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 一般論です。つまり 一般論として提出することができるほどだという観察があります。
 すでに一度 問うたことがあります。
  Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか
   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html

 たとえば 仏教では 人間を初めとして有情には 仏性があると言います。例外がなければ この事態は 絶対なのではないですか。
 八百万の神々は 絶対でしょうか。そうでないでしょうか。あるいは わざと あいまいにしておくのでしょうか。もしそうだとすれば それは なぜでしょう? 
 曖昧にするということは 絶対と相対との区別を知らないわけではない。知っていて 最後の結論を言わないという事態であるはづです。
 
 司馬遼太郎が 短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。
  http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/si …
(第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。
 このように効用もあるはづですが もし理解したという姿勢を見せないのだとすれば それは なぜでしょう? おしえてください。

A 回答 (33件中31~33件)

>≪絶対≫の概念



 その前提条件は何でしょうか?

>日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?

 日本人だけでしょうか?


 宗教世界が確立していない日本特有のものでは?
 
 絶対が神とするならば、日本人以外の人間(外人)も理解をしてはいない。
 その証拠に創造論者と科学者が対立しているではないか。

>(投稿者が言う)絶対

 絶対の前提条件がない限り、このテーマは成立しないと思います。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 《日本人》に特定したのは わたしが日本人で ほかの国の事情を 身で知ったという経験がないからです。
 《絶対》の概念を 説明した文章を掲げます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《絶対》を 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと》として想定します。次の事情です。

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)

   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは 外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・霊
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は 人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。つまり《精神》は 神ではなく 絶対ではない。
 さらには 《無意識》はどうか。これも 広く人間の行なう経験行為の問題として取り上げられており あくまで 経験領域 Y に属す。つまり 非経験 X ではなく 神でもなければ 絶対法則でもないだろう。
 ・・・
 〔さらには→《Q:信仰はどうやって決まるのか?(近代的自我とキリスト教の神との関係)=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3621072.html 》の ANo.11を参照していただければ幸いです〕。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2008/02/03 12:44
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議論が苦手なんでしょう。

国民性じゃないかしら?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ただ ここでも 議論は華やかなほどだと思うのですが どうなのでしょう?

 理解したという姿勢を示さないのが 国民性であったとしても 議論はするわけですから そのときには とうぜん 絶対ということばを使ったりすると思うのですが どうでしょう?

お礼日時:2008/02/03 00:38

人間には仏性が在ります。

悩んでいるときは、分かりやすいかもしれません。普通に暮らしているときにも分かります。それがそうさせているからです。在っても感じ難いものですが。無いと思っているのは勘違いです。それは「絶対の真理」です。

ですが、日本人は自分の考えを他人に押し付ける事はしません。私も貴方に、その事を、分かって欲しいとは思いません。気が付く時には気が付くかも知れない、と思うからです。人は自分の経験した事しか信じないように出来ています。自分の経験を、他人にしても、本当は信じていません。

お釈迦様の「悟りの世界」をどんなに本の中で読んだとしても、それを体験しないと、本当の事は、理解出来ません。ですがその事を体験すれば「絶対の安心」「絶対の心の自由」というものが手に入ります。その時は、仏性なるものが分かります。誰でもが、それのお蔭で生きているからです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 ただ 《絶対》であるならば 誰もに共通のそういう想定ですから 人が人に対して 分かってもらうとか ましてや 信じてもらうという事柄とは 別のように思われるのですが。
 つまり 数学の公理のようなものですから ただ その言葉を 表現の中に用いあって 意思疎通をはかるという性質のことだと思うのですが いかがでしょう。

お礼日時:2008/02/03 00:35
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