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キリスト教の教義においては、救い主であるイエス・キリストが人類をその罪から救うために、身代わりに磔になったものとされる。

とあります。昔からいろんなキリスト教徒から人類の身代わりにイエス様は磔になったのですと聞くのですが、意味がよくわかりません。○○さんの為に身代わりになって磔になったというのなら意味がわかります。しかし人類の罪からというのがなぜ????と疑問符がついてしまいます。ご存じの方お教えください。

A 回答 (17件中1~10件)

 No.1&8&13です。



 アダムとエワからの人間社会について たわむれの仮説を披露します。

 エワという女の人は 知恵に長けていた。
 光がモノに当たって 遮られても その後ろ側の陰となった地帯にも あたかも曲がって進むかのように 入っていくと知り ここから 自分の魂の 方向の偏りを想い描きました。このふとした体験を 夫のアダムにも話しました。かれのほうは そのような心のズレについては 気が向きませんでした。
 ここから 心のズレ 魂のユレとマガリ そして 人と自分とのチガイを知ることになったというおとぎ話の始まりです。

 ここから そうは言っても しかしながら 言語表現のいわば無限の可能性を見ることになったと思われます。
 言葉による世界の知解に対する飽くなき追求が あたかも生存の欲求を満たすことであるかのように始まる。その言葉の表現における人びとのあいだでの互いの理解のちがい これも 分かってきた。
 知恵の木から 人間はみづからが その木の実を採って食べた。エワに勧められて食べたアダムにしても 同じ言語表現の世界に入り その海に漂うことになった。
 知恵の木の実を食べてからは ことばの表現によっておこなう意思疎通において 互いの思いにちがいのあることを知ることになり 善とそうではない悪とが 始まった。自分の思いが善だと思えば それと違っている相手の思いは 善ではないと思いたくなる。それは 悪だと言いたくなった。

 ここからは 言語にふたつの類型が始まった。《善だ悪だとわたしの思いを語る》スサノヲ語と 《相手に善と思わせる表現を用いて相手を説得し 自分の善を実現していこうとする》アマテラス語とである。
 《人間語》ともよべる《スサノヲ語》は 互いの善を 互いに悪だと思っても これらを互いに認め合って 生きる素朴な共生の知恵である。(ムライスムあるいは インタスサノヲイスム)。
 《アマテラス語》は あくまで 光のあまねく世界を照らすように 概念の普遍性を求める表現形態である。あるいはまた 途中でその真理追求を打っ棄(ちゃ)って 相手の無知につけ込み 相手に見せかけの善を ほんとうの善であるとして丸め込むという場合も 実際には 見られる。だが この場合をも含めて 一般にこの類型は 《アマテラス語弁論術》と呼ぶとよい。

 (科学も つねに 普遍性の明確化については 進歩する状態にあるとしか言えない側面がある。その場の暫定的な判断に従わせようとして 一面の真実を明らかにするために利用されることがある。
 (あるいは 既成の秩序や既存の現実が重くのしかかって その不合理だが事実としての有力に従わざるを得ないという政治的判断がくだされると 悲しいかな 涙を飲む。
 (そのようなとき しばしば アマテラス語弁論術は 言語表現の美の追究としても 科学的真実の追究としても 空しいのか)。

 ブッダにしても 一面では 好意的に見れば 社会現象という側面については とうぜんのごとく この言語表現から見た場合の《縁起》の世界について その・つねに解決をつづけるという動態としての《さとり》を 得たということでしょうし この智慧をおしえたのだと考えられる。
 しかも このさとりは 同じく当然のごとく 共同主観( common sense )という社会的な形態において はたらくと言っていいのではないだろうか。
 悟りを得た人びとが その主観を共同化するであろうし 一定の社会的な力(動態)となって 常識( common sense )として得られるという寸法である。

