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 一般論です。つまり 一般論として提出することができるほどだという観察があります。
 すでに一度 問うたことがあります。
  Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか
   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html

 たとえば 仏教では 人間を初めとして有情には 仏性があると言います。例外がなければ この事態は 絶対なのではないですか。
 八百万の神々は 絶対でしょうか。そうでないでしょうか。あるいは わざと あいまいにしておくのでしょうか。もしそうだとすれば それは なぜでしょう? 
 曖昧にするということは 絶対と相対との区別を知らないわけではない。知っていて 最後の結論を言わないという事態であるはづです。
 
 司馬遼太郎が 短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。
  http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/si …
(第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。
 このように効用もあるはづですが もし理解したという姿勢を見せないのだとすれば それは なぜでしょう? おしえてください。

A 回答 (33件中11~20件)

日本という国においては、歴史的に相談、合議の文化的風習があります。

そこでは、相談の内容にもまして、相談にあずかれるかどうかに大きな価値があると考えられております。本人が少数党に属しているかどうかよりも選挙権があるかどうかが問題とされることによく似ています。そこで使われる言葉は根回し等と異国の人には分かりにくいとされていますが。古来より情報を先んじて握ることが重要な社会であったと考えられます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%9D%91
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%8E%9F

意見を闘わせて自己の主張を押し通そうとすれば、内容はともかくとして反発を受けることも多く、会議までにあらかたの人が了解しているということも少なくありません。この場合、正しいかどうかよりも、多くの人が不承不承にも合意できそうな内容を模索することが提案者にとって重要であって、総合的な判断のもとに素案を作成することになります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%9D%91
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%8E%9F

Aが、考え「A」を主観的に絶対に正しいとして押し通そうとするなら、それはAにとって、村の掟「B」を超えるものとなりますから、Aは村人の意見、利害等をもとに総合的に作り上げられた合意を突き崩すものとなります。国家単位でいえば宗教の戒律が法律を超え破るものとなります。

民主主義が日本という国に早く定着したのは、もともとその伝統があったからにほかなりません。ただ従来からの伝統があっただけに、日本的な制度と運用になってしまったともいえます。

現在、ライトノベルや宮崎作品など、壮大な神話が次々と誕生していますが、どのストーリーを主観的に正しいと受けとめるにせよ、それを神の啓示と受けとめるか、悪魔のたくらみとうけとめるかは、主観的なあまりに主観的な個人の出来事です。そこでは古いストーリーに意味があり、新しいストーリーに意味がないと考えるか、またその逆なのか、人智で判断できることではありません。個人が主観的に大切に思うことを許容できる社会はよい社会だと考えます。ただ、天動説、地動説や進化論のように若干の認識の相違はあります。あるいは人間だから間違いもあるということだと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96% …

参考資料
「植民地の周りの奥地にいる先住民族については、彼らがキリスト教徒ではないので神がそこに病気を送り込んで倒れてしまったと信じてもいた。「これらの地域に先住民族がいなければ、神が追求した。300マイルという空間でその大半は天然痘で一掃されてしまい、その菌はまだ残っている。神はそうすることで我らにこの土地の権利を与えた。この地域に残っているものは高々50名に過ぎず、我らの保護下にある。」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …

「 ラス・カサスは自身の著書で、インディアンについて次のように記している。「無限の宇宙の中で、彼らは最も明朗で、邪悪さや不誠実なところがまったくない。しかし、この羊の檻の中にスペイン人が突然侵入し、貪欲な獣として振る舞い始めた。彼らは、キリスト教徒には黄金を手にするという絶対的な使命があるとして、殺戮や破壊行為を正当化した」」
http://www.asyura2.com/07/war99/msg/429.html

「新大陸アメリカにヨーロッパから天然痘が持ち込まれました。天然痘に対する免疫を全く持たなかったアメリカ大陸の先住民は天然痘に罹り、全滅に近い被害を受けました。豊かなアメリカ大陸に住んでいた人たちの文明は姿を消しました」
http://dochinn.iza.ne.jp/blog/folder/14323/2/

「スペインはキリスト教に反対する者が1人でもいる村はすべて焼き払い、多くのチャモロ人を殺し、生き残った者は捕虜とした。1681年には、殺しすぎて労働力が不足したことから、アニアン、サイパンなどから捕虜をグアムに補なうなど、スペインの統治はマリアナ諸島全域に及び、それでもチャモロ人は槍やこん棒、投石で抵抗していった。」

「1695年、チャモロ人の抵抗は終わり遂げた。かつて9万人と推定したマリアナ諸島の人口は5000人以下にまで減少してしまった。これには、戦争による死者の他に、西洋人が持ち込んだ「はしか」、「天然痘(痘痕ウイルス)」の蔓延や大型台風の影響もあったという。そして、その残された大多数は女子供であったことから、カヌーやラッテストーンなどチャモロ男性が伝承していった多くの技術も消滅してしまった。」

「1783年にはチャモロ人口は、ついに1500人にまで減少してしまったという。なぜなら多くの女性がスペイン、メキシコ、フィリピン兵士との結婚を余儀なくされたが、彼女たちは自分たちの子供が奴隷のように扱われるのを恐れて子供を産むのを嫌がったからだという」
http://guambeach.com/history-2.html

この回答への補足

(1) パパラギは いつもからだをきちんと包むように心がけている。あるひとりのとても偉くかしこい白い人が 《からだは罪深い肉である。首から上にあるものだけが本当の人間である》と私に言った。
 しかしながら 肉は罪 アイツウ(悪霊・悪魔)からの贈り物――これより愚かな考えがあるだろうか わが兄弟たちよ。

(2)かしこい兄弟たちよ・・・おまえたちも あの宣教師の言葉をはっきりと覚えているだろう。《神は愛である。ひとりの真の救世主(キリスト)が常に愛そのものであるという善をなしたもうた。だからこそ白人の崇拝は 大いなる神にのみ向けられる》と。
 宣教師は私たちに嘘をつき 私たちをあざむいた。パパラギが宣教師を買収し 大いなる心の言葉を借りて私たちをだましたのだ。丸い金属と重たい紙 彼らがお金と呼んでいる これが白人たちの本当の神さまだ。

