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全知全能の神が
なぜ
生まれながらに罪を持った人間を創造したのですか?
また、それを悔い改めよとおっしゃるのはなぜですか?
罪があるのは人間の責任ですか?

A 回答 (14件中1~10件)

 神義論という議論が、はるか昔からあります。


 おおまかには、あなたのこの問いに類する疑問に答えようという試みです。つまり、あなたのこの疑問は、はるか昔からあったということですね。
 で、そのおおまかな結論は、「神の考えは人の理解ができるものではない」というものです。
 予定説とも、密接にリンクする話です。

> 人間に罪があるというのは
> 製造者に責任があるのではないですか?

「例えば、こんな人間の論理は、神を縛るものではありません。
 形式論理だろうと、記号論理だろうと、所詮は人間が考えたものです。造物主たる神がその論理学に縛られると思うのは、人間の傲慢というものです」

 という辺りが、「理解できるものではない」の具体的な適用です。

 端的に言えば、あなたが納得できようができまいが、そんなことと神の行為とは、まったく関係ないということです。あなたが理解できなくて、当然です。
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この回答へのお礼

やっと私が求めていた回答に出会う事ができました。

今回、御回答を下さいました皆様に祝福があらん事を・・・

私はクリスチャンではありませんが、お祈り申し上げます。

お礼日時:2008/02/02 21:17

神の創造せる世界は次の通りです。


『実在する世界』は、実在せる宇宙は、」完全円満・光明無限・生命無限・智慧無限・愛無限、従ってまた調和無限・供給無限・自由無限であるところの一大生命力によって支えられ、その一大生命力の展開として一切の生命は存在に入ったという事実です。この一大生命力を『神』と称するのです。
現象世界には人間の心の透過膜と言う五官のレンズで感知する世界です。従って真像と偽像とがあらわれます。仏教で言う唯心所現です。
現象世界は心で認めたものだけが存在するのです。私達の五官は残念ながら完全ではありません(例えば色彩は光の波長の一万分の4~8mmしか感受できません)、実相の完全さを現象世界に投影するには『観』の転換が必要です。キリストの復活はそれを意味しています。
顕れている像には色々な不完全な姿があるが、その奥に真物があります。現象界に真物を顕すには、現象を観る眼を閉じ無常なる物・肉体を観ないでその奥にある『善なるもの』『完全なる物』『永遠なるもの』即ち実相を心の眼で凝視する。よき想念が生まれ、よき言葉を発することがよき現象を創出するのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『人間の真性は先ず霊なる生命にして、心の糸を組み合わせて肉体の繭を造り、その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、はじめて霊(ことば)は肉体となるなり。汝ら明らかに知れ、繭は蚕に非ず、然らば肉体は人間に非ずして、人間の繭にすぎざるなり。時来たらば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。人間は生命なるが故に、死を知らず。
心に従い   時に従い   必要に従いて
肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、生命そのもは病むに非ず、生命そのものは死するに非ず、想念(こころ)を変うることによって
よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。
されど  ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。  かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って  一層自在の境地に天翔らん。 
これをもって人間の死となすなかれ。
人間の本体は生命なるが故に   常に死することあらざるなり。
ーかく天使(てんのつかい)語り給うとき、虚空には微妙(みみょう)の天楽の声聞こえ  葩(はなびら)は何処よりともなく雨ふりて、天の使いの説き給える真理をば   さながら称うるものの如くなりき。』

この回答への補足

私の質問に端的にお答え頂ければ、
それは私にとって幸いです。

補足日時:2008/02/02 21:10
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 創造には欠陥が必要なのです。


 欠陥を、神と、他力と自力で克服していくにしたがい、希薄な世界、領域に入っていきます。
 だんだん此処の知覚能力では覚知しえない存在になります。
 そして不可視のりょういきです。
 生まれながらにという言辞は、どのように、何の理念と根拠で、生まれてきているかを認識できない、領域での言葉です。
 原因のない結果とは、創造の世界にはありえません。
 全ての欠陥と罪は、終局に創造者に起因するものですが、創造者のリフレクトたる、現象である、人間はいわば、その風船の表面の引きつった歪みのようなものと存じます。
 存在しているのは一にして多なる、創造者しかいないというのが真理のようです。
 創造者はなぜ創造したか、それは私にはまだ答えられません。
 欠陥や罪というものが、創造者や創造界ではどういうものか、その評価やありようの全体、性質は、私達ここの創造界の一部にいるだけの認識や観念とは異なるのではないですか?

参考URL:http://www.yogananda-srf.org/

この回答への補足

それならば、
「罪を悔い改めよ」と言われるのは何故?

補足日時:2008/02/02 21:07
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No.10です。


文中で
>罪の発生は環境の不備によるものと捉えられ

罪の発生は環境の不備によるものと捉えようとすることが伺われ
に訂正いたします。
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善悪という概念は人が社会生活を送るうえで


お互いを安定化に向かわせるものかどうかということに起因するように思います。
善悪はどちらも人の心に生起するするもので
またその境がはっきりしないファジーな部分もあるとも思いますが
心がどちらに傾くか
また悪が心を占めても善に回帰できるかということが境目で
それを行為に移すかどうか
ということになるのではないでしょうか。
行為に移せば罪が発生するでしょう。

個の質によるものもあるのかも知れませんが
罪を憎んで人を憎まずという言葉から推察すれば
罪の発生は環境の不備によるものと捉えられ
宗教性や裁判における心性においては
罪は罪として
その罪において邪があるかとか
罪に対するいさぎよさがあるか
といったことが関わってくるのではないかと思います。

この回答への補足

すみません。
私の質問にストレートにお答え頂ければ幸いです。
どなた様も、よろしくお願いします。

補足日時:2008/02/02 20:45
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これは非常にポイントを突いた質問で、一神教の範疇では、本来は説明できないものです。

また、同様の疑問で、なぜ、ユダヤ教やキリスト教には、神と悪魔の最終戦争という概念が存在するのか、という質問も同じ系列ですね。

私の推論は、「善悪二元論のゾロアスター教の教義が、ユダヤ教に紛れ込んでいるから」、です。

この回答への補足

神が全知全能なら戦争は成立しないのでは?