  *   *   *

 これが わたしたちが 現象として目指す縁起共生の世界ではないでしょうか。つまり 禁断の木の実を食べたという人類の罪から 一人ひとりが自由になるという世界のことです。
 それには アマテラス語科学に裏打ちされたスサノヲ人間語が 望まれるでしょうし その大前提に プラス・アルファとしてのように 観想・瞑想としての智慧もしくは信仰が 望まれるということだと思われます。
 いまも いわば《発展途上の過程》にあるわけですが 一つの見方として イエスの出現の前までは このような希望も薄かったか 限られていたかだと考えられます。もし《身代わり》という思想でイエスを解釈するとしても 十字架上の死によって もはや 人類全体にとって 理論上は 身代わりのいけにえが 必要なくなったからです。
 もう一点は おとぎ話もしくは虚構の物語について 《アマテラス語およびスサノヲ語》なる生きた言葉で 経験合理性によっても 理解しうる説明をしなおしていくとよいでしょう。たとえば《救い主》だとか《罪》だとかは もう旧い言い方でしょう。《キリスト教》ほど 古臭い言い方はないのではないでしょうか。人間と神とその間の信仰があるのみです。集団的な宗教となれば 自殺行為です。
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子供がたくさんいるからといって、


1人がいなくなってしまったら、親はその1人のために
悲しむでしょ?

いなくなった子供が大勢だとして、
一番大切な子が一人見つかれば後は見つからなくてもいいなんて
親は思いますか?

全人類なのはそういうことですよ。
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中世「動物に魂がある」といったら魔女狩りの対象となったそうです。

キリスト教が、異教徒のアリストテレスの影響を受けていると考えられます。

「アリストテレスは後世「万学の祖」と称されるように、かれのもたらした知識体系は網羅的であり、当時としては完成度が高く偉大なものであった。彼の多岐にわたる学説は、13世紀のトマス・アクィナスによる神学への導入を経て、中世ヨーロッパの学者たちから支持されることになる。しかし、彼の諸説の妥当な部分だけでなく、混入した誤謬までもが無批判に支持されることになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA% …

「宗教に根ざした動物に対する考えの違いを歴史上の人物の言葉から拾ってみると、紀元前4世紀のギリシャの哲学者アリストテレスは「自然はすべての動物を人間のために造った」といっており、13世紀のイタリアの神学者トマス・アクィナスナスは「神学大全」において「殺しても、その他どんな方法によってでも人間は動物を自由に利用することができる」と言っています。」
http://www.med.akita-u.ac.jp/~doubutu/gijutubu/g …

そして、「かつて奴隷制度があった時代には、未開民族を指して野生動物だと見なしていた。この時代には、現代では人種差別・民族差別思想として忌避される所であるが、相手の人種や民族の持っていた文化を否定ないし破壊した上で、それらを隷属させる行為が横行していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%9F% …

「「インディオが人間かどうか」という議論は教会によって当時から啓蒙時代まで続けられたのです。」
http://www.hpo.net/users/hhhptdai/kyoukaihanzai. …

以上により、当時のキリスト教にとって、人類とはキリスト教徒のことであったと考えられます。「人類」というところを「キリスト教徒」と読み替えて読んでみてください。
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こんばんは。

No.6です。先ほどは失礼致しました。今度はエラーが起きないことを願います。字数も限られているので、書けることも限られてしまいます、ご了承ください。

イエス・キリストの贖罪はキリスト教の中核部です。

ご質問についてお答えするためには、まずイエス・キリストについて、そしとイエス・キリストの使命から説明する必要があると思います。

イエス・キリストはこの世に来る何世紀も前から、イザヤなどの預言者によりこの世に来て、人類の罪を購うことが予言されていたことが、旧約聖書を読むとわかります。

イエス・キリストは創生の前から、つまり前世において、わたしたちのできないこと、つまりわたしたちの罪を購うと進んで申し出られ、天の父なる神様(神様はわたしたちすべての霊のお父様なのです)はそれを受け入れられ、そのように任命されたのです。

実はわたしたちも皆、その「天上の大会議」に参加していました。そしてイエス・キリストを救い主として受け入れることも含め、天の父なる神様が提示された救いの計画(幸福の計画などとも呼ばれます)に賛成したのです。その証拠にわたしたちには肉体の体があります。サタンに従い反対した霊たちは肉体を得ることが出来ませんでした。