(3)それからパパラギは 私たちのことについて こうも言っている。
 きみたちは貧しくて不幸だ。きみたちには 多くの援助と同情が必要だ。きみたちは何も物を持っていないではないか。
 たくさんの島と愛する兄弟たちよ。物とは何か。おまえたちに告げよう。――たとえばヤシの実はひとつの物である。ハエたたきも 腕輪も食事の皿も 髪飾りも すべてこれらは物である。
 しかし 物にはふたつの種類がある。ひとつはヤシの実や 貝や バナナのように 私たち人間が何の苦労も労働もせず あの《大いなる心》が造り出す物である。いまひとつは 指環や 食事の皿や ハエたたきのように たくさんの人間が苦労し 労働をして作り出す物である。・・・

(4)パパラギは本当に空を打ち破ってきた人 神の使者のように見える。なぜなら彼は 自分の喜びのために天と地を支配する。彼は魚となり 鳥となり 虫となり そして同時に馬となる。大地に穴をあけ 大地をつらぬき通す。もっとも広い真水の河の下をも通りぬけ 山も岩もすりぬける。足に鉄の車輪をつけ もっとも速い馬よりも速く突き進む。彼は空に昇る。飛ぶことができるのだ。私は彼がカモメのように空を飛ぶのを見たことがある。彼は巨大なカヌーをもって海を走る。大洋の下を走るカヌーを持ってりう。彼は雲から雲へカヌーを走らせる。

(5)パパラギは一種特別な そして最高にこんがらがった考え方をする。彼はいつでも どうしたらあるものが自分の役に立つか そしてどうしたらそれが自分の権利になるかと考える。それもたいてい ただひとりのためであり みんなのためではない。このひとりというのは 自分自身のことである。

(6)《精神》という言葉がパパラギの口にのぼるとき 彼らは目を大きく見開かれて すわってしまう。彼らは胸をはり 背を伸ばして重々しく呼吸する。敵を倒した戦士のように。なぜなら彼らはこの《精神》というものを とりわけ誇りに思っているからだ。精神といっても ここでは宣教師が《神》と呼び 私たちみんなはその貧しい似せ絵にすぎぬ あの強く 《大いなる心》のことではない。そうではなくて 人間が持ち 人間にものを考えさせる小さな心のことである。
 たしかに私たちは 知ることの練習 パパラギの言葉を借りれば《考える( denken )》をたいしてしているわけではない。しかし あまり考えないのが馬鹿なのか それとも 考えすぎる人間が馬鹿なのか それは疑問である。
 おまえたち 考えることをしない愛する兄弟たちよ。私がおまえたちにありのままの真実を残らず告げた今もなお 私たちは本当にパパラギのようになりたいと努力し 彼らのように考えることをおぼえねばならぬだろうか。
 
(7) 愛する兄弟たちよ。だれひとりきらめく福音の光を知らず 暗闇の中にみんながじっとすわっている そういう時代が私たちにはあった。自分の小屋を見つけられない子どものように そのころ私たちはさまよっていた。心は大きな愛を知らず 耳は神の言葉を聞くことができずにいた。
 パパラギが私たちに光りを運んでくれた。彼らは私たちのところへ来て 私たちを暗闇から救い出してくれた。・・・パパラギの宣教師は 私たちにはじめて神とは何かを教えてくれた。そして 宣教師が誤れる偶像と呼んだ私たちの古い神々から 私たちを遠ざけてくれた。偶像の中に本当の神はなかったのだ。
・・・『パパラギ――はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』岡崎照男訳
(全編 引用です。パパラギ=白人・西洋人・紳士。トイアヴィ=西サモア ウポル島ティアヴェアに住んだ酋長。すでに百年近く前である)。

補足日時:2008/02/08 11:23
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この回答へのお礼

 わたしはアマテラス予備軍であるということをお述べになったと理解します。 
 回答になっているかは わかりません。相手に有利に解釈するとすれば われわれは 有力である / その有力なるわれわれのしきたりに従いたまえ / つまりは 《〈絶対〉の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?》と言っても 昔からそうなっているから そうなのだ そのとおりに受け容れたまえ というご回答でしょうか。
 ところが この有力は 無効の行為が――なぜなら まだ人間以前の状態である人間から発せられる行為であり 歴史知性以前(《ヨリ》)と同等の超歴史知性(《ヨセ》)であるその行為が―― 既成事実として 実効性を持ち これが 有力なったにすぎないと見ます。無効の有力であると 弾劾します。
 われわれのは 有効の無力 無力の有効として何もしないたたかいです。言論活動は おこなうわけです。
 よって ご回答は もし上のように解釈していいものであるなら 答えとして わたしは 満足することができません。理由は述べました。
 ともあれ ご投稿の労を取ってくださったことに感謝申し上げます。ありがとうございました。

* アマテラス予備軍というのは 《ヨセ》なるスーパー歴史知性の側に立つという意味です。

お礼日時:2008/02/06 19:12

 brageloneさん。

私の容喙の余地はないと感じるが素戔鳴尊と天照大御神とのお話は身につまされて拝読しました。
 私も素戔鳴尊の歩みをしながら、デヴァナガリ対訳の英文バガヴァッドを勉強し、余命を読める時間を精進に使っています。
 私達のグルの講述の、この聖典は初めからそして通して絶対意識としてもブラフマ(ブラフマンは不顕現の最高神、その創造の父としての意識側面がブラフマ)とその観念たる、我々の関係。そして相対存在に落ちた我々なすべきことをのべております。千数百ページの全てはそのことに終始しております。その中の十章からの抜粋を紹介します。和文は私の拙訳です
 第15聖句 O Divine Purusha, O Origin of beings; O Lord of all creatures, O God of gods, O Sustainer of the world! verily Thou alone knowest Thyself by Thyself
存在全ての太源なるお方よ 創造全ての主なる方よ 神の中の神であるあなたよ 全宇宙の維持のお方よ あなたのみがご自分でご自身を 知られておられます

