10秒目をつむったら…

裁判で、検察側と弁護側の間(あいだ)を取った判決は許されますか?

つまり、(特に事実認定において)検察側の主張にも弁護側の主張にもそれなりの妥当性があると思われる場合、その間(あいだ)を取った量刑を出して、無難に被告を裁いてしまうことは許されるか、ということです。原則的には犯行事実は「有った」か「無かった」のどちらかでしょうから、このような判決は本来あってはならないのでしょう。しかし、人間は全知全能の神ではないのですから、いろいろ考えてみたけれども「よくわからない」ということもあるんじゃないでしょうか。その際、「間(あいだ)を取る」というのは極端を避ける術としてあってもよい(また実際の判決でもある)と私は思うのですが、どうでしょうか?

また、来年度から裁判員制度が実施されます。裁判員に選ばれ、量刑を決める立場になった際、「どちらが正しいか、よく分からない」という理由で、検察側と弁護側の間(あいだ)を取った量刑にするのは、合議の際に認められるのでしょうか?それとも、裁判官に「そんなテキトーに判断を下してはならない。」と再考を促されるのでしょうか?

さらに、「犯行事実」に疑いのない場合でも、被告の責任能力が争われ、弁護側と検察側の精神鑑定の結果が食い違ってくることもあると思います。現在は、裁判官がどちらかの意見を採用して(あるいはどちらも採用せずに)、「犯行当時は善悪を判断する能力はあった」とかの理由を付記して、心神喪失とか心神耗弱とか、法律上の基準に当てはめて、最終的な判決を示していると思います。ですが、もし自分が裁判員になって判断する立場になったら、「間(あいだ)を取って、無難に裁いておきたい。」と思うだろうと、考えます。つまり、「この人は心神喪失!」とか、「この人は正常な精神状態だった!」とか、の法的な枠に入れ込んで量刑を決めたくありません。だって、確かに「正常」とは思えないような感じのする、被告がいて、さらに「お医者さん」の意見も割れているのですから。
こういう際も、「間(あいだ)を取って」というのは、判断理由としては許されないのでしょうか?また合議の際、「間(あいだ)を取った」判決であると直接に言っていなくても、「どうもこいつは、間(あいだ)を取った判断をしている。」と思われれば、問い詰められるのでしょうか?

恥ずかしい話ですが、私はよく日常生活で「間(あいだ)を取った」判断をします。ビジネスの世界でもリスクを避けるために、A社から50%、B社から50%、受注するというようなことは、よくあることなのではないでしょうか?やはり司法の場では、間(あいだ)を取った判決で「(真実と正反対の判決をしてしまうという)リスクを避ける」という自己保身的行動は認められないのでしょうか?

私自身は法律には素人で、法律に詳しい方からすると浅薄な意見であるかもしれませんが、自分が裁判員に選ばれ「人を裁く立場に立つ」ということを想像したときに純粋に気になりました。ご意見を頂ければと思います。

A 回答 (10件)

まず、「有罪か無罪か」という点については、間を取ることが論理的にあり得ませんから、間を取りようがないといえます。

したがって、この点については、裁判官も「有罪」「無罪」いずれかの判断をする必要があります。

なお、映画のタイトルなどで知られていますが、有罪か無罪かはっきりしないときは、被告人に有利な判断をすべき、すなわち「推定無罪」であるべきというのが、法の原則です(「疑わしきは被告人の利益に」ともいいます)。これにより、「有罪か無罪か」の点で迷ったときの判断方針が定まることになり、実際にもこの点で間を取った判断をする必要がなくなります。