イエス・キリストはわたしたちとは違います。イエス・キリストの生物学的父は神様なのです。で、イエスは父なる神様から死を乗り越える力を受け継ぎ、生物学的母なるマリアから死すべき体を受け継ぎました。イエス・キリストは十字架上で磔にされましたが、わたしたち全人類の罪を引き受けるため、自ら命を捧げられたのです。(その3日後に復活されました)イエス・キリストはわたしたちと違い、全く罪を犯しませんでした。ご自分の努力と父なる神様の恵みにより、そして天の父から受け継がれた資質により、父なる神様同様、完全な方となられたのです。ですから、わたしたちの罪を代わって購うことができたのです。

ここで、アダムとイブについてお話する必用もありますね。アダムとイブは最初の人類ですね。2人はエデンの園にいたときに、「善悪を知る木の実を食べてはいけない、もし食べれば死がもたらされる」と言われました。サタンがまずイブを誘惑して、木の実を食べさせ、次にイブがアダムに食べさせました。このことにより2人の体は死すべき体に変わり、エデンの園から追放されてしまいました。

全知全能の天の父なる神様は、この状態が起きることを予めご存知でした。イエス・キリストがそのアダムとイブの犯した咎(とが)を購われたので、わたしたちにはアダムとイブが犯した咎の責任は全くありません。そして、実はこのアダムとイブの咎も実はわたしたちに必用なことだったのです。(そこまで説明するととても長くなるので、省略します)

それで、わたしたちは自分の罪に対してだけ責任を負うようになりました。キリスト教で言う罪は、刑罰の対象になるような犯罪ではなく、主に道徳的なことです。不正(不正直)、合法的に結婚した伴侶以外と性的関係を持つこと、盗み、高慢、両親を敬わないこと、偶像礼拝、などたくさんあります。わたしたちには皆罪があるのです。キリスト教で言う罪のない人などいません。わたしたちは皆、神様の霊の子供として、素晴らしい可能性を持っている一方、罪も持っているのです。

不完全なわたしたちは自分で自分の罪を購う、つまり、罪の代価を支払うことはできず、誰かに代わりにしてもらう必要があります。そのわたしたちにできないことを完全なイエス・キリストがしてくださったわけです。

イエス・キリストは磔になる前に、ゲッセマネの園でわたしたちの罪のためにとりなしの祈りをしてくださいました。ものすごい苦しさで毛穴から血が汗のようにしたたり落ちたということです。そとあとで十字架の上で磔になられ、自ら命を捧げられたのです。

そしてイエス・キリストの購いと復活により、わたしたち皆がいつか無条件で、信じようが信じまいが、誰でも、不死不滅の体をいただけるのです。

しかし、罪の赦しを受け、最後の裁きの後に一番良いところ、つまり天の父なる神様とイエス・キリストの身元に行かせていただくには、イエス・キリストを信じ、謙遜になって自分の罪を認め、悔い改め、神様の戒めや教えを守る必用があります。周りの人たちにできる助けをすることも大切です。

この地上で神様の教えや救い主ついて聞く機会のなかった人たちには、霊界でその機会が与えられます。

神様は愛深く、公平なお方です。イエス・キリストもとても愛の深いお方なので、ご自分が筆舌に尽くしがたい苦しみを受けられてでも、わたしたちのために罪の購いをしてくださったのです。

イエス・キリストが人類の罪のために磔になられたこと、及び関連事項について、キリスト教の教義的観点から説明させていただきました。

ご理解のお役に立てば幸いです。

ご自分で聖書をお読みになるようお勧めします。

もし、わかりにくい部分やご質問がおありでしたら、どうぞ。
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 No.1&8です。


 キリスト信仰について わたしなりに解説します。
 《存在》論だと理解してください。もし《罪》という言葉を用いるなら その《罪》からの自由 罪の悩みから自由な存在として生きることを考える物語です。

 旧約聖書の『詩篇』でその詩作者は述べます。

   主はわたしに言われた。
    ――きょうわたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ。わたしは
    もろもろの国を嗣業としておまえに与え 地の果てまでもおまえ
    の所有として与える。・・・
    (『詩篇』2:7-9)

