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メソポタミアとエジプトの文明は、制度・宗教などでは大きな違いはありますが、相互の交流はあったようです。
インターネットなどでは、「エジプトはメソポタミアから多大な影響を受けた」などと書かれていますが、具体的にどのような影響なのかがわかりません。逆に「メソポタミアはエジプトの影響を受けていた」というようなことは見当たりませんでした。
質問:
(1)エジプトはメソポタミアから一体どのような影響なのでしょうか?
(2)文明としてメソポタミアの方がエジプトより進んでいたということでしょうか(例えば、政治などの制度や文字・暦などの創造で)。

もう一つ、
(3)古代ギリシアはエジプト、メソポタミア文明にどの程度影響を受けたのでしょうか?

A 回答 (1件)

>)エジプトはメソポタミアから一体どのような影響なのでしょうか



パッと思いつくのは、鉄器文化です。
ただ鉄器を一番初めに使用したとされるのは、ヒッタイトですから、メソポタミアとは少し場所的に違いますが。

>文明としてメソポタミアの方がエジプトより進んでいたということでしょうか

そうではないと思います。
エジプト・メソポタミア・ヒッタイトの各文化圏は、シリアで重なっています。
シリアを通してお互いの文化が交流されたのだと思います。
ただ、軍事的に後に現れたアッシリアに全て併合されてしまいますから、軍事的には、歩兵主体のエジプト軍は、戦車主体のアッシリアにかなわなかったのでしょう。
同じ事は、歩兵主体のバビロニア(メソポタミア)にも言えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/29 09:06

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Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Q「文化」と「文明」の違いは?

歴史や文明に関する本を読んでいると、「文化」と「文明」の定義には、かなりばらつきが見られます。代表的には、以下の3通りの定義(説明)がありましたが、いまひとつ、はっきりしません。専門的には、どのような定義がなされているのでしょうか?

(1)文明は文化の総合体。

(2)文化は、思想・道徳・芸術などの精神的所産であり、文明は、技術的・物質的・政治制度的所産である。

(3)文化は特定の地域や歴史に縛られ、文明は、より普遍的、抽象的で、特定地域や歴史に縛られない。

Aベストアンサー

◆文化は「地域性」を特長とする「生活全般」を指しています。

気候や地形、生活形態(農耕・遊牧・狩猟採集etc)などの地域的・民族的特性から派生して、その地域・民族に特化、形成された生活全般を「文化」と呼んでいます。
研究対象としては、言語、共有する神話・歴史、それにともなう生活習慣(法的なもの・宗教、婚姻形態、社会構成etc)、道具類などが挙げられます。

◆文明は「汎用性=広域性」を特長として、上記の文化的枠組みを超えた「技術」を指しています。

もともとは一文化の部分的な要素でしかなかったものですが、例えば「鉄」を利用する生産技術・加工技術・利用技術は文化の違いを超えて普及していきます。こうした文化という地域性にとらわれない技術やそれに付随するものを「文明」としています。
上記の「技術」には統治のための制度やその運用方法(例えば律令制や資本主義のシステムetc)も含んでいます。
政治制度に注目した文明論もあれば、技術に重点をおいた文明論もありますし、また大きく遊牧文明・農業文明と言う言い方をする場合もあります。

定義は論者によって幅がありますが、基本的には上記で良いかと。

そう言う意味で、
(1)文明は文化の総合体、ではありません。
(2)文化は精神的所産に限定されたものではありませんし、文明は技術に様式が付随しパッケージとして伝播することが多いので、精神的・思想的な影響力も持ち合わせています。
(3)縛られると言うより、文化は地域・歴史から派生したもので不可分です。そして、文明は抽象的ではなく常に具体的です。

◆文化は「地域性」を特長とする「生活全般」を指しています。

気候や地形、生活形態(農耕・遊牧・狩猟採集etc)などの地域的・民族的特性から派生して、その地域・民族に特化、形成された生活全般を「文化」と呼んでいます。
研究対象としては、言語、共有する神話・歴史、それにともなう生活習慣(法的なもの・宗教、婚姻形態、社会構成etc)、道具類などが挙げられます。

◆文明は「汎用性=広域性」を特長として、上記の文化的枠組みを超えた「技術」を指しています。

もともとは一文化の部分的な要...続きを読む

Q英仏旅行してきました。両国民の性格の違いにビックリしてます

先日、ロンドン&パリを駆け足で1週間旅行してきた者です。スケジュール的にはかなりタイトな旅行だったのですが、信じられないくらい順調にスケジュールをこなし、私たち的にはマストな場所は全部回れました。

