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今、アメリカの大学に通っているものです。

今回、英語の授業で、マルクスの共産党主義の第一章を読んで
エッセイをかかないといけないのですが、
良いアイディアがうかびません。
英語と日本語、両方読んでみましたが、
理解できたようなできてないような感じです。

トピックを
「階級社会は悪か?ブルジョアジーは悪か?
 →弱肉強食社会は必要だ」
というかんじで今考えてるのですが、
変でしょうか?
なにか良いヒントがあれば、教えていただけたらと思っています。

A 回答 (4件)

 階級社会は悪です。

ただし 相対的な善と悪とにかんする価値判断です。言いかえると この世の経験世界にかんする限り どんな社会も悪であり 反面で 善であろうとする動きもあります。
 大量生産により 品質のよいものが安価で得られることを目指したそのような側面を 非難するかどうかは 意見が分かれるところでしょう。あるいは そのような大衆社会が実現しなければ 総じて いまの民主主義も拓け得ていなかったかも知れません。

 マルクスは その政策以前の哲学・経済学に 見るべきものがあるという見解もありますが――あるいは 別の言葉では その志操が 文章から感じとられて 文学的に大いに感得する経験を持ちますが―― 一方で けっきょくは政治革命を説いたと思います。それも いわゆる暴力革命が避けられないと明言しました。
 また 他方では 資本主義の行きつくところまで発展し行きついたところで その革命の発生する情況が現われると見ます。それでは それまでの過程ではどうなるかというとき そのとき現在の政策主張は 資本主義なる階級社会の悪の部分・その傷つき血を流している部分に目を向け その痛みを緩らげなければならない。政策も その他の活動も そのためのものだと言っていると思います。
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 No.1です。


 マルクス自身は 社会主義の社会が実現するのは 遥か遠くかなたの未来であろうと思っていました。同時に 共産主義は つねに いまの現実に対する現実の運動であるとも言います。言わばそういった個人個人の実存なのでしょう。
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 共産主義は経験的にはただ《一挙に》( auf “einmal” )または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。・・・
 共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。
 この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる。

 ところでただの労働者たちの大衆・・・は したがってまた一つの保証された前提としてのこの労働そのもののもはや一時的でない喪失は 競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》( weltgeschichtlich )存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。
(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳)
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 とは言うものの――もしくは 従って―― かれは たしかに 客観とは何かが問題なのですが 社会の基礎たる経済にはたらく客観的な法則を描き出すという価値自由的な作業を根幹をしています。
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 私がこの著作で探究しなければならぬものは 資本主義的生産様式であり これに相応する生産諸関係および交易所関係である。・・・
 それ自体としては 問題は 資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的敵対関係(* 階級対立)の発展程度の高いか低いかということにあるのではない。問題として取り扱うのは これらの法則自体であり 鉄の必然性をもって作用し そして貫徹するこれらの傾向なのである。
 (『資本論』向坂逸郎訳 第1版への序文)
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 そして さらに同時に かれが価値判断を持っていなかったのではなく じっさい そのことにも 次のような内容として 触れています。(すでに引用したところでは 《いまの状態を廃棄する》という表現で自己の価値判断をも言っています)。
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 だから より高級な動機は別としても 現在支配的地位にある階級にたいして 彼ら自身の利益が命じていることは 労働者階級の発展をはばんでいる一切の法的に撤去できる障害を除去することである。(* たとえば 労働の劣悪な環境や条件を改善すること)。・・・
 一社会がその運動の自然法則を究知しえたとしても――そして近代社会の経済的運動法則を闡明(せんめい)することがこの著作の最後の究極目的である―― この社会は 自然の発達段階を飛び越えることもできなければ これを法令で取り除くこともできない。しかしながら 社会はその苦しみを短くし 緩和することはできる。(同上)
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どう解釈するかは自由と思いますね。

スタート地点、ちょっと変かな?と思っても、そこが問題なのではなく、できあがりがどうなのか、例えば階級社会は悪であるとはマルクスやエンゲルスがそうは言っていないが彼らの心の中でそう思っていたんではないかという勝手な想像からスタートしたとして、そのスタートが他人から見て間違いかどうかを気にしても意味がなく、スタートではなく、あなたの論文のできあがり、あなたが何を言えるのか、今まで誰も言っていないことであって、学会に何が貢献できるのか…が大事と思います。

とは言っても、多分、一般的なマルクス、エンゲルス解釈では、

マルクスやエンゲルスに取って、階級社会は悪でも善でもないと思います。

何故ならば、社会の外部に、善悪を判断してくれる超越的な神をマルクスやエンゲルスは多分、想定してはいないと思われます。

次に、階級社会はいまここの現実ですから、それを道徳的に悪であると記述して断罪することはマルクスが共産党宣言を書いた時点では、多分マルクスはあまり意味があるとは思っていなかったのではなかろうかと想定できます。善か悪かはを考えることは形而上学なのであって、実践的にナンセンス。そういう回答が出ないこと(もっと正確にいうと、同等の権利で、善とも主張できるし、悪とも主張できる。対等)はもういいや、そんなことは知らない、そうではなくて、今の時点、ステップで、大事なことは……と、言っていると思いますね。これははっきり書いてあると思います。

であれば、道徳的な「善悪」という用語(善悪は道徳的観点であるに決まってますからね)を用いるのは、危険かも知れません。言いたいことは同じだようと言ってみたところで、言いたいことがテレパシーで論文の読者に通じるわけではなく、書いてあること、つまり用語を間違うと、誤解の可能性が生じます。

著者であるマルクスもエンゲルスも言っていないこと(善悪)を、勝手に言っていることにしてしまって、批判しているつもりになってしまっているというように読者に取られる危険があるわけですね。

