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最近、「宗教を作ったのは、人間最大の失敗だ」と言う意見を聞きました。
そう言えば戦争を分析すると、宗教が絡んでいることが、ままある様です。
又、世の中不穏になって来ると、宗教に頼りたくなると言うか、
神頼みになって来る面もある様です。

それぞれ一理はある様ですが、皆さんのお考えをお聞かせ下さい。
何か、ヒントにしたいと思います。よろしくお願い致します。

A 回答 (17件中1~10件)

失敗、成功の結果はまだ出ていないと思います。



現時点ではどうかというと、まぁ、戦後日本をみれば成功。世界では概ね失敗。じゃないでしょうか。

日本は、
神棚に手あわせ、仏壇で般若心経を唱え、クリスマスを祝う。
イスラムもユダヤ教も否定しはしない。比較的にすごいことです。

世界は、善か悪か、天使か悪魔か、どっちが真の神かという排他的価値観が支配していてどちらも間違っているとはいえない対立が起こっている訳です。

宗教は結果的に人間が作ったことになるのですけど、
プラモデルでも作るように意識して作った訳ではなくて、
自然にできあがったものを宗教と呼んでいるくらいの感覚で、
いずれ世界も成功することにしておかないとダメなんですね。
そうでないという原理が排他的価値観と言うやつです。
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この回答へのお礼

まず、「宗教を作ったのは人間の失敗だ」と言われた方達は、覚者かそのような人と見受けます。
お二人とも宗教団体では無しに、サークル的な物を運営されてる様です。

人間は、親の因果だけでは無しに、そこに神(大宇宙又は生きとし生けるものを作られた)の存在、
意思があって生まれて来たとした時、我々は神の子であり、神の意思にそぐわない行いは、
つつしまなければならないとの事。

気に入らないヤツを憎むとか、自分達の幸せの為だけに祈る、すがる、摩訶不思議な力を求めるのは、
悪いエネルギーを撒き散らし、神の意思にそぐわない又、自分を憎むのもそうだとの事。

神は一国家、一民族の為だけにあるのではない。信仰している者達だけの物でもない、
すべての生命の親であるとの事。

と言う事で、各宗教いまいち狭い範囲にあるのでしょうか。
ある日本の覚者は、各宗教の上に上部団体の様な物を作る、模索をされている様です。

回答者様の中には覚者の様な方も、おられるような気もします。それぞれの方にそれぞれの教訓を感じます

。今後の人生の参考にしたいと思います。ありがとう御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:15

本当に、人の概念に対する執着は恐ろしいものですね。


どのようなことでもさせてしまう可能性を秘めています。

人を欲するままに管理したいと言う欲望は恐ろしいものですね。我がためと思い、自己のためにも他のためにもならぬ、苦しみを多く産む道に進ませる可能性を多くはらんでいる。他者を人間にある基本的な集中力をうまく悪用して理性を奪い…

苦しみを多く産む道に導く。己のために。偽善をはらみながら。

概念・見解に執着することの危険性を見出す人に、正しい見解が現れると感じています。あるがままの法を観るのですから。


生命各々の理性を最大限に生かすことを賞賛し、自他の自由を尊重し、人を欲するままに管理することをせづ、柔軟な理性的な道徳的な対話をし、概念・見解に対する執着の危険性と、自他共の苦しみの原因と苦しみの滅する性質について正しい方法によって説かれた法を説かれる方はまれなことです。

そのような意味で私はブッダと仏法(パーリ語の三蔵)と伝え指導してくださるサンガのお坊様の三宝に信(理性を元とした自信)をもって日々実践確認を行っています。

仏教と言われるものにも多種多様なものがありますし、お坊様によってもいろいろなことを言われる方々がいますね。

その中でも上記にあるような性質を持つお坊様に信を置いています。

人間・我々は往々にして見解概念による根拠のない感動に引きずり込まれやすい性質がありますね。

ここに自他共に争いなどが発生する大きな根となっているのではと、考察いたします。

~生きとし生けるものが幸せでありますように、安穏安楽の境地に自己を確立できますように~
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:18

