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 一般論です。つまり 一般論として提出することができるほどだという観察があります。
 すでに一度 問うたことがあります。
  Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか
   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html

 たとえば 仏教では 人間を初めとして有情には 仏性があると言います。例外がなければ この事態は 絶対なのではないですか。
 八百万の神々は 絶対でしょうか。そうでないでしょうか。あるいは わざと あいまいにしておくのでしょうか。もしそうだとすれば それは なぜでしょう? 
 曖昧にするということは 絶対と相対との区別を知らないわけではない。知っていて 最後の結論を言わないという事態であるはづです。
 
 司馬遼太郎が 短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。
  http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/si …
(第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。
 このように効用もあるはづですが もし理解したという姿勢を見せないのだとすれば それは なぜでしょう? おしえてください。

A 回答 (33件中21~30件)

>>3・6・7・8・9です。



 今回の回答は、整理として投稿します。


<条件>
 「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」を「神」と言い換える。

 予想される反論に対しての反論
 (1)神は人間である。
→人である時点で、神ではない。

 (2)神は創造上のものである。
→創造された時点で、神ではない。
→無限世界の者が、有限世界に現れた(創造された)時点で矛盾が発生している。


<導入>
 神:無限世界
 人・言葉:有限世界


<重要>
 無限世界の神が有限世界に(概念上だけでも・言語上だけでも)存在した時点で、存在しないと同じではないか。
 よって、神は存在しない。


<考察>
 (1)宗教的な立場
→信じることでしか存在しない。
反論→存在してしまったら、存在しないことになる(←の反論として、概念上・言語上でも存在してしまっているので、存在しないのではないか?)。

 (2)科学的な立場
→発見されてないから、存在しない。
反論→存在したら(発見されたら)、存在しないことになる(←の反論として、姿・形を発見してしまったら、存在しないのではないか?)。

 (3)言語的な立場
→人間が言語を持つ間しか、(存在するとしても)存在しない(←の反論として、言語上で表現された時点で、存在しないのではないか?)。

この回答への補足

 たぶん 論理を厳密にして規定しようとされているのではないでしょうか。
 問題は (1) 絶対=神は あくまで 想定じょうの領域です。なぜなら 無限・永遠は そうでない人間にとって 分からないのですが 有るとも無いとも いづれにも断定できないからです。《分からない》と言いましたが これも 正確ではありません。《その想定した領域が存在するかどうかについて 人間が分かるか分からないかが 分からない》のだと考えます。その意味では もし 神をめぐって その信仰として言うとすれば 有るという有神論と 無いという無神論とが 互いにまったく同等に 有り得るということになるのです。
 《絶対=無限=永遠》の世界では 有ると言っても 無いと言っても どちらも 通用するのです。有無を超えているからです。また 部分が全体に等しく 部分どうしも 全体と同じものとして 互いに等しい。
 あとは それぞれの信仰者の自由な表現の問題となります。仮りに《イワシのアタマ》と言っても 構わないでしょう。ただし たとえば女神であるとか あるいは 善神と悪神との両方が 共存しているといったような仮想表現は だめです。善悪だとか 女だとかは この有限の世界での概念であるからです。この人間世界のあり方(善悪や男女)を 絶対の世界に 勝手に投影しているからです。つまり《イワシのアタマ》にしても その神を《魚》だと規定しているとすれば それは 経験事実を 超経験の世界に投影して決めつけていることなので だめです。仮りの代理の表現だったら いいわけです。

 問題の(2)は 特にキリスト信仰の場合です。そこでは

  イエス(人間)=キリスト(神=絶対)

というように 有限=無限であると 規定しているところです。これが どこまでゆるされるのか はなはだむつかしいところです。→
《Q: 〈イエスなる人は神なるキリストである〉はゆるされるのですか。= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3043372.html 》を参照してください。

 そのドグマについて 多少とも説明しようとすれば 次のようです。《人間は神(三位一体)の似像(にすがた)として造られた》を図式にしたものです。

三位一体(光なる神)・・・:父(光源)‐子(発耀)‐聖霊(明るさ・暖かさ)
                   ↓     ↓     ↓
三一性(精神の光/人間):記憶能力 ‐知解能力 ‐意志能力
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・:精神の秩序‐その視像 ‐愛(自治・自立)
社会行為・・・・・・・・・・・:組織行為 ‐生産行為 ‐経営行為
国家組織・・・・・・・・・・・・:司法府  ‐立法府  ‐行政府