第17聖句 O Great Yogi! how shall I always meditate in order to know Thee truly ? In what aspects and forms, O Blessed Lord, art Thou to be conceived by me? おぅ偉大なるyogiよ! 真実あなたを知るためにどのようにして瞑想できましょう?聖嘉の主よ あなたをどんなお姿様相として思い描けるのでしょう?神は絶対者であり、また同時に顕現者である。だからこそ信仰求道者は困惑するのである。"私は一体、あなたをどうイメージして求め、ささげ、献身し、瞑想すればいいのだろう"と。

 日本人としても、むかしから、存在の基盤として絶対を認め、且つ、その存在をどこの民族よりも依拠し肯定する、という根底にありながら、それを真正面に口にする、端たなさや、土くささを避けてきているというのが本心なのででしょうね。
 東京浅草生まれ、育ちの私の日本人の感じた、ひねた美学の側面を申し述べます。私は子どものころから、多くの人、会う人事の、真正面過ぎる、生真面目すぎる、理屈っぽい。などと嫌われ、変人、堅物といなされ、一刀両断に話を着られてきました。これはもう生きゆく道をたたれてきたのですよ。そして今は人の理論性を、そんな知的演繹なんど、などとはねつけています。
 以下、そんな日常を表わすものです。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
 四角いところを丸く掃く。
 義理と人情とやせ我慢。
 議論を外す   斜めに構える。
 苦労人の理解 まぁまぁ、それはそれとして。 理屈だけではなく。
 争いごとをさける 和を以って尊しとする  訴訟沙汰をさける。

 自分が泣かされてきたことを、今度は若い人にこんな態度で対しているこの、私なのです。日本の風土でしょうか。 超克でなく、人間の肉体生理のように、湿潤ななかで、まるめこみ、同化し、変化させ、生き安くしていく。
 物事の最初に、越えがたい、環境風土があるのではない。
 あるのはご近所の範囲の世界と、文化と、生活。そのための絶対。
 
 そういう絶対はなければ困るし、あるという暗黙の、真正面では決して、端たなくださないで、前提にした、斜めの生き方。
 絶対は認めている。そういう長いものには、よいものでも、あるべからざるものでも、最終的にはまかれる。まぁどの被統治民もそうかもしれないが。そういう絶対をうまく手なずけてしまう。
 そんな感想を持っているのですが。そして唯一理解してくれていた小学校の恩師には、中学になった時、「お前変わったな、全然理論を放棄したな。」といわれ、今も昔には回帰しようとはしない。
 つまり絶対をまともにみない。そうして自分の日常もてている。
 理屈はいい。これが五十数年の私の最も、非私的態度であり、楽の法則になってしまった。今もこれを出て昔の意識に回帰する意志を持たないで、これが自分性になってしまった。一面つらいがそれでいい、と。

この回答への補足

 個人的なことでお応えしたほうがよいと思うのですが いま スサノヲとアマテラスの物語を 継いでみます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔籠もっていた天の岩屋戸から出てくるところの〕アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。
 かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。

 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常の振る舞いとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。

 このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界が克服され 宗教によるその統治が克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。〔こう われわれは 表現します。分かりよい。〕この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。

 スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体によって 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。

     *

 スサノヲはこの世で イヅモのくにに 共同体をきづいて行きました。これが 日本における神の国のはじめ。イヅモ共同体が 神の国なのではありませぬ。イヅモのムラのスサノヲらにとって 神が王であることが時間的に生起した。これが 神の国です。逆に言い換えると イヅモのムラとアマテラスの世界 これら二つの世界の人びとに 神の国(真実の現実)を問い求める場が・いわば鏡としての現実が この世で 確定したのです。すなわち日本人としての《歴史》のはじまり。また 《やしろ(社会)》のはじまり。

 じつはまず 自分たちの歴史において スサノヲが宗教拒否の意志をつらぬいたこと(泣きいさちり)の中に そして この宗教拒否の意志を自分勝手に肯定(弁明)しようとしなかったこと(そのために敢えて破廉恥なことまでおこなった)の中に この問いを解く鍵が秘められていた。やりたい放題のことをおこなうのは この世の人間の出来事であります。泣きいさちるのは 人間の経験的な歴史の行為である。そこで これらの経験的な歴史の行為をスサノヲにおこなわしめたちからが あったのであって それは スサノヲをこの世から見捨てたちから この世から見捨てることにおいてかれを見捨てなかった力 であるとすでにスサノヲたちは 知っている。

 スサノヲは この力そのものを見たわけではありません。しかし この力がはたらいたというかの如く 追放という死から かれは復活することが出来た。これを 神がスサノヲに王となったと人びとは表現して了解した。しかも この表現の意味表示するとおりに スサノヲに神が王として顕われたというのでもない。それは このように表現することが より一層ふさわしいというほどに スサノヲらはこの力のはたらきを受け取った。そしてこれを見出し 知っている。
 言いかえると 神の国は この地上の国(血筋や人間の意志など)と 分かれているのではなく――ちょうど両者のあいだに 非武装中立地帯(no man's land)を設けて分け隔たっているのではなく―― 互いに混同して存在しているもののようだと。(つづく)

補足日時:2008/02/06 18:05
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この回答へのお礼

(つづき)
 二つの国は その国境を明確に分離し 隔絶させているのではなく 国境線が分からないほどに 互いに入り組んでいるのだと。いさちるの《いさ》は 《いさめる》のいさであり 泣いてばかりいると言っても そこに この《いさ》の意志(自己と他者との愛)が含まれていたのであると。愛とは この意味で むしろ中立の かつ絶対的な 関係のことだとも捉えられる。

 自分たちは 愛によって生まれた。これが 宗教拒否の意志の源泉。疑いを超えた人間のちからとしての愛。つまり同じことで 泣きいさちる中の いさの意志の源泉。非行をおこなうことの中の 生から死へのではなく むしろ死から生へと動く良心のみなもと。罪を犯さない生からやがて死へのではなく むしろやがての追放という死から復活へとはたらきかけた良心の隠れた愛のちから。だから罪人にはたらき 時間的に生起する王としての神。

 したがって 神は愛である。神は愛であるのではないか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 愛ということばは お嫌いだと思うのですが おゆるしください。

お礼日時:2008/02/06 18:23

「絶対という大うそを


ヨーロッパの荘厳さ」
司馬遼太郎の言葉を引用して。

絶対というのはない。それが日本で
絶対があると思ってきたのが西洋

日本に絶対はないか?といえば
あるというのが私の見解ではあります。

この時点で、絶対なんてないという人々と対立してしまいますが
(前提が違うから結論が違うの例です。)

