていては要らぬ混乱の元です。そこはきちんとしなければなりませんね。またお互いが議論しあっているテーマに関して、言葉にはなっていない前提があることにも注意が必要でしょうね。相手を打ち負かすことを目標にし、なおかつ建設的に議論したいのなら、相手が気づきにくいそこにも一応配慮しておくといいと思いますよ。


なお、
私はこのサイトでの質問や解答には慣れていませんが、確か「質問の補足」という機能があったのでは。今後は各回答者の「お礼」の欄に断り書きをするのではなく、この機能を使って分かりやすい位置にしっかりとした補足を書き足すように配慮されたらいいと思います。

No20です。
再回答です

まず確認します。
「相手の土俵に立つ」

このフレーズの意味を一番詳しく述べているのは、No19さんに対する「この回答へのお礼」の欄の中の記載でよろしいのでしょうか。
下にそこの箇所を引用します。

No19さんの回答より
「同じ土俵に立つ、などといわずに、相手の基盤なりを十全に理解する、…(中略)…だめでしょうか」

314hさんの「この回答へのお礼」の欄より。
「(1)いいとは思いますが哲学的批判すべてについて当てはまる姿勢を追及したいと考えています。(2)例えば相手が100個...続きを読む

Q哲学とは?また、どんな役に立つのでしょうか?

世の中にはいろいろな学問がありますが、こと哲学に関しては、これこれが哲学という学問ですと答えられません。また、経済学、政治学、物理学等々と違い、これを学ぶとどのようなメリットがあるか知りたいのです。学校教育ではソクラテスとかプラトンとかヘーゲルなど人名は覚えていますが、彼らの思考により社会はよい方向になったのでしょうか?
 あまりに、初歩的な質問で申し訳ありませんが、わかりやすくお願いします。

Aベストアンサー

 哲学というと近寄りがたいですが、ようは物の見方や考え方を体系だてたものです。
 例えば「人を見たら泥棒と思え」も「渡る世間に鬼はなし」も、『物の見方・考え方』ですが、体系だっていないので『哲学』と言うより、処世術と呼ばれます。

 さまざまな哲学者が自分の考えを体系だてたことで後世の人々が物事を考えるヒントを得て、民主主義社会に必須の「多様な考えを持った個性的な個人」を生むことに貢献しました。

 ソクラテスは無知を自覚することを呼びかけ、詭弁ではない真理の存在を認め、『知る』ための努力を促しました。政治とは『いかに他人をだますかの技術だ』という堕落した時代に、『真理はある』『無知の知』を宣言したソクラテスがいなければ、奴隷制社会がいまだに続いていたかもしれません。
 ヘーゲルの弁証法は、この世のあらゆるものは常に生成・発展・消滅を繰り返す=固定的なものに見方を戒めることを説きました。ヘーゲルに影響を受けて、今の社会の現実はいずれ発展とともに消滅すると元気付けられ社会を変える運動に飛び込んだ多くの学生たちの中から、当時のドイツ=プロイセンの独裁政権を倒す集団が育っていきました。(マルクスもその一人です。)

 きちんと体系だっていて、物事を考えるときにぶれることの無い「骨太の哲学」を身につければ、生きていく上で迷うことが少なくなるし、自信を持って前に進めます。
 お気楽な処世術ではない『哲学』を身に着けることをお勧めします。

 哲学というと近寄りがたいですが、ようは物の見方や考え方を体系だてたものです。
 例えば「人を見たら泥棒と思え」も「渡る世間に鬼はなし」も、『物の見方・考え方』ですが、体系だっていないので『哲学』と言うより、処世術と呼ばれます。

 さまざまな哲学者が自分の考えを体系だてたことで後世の人々が物事を考えるヒントを得て、民主主義社会に必須の「多様な考えを持った個性的な個人」を生むことに貢献しました。

 ソクラテスは無知を自覚することを呼びかけ、詭弁ではない真理の存在を認め、...続きを読む

Q宗教関係者に質問です。人はなぜ死ななくてはならないのですか。 また、死ぬことにどんな意味がありますか

宗教関係者に質問です。人はなぜ死ななくてはならないのですか。
また、死ぬことにどんな意味がありますか?

Aベストアンサー

>お釈迦様は死についてどう説いてますか?



 『スッタ・ニパータ』の中で、釈尊は、次のように述べられています。


 
 『この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

 生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道はない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

 熟した果実は落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

 例えば、陶工のつくった土の器が終わりにはすべては破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。

 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべてしに屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

 かれらは死に捉えられてあの世に去っていくが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

 見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所(としょ)に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

 このように世間に人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って悲しまない。」

 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。

 迷妄にとらわれた自己を害っている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれらにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

 みずから自己を害いながら、身は瘠(や)せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕われてしまったのだ。

 みよ、他の[生きている]人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕えられて、この世で慄(ふる)えおののいている。

 ひとびとがいろいろと考えてみても、結局は意図とは異なったものとなる。壊(やぶ)れて消え去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。

 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。

 だから<尊敬されるべき人>の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれらはもうわたしの力に及ばぬものだ」とさとって、嘆き悲しむのを去れ。

 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように智慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが怒ったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。―譬えば風が綿を吹き払うように。

 己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己(おの)が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。

 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。』

        『スッタ・ニパータ』第3章・574~593


要約するならば、

死はどのような生き物にも避けることは出来ない。
だから、それを嘆き苦しむことには意味がない。
嘆き苦しむのは執着があるからで、それを捨てれば
苦しみは起きない。
その煩悩の理を知るべきである。

というようなことになろうと思います。

>お釈迦様は死についてどう説いてますか?



 『スッタ・ニパータ』の中で、釈尊は、次のように述べられています。


 
 『この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

 生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道はない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

 熟した果実は落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

 例えば、...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報