私は、あれかこれか。

でいくと、失敗派。
頼って心の拠り所にするにしても、宗教よりは、
もっとマシなものがあるだろう。という考え方。

とはいえ、カントの要請だったかな。
神もいないよりは、いることで、ものごとが上手くいくなら、
いることにしよう。という考え方は。

しかし、誰が言ったか忘れましたが
余計なものはいらない。という考えもあり。
さてどうしよう。

宗教の問題についてあれこれ話をすると
虚しい争いの末に結局、みんなそれぞれ。という結論になる。
ところが現実には教団や宗派が存在し、どれが正しい?
ということになる。
それに宗教はおそらく、ただ一個人の宗教ではなく
集団化をともって宗教と呼ばれていると思います。
宗教はなぜ集団化するのか?不思議です。
教祖や信者はなぜ、ただ一人で信じることで終わらず
信者獲得に乗り出すのか。
それで考えてみたんですが、結局、絶対に正しいものがそれぞれ
各個人に宗教として複数存在することは、価値が全て等しくなって
しまって相対的に意味がなくなるからではないでしょうか。

そこで、全ての価値が質的に平等になってしまった以上、
量的拡大を目指して自分の正しさを証明するように
なるのではないでしょうか。
こうすれば、信者数によって、自分の宗教の正しさが
わかります。数値化できます。比較できます。
相手を改宗させれば、絶対=不変でしょうから、
あなたは、今まで本当の宗教ではないものを信じていた
なんてことが言えてしまうでしょうし。

そうして、量的なものが正しさを決めるようになっていくと、
教団の規模で争いが行われていきますね。少数派と多数派の誕生です。
少数派の宗教と多数派の宗教では、多数派の宗教のほうが
それだけ、多くの人に支持されている、普遍的であるから
価値がある。宗教として勝っている。と言いはじめる人が
でてきます。

少数派は独善的で駄目だなんていい始めるのです。
だから少数派が正しさという観点から勝つためには
質的な問題に着目し、戒律を持つなどしてより厳格になるなど
価値転換をはかる必要が出てきます。
うまく成功すれば、一気に形勢逆転。

こうして戦いが始まるのでしょう。たぶん。

ちなみに、殉教という
信じたことによって憎悪され、苦しみ攻撃され死ぬことが勝利という
行き着くところまで行ってしまった宗教観があります。
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:20

 失敗がなければ、創造はないし、継続はしないのではないですか。


 そういうものがたくさんあるから、私もあなた様もおられるのだとは存じませんか。
 どの宗教も二面があり、失敗の面と崇高な面と。
 それがなければ、宗教も存在しません。
 宗教にしろ、他のものにしろ、誰が創始下かは別にして、単なる人間を単なる主格としてだけでは表層的ですね。

 失敗のない、完全(だれの何のための完全かは別にして)という時期は来るでしょう。それはより大きな不完全と失敗で消滅します。
 そして本当の完全、失敗なしの時も来るでしょう。
 そのときは失敗作の人間も創造界も、完全の中に溶けてなくなっています。その完全だけが唯一ある、というときです。
 そのときの循環を計算している、スワミ・スリユクテスワという方がおられます。聖なる科学。Self-Realization Fellowship で検索するとその発行元がでてきます。どうぞご参考に。
 日本語版もありますから、日本語の、聖なる科学でも検索されたらいかがでしょうか。
 薄い本ですから、問題は何を信じるか、どう生きるかを真剣に考えた、方々の結論的に読む本だとは存じますが。
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:22

そもそも何を持って、失敗とか成功というのかわかりませんが、人生のどん底に陥った時に、心のよりどころとしてそういうものを頼るのは別にいいかな、って思います。

人生短いですから、神頼みの1つくらいあってもいいと思うんです。
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:22