補足日時:2008/02/02 21:03
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このような質問に短絡的に


すぐキリスト教と結びつけるのもなんなので。

実際に、そういう教義のものがあったとして仮定したとしましょう。

世の中面白いもので、
そういうのも探せばあると思いますし。

そういった場合、神が全知全能であることと
善と悪は別に相反する概念ではないのです。

たとえば、その神は善も悪も内包していた。なぜなら全知全能だから。
でいいわけです。それは、神は善であるという前提のキリスト教以外の
宗教になるでしょうがね。

で、人間は完全に悪。というのも、そう造った。でよしとしましょう。

で、たとえばの話です。設定など好きにすればいいのですから。
(1)人間は悪だが、そこにはその全知全能の神に由来するものがある。
(2)人間は悪だが、無条件で神はそれでも救ってくれる。

などなど。今回の質問の場合は、悔い改めの理由を
何に由来させるかによりますが、

たとえば、人間は悪でも、

聖霊でも天使でも救世主でも預言者でも精霊
もしくは他の神々(今回の質問の前提では別に一神教というわけでもないですし。他に神々がいてなおかつ全能の神がいるでも別にいいわけです。)

それらは善であるから。

というようにすることもできます。それがあなたに悔い改めさせる
きっかけをもたらしたなどなど。

とはいえ、もし預言者や救世主と言う概念を登場させるのなら
かなり、支配する人間にとっては都合のいいものになるでしょうね。

だから、罪があるのは人間のせいとも、
神のせいにもどちらにでもできます。

まぁ、世界には色々な考えがあるのです。それは宗教にしても。

この回答への補足

罪があるのは人間のせいですか?
私には理解できません。

補足日時:2008/02/02 21:00
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日本では躾によって身を整えようとしたのに対して



ユダヤ教では親を手本として育つ子供に対して
律法によって
罪に対する穢れの精神性がでるのを封じようとした
という感じなのかな。

この回答への補足

私の質問にお答えください。
よろしくお願いします。

補足日時:2008/02/02 20:56
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 農耕といういとなみが 人に時間の感覚を覚えさせたと考えられます。

狩猟採集や漁撈では すでにその時にも 石器からして 道具をつくり始めていたでしょうが まだ 時間の認識は 薄かったかも知れない。
 野生の麦や米などではなく 自分たちが種を植えることから始めて 育て やがて実をならせるという一連の作業とともに 時の流れに気づいた。つまり それまでにも 人は 朽ちていっていたはづですが 時間観とともに 自分たちは 死ぬべき存在だとわかる。
 時間を知ったことは 死という人生の一つの終わりを知った。しかも つまりは その人生の中で 農耕という作業がそうであるように 自分の知恵と能力とで 自然に対して 意志するところをおこなうことが始まった。おそらく 人に対しても 自分の意志するところを伝え 伝えるばかりでなく その意志の内容を実現させることを その相手も 共に おこなうということを求めるようになる。
 《わたし》が芽生えた。《時間》が動き始めた。《自由意志》を知った。すなわち《歴史知性》が生まれた。
 《言葉》がすでに誕生していれば 意志の自由は まづその意思表示から始まるが その初めの一つの表示内容を 変えたり 自ら欺いたり つまり 嘘をついたりするようにもなる。相手に逆らい 口答えをするようにもなる。などなど。

 このようなことを 《罪》というのだと思います。
 もし 《全知全能の神》を持ち出すのであれば――それは あくまでわかりやすいように 喩えで語るという前提に立ったことですが―― 全知全能であるのなら 何でも出来るのではないでしょうか。悪いことをし放題では 評判がわるくなるわけですが。
 ほかの方がたも すでに 《生まれながらに罪を持った》存在として《人間を創造した》と語られているわけではないと書いておられますが もし全知全能という想定であるのなら 何でも出来る・つまり どんな悪でもできると受け止めるほかないのではないでしょうか。それにもかかわらず 《ひとり満ちたりている》存在であってこそ 全知全能という仮想です。
 どんな悪でも出来るというのでは もしくは少なくとも その悪のそれでも必要性・必然性を説き明かしつつ 悪いことををゆるすというのでないなら 評判を落とすでしょうけれど。 
 全知全能の神というのは また その世界創造などなどの物語は すべて 人間のことばによる表現の問題です。たとえ話しです。
 虚構が 人間の真実を描き出し 人の心の内奥をゆさぶることもあり得るようです。

この回答への補足

すみません。
私は頭が悪いもので、お答えを読んでいるうちに訳が解らなくなってしまいました。
もっと端的にお答え頂ければ幸いです。

補足日時:2008/02/02 20:32
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そもそも、全知全能という概念自体が矛盾しているんですよ。


有名な例としては、「神が持てない石を神は作ることができるのか」なんてものがあります。
このような問いに対して、クリスチャンは「神様のことは我々人間のちっぽけな認識能力では計りえないのです」などと答えます。こう言われてしまったら我々は理解することを諦めるしかありませんね。そういうことです。おわり。
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この回答へのお礼

なるほど。
お答えありがとうございました。

お礼日時:2008/02/02 20:53

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