ここで、感想&質問です。

<ロンドン編>
最初にロンドンに早朝に着いたのですが、ホテルチェックインの前でしたので、荷物だけ預けて観光だろうなぁと思ってたら、フロントの人が「部屋が空いてるのでインしていいよ。あと、おなかすいてる?」と言ってくれました。「今、食べていいの?!」と聞くと「why not?」とニッコリしてくれました。朝食は泊まった翌日からと思ってたので、嬉しかったです。雨でびしょぬれで空腹でしたし。部屋で濡れた服を着替えて、朝食を頂き、それからロンドン観光出来ました。
あと、ロンドン在住の日本人の方とかに「道お困りですか?」とか教えてもらったり、外国(多分どこかヨーロッパ)の観光の人に道を聞かれて、余ってたマップを上げて道も教えて上げたらとても喜ばれたり。ブリティッシュミージアム近くで英国人に道を聞いても、とても紳士的でやさしかったです。イギリス人が観光客に対して、また、観光客同士の交流も楽しかったです。

<フランス編>
エッフェル塔や凱旋門、モンマルトル・・・書ききれないくらい、すばらしい観光地があるのに、チケット売り場の人はどこでもチケット投げるし、目も合わさない。プレゼント用の簡単なプラスティック製の箱に入ったマカロン詰め合わせを買ったのですが、紙袋はおろか、ビニール袋にも入れてくれない、裸のまま(環境の為に包装を節約してるという風でもなさげでした)。エッフェル塔で記念写真を撮ろうとしてると、カメラの前に出てきて邪魔をするフランス人。北駅からドゴール空港に行く時、RERのチケット売り場を聞いても、黙って指で指す(上の階)とか・・・。駅でたらいまわしにされてチケットがなかなか買えませんでした。チケット売り場にやっと着いても、長蛇の列。なんか、ひとりひとりのフランス人がチケットブースでいちいちごねてて、チケット買う順番の回転が悪くなってたようです。あと、いろいろと、フランス人って・・・冷たい、上から目線、だらしない、めんどくさそう・・・と思いました。(一応、どこでも「ボンジュール、メルシー、オルヴォワー」は行ってましたが)

でも、フランス旅行が楽しくなかったという意味ではありません。旅行イコール勉強だと思ってます。ロンドン、フランスとも最高に楽しかったのにはかわりありません!

ただ、「どうしてこんなに、イギリス人とフランス人は違うの?」て、逆に面白く感じたからです。同じように感じた方や、両方の国民性に詳しい方のお話が聞きたいです。

先日、ロンドン&パリを駆け足で1週間旅行してきた者です。スケジュール的にはかなりタイトな旅行だったのですが、信じられないくらい順調にスケジュールをこなし、私たち的にはマストな場所は全部回れました。

ここで、感想&質問です。

<ロンドン編>
最初にロンドンに早朝に着いたのですが、ホテルチェックインの前でしたので、荷物だけ預けて観光だろうなぁと思ってたら、フロントの人が「部屋が空いてるのでインしていいよ。あと、おなかすいてる?」と言ってくれました。「今、食べていいの?!」と...続きを読む

Aベストアンサー

はじめまして。

現在はフランスに長く在住していますが、英国にも数年住んでいましたので、ご参考までに回答させていただきます。

ご質問1:
<どうしてこんなに、イギリス人とフランス人は違うの?>:

1.人種、歴史が違います。イギリス人はゲルマン系で、フランス人はラテン系です。イギリス人はフランスが好きですが、フランス人は(一般に)イギリスとイギリス人が嫌いな人が多いようです。

2.両国に暮らしてみると、その違いは歴然とわかります。それは、人種だけでなく、社会、気候など、いろいろな要因がその違いを作り出しているように感じます。


ご質問2:
<ロンドン編>~ブリティッシュミージアム近くで英国人に道を聞いても、とても紳士的でやさしかったです。イギリス人が観光客に対して、また、観光客同士の交流も楽しかったです。>