 ですから 無限(神)と有限(人間および経験的な社会現実)とが 互いに 想像じょう 多少のつながりがあるようにも思えますが いかがでしょうか。
 すなわち 一般に人は(そして日本人は) この点について 表では ほとんど無視するという態度に出ると思うのですが それは いったいなぜだろうというのが 質問の趣旨になります。

補足日時:2008/02/04 14:27
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やはり私の勉強不足ですが、



いままで、天之御中主神が
批判されたことがあるのか?ということです。

徹底的に無視されてる点が逆に
日本における絶対性の凄さだと思います。

現れて、すぐ姿を隠したんですよ。

よくこんなこと思いつくなと。
神学論争を回避してますよ。

もうそれを信じるか、信じないかのところまでいっています。
もし八百万の神を受け入れ、なおかつこんな絶対性
を確保した神も受け入れているのであれば

天地創造の神を否定したところで、異教に対して排斥を
行っているだけということになってしまいます。

だから、私の意見としては、日本の絶対性は、実は半端ではない。
というのが答えです。

この回答への補足

 アメノミナカヌシは 例の河合隼雄がよく持ち出す事例ですが よくもまあ(これは 正負から中立のおどろきの表現です) 引っ張り出してきましたねぇ。ぎゃふんと言わせたいといったところでしょうか。
 とも考えてみましたが そうでもなく もともと 奥の院のその奥に 深海の底のそのまた底に あなたの心(思想)の問題としても じゅうぶん はっきりと しっかりと 横たわっているものなのでしょうか。
 
 このところ うううーんと うなりっぱなしです。

 このように 綴りながら 反論を考えているのですが ひとつ 思いつきました。
 《日本国および日本国民の統合の象徴》――そしてそれは 人間として目に見えるかたちで存在している――と《アメノミナカヌシ》との関係もしくは区別の問題になるのではないか。
 簡単に 象徴をアマテラスとよぶことにしましょう。アメノミナカヌシが まったく 何にも触れられていないということと そのことを アマテラスの存在や情況などに当てはめようとすることとは きちんと区別されなければならない。もし区別されているのなら アメノミナカヌシ教のその重低奏なる無言の響き これを認めることにしましょう。シャッポを脱ぎましょう。どうですかねぇぇ。
 ですから もしこの沈黙のうちに強烈なひびきを奏でている日本教のアメノミナカヌシを言うことによって アマテラスのことを暗に言っているのだとすれば それは ためにする発言であるでしょう。いわゆるアマテラス予備軍の仕事です。いかがでしょうか。

 つまり もし両者が峻別されているとすれば アメノミナカヌシが いかに半端ではない絶対性を表わしていたとしても 構わないわけです。そういう神話であり 物語です。なのでは?

補足日時:2008/02/04 11:50
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この回答へのお礼

 仏教=人為論にかんして 参考になる解説を見つけました。引用しておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
水野弘元:仏教要語の基礎知識 1972 第三章・一(p.115)
 仏教では存在するものとしては インドの外教や西洋の哲学などが説くような本体や実体を説かず 時間や空間の中にあって われわれが感覚や知覚で認識することのできる現象界だけしか認めない。時間空間を超え 生滅変化にわたらない永遠不滅の存在としての本体や実体といわれるものは 仏教によれば これを認識判断する能力がわれわれにないから それが存在するとも存在しないとも論証することができず またかりにその存在が認められたとしても 本体界はわれわれの世界としての現象界とは無関係なものであって 修行や悟りには役立たないものであるから これを問題にしてはならないとした。この意味で 仏教では存在するものとしては 現象世界のみに限って考察することになった。つまり われわれがその存在を認識し それについて判断を下すことのできるものは 時間空間の中にあって われわれに経験され得るところの現象だけである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小滝透:神の世界史 ユダヤ教 1998 p.157
 〔ヨブが神に関して 間違えて 応報論で捉えていたということを承けて〕
 この場合 仏教に見られるように 絶対神の要らない宗教ならば 応報論は罪ではない。いや 仏教者にとっては 因果応報の究明こそ覚者になる条件なのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 降れば土砂降りで 二箇所 見つかりました。かんたんに こういう見方は あったということに 驚きです。
 こうなれば 仏教は 経験科学・経験思想です。
 《絶対》が想定であるという説は この仏教観と合致すると思います。
 仏教は そのとき 信仰の生じる余地があるということにも 触れておくべきだと思います。自分は 無記であるということと 矛盾しないのですから。