それはなぜかというと、仏教者とのやり取りで感じたのですが
とてもとてもそれを相対化などしていないと思われます。
仏の代わりに神が来てもいいなど。
あくまでも仏がベースです。

信仰の余地もないと思います。
人は二つのものに仕えられません。

絶対化は相対化の先にあります。
無常の世だからこそ、変わらないものを求めるわけです。
無常をああ、無常だと言っていたのでは詩人でしかありません。
宗教の徒ではないわけです。

とはいえ、戦後史観は、絶対化への徹底した反抗であり
相対化ですからね。そうした時の中に私たちもいます。
この場合の絶対は国家なのでしょうが。
それに歴史家は大体、そうなるでしょうし。

絶対とは何か?というのもそれだけで一大テーマです。

さて。スサノオ語とアマテラス語ですがこれについては
やはり詳しくないので判断につきかねます(汗)
ただ、言語の対立に注目したところは面白いと思います。

詩人の語る世界と宗教者の語る世界は異なりそうです。
政治家の語る世界も異なりそうです。

ただ、テーマがテーマだけに広くなるのは確かです。
教えてgooは議論は禁止ですから、難しいですねぇ。

この回答への補足

★ 教えてgooは議論は禁止ですから、難しいですねぇ。
☆ そうなんですか。そこまでの認識はなかったです。回答者として自分の思うところを伝えようとして 批判や議論を含んだ文章を書いてきたことになります。質問者としても 知りたいところに向けて 回答内容についてさらに追究するかたちで やはり批判や議論を含んでいたと思います。議論のための議論であったら だめだと認識すればよいでしょうか。

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仏教者とのやり取りで感じたのですが
とてもとてもそれ(* 修行なりその成果の知恵なりでしょうか)を相対化などしていないと思われます。
仏の代わりに神が来てもいいなど。
あくまでも仏がベースです。

信仰の余地もないと思います。
人は二つのものに仕えられません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここのところ 少し意味がとりにくいです。《相対的なものだとは捉えていない》のに それを《信仰としても 受け止めていない》ということでしょうか。
 だとすると
★ 人は二つのものに仕えられません。
☆ というより どちらにも仕えていないとも 思えます。どちらも(経験思想としても信仰としても) 中途半端であると感じられます。


議論のおまけがゆるされるならば さらにスサノヲとアマテラスの物語です。
★ 日本に絶対はないか?といえば / あるというのが私の見解ではあります。
☆ とわたしも 同じく宣言するものです。その点 司馬遼太郎に叛逆です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。

 スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。

 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。

 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を――つまり 司祭としてであろうと一信徒としてであろうと その拒否を示した姿勢を――疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。

 わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時として そのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。

 ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれらを――おかした。

 ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。
 アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。宗教の拒否のその肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 絶対化は相対化の先にあります。
☆ というわけで アニミスムにしろシャーマニスムにしろ その他何やかや この世の秩序と福祉を第一義とする宗教という宗教 この宗教の無化・相体化 ここから――われらが 大叛逆者で大犯罪人であるスサノヲに―― 《絶対》が 顔を(もしくはその背面を)見せるにいたったのです。これは 言うとすれば 信仰であり 言わないとすれば 善悪の彼岸です。(わたしは ニーチェは嫌いですが)。
 というようです。議論になってしまいますか。

補足日時:2008/02/06 14:43
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そういえばここまできて、


絶対の定義をしていませんでしたね。

たぶん、brageloneさんの絶対とは
アウグスティヌスの神ではないでしょうか。

この現象の世界。ああ、言葉が難しいので難ですが。
そして、その外で(空間もないんでしょうけど)
時間さえも作ったという神。

これを一般論化されているのではないでしょうか。
どうでしょう。

でもそうだとしたら、私はアウグスティヌスを知らないんですよねぇ…。
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この回答へのお礼

 ホンネとタテマエ あるいはつまり 人びとがホンネを隠すという話しは No.19でのわたしの議論のなかの《アマテラス語とスサノヲ人間語》とのちがいで 解けませんか。けっこう いい線をいっていると我ながら思うのですが。

 このご投稿を読んで さらに思ったことは こうです。一方で 仏教のように 絶対については 触れないでいること 他方で 触れないけれど その余地を残していて その余地における信仰は 一人ひとりが自由に 持っているということ こうであれば よいように考えます。
 創造主・天地創造などなどは 脱皮していけるのではないでしょうか。

 独り言です。
 わたしは 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を読んでも パウロの書簡を読まなければ 何も分からなかった。パウロの書簡を読んでも アウグスティヌスの書物をひも解かなければ その内容が理解できなかった。アウグスティヌスの解説をとおして 聖書が読めるようになった。しかのみならず そこに記されているキリスト・イエスの神の信仰が与えられた。
 かれに逆らって水の洗礼を受けずに。

お礼日時:2008/02/06 00:31

 司馬遼太郎氏の言葉をふまえて、少々お答えしますが、質問時にいくらかあなた様に聞く時のあるべきかたちとしてお願いしておきたいことがあります。


 学問的な質問する際は、「概念」を定義することは義務です。そうでないとご覧のようにはちゃめちゃバラバラな回答になってしまい、それぞれの立場から「絶対」という概念がバラバラの意味で使われてしまい、新しい回答者には文脈がまったく見えなくなってしまいます。以前の回答覧も見てみましたが、あまりにごちゃごちゃになっており、参考になりませんでした。 

 絶対とは何か。揺らがないもの?動かないもの?普遍的なもの?こういったことが曖昧にされたままでは、私自身の回答もきわめて難しいものとなります。

 ただ私が思うに「神は絶対か」という問いではなく「神がなぜ絶対でなければならなかったのか」と問うべきだと思います。神が「絶対」でなければ、神でないといわれるやもしれません。でも、それでは絶対神とか絶対の真理というようなことの必要性が見えてこないのです。