他方、「有罪」と判断した場合の量刑、つまり懲役刑にするか罰金刑にするかなどの判断については、一定の範囲での裁量が認められます。この意味で「間を取る」ことは出来るといえます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに、「推定無罪」の原則が有効に機能していれば、問題は縮小されそうですね。しかし、私はこの原則が絶対に守られているかといえば、有罪率99%という数字が示唆するように、守られていないと感じますし、字義どおりに「少しでも疑いがあれば無罪にする」というのでは、無罪が濫発されてしまい社会的に問題があるように思います。
現行では、仮に「間違いなく有罪」の人間と「ほぼ間違いなく有罪」という人間がいた場合、二人の人間に対する量刑に「差」をつけることはできないと思います。もし「間を取った」判決が許されるならば、「ほぼ間違いなく有罪」の方の量刑をを少し軽くすることができるのではないかと思うのです。これが「極端を避けてリスクを減らしたい」云々の趣旨です。

「有罪」と判断したあとの、「一定の範囲での裁量」にはどのような制約があるのかが気になります。「(事実等が)よくわからないからちょっと軽めに」とか「心神喪失だったのか、正常だったのかよくわからないから懲役15年で」といった不埒な判断は裁判では認められないのでしょうから。

ご回答頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/26 04:08

No.5、6、9の者です。

疑問点が明確になったとのこと、私も嬉しく思います。


> 心証形成にはどのような制約があるのか
> 心証に量刑を変動させる能力がどの程度認められるか

これらについては、古典的というか、「当事者主義」などのキーワードで語られている部分ですね。


> 裁判員が頑なに「心証」を主張することはできないのでしょうかね。

主張することは可能と思いますが、なぜそのように考えるのかを説明できるよう用意しておく必要があるでしょうね。というのも、「そう感じた」だけでは、合理的思考に基づく判断なのか、その人の身勝手な判断なのか、区別が付かないからです。

合理的思考が意識化されていないときは、これを意識化できれば説明も可能になりますから、意識化の作業が必要になりましょう。そうすると、裁判官には、説明できない裁判員が意識化できるようにすべく、上手く誘導することを求められるでしょうね。他方、裁判員にも、説明できるように努力することを求められましょう。


なお、事実認定時に裁判官が違和感を抱いたときは、その違和感を解消すべく、訴訟指揮によって裁判官自ら尋問等をしていますよ。

事実の有無に対する違和感は認定事実とするか否かに反映させるべきであって、これを量刑で解消させたときは、冤罪の温床になりますし(これは許されません)、また、訴訟指揮が適切に出来ていないものと評価される結果、裁判官のその後のキャリアに関わってきますから。
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この回答へのお礼

疑問に丁寧に答えていただきありがとうございます。

ご回答を得て、裁判においては合理性や論理的一貫性に重点が置かれているという認識を強くしました。さらに、このような重点の置きようを考えたとき、現在の裁判過程がかなり妥当な線を行っているように思われます。(まあ、改良すべき点はあるのだとは思いますが。)

このような、司法の努力によってか、私自身は裁判所の出す判決については納得がいっています。ただ、これが裁判員制の導入でどのように変化するか不安なんですね。というのも判決を下すまでの判断には、合理的思考が求められ、それが裁判員にできるかどうか、またそもそもやる気があるか、未知数な点が多いですから。

裁判制度については全く素人で、今まで手探り状態だったところに、ご回答によってどう考えていけばよいか見通しが立つようになってきたという風に感じます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/29 03:55

No.5&6の者です。

丁寧な御礼をありがとうございます。


> 私はこの原則が絶対に守られているかといえば、有罪率99%という数字が示唆するように、守られていないと感じます

これは、実務家の感覚からも、そのようにいえるようです。有罪率の高さは、裁判官が警察や検察の捜査をより信頼していることの表れ、とも評価できます。


> 字義どおりに「少しでも疑いがあれば無罪にする」

こちらは、違います。無罪推定というのは、合理的疑いがあれば無罪と推定する、という意味であって、「少しでも疑いがあれば」ではありません。疑いがあってもそれが合理的疑いになっていなければ、有罪にできます。