1.観光客には優しいです。

2.旅行、短期滞在、長期滞在、仕事での駐在などによっても、イギリス人に対する印象はいろいろ変わってくると思います。

3.大学院留学経験では、成績を争う学生同士、ライバル意識から情報を提供しない、抜けがけする、間違った情報を与えるなど、策略的な小賢しい頭の働かせ方をするイギリス人が結構いました。利益を争う職場の同僚同士も同様です。

4.長期留学の前、学生時代に英国へ短期留学もしたことがありますが、ホームステイ先の家庭は、英国では低所得家庭がお小遣い稼ぎにする仕事なので、暖かい歓待、といった印象ではありませんでした。

6.また、イギリス人は薀蓄たれで視野が狭いなと感じることもありました。つまり、自分の関心のあること以外、上も下も右も左も見ない、狭視覚的なものの見方をすると感じていました。
例:
某有名大学の英人学生の弁「日本?興味ないから行くこともないな」

7.そういった点では、フランス人は、イギリス人に比べると単純で素直だと感じます。


ご質問3:
<フランス編~紙袋はおろか、ビニール袋にも入れてくれない、裸のまま~>

1.フランスパンも、そのまま手渡しが、小さな巻き紙を添える程度です。フランスパンが剥き出しの、パリらしい紙袋の風情も実を言えば不潔なだけなのです。日本のフランスパン用の長い紙袋が懐かしいです。食事だけに限らず、フランス人の衛生観念は、日本人の半分ぐらいだと思います。むしろ日本人が過剰といって笑います。

2.食べ物に限らず、余程の老舗でなければ、プレゼントの包装なんてものもクリスマスシーズンしかありません。それも包装の訓練も受けていないから、包み方が下手です。自分で包装した方がまだましです。

3.スーパーではレジは入れてくれません。自分で入れます。環境対策から、ビニール袋のないスーパーも増えています。よく行くカルフールには、予め大き目の袋を2~3枚用意しておきます。

4.フランス人は無駄な包装に、日本人が抱くような美意識を感じていないようです。ですから、クリスマスプレゼントなどを開ける際でも、日本人のように丁寧に包みを開けるのではなく、ビリビリ破きまくります。


ご質問4:
<カメラの前に出てきて邪魔をするフランス人>

1.日本人にちょっかい出すのが好きな、不良少年達は多いです。住めばいやな目にあうことも沢山あります。

2.仏人の夫が初めて東京に来た時、ミニスカートをはく少女達など、渋谷のファッションに驚いていました。と同時にそんな自由なファッションが楽しめる東京を絶賛していました。パリでは、そんな格好の女の人はすぐに不良少年達にからかわれ、不快な思いをするからです。


ご質問5:
<空港に行く時、RERのチケット売り場を聞いても、黙って指で指す(上の階)とか・・>

1.こちらは客は神様ではありません。客のために「働いてやっている」と思っていますから。

1.労働者は客より「上」なのです。例えば、売り子に落ち度があって、客が売り子などに文句を言おうものなら、責任者がとんできて、売り子をかばいます。決して店の責任にはしませんし、もちろん謝罪もしません。「言い訳」が際限なく続きます。


ご質問6:
<チケット売り場にやっと着いても、長蛇の列。なんか、ひとりひとりのフランス人がチケットブースでいちいちごねてて、チケット買う順番の回転が悪くなってたようです。>

こんな風景は日常茶飯事です。フランスに住む日本人の苦労がわかってもらえるでしょうか(笑)?

要領は悪いし、手際もよくありません。これはスーパーなどのレジでもよく見かける光景です。彼らは、限られた労働時間をできるだけ労働量を消費しないよう、給料に合わせてマイペースに仕事しているのです。余計なエネルギーを労働に使うのは、彼らにとってもったいないのです。


ご質問7:
<フランス人って・・・冷たい、上から目線、だらしない、めんどくさそう・・・と思いました。>

おっしゃる通りです。最初にフランスに来られた旅行者は、一様に同じような感想を抱くようですね。私も初めてパリ旅行した時は、同じような印象を抱きました。でも、それは印象ではなくて、今でも実感する事実なのですから、どうしようもありません。汚いものには蓋、真似をしなくていいものです。

先の質問でも答えましたが、フランスで体験された不快な、信じられない出来事は、フランスでは日常茶飯事なのです。そのギャップから精神的に参る日本人も多く、「パリ症候群」といわれる心の病もあるほどなのです。