お礼日時:2008/02/05 23:26

まず…理解できていないのに理解したという姿勢は見せられません。



そして理解できないのは《絶対》足りうる存在が存在しないから。
もしくは《絶対》でない存在の私に《絶対》の存在が認知できないからでしょう。

真実が下の方であれば議論終了ですが、私個人は上の方であると思っています。

学問は幾何学にせよ科学にせよ、AがBでありBがCであったのだからAはCであって欲しい(あるはずだ)
所詮はこういう物で《絶対》と呼ぶには程遠い代物です。

自然(動植物を除いた全て)の法則もまた《絶対》足りえません。
動植物の動きによって流れを変えられてしまうからです。

では人間(個人)の存在は《絶対》でしょうか?
いえ、己の命を捨てて何かを為そうとする者が居る以上《絶対》足りえません。

人によって幾多の神が存在しますが、それも《絶対》ではないと思います。
宗教では基本的に人間を作ったのは神であるか、神の末裔が人間である。
とされますが…ならば何故《絶対》な神から《絶対》足りえぬ人間が生まれましょうか?

よって、上記の通り…《絶対》足りうる存在は存在しない。
と、結論付けさせていただきます。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 ううーん。大体は おっしゃるとおりだと考えるのですが 細かく見ると 正直なところ いま少し こうじゃないか ああだと思うという感覚が起きてまいります。

★ まず…理解できていないのに理解したという姿勢は見せられません。
☆ そのとおりですね。買いかぶりがありました。

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
そして理解できないのは《絶対》足りうる存在が存在しないから。
もしくは《絶対》でない存在の私に《絶対》の存在が認知できないからでしょう。

真実が下の方であれば議論終了ですが、私個人は上の方であると思っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここは おそらく 《〈絶対〉なる概念の想定》とそして 《その想定上実際に生じてくる信仰という事態》との二つの側面に分けて捉える必要が起きているように考えます。
 想定もしくは定義としては 《存在するか しないかが 分からない領域》つまりさらには《それが分かるか分からないかが 分からない領域》だと思います。
 この《絶対》が 一般に《絶対者》として そしてさらに一般に《神》として 人によって抱かれるという事態が生じます。つまり学問一般の《考える》ではなく それを超えた《信じる》という生活態度です。 
 じつは この信仰者にとっても 《〈絶対〉でない存在の私》なのですから 《〈絶対〉の存在が認知できない》というのは 当然であり ふつうのことです。(主観の内なる出来事としては まぼろしとしてでも 見た・分かったという瞬間があるかも知れません。《心の清い人は幸いである。神を見るから》)。
 かくして
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
学問は幾何学にせよ科学にせよ、AがBでありBがCであったのだからAはCであって欲しい(あるはずだ)
所詮はこういう物で《絶対》と呼ぶには程遠い代物です。

自然(動植物を除いた全て)の法則もまた《絶対》足りえません。
動植物の動きによって流れを変えられてしまうからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ となります。次は 結論ですが 一面では 上と同じことを述べておられると思いますし 他面では 《何ごとも移ろい行く経験世界》には 《絶対》はないというその定義そのものを明らかにしておられて けっきょくは そのかたちで 《絶対》の概念を想定した結果となっており それをとうぜんの如く理解したという姿勢を示しておられる。こういうふうに受け取りました。

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
では人間(個人)の存在は《絶対》でしょうか?
いえ、己の命を捨てて何かを為そうとする者が居る以上《絶対》足りえません。

人によって幾多の神が存在しますが、それも《絶対》ではないと思います。
宗教では基本的に人間を作ったのは神であるか、神の末裔が人間である。
とされますが…ならば何故《絶対》な神から《絶対》足りえぬ人間が生まれましょうか?