革命の主体、プロレタリアートという新人類が、階級闘争の中で、階級闘争の中だけで生まれてくるという想定をマルクスとエンゲルスはしていますね。

階級闘争なくして階級なしです。

先ず階級闘争という関係(コミュニケーション)が階級という関係の項に論理的に先行します。(ちなみに戦争なんていうものもマルクスやエンゲルスはコミュニケーションに入れてますというか、コミュニケーションの典型的なものは戦争ですね。なので現代日本人が普通に関係とかコミュニケーションという用語で思い浮かべるものと、彼らが関係とか交通とかいう用語でさしているものはちょっと違うかも知れません。)

関係なくして項なし。

これは、マルクスが

黒人Aは黒人Aとしては奴隷ではない、黒人Aは奴隷主Bとの関係においてだけ、関係の中だけで、奴隷である

と言っているのと同じ考え方です。

いわゆる本質なるものは個体に内属しない、あたかもいわゆる本質なるものとして現象しているかのようにみえるものは実際には関係のアンサンブルである

という考え方ですね。

すると、階級闘争がないと、階級闘争を廃絶する新人類であるところのプロレタリアートは生まれません(^o^;)。

よって、マルクスやエンゲルスが心の中で何を思っていたかは誰にも分かりませんから、そんなことを勝手に想像して論文を書いても意味がありませんが、マルクスやエンゲルスがはっきり書いていることからすると、階級闘争は悪か善かと道徳的に断罪、道徳から現実を裁いてみても、なんにもならない、無駄なことになります。階級闘争は単に今の現実に過ぎません。

逆に、マルクスとエンゲルスが想定しているように、階級闘争は階級闘争を廃止するプロレタリアートを本当に必然的に、生むのか???ということについて疑問は提出できますね。

余談ですが、このプロレタリアートという新人類ですが、いまここに生きているわれわれ人間とは全く別の世界観を持った人たちですから、彼らが、現れた時に何を考えるかは、記述不可能というのがマルクスとエンゲルスの論の立て方ですね。これは、マルクスとエンゲルス以前の社会主義者たちを、マルクスとエンゲルスが空想的社会主義と呼んでいることからも分かります。

マルクスとエンゲルス以前には、社会主義になると、人々は、家族一軒ごとにアヒルを何羽買うようになるだろう…みたいな未来予測が入っていました。マルクスとエンゲルスはそれは空想的だと思ったわけです。

科学的共産主義では、共産主義になったらどうなるというのは分からないと言ったわけです。アヒル飼うかどうかは知らないよと。分からないというところが彼らの言う科学的です。

なぜなら階級社会がなくなったときに、階級社会を廃絶した新人類たち(われわれではありません。プロレタリアートはまだ生まれていませんから)が何を考えるかというと、何しろ、完全に自由になった人たちですから、彼らが何をするのかを限定することができないわけです。

が、一方で、マルクスやエンゲルスは、プロレタリアとかプロレタリアートとかを、まあ、当時は彼らは真面目にそう思っていたのであって、多分、卑怯とかではないでしょうが、その当時、実際にいた、労働者ですとか労働者階級というものと、交換可能に書いているテキストも多数あるわけですね。現代において、それを批判してもあんまり意味はないでしょうが…。まあ、それは間違いではないのかという論の立て方は有り得ます。
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アメリカ合衆国の大学でマルクス、エンゲルス「共産党宣言」を読む、面白いですね。

残念ながら、手許に「共産党宣言」がありません。「マニフェスト・オブ・ザ・コミュニスト・パーティ」?だったかな?
マルクス、エンゲルスが墓の中?で笑っていそうですね。
階級、階級闘争などという言葉がまだ生きているとは思いませんが、日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツなど、経済的には、資本主義経済ですね。商品生産と流通、消費を繰り返す、大量商品生産社会です。自然科学と人文科学、社会科学に学問を分類すると、「共産党宣言」は、社会科学にはいります。本人が、意識するとかしないとかにかかわらず、労働力を販売して、賃金で生活する人を労働者といい、社会の中で最大の階級を構成しています。そして、資本をもっていて、生産手段を所有して、生産を行う人々もいます。資本家、資本家階級といわれるごく小数の人々です。
社会を科学的に分析するときに、善悪では考えません。立場が違うと、考え方も違います。
1848年に書かれた「宣言」ですが、すでにアメリカ合衆国の西海岸のゴールドラッシュでヨーロッパの革命がへたります。
19世紀は、革命の世紀でもあったわけです。10年周期で起きる、過剰生産恐慌を制御することができませんでした。
「アメリカ独立宣言」と「共産党宣言」を読み比べるのは、どうでしょうか。いまや、「ヨーロッパ合衆国」?となったユーロ、アメリカ大陸が大きな経済圏として、アジアの「経済圏」と世界を構成しています。
オバマ民主党大統領候補の「団結」と「全世界の労働者よ、団結せよ!」が、だぶって聞こえます。
地球と人類が存続するためには、このままの生産、流通、消費を維持することはできない、というのが、知識人の見解で、アメリカ合衆国でも、地球温暖化をおさえる努力が始まっています。
19世紀に「妖怪」「ファントム」と呼ばれ、日本でも「アカ」とよばれて
差別されつづけた人々がいます。21世紀には、「地球と人類の存続」のために、どうしたらよいのか、みんなで考え、行動しましょう。それは、人と人をお金でつないできた社会から、人間同士の絆を取り戻し、また自然と人間が共に共存、共栄できる方法の発見でもあるでしょう。
テキストを「くもりなきまなこ」で、深く読んでください。18歳のころ、文庫本で「資本論」を読んでいました。大いにお励みください。
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