ちなみに、「なぜフランス人の働きぶりはこうなのか」という点について、理由の一部は以下の通りです。
1.安い月給。20年前からあまりupしていません。
2.それなのに物価は上がる一方。ユーロの以上高値も、フランス人の生活を直撃。
3.なんといっても高い税金。所得の半分以上は税金に消えます。高所得者は税金対策に必死です。
4.どの職種も給与などの労働条件の改善を求めてストするので、労働サイクルが悪く、経済効率もよくありません。こちらでは、警察、医者、看護婦、教師、生徒、公共交通、などがストで営業ストップもしばしば。

などなど悪いことを挙げればきりがありません。


長々と、英国・仏国のマイナス面を強調しましたが、勿論いい面もありますので、うまく適応してそれなりに楽しいフランス生活を送っております。結論としては、イギリスもフランスも、また日本や他の国も、旅行だけではその国の一部しか覗き見ることができず、全てを語ることはできないということです。

でも、最初の印象は大事ですから、その意味ではフランスはイギリスより損していますね(笑)。フランスは、観光客にサービス・笑顔を振舞わなくても、世界一の観光大国の座は揺るぎありませんから、努力もしなくていいのでしょう。歴史=過去にあぐらをかくフランス人、その姿勢が現在のフランス社会の不安の種となっているのです。

長々と失礼しました。以上ご参考までに。

はじめまして。

現在はフランスに長く在住していますが、英国にも数年住んでいましたので、ご参考までに回答させていただきます。

ご質問1:
<どうしてこんなに、イギリス人とフランス人は違うの?>:

1.人種、歴史が違います。イギリス人はゲルマン系で、フランス人はラテン系です。イギリス人はフランスが好きですが、フランス人は(一般に)イギリスとイギリス人が嫌いな人が多いようです。

2.両国に暮らしてみると、その違いは歴然とわかります。それは、人種だけでなく、社会、気候など...続きを読む

Qエジプトの太陽暦とメソポタミアの太陰暦

題名の通りなんですけど、エジプトの太陽暦とメソポタミアの太陰暦のように違いが出たのはなぜだと考えられるのでしょうか。どちらも乾燥地域で大河の氾濫の時期を知るために暦が生まれたということだとすると、同じものが生まれる気がするのですが。エジプトではラーの信仰のように太陽への信仰が強かったことなどが影響したりしているのでしょうか。詳しい方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

詳しい人ではありませんが、知っている範囲でお答えします。
エジプト、メソポタミアとも農業耕作のため、暦がつくられました。
月日の移り変わりを知るには月の満ち欠けが、判りやすくこれで一ヶ月を決めましたが、太陽との運行とはずれがあり、農耕にあうよう3年に一度閏月(当時は連大月という)を作り大体あわせました。
太陰太陽暦(今は俗に太陰暦という)といいます。
真の太陰暦は閏月を置かず、そんままで大幅な狂いが生じますが、それを使った国もあるとか。  農業の必要がない国なので。
エジプトも始はメソポタミア同様太陰太陽暦に近い暦法でした。
ナイル川の洪水を予測するため、太陽の代わりにシリウス(ギリシャ語でソティス)星を使うので、太陰ソティス暦といいます。
王朝が出来た頃からこれを廃し、太陽暦に近いものを採用したといいます。
理由は明確ではありませんが、王の治世や在位年月を記録するようになり、より正確なものを求めたとも考えられます。

Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Q文字を必要とした理由は何ですか。

文字をもたなかった民族もあれば、紀元前の昔から文字を使用している民族もあります。
最初、何を記録、あるいは伝達するために文字を必要としたのでしょうか。
想像したところ、ヒエログリフは王の業績を、マヤの絵文字は天体観測の記録を、漢字は亀甲占いの結果を残しておくために文字を発明したのではないかな、と思っています。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「シュメール人」と呼ばれる人々が作った
楔型文字が最古だといわれています。

メソポタミアでは、灌漑農業が非常に発達しました。
メソポタミアでは種をまいた量の80倍もの収穫量がありました。
現在のヨーロッパが15倍程度で、アメリカでも20倍程度なので、
80倍というのはとても大きなものです。

この非常に高い生産力で、自分たちが食べる以上の物ができました。
そこで、それらの作物を記録する必要が出てきました。
また、人に売って、自分たちにとって必要なものを
手に入れるようになりました。
大事な麦を保存したり売買するための記録として、
文字が発明されたという説が有力です。


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