〈絶対〉という概念はなぜ必要なのでしょうか。

 たとえば政治思想において、普通の学校の社会科でもでますが、「絶対主義」という概念があります。ヨーロッパ封建体制のことを意味し、地主などの権力者もいますが、通常「王」という権力、万民一君のシステムのことをいいます。この場合の「絶対」をひとまず王としておきます。
 ではなぜ王が必要であったのか。それはホッブズという政治思想家は「社会契約」という言葉において説明しようとします。こういう言い方すると専門家に怒られるかもしれませんが、とりあえず人々の秩序を平定するためには、王が必要だという論理です。王の存在意義は、そのような条件の下にあります。

 でも、こういう現実の権力者を保護する発想は、近代政治思想によって逆転して使われます。そこで登場するのが神です。ルソーとかロックというのは、いくらか神がかり的な思想です。たとえば人間に「自然権」というものがある、それは神から授けられた生まれながらの権力なんだといった具合です(かなり単純化していますのでご注意)。
 今の日本人からすれば、頭がおかしいんじゃないかと言われるかもしれません。でもこれはきわめて合理的戦略なのです。王という最高権力が猛威を振るうことに対して、人々をどのように説得するか、そこには超越的なものをもってくるしかない。それは誰もが侵害しえないもの、誰もが護るべきものとされるのです。

 こうした神に基づいて形成されてきた「普遍的価値」が今の世界の社会通念として根づくことになります。

 また、社会学・人類学・社会思想などの知見を総合的に見れば、神はもともと未知なるものへの恐怖を説明しうる原理として伝統的に必要とされました。たとえば日本で有名な「卑弥呼」の存在意義などはそこにあったのです。今からいえば、なんだか田舎くさいとか、うさんくさいと言われてもしかたがないようなことではありますが、どこの世界でも伝統的社会においては同じようなもの。
 たとえば、今のように天気予報はありません。これは当たり前のようですが、実はわれわれが合理的に動くことを助けてくれます。雨が降らないということについても説明を与えてくれます。

 たとえば、かつての日本でも大部分は農作物の生産が死活問題につながる問題でした。もちろん今のような輸入でまかなえる時代でもありませんから、日照りがつづくということは命にかかわるものでした。

 そのようななかで、呪いとか、まじないに執着して、必死に祈りたいという文化が出てくることは当然かもしれません。ですから、ある意味で世界に宗教のようなものがどこにでもあるということはおもしろいことなのです。

 ヨーロッパもかつては複数の神です。古代ギリシャなどにさかのぼれば分かります。しかし、やがて絶対神という形式を強めていかざるをえなかったのは、強力になった封建勢力を打倒する論理をつくりあげ、普遍主義的思想を描く必要にせまられたこともあることでしょう。

 ところが日本はどうだったか。江戸幕府がなぜ300年もの間続くことができたのか?これは不思議なことです。江戸幕府がよほど立派だったのか?でもただクリスチャンに対してはきわめて閉鎖的であったということは日本の歴史です。「踏み絵」など。

 1つは「島国」だったという事情があります。もう1つは「エスニシティ」の問題が日本では深刻になりませんでした。そのため明確な宗教の必要性もありませんでした。もともと宗教は民族性のアイデンティティと結びつくことで広がる傾向があるからです。それは民族の存在意義を神に委ねて超越的論理を引き出すためでした。
 したがって日本で広がったのは土着的な宗教信仰、あるいは生活密着的な信仰です。今日でも日本に残る「神道」はその典型例です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

 念のためいっておきますが、日本には民族アイデンティティというものはあまりありませんでした。少なくとも明治まではそうです。それは身近に対象とすべき民族が存在しなかったことでかえって無自覚であったということでもあり、また「日本」という観念は明治政府によって構築されたものだということがあります。このあたりは歴史学の分野で最近明らかにされていることです。

 ですから、今なお日本では影響が強く残り、「絶対神」というものの存在意義はあまり存在しません。 

 おもしろい話ですが、おとなり韓国ではキリスト教は爆発的に普及しているのに、日本ではどういうわけかいまいち普及しません。これはただ日本人が先に豊かになったからというわけではないと思います。この理由は韓国の血縁主義・家族主義の強さにあるように見えます。

 でも他方の日本は戦後、ずいぶん「孤立」主義となりました。私はあえて個人主義とはいいません。日本では個人は自覚的に独立して存在していないし、集団主義とも思いません。そのわりには簡単に離脱したり拒絶したりするからです。
 今の日本は何にも深く関与しない孤立主義。

 そこには絶対だけでなく、何もあまり関わってほしくないという態度が見えます。家族もいやだ、親戚もいやだ、ムラもいやだ、共同体もいやだ、チームもいやだ・・・薄い関係でいたいと思う。
 ある種の社会的欲求としてそういう仲間をもつ意識はありますが、いささか弱い。核家族がふえたといっても、家族依存のようにも見えない。バラバラです。アメリカに比べればどうも弱い。

 なぜこんなふにゃふにゃになってしまったのか(笑)

 政治家にも物言わない。学校でも会社でも馴れ合いの論理がどこでも働く。「さわらぬ神にたたりなし!」こそ日本人の根源的思考。

 日本人は無宗教・無思想だと思います。それが結論。

この回答への補足

(つづき)
6.国家とは何か
 社会が 二階建ての構造となったのに伴ない われわれの話す言葉は あたかも二重言語となった。つまりアマテラス学術用語じたいに 問題はないのだが これを弁論術として使う人間の問題が生じた。アマテラス語弁論術は 結果として ますますスサノヲ人間語から遠ざかっていった。理論的で客観的な内容を述べるなら 貴いということになる。どうなっているのか。

7.アマテラス語弁論術
 おそらく アマテラス語弁論術を用いる者は 権限・権力を伴なった地位にあるからである。これの保守が始まったのだ。
 乱暴に言って 悪化が良貨を駆逐していく。
 なお残るかに言われる《縄文人的なヨリなる原始心性》を《寄せる》わざも アマテラス語弁論術として 発達する。この世の秩序のためである。
 かくて 社会は スサノヲ市民圏( Susanowoschaft )とそしてアマテラス公民圏( Amaterasutum )との二階建てが いくらかの期間――世界史においても――つづくこととなった。

8.なぜ われわれスサノヲは 慎み深いのか
 たとえ一時期・一部分としてであれ 理不尽なあつかいを 公人から受け続けてきたからであろう。表では スサノヲも おおやけの人間として アマテラス語を話す。アマテラス語で話すと 遠慮深く ちょっとやそっとでは ほんとうのことを口に出さない。
 われらがスサノヲ語 われらがスサノヲ人間語は 胸の内にしまってある。

 だが なぜ?????????
 小野田さーーーーん!!! 戦争は終わったよーーー!!
 ・・・・・
 これが わたくしの疑問です。

 すなわち 
★ 《日本人は無宗教・無思想だと思います。》
☆ と言い 《自分もそうです》と 誰もが 判を押したように同じく言うのは これは あくまで アマテラス語方言でのつきあいに限るのではないか。・・・
 なぜ 人びとは 踊り出ていかないのか?? 
 時は来たのではないのか?

