単二電池

幸せとは何かと聞かれても大抵の人は即答できないんじゃないでしょうか。
答えられるのは、今考えれば幸せだったと思う瞬間の記憶や、せいぜい満足感。
これは幸せを自覚することは出来ないということを意味していないでしょうか。

A 回答 (8件)

>それにしてもこれは幸福の中でも少数派ではないかと思います


:そうかもしれませんね。
「>実体験」としては、単純な私の感覚では参考にはならないでしょうが、
・素直な人間の感情に触れることができた時
・新しい視点に気づけた時
・たとえば恋をした時
・外が猛吹雪の日に暖かい部屋で湯豆腐をつつきながら熱燗で一杯やっている時。
などでしょうか。
幸せなんだなと自覚できます。
その瞬間の力は持続するでしょう、ある程度・・・、もしくは永遠に・・・。
記憶として持続するわけですが、これらの例は、だからといってその時点で自覚できていなかったわけではない幸せということになりそうです。
指折り数えてみれば幸せでないことのほうが多いとしても、幸せ色の糸がほんの数本あることで全体が幸せ色になることもあるでしょう。
その瞬間から記憶となるものですが、その時点では紛れもなく「心象」であったものです。

>(求めるものが多いというのは)目の前にある幸福を見ようとしない、という感じでしょうか。
:というか、どうしても求めることに貪欲になってしまうので・・・、という感じでしょうか。
幸福を得た瞬間、次の幸福を探している。
だから、幸福であったものはすぐに幸福でなくなる。
厳密に言うと、「幸福を自覚しない」のではなく、「幸福を(瞬時に)忘れてしまう」ということなのかなあ、という気もしてきます。
「慣れ」という要素も関係してくるのかもしれませんね。
 
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この回答へのお礼

ん~わかります。思い出しました。
例えるなら感動に近いものですね。

>幸福を得た瞬間、次の幸福を探している
>「慣れ」という要素
足るを知るということが大事なのかもしれません。

幸せというのはラッキー、感動的な出会い、満足感、などの総称でもあり、
一つ一つは些細でそのときは気づきにくいものであっても、時間が経つと
それが大きな幸福感に育っていく、そんな感じでしょうか。
雨のひと雫と川の流れの様なものかなと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/16 10:59

#6です。


>幸福には記憶、思い出、経験が必要なのはなぜでしょう。
:確かにそれらを必要とする幸福もあるでしょう。
しかし、「幸福と感じる(自覚する)瞬間」というものもあると思われます。
尤も、たとえば、失われた(過ぎ去った)何気ない日々が、振り返ってみれば幸福な日々だった、というような場合もあるでしょう。
さらには、あれほど辛いと当時感じていたことが今思えば幸福な時期だったのだと気づくこともあるでしょう。
その真逆もあることと思います。
どの時点での幸福が本物だったのか、ということは幸福の定義によって違ってくるでしょうが、一概にどちらということは難しいような気もします。
いずれにしても、自覚できるものとできないものがある、ということになるのかもしれません。

>なぜ、今の幸福が感じられないのでしょう。
:私たち誰もが陥りやすい陥穽ではありますが、求めるものが多いからではないでしょうか。
 
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この回答へのお礼

>「幸福と感じる(自覚する)瞬間」というものもあると思われます
最近これを感じることが無いためピンとこないのです。
実体験があったら教えてもらえないでしょうか。
それにしてもこれは幸福の中でも少数派ではないかと思います。

>求めるものが多いからではないでしょうか
目の前にある幸福を見ようとしない、という感じでしょうか。
だとしたら幸福は私たちが思っているよりずっと小さいかもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/16 00:40

>幸せとは何かと聞かれても大抵の人は即答できないんじゃないでしょうか。


:個人的には、納得できること、と捉えています。
誰しも、幸の部分と不幸の部分の織り成す縞模様で人生は彩られていると思いますが、全体的に俯瞰してみれば、わずかながらも幸模様と言えないことはないだろう、と感覚できること。
似たような人生を歩んでいても幸せと感じる人もいれば不幸と感じる人もいるでしょう。
幸せは、それを感じる対象にではなく、感じる側の心象にあると考えることができるように思います。
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この回答へのお礼