 所有権が勝手に決められることは めちゃくちゃですが まづは 表現じょうの問題だと思ってください。
 ただ このような事件――単なる神がかり? あるいは 自己満足?――に出遭って 《主(神)を父とした》ことになります。表現行為として そうなります。この人は 《人間》一般として その後たとえば 預言者イザヤとしては この《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで 貧しい者に福音を宣べ伝えることを
  ゆだね わたしを遣わして心の傷める者をいやし 捕らわれ人に放免を
  告げ・・・(中略)・・・るためである。
    (『イザヤ書』61:1-3)

 ここからすでに時代は飛んで イエスの時に入ります。イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

    《主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。主がわたしを
    遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放  
    を・・・告げ知らせるためである。》
    (つまり『イザヤ書』61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 
     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。
  と話し始めた。
     (ルカ4:17-21)

 人間と神との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。《存在》をめぐる理論の問題としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。
 これで(――つまり その後まもなくのイエスの十字架上の死と復活というふうに伝えた人類の井戸端会議をとおしたあとで――) われわれ人間は ひとり残らず 神の息吹きが吹きかけられているというかたちだと思います。
 ということは その限りで キリスト・イエスのお蔭だというその反面で その神は こころ根に霊として宿るとはいえ もはやわれわれが詮索する必要がなくなっている――そういうことだと考えます。《身代わりになって死んだ》というものでもありません。人間イエスとしては 同じ人間たちに おれの心意気をようく見ておけと思っていたかも知れませんが キリストなる神としては 自分勝手にはりつけになったのです。

 ついでと言うといけませんが 三位一体について たとえだけでしたら 次のように捉えるとよいのではないでしょうか。

 神は光と言いますから そのたとえですが 父なる神は 光源です。これから出る光は 子なる神です。光の源にせよその発耀にせよ 光が持つ明るさや暖かさ これが 聖霊です。それぞれ位格(ペルソナ)が違いますが 光として一体です。
 そして このとき神にあっては 光の発出などに伴なう時間的な隔たりは 何もないというわけになります。それが 神という想定の中身です。無限ということです。

 イザヤ書の巻き物を読んで講解したナザレのイエスなる人間は この光耀としての《子なる神》が 肉に作られた存在であると言います。
 詩篇の作者やイザヤらが 自分たちは《父なる神》の子であると表現したのは 神(その存在は 人間にとって つかみ所がないので 《霊》と呼びます)のちからを分有しているという意味だと理解します。同じ《子》でも イエスの場合とは別です。
 《子なる神》がイエスという人間となったというのは ふつうの人間であると同時に まったき神であったと捉えるようです。特にこの表現内容は いわゆるドグマです。論証不可能です。

 最後に 『エレミヤ書』の次の箇所が端的に表わしているところは 重要だと思います。

   しかし 来たるべき日に わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれ
  である と主は言われる。
   すなわち わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれ
  を記す。わたしはかれらの神となり かれらはわたしの民となる。その
  とき 人々は隣人どうし 兄弟どうし 《主を知れ》と言って教えるこ
  とはない。かれらはすべて 小さい者も大きい者もわたしを知るからで
  ある と主は言われる。わたしはかれらの悪を赦し再びかれらの罪に心
  を留めることはない。
   (『エレミヤ書』 31:31-34)

 《来たるべき日》が 歴史上のイエスの出現を表わし キリストは《あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい》(『マタイ福音』28:19)と言うのですから いまのエレミヤの《イスラエルの家》も 全世界に広がったものと思われます。
 面白いところは キリスト・イエスが《弟子にしなさい》と言うその反面で このキリストの後では もう《〈主を知れ〉と言って教えることはない》ようになっているということです。
 《わたし(神)はかれら(人びと)の悪を赦し 再びかれらの罪に 心を留めることはない》というのですから 身代わりのいけにえとなった恰好であろうがなかろうが 人類の罪から自由な 一人ひとりの存在が 踊り出るかのように 現われ これが確立していく歴史の過程にあるという見方です。

 論理に過ぎて 詭弁のように感じられるかと危惧しますが 骨組みは以上のようだと思います。
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> 人類の罪からというのがなぜ????