> 現行では、仮に「間違いなく有罪」の人間と「ほぼ間違いなく有罪」という人間がいた場合、二人の人間に対する量刑に「差」をつけることはできないと思います。

こちらは、いかなる意味でしょうか。「『ほぼ』間違いなく有罪」の場合であっても合理的疑いの残っているときは、過去の判例・裁判例から明らかなとおり、裁判官は無罪判決を下す傾向にあります。

また、量刑判断はケースに応じて個別具体的におこなわれます。この点、「『間違いなく有罪』の人間と『ほぼ間違いなく有罪』という人間がいた場合」にはケースが異なることになりますから、むしろ量刑に差異の出ることが当たり前であって、量刑が一致したとしてもそれはたまたまであるに過ぎません。

言い換えると、「間違いなく有罪」か「ほぼ間違いなく有罪」かは裁判官の心証形成の根幹に係る問題であり、ここが異なればあらゆる判断に影響しますから、もしも「間違いなく有罪」か「ほぼ間違いなく有罪」かの違いだけであってその他の条件は一緒のケースを想定していらっしゃるのでしたら、それは問題設定自体に無理があることとなってしまいます。


> 「有罪」と判断したあとの、「一定の範囲での裁量」にはどのような制約があるのか

簡単には、法令による制約を受けます。また、類似事件の先例にも、事実上ある程度まで拘束されます(「一定の範囲」の拘束であって、「原則として先例と同じ量刑にしなければならない」という意味ではありません)。


> 「(事実等が)よくわからないからちょっと軽めに」とか「心神喪失だったのか、正常だったのかよくわからないから懲役15年で」といった不埒な判断は裁判では認められないのでしょうから。

そうですね。仮に、ある事実を「あった」とすることに合理的疑いが残るのであれば、その事実は「無かった」ものとして扱われることになります。したがって、事実が最後までよく分からないときは、その事実は無かったものとして扱われますし、心神喪失だったのか正常だったのかよくわからないときは、心神喪失の立証責任は事実上被告人側が負っているものと(少なくとも実務感覚では)考えられますから、心神喪失という事実が「あった」とすることに合理的疑いが残るものとして正常だったと扱われることになります。

要するに、事実はあったか無かったかのいずれかなのですから、事実認定レベルでも同様にあったか無かったかを決めてしまう、ということです。そうしないと、裁判をいたずらに複雑化させ、ただでさえ分かりにくい裁判(中でも量刑判断)をさらに分かりにくくしてしまい、もって国民を裁判から遠ざけてしまう結果となってしまいます。

事実認定レベルでは、「あった」か「無かった」かをがっちり固めておく必要があるのです。


なお、
> 万が一冤罪だった場合判決が出た事で捜査が終わってしまいますので、真犯人を逃してしまう事になると思います。
とのご回答も見られますが、これは誤りです。冤罪との判決が出たときは、真犯人追及のための捜査がおこなわれることになります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご回答をいただくうちに、自分の問題意識が実は「事実認定に疑義のある場合に柔軟な判決を下すにはどうすればよいか」とでも呼べるものであり、結局それを「現行のように裁判官の心証で解決する」のか「間を取った判決で解決する」のかの対立であると考えるようになりました。
前者は「厳密性」、後者はより「柔軟性」をそれぞれ重視しているように思えます。というのも前者がいくら心証を生かすと言っても例えば「十人を強盗殺人」という事件で、犯行事実に(現状で、合理的疑いと呼ばれないまでも)疑いがあった場合、「心証」で無期懲役にするのは難しいと思われるが、「間を取れ」ば、犯行事実の無かった可能性を考慮して、無期懲役にするのはあり得ると思うからです。

>無罪推定の合理的疑いに関して

「合理的」というからにはそこには「あった」か「なかった」かに関する何らかの判断基準があるはずです。そのとき(有罪の)基準に「十分かなう」事件と「ギリギリかなう」事件では同じ有罪でも量刑に差があるべきではないかと思うのです。両者ともに「合理的基準」にはかないますが、無罪にはなりません。