>幸せは、それを感じる対象にではなく、感じる側の心象にあると考えることができるように思います

確かにそのようですね。
幸せがお金では買えない理由はここにあるようです。

しかし、幸福には記憶、思い出、経験が必要なのはなぜでしょう。
幸の部分と不幸の部分の織り成す縞模様をつくるには時間と経験がひつようです。
なぜ、今の幸福が感じられないのでしょう。
なぜ、幸福を語るときに過去形になるのでしょうか。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/15 23:38

幸せというのは、少なくとも不幸であると自覚する事柄がないことじゃないでしょうか。


安全とは、危険がないこと。平和は、争いがないこと。

そういう意味では、自覚できます。

ラッキー、金持ち、高い地位、酒池肉林などが常に無いと
不幸なら、ほとんどの人がご不幸な境遇ということでしょうね。
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この回答へのお礼

>安全とは、危険がないこと。平和は、争いがないこと

言い換えると、不幸は実在するが幸福は実在しないといえるのでしょうか。
不幸あっての幸福ですかね。

ご回答ありがとうございました

お礼日時:2008/02/15 23:03

私には、具体的な説明ができませんが、脳の状態で、説明できるのではないでしょうか。



たとえば、ドーパミンが出てる状態、とか。
なにか、私の知らない、幸せホルモンがあるのではないでしょうか。

一見、不幸そうな状態の好きな人もいて、それはそれで、その人にとっては快楽の状態・・・、という不思議な幸せもアリだと思います。
失恋で泣いているのに、本人は、それが快感だったりするような、脳の状態。

無意識に、その人が選んでしまうもの。その欲求通りの状態って、人から見て不幸そうであろうと、幸せなのではないかと思います。
たとえば、汚い部屋。どうしようもない結婚相手。お金のない生活。
でも、もし、本人が自由に選んだ結果であるなら、脳内的には、幸せかもしれません。
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この回答へのお礼

快楽は幸せなのでしょうか。
幸せホルモン、そのうちコンビニで売るかもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/15 19:08

個人的な価値観になりますが参考までに。


まずはじめに、幸せの定義ですが、人それぞれだと思います。
例えば、好きな人と付き合うこと。これは自覚できますよね?
好きな食べ物を食べること。これも自覚できるんじゃないでしょうか。
つまり、喜びと同意義であれば自覚することは簡単だと思います。多少刹那的ではありますが。

ただ、日々の生活、当たり前な日常の中にある幸せは「自覚しよう」と心掛けることなしには自覚することは難しいのではないかと思います。
自覚しようと心掛けること、当然のことにしないで感謝を忘れないこと、祖父母に言わせると当たり前の価値観だそうですが、宗教に関心の薄い私には難しいことです。日本はとても幸せな国なのだと聞かされます。実感はありませんが、日常的に感謝することに慣れれば幸せを自覚することに繋がるのではないかと、私は考えています。
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この回答へのお礼

>幸せの定義ですが、人それぞれだと思います

幸せの定義が人それぞれなのはどうしてだと思いますか。
私はそれ(幸せ)を定義できないからだと思うのですが。

日々の感謝の話は耳が痛いです。
普通に生きることは奇跡的なことなのかもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/15 16:25

>これは幸せを自覚することは出来ないということを意味していないでしょうか。



幸せは健康と同じです。
普通のことがいかに大事だったか
失って初めてわかるのです。
そのときあなたは幸せを自覚できます。
しかし、もうそこにはありません。
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この回答へのお礼

>失って初めてわかるのです

つまり、過去形としか語ることが出来ないものということでよろしいでしょうか。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/02/15 16:20

こんにちは(^-^)



夜、布団に入ったときに
”今日も何事もなくって良かった、幸せだー♪”
と、私は毎晩思うのですが、
これじゃぁ「自覚」にはならないのかな・・・(^^;

ちなみに「○○(私)の幸せって何?」と
先日、たまたま聞かれたのですが
「気持ちを荒立てる出来事が無い、という事かなっ」
って即答しました(^-^)

求められている回答と違ったらごめんなさい。
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この回答へのお礼

>今日も何事もなくって良かった、幸せだー
やっぱり過去形ですよね。

即答できるということは立派です。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/15 16:19

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