よって、上記の通り…《絶対》足りうる存在は存在しない。
と、結論付けさせていただきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 一点だけ やはり細かいことを述べます。
 《〈絶対〉な〔る〕神〔が〕〈絶対〉足りえぬ人間〔を生む〕》という話しは 一つに 《絶対》をあくまで代理して仮りに表現したもので さらに擬人化して表現しています。分かり易いようにです。もう一つに それはすでに――主観の問題にとどまるという信仰の領域なのですが それだけではなく―― 《絶対》であるなら 何でも出来るという想像がはたらいているという恰好です。全知全能だというわけのようです。主観の中で そういうふうに神を ことばで説明しようとした結果だと思います。主観は自由であり その表現の自由までが 保証されています。
☆ つまり わたしが受け取った内容としては 
★ …《絶対》足りうる存在は存在しない。
☆ という判断じたいが 《〈絶対〉足りうる》という視点において この《絶対》という概念をすでに想定しており 逆説的にでも それを定義した恰好となっていると思うのですが いかがでしょう。

補足日時:2008/02/04 06:49
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自由という名の不自由。


日本を扱おうとするとこんな言葉が思いつきます。

私は神道に関してはまるで知識がないのでなんともいえないのですが、
とにかく宗教という面で見ると日本は不可解です。

日本という概念がいつできたとか、そういう話は置いといて。

ほんとうに無宗教・無神論なら、神仏の批判が徹底的に
できそうなものなのですが
いざそれを(哲学のキリスト教におけるが如く)やろうとすると

反発が多いわけです。
たぶん、日本は宗教的には眠っている状態にある…くらいが
穏健な意見で済むかな…と。絶対を知りつつ曖昧にするということでは。
で、新興宗教が多いのは寝ぼけてるから。…と。

教えてgooや哲学においてですら、
神を扱う場合、キリスト教の神を扱っても
天照大神や仏をその議論の土壌には乗せてならない不思議な
タブーを感じます。それはそれだけ宗教的なんだと思います。
つまり、絶対ということです。
回答になってるといいのですが…。

本音と建前…という定番な言葉で片付けるのは好みではないですが
便利なので、使わせてもらい答えとします。

それがなぜか?までは、わからないのが本音です。
…もしかしたら、それだけ宗教弾圧があったのかもしれません。
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この回答へのお礼

 ううううううううううううううーーーーん。
 
 それを――つまり ここで述べられた疑問のすべてを―― 解明するのが 哲学なのでは??????

 たとえばわたしも あなたも 誰れも彼れも みな 万世一系として いまここにあります。いささか 側室からの系譜が 割合として 少ないであろうと思われますが。
 しかも アマテラス(広く解して もっぱらの公民族)は もともと 市民スサノヲの 実の姉ですよ。段違いになっている状態こそが おかしいのです。二階建てという構造じたいは いわゆる国家形態として 広く経験現象として 普遍的なのですが。しかも やがて この国家も 形態として 次のかたちへと移行してゆくでしょう。(わたしbrageloneの預言です)。 
 タブーに挑まなくして 哲学の徒ではありえない。タブーに屈していては 北野武の発言のように まったく だらけて 世にも奇妙なほどつまらないことになってしまう。(と感じます)。うんぬん。

 なぜ 古代では ひとりスサノヲだけが 自由であったか。
 なぜ 現代では ひとりbrageloneだけが 意気を吐いているのか。

お礼日時:2008/02/03 21:55

>>3・6・7・8です。



 連続投稿で、すいません。
 今から記述する場所が一番難しい部分なので、一度に記述する方法ではなく、徐々に徐々にという方法を取らせて貰います(投稿者の時間が許す限り)。


>「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」を何故人間は理解したという姿勢を見せないのか。

 見る立場から、意見が分かれていきます。
ので、分けて考察します。

(1)言語論(懐疑論)から
>形而上のものは姿・形を人間からは見ることは不可能。
→信じる事でしか存在しない。
→想像でしか存在しない。
→よって、それを信じることが出来れば、理解したという姿勢になるのではないか?
→又は、それを想像することが出来れば、理解したという姿勢になるのではないか?

 想像するだけでは、理解したとはならないですね、汗。


(2)科学の立場から
>形而上のものは姿・形を人間からは見ることは不可能。
→存在しない(発見されていない)。
→理解する以前に、理解しようとする対象が存在しない。
→しかし、あるかもしれない(存在するかもしれない)。


(3)言語論(懐疑論)から
>形而上のものは姿・形を人間からは見ることは不可能。
→言語によって、形而上のものは(概念上)存在することは可能。
→しかし、言語の中でしか、形而上のモノは生きられない(言語を持つ人間が死んでしまえば、形而上のモノは死滅する)。
→そういう意味では存在しない。