 演説調で失礼しました。
 (お礼欄と補足欄とを続ける順序をまちがえました)。

補足日時:2008/02/05 20:54
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この回答へのお礼

 ancestorさん ご回答をありがとうございます。
 ancestorさんのご論稿に触発されて次のような物語をまとめました。大筋は むろん すでに持っていた見解です。ご返事として 横からのものとなるかと思いますが よろしく受け取っていただけるなら 幸いです。

  § ニホン人の物語
1.《ヨリ》なる知性
 歴史的な自然本性に目覚めていない段階 これは 《ヨリ》(憑依)なる原始心性である。アニミスム あるいは シャーマニスムと言う。
 知性が まだ 何ごとにも 依り憑く傾向にある。その《何ごと》は 《かみ》とも呼ばれた。

2.《イリ》なる歴史知性
 この歴史的な自然本性に自己が到来するなら これは 《イリ(入り)》である。ものごとに対して ヨリ憑くことが少なくなった。
 このイリなる歴史知性で 人間の生活 人類の社会と歴史は すでにふつうに 営まれていく。

3.《イリ》知性からさらに《ヨセ》なる超歴史知性の出現
 イリなる歴史知性に基づきつつも まだ 昔のヨリ(憑依)なる原始的知性の状態にある人びとは 残っていた。これを導こうとして 自らの力のもとに かれらを《ヨセル》(寄せる)ということを行なう人間が出た。広くアマテラス族と呼ぶ。
 昔の《ヨリ》が残っていることに あせったわけである。《イリ》なる自己還帰の芽生えるのを待つ忍耐に乏しく ヨセなる歴史知性を掲げた。

4.スサノヲとアマテラス
 一人の《イリ》知性であるスサノヲ(市民)が 精神とその知性を耕す。その精神は 特には 光に喩えて 《アマテラス精神能力》である。
 一般にこのアマテラス能力が優れていると 指導者の地位に推される。指導者とそのほかの人たちとのあいだで 一種の《アマテラス公人(A)‐スサノヲ市民(S)》の連関がつくられる。これは 社会的な自然であろう。

5.アマテラス公民は さらに社会に第二階を築き上げた
 おそらく社会は もともと スサノヲ市民たちの社会として成り立っていた。平屋建てである。そこへ その上に アマテラス族は その優秀な能力にものを言わせて すでに社会から単独分立してのように 第二階を築き上げた。社会が 二階建てとなった。
 ただしこの国家を保守するためには アマテラス語が その弁論術として 発明された。スサノヲ人間語から洗練された 普遍的な概念を駆使する専門のことばである。
(つづく)

お礼日時:2008/02/05 20:37

この系統の話題に詳しい人から見たら


私のように神道を一神教的な視点で眺めるのは
まぁ、常識から言えば非常識なわけで、
的外れ、所詮は物を知らない人間。で、終わっていいのですが

天照大神のほうはよくある宗教形態の神だと思います。
いろいろあるでしょうが、特筆することもないと思います。
人間と関わってそれでどうの。という。

日本神話は、エジプトだかギリシャだかに似てるそうですよね。

個人的には天之御中主神の発想(発想と呼びます)
に辿り着いた人間がいたと言うことは評価されるべきだと思います。

どんな神々が登場して、なにをしようと、どうなろうと、
この神の神性は傷つけようがないのですから。

古事記で世界が創造されるのは、もっと後ですからね。

造化三神として祭る形態だと、これはよくあるパターンの宗教形態で
特筆することはないと思います。

私が評価したいのは「隠れた」です。
日本人も「本音」を隠しますからね…。

今回の質問の答えにピッタリかな。と。

あるけど、見つからない。知りえない。
できることは無視するしかない。しかしそれでは神性を否定できない。
個人的にはこれをどう反駁したものか、とは思いますが。

この回答への補足

 遅くなりました。お礼欄からのつづきです。

 隠れたる神といえば 遠藤周作の言う《沈黙》の問題です。(遠藤を買っているわけではありません。神から何も答えがないという沈黙の問題は 普遍性があります)。まぁ ただし このことの指摘まででしょうか。
 それだけでも 《独り神と成りまして 身を隠したまひき》のアメノミナカヌシとの対照ができるようにも思います。そして これも 《沈黙とその持続》というだけですが。つまり
★ あるけど、見つからない。知りえない。/ できることは無視するしかない。しかしそれでは神性を否定できない。
☆ という見方につながっているということで どうでしょうか。

 それにしても アメ(天)のミナカ(御中)と言って 空間を規定する言葉によって表現しており また ヌシ(主)と言って あたかもヤハウェーのごとく 主であり人格化した存在であるかの恰好です。ですから それほど特殊だとも見なくてよいのではないでしょうか。
★ 個人的にはこれをどう反駁したものか
☆ というように 反駁し得たかどうか 分かりませんが。つまり そういう必ずしも特殊ではなく ある程度一般的な《発想》だということで・・・?