>心証に関して

これは私の見落としていた非常に説得力のある議論ですね。私は裁判では法令の下での「厳密性」が求められるが故に、「0」か「1」か、あるいは「あった」か「なかった」かのデジタルな思考が展開されると考えたのです。回答者さんが「事実認定レベルでは、「あった」か「無かった」かをがっちり固めておく必要があるのです。」とおっしゃるように、裁判官が裁判過程中に受ける「心証」という事実認定とは別レベルでの量刑の決定要因によって、事実認定時に裁判官の抱いた「違和感」を量刑に表現しているということですね。確かに、この「心証」が十分機能していれば、私の想定した問題も相当軽減されていそうです。
そうなると次に関心の移っていくのが、「心証形成にはどのような制約があるのか」ということと、「心証に量刑を変動させる能力がどの程度認められるか」ということですが、これはもはや法理論では古典的なテーマのようで、どうやら経験的に基準が決まってきているようですね。裁判員が頑なに「心証」を主張することはできないのでしょうかね。

1000字以内という規定のため不十分な内容も出てきました。ご容赦ください。

お礼日時:2008/05/27 00:01

私もNo.2、7さんと同じ気がします。


つまり裁判員制度というのは、
空気読め眠ってしゃんしゃん裁判員
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そういう方が多いでしょうし、そうするのが利口なのかもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/26 06:23

No2です。


裁判員がつくのは重大事件のみですので、
ほとんどが死刑、無期懲役、無罪の3つの判断になると思います。
この3つの間ってなんでしょうかね。
しかも実際過去の裁判を思い起こされると分かると思いますが、
ほとんどが、「死刑or無期懲役」という判断でゆれることだと思います。
この二つの間ってなんでしょうかね?
しかし悩むことはありません。裁判長が司会進行役で勝手に進めてくれますから。私がNo2に書いたとおりです(笑)
アメリカのように陪審員ではなく「裁判員」だというのがミソです。
司法制度を作った日本人はパフォーマンスっていうのを承知でこの制度を作ったのです。陪審員ではなく裁判員という大きな違いは
裁判長とほか裁判官2人が口出しできるということです。
つまりアメリカとちがい、裁判官3人の話し合いを素人は眺める形でよく(でしゃばりたいならでしゃばっていいが)、裁判長が結局は決めて、ちゃんちゃん
というシステムなのです。
いろんな理由をつけて騒いだり反対してるのはマスコミと末端の弁護士だけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。長くなったのでNo.2と分けてお礼したいと思います。

「間」というのは、「無罪と無期懲役=懲役○○年」、「無罪と死刑=無期懲役」、「懲役β年と死刑=懲役β+α年」、「無罪(心神喪失)と死刑=懲役○○年(心神耗弱)」、などの例でいう右側のことです。おっしゃる通り、「死刑と無期懲役」で迷っている場合は、「間を取った判決」はなさそうですね。

どうもご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/26 06:13

No.5の者です。

No.5の回答で、言葉を落としていたことに気付きました(正確には、思っていたことと打ち込んだこととがズレていました)。

訂正前
「したがって、この点については、裁判官も「有罪」「無罪」いずれかの判断をする必要があります。」

訂正後
「したがって、この点については、裁判官も裁判員も「有罪」「無罪」いずれかの判断をする必要があります。」

お詫びして、訂正いたします。


※ 本当は、「したがって、この点については、裁判員も「有罪」「無罪」いずれかの判断をする必要があります。」と書き込みたかったところでした・・・。
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私も裁判員制度は面倒そう(どの程度の判断が出来るか不安で)なのでいやなのですが!