要するに「原罪」のことですよね。

> ○○さんの為に身代わりになって
原罪を犯したのはアダムですよね。
人類はアダムの子ですよ。
だから、アダムの罪を肩代わりした、と言えなくもないですね。

なぜ、人類の祖であるアダムの罪を
神の子であるイエスが磔になることで「贖罪」となるのか?が
現代人の感覚からすると分かりませんが
理屈で考えるより歴史で見た場合
イエスを失った弟子たちがキリスト教の存続を賭けてつくった
「復活劇」というシナリオが功を奏し
結果、キリスト教は多くの信者を獲得したわけですよね。
それくらい、当時のユダヤ教に苦しめられていた庶民が多かったということでしょう。

ユダヤ教は「神は恐ろしいんだぞ~!言うことを聞かないとトンでもないことになるぞ~!」
と、恐怖政治的に庶民を統制したわけですが
キリスト教は「いやいや神は本当は愛に満ち溢れていますよ。
あなたがたの原罪は、私が償っておきますから
あなたがたは私の説く神の愛を信じなさい。
そうすれば、あなたがたは最後の審判で「楽園」に戻れますよ。」
と、そういうシナリオをつくったわけです。

う~ん、どちらかを選べと迫られれば
やはり庶民はキリスト教ではないですねぇ。
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No.7です。



もう1つ 思い出しました。


<金枝篇>の中で、アイヌ民族のしきたりをフレーザーは言及しているんですね。

森の熊の子供を大切に我が子のように育て、大きくなったある日、女達はこれから行われることを知っているので号泣した。

これから行われること とは 我が子の熊を殺して食うこと。

で、腕に抱いたわが子を引き離されるように、女達は熊が連れていかれるのを嘆き悲しむわけですが、その後、熊が殺されて調理され振舞われると、一転して喜びの顔になる。


そういう儀式をしていたのだそうです。(今でもやっているのかは知りませんが。)


フレーザーはこのことを、、、。
ええとですね。
人間は食わなければ生きていけませんよね。
他の生命を滅することで、人間は生を持続しているわけです。
これを罪深いとするわけです。

ですが、じゃあ 罪を犯したくないとしたら、食べないので死ぬわけです。

で、人類は知恵をもって考えたんです。
熊の中で一匹だけ、我が子として小さい頃から育てよう。 とした。

大事に大事に育てて、殺して食う。
日々他の生命を奪っている行為を、贖罪するってわけです。

長子を生贄に捧げるという風習が神話から伺えます。
聖書だとアブラハムが長子のイサクを殺害しようとした。
長子を神に捧げるという風習があったことが伺えます。


元に戻って、それ以外の熊は取って食っていたわけですが、聖王(我が子)として育てられた熊だけには、その日になるまで手をつけなかった。




キリスト教でも、聖王の肉と血をくらうという儀式を繰り返しやっていますよね。


他の生命を奪うという行為なしに、生命を持続できない宿命を持っている人間は罪深いと考えるのは、インド方面の宗教もそうのようです。


で、ユダヤ教には贖罪というものがあり、贖罪の仕方に決め事があった。
収入に応じた贖罪の仕方をするので、自分の身代わりに罪を背負う動物は、羊をもっていない人は、ハトとかでもよかった。

で、自分の身代わりに罪を背負った動物を贖罪の儀式で、丸焦げにするのです。
日本のアイヌと違って、食べない。
食事目的じゃなくて、罪を清める行為として、自分の身代わりの動物を丸こげにするわけです。