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私が評価したいのは「隠れた」です。
日本人も「本音」を隠しますからね…。

今回の質問の答えにピッタリかな。と。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《ホンネ》の問題になると 複雑になります。あるいは 議論のほうが 複雑になりがちです。
 これは ばっさり斬るとすれば こうなるでしょうね。
 つまり 《「本音」を隠しますからね》という事態が 現実であるなら そうある限り そうしている人や民族は いまだ《人間となる》ことを――誰に遠慮してなのか あるいは 別の理由からなのか―― 真剣に 考えていないということだと思われます。まだ《十二歳》に留まっているのでしょう。そうなると どうなるか。
 もしまだ日本人が人間以前であるとしたなら(――つまり 一たん 崇神ミマキイリヒコと市民オホタタネコとのミワ(三輪)市政で 歴史知性なる人間は生まれたと わたしは見ますが そのあと また 縄文人的な歴史知性以前の知性に逆戻りしたのだとするなら――) どうしましょう。
 内政干渉することはできない相談です。どうしましょう。あたかも 幻想の繭の中に閉じ籠もっていたいと言うのなら 好きなようにさせるしかないのかなぁ。
 わかりません。


* なお シントウは 一神教ですよ。それも たちのわるいキリスト教と同じように たちのわるい部分があります。
 たちのよいものであるなら 多神教という名と形での唯一神宗教であって その自身とは別個に 他の宗教を 同じ社会の中に その違いを認めつつ 受け容れるでしょう。ともすれば その多神の中の一神として キリストの神を位置づけて 受け容れたとすれば これは ただ唯一神信仰を侮辱したものの他ではありません。ヒンドゥーイスムが ブッディスムを呑みこんだという話しを いつか していましたね。その種の問題ですね。

* とにかく 世界には 神と無神とが持たれていて 神の中には いろんな名称があるということ このことが 大きく信仰の一般形態として 皆に受け容れられることが 一つの目指すべき目標ではないでしょうか。

補足日時:2008/02/05 15:40
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この回答へのお礼

 くわしくは 補足欄に書きます。(自信があるわけではないですが)。

 二点。《隠れたる神( Deus Absconditus )》でしたか これの問題とつながるように思います。こちらは それでも《凸》のかたちでしょうし アメノミナカヌシのほうは どこまでも《凹》のかたちでしょうが 《隠れたる》が 現実に何がしかの(あるいは 大きな)意味を持つとすれば 類型的に見て 同じであるか または 互いに比較してみてもよいと思われます。

つまり 一般に シントウも 民族内部だけで 営まれるというわけには もう行かないのであって(世界的な市民どうしの交通) やはり比較対照の場に――いっさい 《触れない・表に出ない》と言っていても―― 出されてくるとは思います。
 
 不一にて。(野暮用で 今から出かけます)。

お礼日時:2008/02/05 11:18

>>15です。



 今回は回答としての投稿。
 全て反論です。

>「形而上に於いての≪絶対≫の概念」

 これは貴方が証明する必要があります。
では証明して下さい(それは具体的に、何ですか?)。


 以下「形而上に於いての≪絶対≫の概念」が存在するとしての反論。

>「絶対=神」はあくまで想定上の領域です。
なぜなら無限・永遠は そうでない人間にとって、分からないのですが有るとも無いとも、いづれにも断定できないからです。

 0.000000000000000000000000000000000001(天文学的数値)は存在しないと同意義。
(科学的な立場から言えば、存在しないと言える。)


>≪分からない≫と言いましたが、これも正確ではありません。
≪その想定した領域が存在するかどうかについて、人間が分かるか分からないかが、分からない≫のだと考えます。

 「人間が認識出来る範囲を超越している部分に、神がいるから、発見不可能」では存在しないと同意義。
 何度も言いますが、無限世界の者が、有限世界で例え概念上に表現された時点で、存在しないと結論付けれる。

 よって、「形而上に於いての≪絶対≫の概念」として表現された(例として代用された)「神」は存在しない。
 つまり、「形而上に於いての≪絶対≫の概念」というものは存在しない。

 懐疑論を論破しない限り、「神」の存在を認める事は不可能。
 例え、無限世界の「神」は存在するとして、たまたま有限世界で「表現」されたという論は筋が通ってないのではないか(都合が良過ぎるのではないか)?


<指摘>
・上記の懐疑論的な発想を反論出来ていない。
・「形而上に於いての≪絶対≫」を具体的に証明しなければならない。


>「(自然科学の)斉一性の原理」

 これは形而下の問題でしたので、無視で、汗。


 個人的に、懐疑論的な立場で言えば、「神」は否定していると考えているので、懐疑論を論破しないと、進展しないと思います。
 美しい自然を「神」が創造したという意味不明な考え方は、脳内から捨てて欲しいですね(某宗教の方々には)。

この回答への補足

 yuki-0217さん 遅くなりました。お応えいたします。

★<指摘>
・上記の懐疑論的な発想を反論出来ていない。
・「形而上に於いての≪絶対≫」を具体的に証明しなければならない。
☆ 想定をするというとき 何か 特別の前提や問題がからんでいるということはありません。ただ単純に想定するのです。
 ですから たぶん yuki-0217さんの提出されている《懐疑論》の問題とも 絡んでいないと言いますか それとは別の道から入っているのだと思います。
★ ・「形而上に於いての≪絶対≫」を具体的に証明しなければならない。
☆ 厳密には 《形而上》という言い方も 正確ではなかったと思いました。それが 身体や物と区別された精神を言うとすれば 明らかに 間違っていました。むろん肉(身体および精神)を超えた領域に 絶対を想定するのです。精神は 神ではありません。

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
よって、「形而上に於いての≪絶対≫の概念」として表現された(例として代用された)「神」は存在しない。
 つまり、「形而上に於いての≪絶対≫の概念」というものは存在しない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まづ 上に述べた理由で 《形而上に於いての》を 申し訳ないですが 取り払います。
★  「≪絶対≫の概念」として表現された(例として代用された)「神」は存在しない。
☆ これは したがって――つまりあくまで想定ですから(そして そのことは 一つ前のNo.16へのお応えをも参照していただくとよいと思いますが)―― 一つのありうる表現のかたちです。つまり無神論です。
 しかも この無神論は 想定じょう 神は存在すると言って 自己の信仰を説明表現する場合(つまり 有神論)と まったく対等・同等に自由だという意味になります。
 無神論は 経験科学で証明したわけのものではないはづです。そこが みそです。つまり 広くは 信仰の一つの形態なのです。有神も証明できませんが 無神も同じくです。