(1)と(3)は少し似ている立場です。
(2)は科学的な立場です。


まとめ
 その絶対の概念を何処から見るかによって、答えは分かれると思います。


 投稿者さんの満足いく回答ではないですが、汗。
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この回答へのお礼

 yuki-0217さん 少し面白くなってまいりました。

 次の三つの事項を まとめて その次に述べるように見ることができるのではないかと思いました。
(1)のうち →信じる事でしか存在しない。

(2)のうち→理解する以前に、理解しようとする対象が存在しない。
 ⇒《〈非対象〉としてしか存在していない》と言い換えうる。

(3)のうち→言語によって、形而上のものは(概念上)存在することは可能。
 ⇒《人間の行為や言語を超えているものを その言語で 概念上 代理して表現することが 想定上 可能》と言いかえることができる。

 したがって これらをまとめて 一般に 絶対と人間との関係 すなわち より具体的には 《神と〈わたし〉との関係》つまり《わたしの信仰》を 人間のことばで 仮想として代理として表現することが 起こる。
 たとえば

  きみたちは 真理( X =神)を知り 真理はきみたちを自由にする。
  (ヨハネによる福音8:32)

 このように想定の上でなら 自由に表現していくことも出来ると思うのですが どうも 人は――そしてわたしの感触では特に 日本人は―― こういうことが なぜか 苦手のようです。もしくは 苦手ではないのに 億劫に感じているのでしょうか。
 このようなキリスト信仰の例に反対する人でも その反対の説をとなえるとき 絶対の概念やそれにまつわる信仰のことを どうも ふつうの道徳や倫理思想と取り違えて 論じているように思われます。といった事情のもとに質問しております。・・・

お礼日時:2008/02/03 21:40

>>3・6・7です。



 前回記述の内容を簡単に記述すると、「日本では宗教が盛んでない為、理解されない。その為、そういった姿勢が見られない。よって、投稿者の質問は問題に出来ない(ならない)。」と言いたいだけです。
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この回答へのお礼

 No.7に いくらか ご返事として述べましたが では yuki-0217さんの場合は いかがですか。語りづらいですか。

お礼日時:2008/02/03 20:02

>>3・6です。



>「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?

 日本人の「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」の理解についての回答。

 「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」を「神」に置き換えます。

 日本という国は相対的に(他の国々と比較しても)宗教を熱心に信仰している国ではない。
宗教を信仰していなければ、理解以前に、興味・関心もない。
 宗教に興味・関心もない、信仰もしていない日本に於いては、理解する以前の問題です。
 ですから、理解する姿勢という投稿者の質問は問題に出来ない(ならない)。

 (日本人に限らず、)創価学会・キリスト教信者達は理解する姿勢を見せている(信仰・礼拝・布教等)。
 よって、そういう信者を対象とするならば、投稿者の質問は成立するでしょう。
 
  仮に成立した質問は以下の通りになる。
→「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」を、日本人の中での宗教の信者達がその概念に理解の姿勢を見せないのは何故か?

 しかし、信者達は信仰・礼拝等の行為をしている時点で理解をしていると思います。
 よって、その質問が成立しても、その質問に対する回答としては「それはない(信者達は理解の姿勢を信仰という形で示している)。」となると思います。

 補足。
→キリスト教世界に於いては、理解をしているが為に様々な反論が起きている(神の証明等)。


 「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」は次に。
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この回答へのお礼

 なるほど。現状としては そういうふうなのでしょうね。

 うぅーん。たとえば 宗教人口は 日本では 総人口より多いと言いますが ただ籍があるだけということなのでしょうかね。

 総じて言って ここの教えて!gooの哲学欄では 仏教・キリスト教にちなむ質問が多いですが そのほとんどは いまの《絶対》の概念を――価値自由なかたちで―― 導入すれば 無理なく解ける問題であると感じます。
 あるいは逆に 絶対者を神と呼び変えるのは いいですが 性としての存在(女神)にまで言い替えたり あるいは 主神と従属神などなど 勝手に 想像力で絶対を表わそうとしている文章が 目に立ちます。
 さらにあるいは イスラーム学者が キリストの三位一体の神を――それは絶対=無限であるから 部分も全体も やはり同じく 無限であるというのに―― 神が三分割されるようでは おかしなことになると言っているのには あきれた経験があります。

 ただの一言を言うだけでは かえって 舌足らずとなって よい結果にならないかも分かりませんが 創価学会は 現世利益ですから 絶対をあつかっていません。キリスト教徒のあいだには 絶対である神を 人間の精神(あるいは魂)であると勘違いしている場合が なお見受けられます。うんぬん。
 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2008/02/03 20:00