 ところで間を取るとはどのような意味でしょうか?例えば検察側が10年の求刑をし弁護士側が無罪を主張してた場合、間を取って5年の刑にすると云う事ですか?文中に在る>A社から50%、B社から50%の例をそのまま裁判に当てはめると容疑者が2人居た場合、Aに5年Bに5年と云う具合になるのでしょうか? 
 無罪が5年になるのと刑期が10年から5年になるのとでは、間を取った事にはならないと思います。
 万が一冤罪だった場合判決が出た事で捜査が終わってしまいますので、真犯人を逃してしまう事になると思います。
 間を取ると云う判決が増えた場合、予め量刑を重くした求刑を出してくる可能性も増えてくるのでは無いでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「間を取る」というのは求刑に対してというよりは判例に対してという意味です。A社から50%、B社から50%の例を出したのはちょっとまずかったかなとも思うのですが、これは今後A社かB社のどちらかがもう一つの側を圧倒する(=裁判でいう真実の側)と考えられるが現段階ではどちらが勝つ(正しい)か分からない(=裁判では常にこの状況)という状況の時に、リスクを避けるために両方に投資しておく(=裁判の場合、検察側と弁護側の「間を取る」)ということを伝えたかったのです。
ですから、容疑者が2人居た場合、Aに5年Bに5年という意味ではなく、下に書かれているように「無罪を5年にする、あるいは10年を5年にする」という認識です。

>万が一冤罪だった場合判決が出た事で捜査が終わってしまいますので、真犯人を逃してしまう事になると思います。

これは私には無い新しい考えです。確かに間を取ってしまうと本来無罪相当なのに、冤罪を着せられるケースが出てきそうです。私の前提は、裁判官は多少の疑義があっても「エイヤー」と有罪にしてしまう(無罪にするのは抵抗がある)ことが多く、実際に有罪率99%にそれが出ているというものでしたので、「間を取る」というときに、重→軽は考えていても、軽→重というのはなかなか思い浮かびませんでした。

今回、私は「間を取る」という表現を使ってきたのですが、ousaさんの指摘でこれはより正確には「有罪なのだけれど、ちょっと怪しい時に、量刑を軽くする」程度の意味なのかなあとも思い始めてきました。

私も裁判員になったら、迷うことがあるんじゃないかなあと今から思っています。その「迷い」が判決に反映できればいいなあと思うのですが、それは難しそうです。それは「ふたを開けてからのお楽しみ」なんでしょうかね。

ご回答いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/26 04:41

法廷通訳です。


検察官は求刑をし、はっきりと量刑を述べますが、弁護側は抽象的なことしか言いません。
寛大な判決を。
執行猶予にしてください。
無罪です。
罰金刑を望みます。
この程度ですから中間と言われても・・・ しかしニュアンスで検事と弁護士のだいたい中間ということなら理解できます。実際そんな感じが多いです。稀に検察官の求刑通りになることがあります。ごく稀に求刑より重い判決が下ることもあります。
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この回答へのお礼

法廷通訳の方ですか。ご回答ありがとうございます。
>ニュアンスで検事と弁護士のだいたい中間ということなら理解できます。実際そんな感じが多いです。

そうなのですか。弁護側は抽象的なことしか言わないのですか。勉強になります。「中間」というのはnishikasaiさんのご理解の通り、「ニュアンスで」という程度です。裁判って結構「融通が利く」ようですね。

でも、そういった「ニュアンス」を生かせない裁判もあると思います。例えば、過去にあった冤罪事件のように事実認定で、「死刑」か「無罪」か決まってしまうようなケースでは、判決には「死刑」か「無罪」の二者択一が求められ「ニュアンス」を生かすことはできないでしょう。

また実際に、ある合議制の裁判で死刑判決を言い渡した裁判官が、退職後にテレビ局のインタビューに「自分は当時から無罪だと思っていた。」と語り、他の裁判官に促される形でしぶしぶ死刑判決に合意した、ということを明らかにしています。これもやはり、事実認定及び判決に二者択一的な判断が求められるからだと思います。間を取って「無期懲役」とはできないのでしょうから。