★ 美しい自然を「神」が創造したという意味不明な考え方
☆ これは あくまで まづ第一に 有神論にもとづき さらに第二に その神を説明するとき いわゆる擬人法を用いて 表現したという意味です。そのほうが一般に――その当時の昔には―― 分かり易いと見なされたのでしょう。あくまで 第一に 想定であり 第二に 仮りの代理のことばで表現している この第二の付随事項として 擬人法で表現することもあった。このようだと考えます。

補足日時:2008/02/05 15:17
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この回答へのお礼

 いま11時です。(20080205)
 ちょっと仕事が入りました。ちょっと行って来ます。
 ご返事が遅くなりますが あしからずご了承ください。(補足欄にて)

お礼日時:2008/02/05 11:07

どうも、返答感謝致します。


しかしながら誤解があるようなので少々補足します。

まず先の私の回答ですが正確には「私にとっての《絶対》足りえるものは存在しない」です。
私の考える《絶対》の概念が正しいと断定することは不可能であり、その《絶対》は「私が考えうる限り最も《絶対》に近く、そう呼ぶに値する可能性のあるもの」までしかいかないのです。
そのようなものを理解したことで《絶対》の概念を認知し理解したと言うことは恐れ多くてできません。
そのようなことができるとすれば、己が《絶対》足りうる自覚を持つ者だけでしょう。
なお、私の考える《絶対》とは「他によって己を変えることがなく、また己を変えることができないもの」です。

これを踏まえた上で再度目を通していただければ幸いです。


それと私は他の方への補足でされているような宗教的な目線の哲学への思考は貧しいのでご勘弁を…

この回答への補足

 さらにご回答をありがとうございます。

 ひょっとすると――これは yukiyama20さんからのヒントだったのですが―― 絶対の概念を理解したという姿勢を示すなら 特に日本人としては やまとだましいを敵に売ったというような気になるので そのことは あからさまには触れない ということなのでしょうか。

 でも きちんと理由を示しておられますので これにお応えしたいと思います。
 と言っても ですが 二転三転して 同じことのようにも思います。
★ 正確には「私にとっての《絶対》足りえるものは存在しない」です。
☆ こうだとしても 《私》は そのとき《絶対》の概念を思い描いているとは捉えられます。
★ 私の考える《絶対》の概念が正しいと断定することは不可能であり・・・
☆ そういうことではないと思いますよ。そのために 概念の想定という第一段階と そしてそこから信仰として その絶対者とわれとの関係をさらに言葉で説明してくる第二段階とがあると考えました。
 第一段階では 《正しい》かどうかは関係ありません。第二段階では したがって 《正しい / あるいは 存在する》と想定する人もいるでしょうし または 《正しいとは決め付けられない / ゆえに 存在しない》と想定する人もいるでしょう。
 (ちなみに いづれかに《断定する》人は ただ そのように《思いこむ》だけのことであって 《信じる》ではありません。ですから 思いこんだその神(あるいは無神)は 絶対の概念にのっとった神(ないし無神)ではありません)。
 (絶対の概念にのっとった神あるいは無神は したがって 互いに同等・対等な――あくまで信仰としての――立ち場です)・

★ その《絶対》は「私が考えうる限り最も《絶対》に近く、そう呼ぶに値する可能性のあるもの」までしかいかないのです。
☆ その通りだと考えます。ですからそれを超えた領域を想定するということですが こんどは そのとき《想定する》というのなら やはりその想定という想像も いまこの《限り無い近似値》までしか達しないというべきではないかとの疑問が出るかも知れません。これも その通りです。
 では なぜ どんな理由で 想定しうるのか。すべての《考える》という経験思考を打っ棄って そこに《信じる》という心の開け(あるいは伸び)がもしあるとしたなら その事態を 仮りに表わすものとして 《超経験・無限・絶対》を想定してみるということではないか。もっと乱暴に言えば そういう《ことば》があるということです。ことばがあれば われわれは 定義しておきます。

 この定義ということまでは jd8hnshuahさんも 認めておられるのではないでしょうか。とうぜんですよね。というお話しだと思うのですが いかがでしょう。

補足日時:2008/02/05 11:02
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連続投稿失礼します。



 やはり投稿者の主張には無理がありますね。
神の存在は否定可能ですが、自然法則は絶対ではないです。
 ですから、その絶対は存在しない。
よって、投稿者の主張はナンセンスである。
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この回答へのお礼

 No.13と14へのご返事で お応えできたかと思います。

お礼日時:2008/02/04 14:46

>>3・6・7・8・9・11です。



 自分自身の懐疑論的な立場を敢えて反論するならば(もうひとつの意見として)。


>絶対

 存在しない。
 「(自然科学の)斉一性の原理」が絶対なのか?
 それでも、その絶対と言われる「(自然科学の)斉一性の原理」にしても違った法則を取る可能性はある。
 よって、絶対は存在しない(規則以外の変化が存在する時点で、絶対ではない)。

 必然的に、この論題は終わる。
何故ならば、絶対は存在しないから。
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この回答へのお礼

 「(自然科学の)斉一性の原理」は この世の経験現象にかかわるものです。

 有限で可変的で可謬的で経験合理性で捉えた相対的な世界の理論・原理は 神ではありません。なんらかのつながりがあるか あるいは ないか それは 一人ひとりの信仰にゆだねられています。そして 有無のどちらにしても 互いに対等な態度であるとなります。

 《絶対は存在しない》と断定したなら その断定者は 絶対であるということになります。なのでは? 
 《存在する》と断定した場合も 同じですが どちらの場合にしても 主観の内面で その信仰という態度を みづからが決めることができる。しかも その表現を 人に公表することまでは その自由が認められています。ですから 《わたしは神を信じる》という場合も 《わたしは 神など存在しないと信じる》という場合も どちらも 自由です。

 問題は このような信仰(つまり ごく一般的に 有信および 無信と称する信仰)の想定とその仕組みを きちんと認識して しかも そのとき 世の中には 有神論と無神論とがあるのだから 互いに他を認めあって 共存することが 肝心なところだと考えます。
 むろん 有神論のあいだでも その神には いくらかの名称のちがいがあって その信仰内容も ちがって来ているようですから それらの間でも 互いにその差異を認め合うことが いちばん大事なことだと考えます。(批判も 自由だと思います。すべては 話し合いだと思います)。

お礼日時:2008/02/04 14:45

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