炎は穢れを清めると信じられた。
で、自分の身代わりに罪を背負って丸こげになった動物のお陰で、自分にはもう罪が無いとした。

でも、毎日生活していくと、また罪が生まれてきて、それで1年に一度、日本なら大晦日みたいなもので、穢れを清め リセットする という習慣があった。


これは個人の穢れを清める儀式。

今度は個人じゃなく、イスラエル民族全体の罪を清め。
大贖罪と呼ばれ1年(ユダヤ暦)に一度行われ、誰が民族全体の罪を清めていたかというと大祭司。

一般の人と違って神の前に立つ権利を有しており、神の前にたって、民族全体の贖罪を執り行うわけです。

メシアと呼ばれるもので、「油を注がれたもの」が大祭司なわけです。


で、キリスト教になったとき、この大祭司をイエスだとしたのです。
キリスト教になると、対象はイスラエル民族限定ではなく、人類に<拡張>された。

でも、イエスは人類全体の清めるものであるとしているのは、キリスト教内限定であって、共通認識じゃないのです。
あくまで限定の集団で、「aをサルと呼びます」と決め事をしているのと同じ。


で、<氷点>というおぞましいグロい小説があります。
作家の心のグロさが如実に出ている、ホラー小説のようなもので、ハリーポッター並の怖さがあるのですが。

その中では主人公の少女は、母親にいびられるのですが、どんなに苛められても、「自分は清い」と思っており、恨まなかったんですね。
この小説は人類皆罪人計画をモットーとしているので、どんなに自分は穢れていないと主人公がして毅然と立っていたのに、彼女の父親は殺人鬼だったと設定し、それを知った主人公は、自分の中に罪を感じとり(原罪)、毅然とたっていた彼女の足を打ち砕いた。

作家の人類皆罪人計画の犠牲者。


作家の邪悪が可憐な少女に及ぶわけで、こえーー なわけです。
作家は法律上は罪がなくても、宗教上では自分と同じ穢れたものだとして、彼女を痛めつけた。
作家は主人公の母親以上に邪悪な者なわけです。




この作家もキリスト教同様、<範囲の拡張>という罪を犯し、主人公も自分と同じ罪人と認定したわけです。



ユダヤ教では、父が犯した罪を子が肩代わりして、代わりに処分されるってことは駄目だってしたんです。
あくまで本人やるべきで、個人じゃなく、民族全体の罪は大祭司がリセットするとした。

民族全体の動きは大祭司が導くので、民族全体の過ちは大祭司が、肩代わりをして、神の前に立ち贖罪をするってわけです。
そのとき、許されなければ、大贖罪をした大祭司は神に殺される とした。


で、元に戻って氷点では、拡張に拡張を重ね、人類皆罪人宣言をし、どんな救いようのないアホでも、神様は救いの手を差し伸べますよ キリスト教徒になりましょう としたんです。


恐らく ブーイング起こったか、指摘されたのか、彼女の本当の父親は別にいるとしたわけですが、作家のいいたいことは、全く自覚なくても、人類皆大悪人です ってことなんです。

「彼女が罪を犯していようと、彼女の父親が別にいようと関係なく、人類は大悪人なんです 私がそう決めたから」なわけですが、そうなると、今までのストーリーの無意味さが・・・・。

そこに作家は気づかず、自殺した彼女に一筋の生きる兆しを残して自分がまるで神になったような気分に浸っている。
自分の信仰に酔った馬鹿女です。
しかも信仰心に善い過ぎて自分の犯した罪に気づかない。
ルシフェルと同様、つのまにか、自分を神だとしちゃった。


「人類皆罪人、それでもイエス様は救ってくださる。さあ キリスト棄教を信仰しましょう」って言いたかったようです。


こえーー こえーー とこの小説を読みながら思いました。
何が怖いかというと作家の狂気が怖かった。
この人がキリスト教徒にならなければ、こんな狂気に満ちた世界を創造しなかったんじゃないかと。


実に痛い作家です。

というわけで、範囲の拡張が罪 すなわち痛さを産むんですね。
あくまで限定のカルト宗教の考えですから、カルトがAはサルである ということが、真理として考える必要はないです。
井の中の蛙 大海を知らず ってわけで、井戸の中の概念が外に通用するなんて、思っているうちは 井の中の蛙でしかないわけです。
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 私もうんと若いときに、大学の神学部出身の友人に聞きましたが、もう老齢の所為か、頓珍漢な回答でした。