ご回答本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/05/25 21:03

裁判員制度について真面目に考えるのであるのなら、やめたほうがいいです。


まず、裁判長が司会進行役になり進めようとしますが、
寝とけばいいのです。そして意見を聞かれたら、「○○さんと同じです」または「今考え中です」といい続ければいいのです。
そして、結局裁判長が自分の判断をいいます。
「○○○○だと思うのですが、いいですね」
みんなそろって「いいで~す」
ちゃんちゃん、となります。
小学校のときそうだったでしょ?人間、大人になっても本質は変わりません。
寝ていて給料がもらえるという国会議員の気持ちを味わえる素敵な制度が始まります。
まじめに考えてたら損するだけですよ。
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この回答へのお礼

続きです。

おっしゃる通り、裁判員制度には我々の「積極的な」発言はあまり期待されていないのかもしれませんね。2008年5月21日の読売新聞朝刊に法曹3者トップ(最高裁事務総長、検事総長、日本弁護士連合会会長)の話が出ていたので、期待される変化の種類に分けて引用してみます。

 ○判決に関わる期待
「裁判所は、多数の有罪事件を処理するなかで、有罪判決が当たり前になり、自白を取るために警察が容疑者を長期拘束していると思いつつも、検察に甘い見方に陥りがちだった。これを断ち切るには、国民が裁判に直接参加し、本来の原則である「無罪推定」を徹底させるシステムが必要だった。国民には負担をかけるが、ぜひ、協力してほしい。」(宮崎日本弁護士連合会会長)

 ○国民の意識変革への期待
「司法が他人事でなく自分のこととして理解されていくようになれば、犯罪や犯罪被害、さらには社会の在り方を深く考える契機になるし、社会における法令順守意識の醸成につながると思う。」(大谷氏)
「特に、小中学校で、法的な考え方を教える「法教育」が始まり、裁判員制度を皆が理解するようになることは、法が支配する国をつくる土台となる。」(但木検事総長)
「行政や立法に比べて縁遠かった司法が国民に身近になることで、今まで埋もれていた様々な被害も司法で解決していこうということになる。社会の変革の契機になると思う。」(宮崎氏)

 ○裁判の簡潔化への期待
「裁判員が目で見て耳で聞いてわかるよう、審理そのものが分かりやすくなる。」(大谷氏)

というような感じです。国民による裁判参加への期待を日弁連会長が述べていますが、「評議では、これまでどの程度の幅で刑を決めていたかを裁判官が説明する必要がある。」(大谷氏)というように、評議の際には、裁判官によって「説明」がなされるようです。こう考えると、どちらかというと「国民の司法への関心を高める」ということに主眼が置かれているように感じられてきます。

だとすれば、「国民が裁判に関与しなければならない必然性はあるのか」とか「国民に負担をかけることは正当化できるのか」といった疑問も湧いてきます。

裁判員制度も、やってみなければいけない種類のものなんでしょうけど、試しに「でしゃばって」みようかなと。(笑)

ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/26 06:21

私も、法律に関しては素人ですが、同様の疑問は感じます。


民事であれば、双方の言い分の中間で、妥協する判決も有るのでしょう。

しかし、刑事となれば白黒だせねばならないのでしょう。
だから、冤罪っぽい、刑事事件は必ず長期化するし、高裁、最高裁はどうしても一審を支持するしかなく、さらに再審は棄却せざる得ないのでしょう。
となると、それを裏付ける証拠が必要になり、また、社会通念上、判決に耐えられるだけの証拠提出を待たなければならないのでしょう。
つまり、刑事裁判においては、事実認定は避けて通れないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまり、刑事裁判においては、事実認定は避けて通れないと思います。

やはりそうですよね。何が「事実」で何が「事実」で無いのかの「厳密な」判断が求められるのでしょうね。「間を取る」っていうのはダメなんでしょうね。

仮に裁判員になった時、自分の考え(量刑)を判決に出そうと思って(例えば、「間を取って」とか)、量刑に適合するように事実認定を「後付け」しようと思っても、裁判官に「厳密さが無い」と戒められちゃうのかなあ。そうなると、裁判官の考えが通っちゃうような気がする。

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2008/05/26 04:54

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