>>3です。




 記述する前の下積みとして、今回は投稿します。

>日本人

 それは投稿者の主観である為、外して考えては?
「人間」で良いと思います。
 日本人に限定するならば、根拠を出すのが難しくなる(必然的に、調べなくてはらないない)。


>「≪絶対≫の概念」
 「≪絶対≫の概念」が形而上のものか、形而下のものか。
その双方の区別をしなければ、まだ記述不可能(可能であるが、双方の見方を記述する必要がある)。
 (簡単に言えば、)科学的に証明出来るものか、科学的に証明不可能なものか。


 投稿者の質問内容から察するに、形而上の意味に於いての「≪絶対≫の概念」で良いのでしょうか?
 区別しないと、混乱した回答が続々出現すると思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ふたつの点とも おっしゃるとおりです。
・《形而上の意味に於いての「≪絶対≫の概念」で良い》と思います。
・《この概念を 人間は すでに理解しているのに その姿勢を見せないことがあるようですが それは なぜなのか》です。

* ちいさな反論としては いわゆるキリスト教の広く行き渡ったところでは――司馬遼太郎も触れているように―― その姿勢を隠すどころか 執拗に必要以上にと思えるほど この絶対論を表現しつづけているとも感じられます。その意味で《日本人は》とした部分はありました。

 ご見解をお寄せください。

お礼日時:2008/02/03 18:12

僕もこの場の仏性と空性によって


自生し
そして生かされています。
共感し
反発しながらも
教えられ
様々な回答を頂くことによって
一人では到底得られない深まりをもって考えが纏まっていきます。

回答ではたまにというかよくというか
読む人の忍耐の限界?による告発によって
法とマナーに則って
削除されることはありますが
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この回答へのお礼

 わかりました。貴重なお便りをいただいたように思います。――という言い方は えらそうなのですが。・・・
 
 《まとまった考え》を さらに 投稿してくださるようお願いしておきたいと思います。ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2008/02/03 18:05

前回はどうも。

やりすぎたかなぁと…。

今回は端的に。
日本にも絶対はいっぱいあります。
brageloneさんが例に出されているように。
これを否定しようとすると、とんでもない目にあいます。

しかも日本は島国です。徒歩では逃げようがありません。
全部曖昧にして、適当にしないと居場所がなくってしまいます。
エクソダス不可能なわけです。

この回答への補足

 おなぐさみとしてですが。・・・

(1) ホセアは神から言われたそうです。

  行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。(1:2)

(2) イスラエルがバビロン捕囚の憂き目に遭うことを予表しながら 神はイザヤに言ったと言います。
 
  なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテ
 レビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。(6:13)

(3) ヒトコトヌシが父なる神 オホタタネコがイエスとして子なる神 オホモノヌシが聖霊なる神で あたかも三位一体が現われているかのようです。崇神ミマキイリヒコイリヱの時代です。

 事実( Y )―人間(主観真実:Z)―真理(神:X )
  ↓        ↓           ↓
 モノ・・・・・・・・・者・・・・・・・・・・・・・オホモノヌシ
 (木・・・・・・・・・知恵の木・・・・・・・・生命の木)
 コト・・・・・・・・・ミコト・・・・・・・・・・・ヒトコトヌシ

 人間に ネコ(根子)とヒコ(日子)とがあります。それぞれ 身体と精神とにも喩えられますが 個体としては オホタタ《ネコ》=市民とミマキイリ《ヒコ》=市長との社会連関です。やがて この社会連関は 二階建てとなり 国つ神(一階なる市民)と天つ神(第二階なる公民)とに分かれていくでしょう。うんぬん。
 
 少年よ 大志をいだき オホタタネコかつミマキイリヒコの連帯に学び オホモノヌシ=ヒトコトヌシの光を仰ぎなさい。しかし 見えないはづである。・・・

補足日時:2008/02/03 19:44
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この回答へのお礼

 どうもどうも。

 学術論文あるいは ここでの哲学としての議論 そう限定した場合には きちんと述べてもよいのではないか 単純にまづ こう思われますが どうでしょう?
 それと 《とんでもない目にあう》のは もう昔の話しではないですか。いかがでしょう。

お礼日時:2008/02/03 18:02

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