 ご回答はたぶんそういうことをお考えになって、ご自分で納得されているお話なのでしょうね。
 だから、ご自分の疑問の持ち方と側面からの、とり方になっておられますね。
 神創造の人類の罪ってなんだ。イエスが磔になって、どうして人類が贖罪されるのだ。これをどう受け止めた疑問として、お答えをいただきたい。でもこういっても、この疑問の表現文もかなり受け取り方がヴァラエティあります。
 そして私自身の受け止め方でのこと:
 自分をこの現実の経験世界で、確認し、正当化し、確固なのだと確信したい、その結果として(そのために)人の心に根っこをはびこらせ(持つのでなく)、是認され、支配し、人の上に立ちたい。そういう要求が、怠け精神のそういう要求って、多くの方にもありえるのではないですか。このことを一生懸命おっしゃっているのが、:bragelone様のご回答の精神主義とかいうのかな。
 そういうことの中で、追いやられていったのではないですか、イエス様って。
 そうなった境遇にいろんな対応の仕方があるでしょうが、イエスは自分の中の、宇宙の中の神との関係で、逃亡や転向などをしないで、そして、しかもそのようにしてくる勢力をとの抗い(あらがい)をしない道を選んだ。ということではないでしょうか?
 そしてそれが人類の贖罪となる行為であったということは、ご質問者さんが、自分にどう対面するか、宇宙にどう対面するか。との中でわかっていくことで、そういうプロセスを抜きにしては、単なる不思議な、疑問だらけのお話でしかない、と存じます。どんな精緻な論理の説明をお聞きになられても。
 
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[しかし人類の罪からというのがなぜ????と疑問符がついてしまいます。

ご存じの方お教えください。]
素直に信じるか信じないのかでいいと思いますが、本当の理由を知りたいというのであれば、
イスラエルでイエスと呼ばれた救世主は、それ以前の転生でも何度も同じ境涯でなくなっているのですね。いつの時代でも貧しい人々、弱い人々を愛するが故に時の権力者によって殺されているのです。長い人類の歴史のなかでは一度や二度ではありません。今はなき国で、エジプトでインドで中国でもあったかな。そういう意味では世界中で殺されてますね。世界中で生贄の子羊であったわけですから、人類の罪を背負って殺されたといってもあながち間違いではないんですね。こういうことがあるのでパウロが捏造したともいえないんですね。
というのが答えですね。 多くの人々が無数の転生の中で何度も同じ救世主をほふってきたということなんですね。そういう役割の救世主がイスラエルではイエスと呼ばれたということですね。
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 No.1です。

キリスト信仰の神は 旧約のアブラハムからだと思いますが その旧約聖書についての研究で この神の物語と そしていわゆるもろもろの神話とは 明らかにそして全く異なるという説を ここに掲げます。参考になれば幸いです。
 次の文章の中の《人から神(つまり一般に 神々)へという方向》が 神話としての物語構成のことを言っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《創世記》2:4の後半に

  ヤハウェ神が地と天とを造られた日に

という言葉がある。《地と天とを造られた》というところで 《アーサー》=《造る》という言葉が出てくる場合 これは人間がものを造る〔*という意味であり したがってその行動の〕ように神が地と天とを造るということであるから 人間のなすことのアナロジー(類比)として問題を見ているわけである。
 それに対して創世記1:1

  はじめに神が天地を創造された。

という場合の《創造》は神だけにしか使われない《バーラー》という言葉を使っている・・・。《アーサー》の場合にはアナロジーが強いが それに対して神だけが《創造》するのだから《バーラー》の場合には人間のアナロジーをはっきり自覚的に否定している。下から上へ 人から神へという方向がアナロジー(類比)の方向だとすると そのちょうど逆の方向だから・・・これをパラドックス(逆説)と呼〔ぶ〕。
 (関根正雄:『古代イスラエルの思想』1982 / 2004。〔 〕内は引用者が補った。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神話にも 稀にいわゆる一神教が出て来ますが いづれにしても 神話は 《伝説》に毛が生えた程度であって 物語の構成が 平面的だと考えます。
 空間構造があると言っても その構造が 閉じているか または その構造の外部のことは考えていない。というように捉えるべきだと考えます。話素(部品)は どうであろうと・つまり たとい全部借り物であろうと 関係ないと言うべきでしょう。
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