●"宗教を人類が編出しても人間は死から逃れられぬ点が依然として不変たる点に着目する"なら、さして、プラスとは言えない。



●一方、宗教を一種の産業と見做す切口からは(カトリックなら神父、プロテスタントなら牧師等々の)関係者に生業をもたらしているが故に、プラスと解して差支えない、と私は感じます
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:23

教団という組織としての宗教は失敗です。

このことは宗教教団に限らず、政党、学派、等々さまざまな人間の組織に共通にいえることです。そこでは、一部の権力を握った人々以外は、自由にものを言うことができません。一般の人は、洗脳されるか、強者に媚びへつらうしかありません。そこには自由意志はないのです。反対すれば、組織から抹殺されるのです。

「宗教は阿片」と唱える人たちが集って組織をつくれば、その組織自体が「阿片」となるのです。

しかし、組織をつくらなければ他者に対して、力を持つことはできませんね。一人の人間は弱い存在なのです。残念ながら、これは人間の悲しい宿命です。

人間を進歩させたのは、他者の押しつけによる「宗教」ではなく、個人の自由な「信仰、思想、発想」です。
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:24

失敗も何も発明品や捏造品じゃなくて自然発生する特徴のある事柄だからそのような評価は(そのように考えるのも仕方ないけども)棚上げしっぱなしにしたほうががいいと思います。


信仰に取り組む方にはまえむきでいてもらいたいですものです。

自慢めいていますが、
私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれる特技があります。
瞑想が得意でいろんな面で常人と違いますが、こんな私は何者にもすがらずにこの境地までたどり着いたいわば無神論者として究極の成功例です。
ところがこんなわたしだからこそ、実は信仰心を心のもっとも深い部分にひたかくしにして内包していたこと自覚しています。
この信仰心は名前でも言葉でも言い表せないものです。
平均的な日本人の宗教嫌いもここにあります。
信仰を表ざたにする人の中には裏切り者やまがい物扱いされて致し方ない方もおられるので、普通の人、これは哲学カテの表現で「貪る人」とも言えますが、要するに一般の人は宗教狂いに変な顔をします。
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:25

うーん。



宗教自体は成功とか失敗の属性はもっていないと思うんですね。

核が失敗とか成功の属性をもっていないのと同様に。

それを使用する人が、どういう使用の仕方をするか  だと思うんです。

例えば、ある宗教は、本の一節を持ち出して、それを「自分が正しいとするため」に使用している。

使用の仕方、あきらかに間違えていますよね。


プラトンは、イデアというものを考えた。
師匠のソクラテスが善を知らないということに、哲学を発したわけですが、ソクラテスは知らないと言ったが、弟子のプラトンは、それはイデア界にあり、人間は魂の部分がイデアに存在しており、肉体を持ったとき、そこから離れた としたんです。

だから、そこに つまり究極の善に近づかなければならない とした。

で、政治では法律ってものがあって、一部の支配者が法律を制定しているが、政治家同士が釣るんでしまえば、自分達に都合のいい悪法を作り、それによって善人が損をして悪人が徳をすることになる とした。

で、ソクラテスは法の番人とか いわゆる知識人に問答をふっかけて、何も善について知らないじゃないか と悟らせようとした。

で、結局 若者は支配者が作った法を遵守していたのに、ソクラテスが、その番人が善を知らないということを暴いたため、支配者に疑惑を持つようになり、従わなくなった。
法の番人たちは秩序が乱れたとして、ソクラテスに社会不穏を起こして、集団の秩序を乱したものとして、罪だとして処刑したんです。
しかも、自分達の崇拝する神を信じていないふとどきもの として、それは死に値する とした。

で、ソクラテスはモリモリそれについて抗議したが、彼らを納得させることができず、処刑されたんです。

弟子のプラトンは善人が悪人によって殺される みたいな気持ちになり、イデアから遠ざかったからだとして、法の番人じゃなくて、イデア界がなんたるかを認識しようとする哲学者の見解に従うべきだとした。

で、これも一種の宗教です。
でも、ただ、頭が摩り替わっただけ。

そのあとのアリストテレスは、イデアをやはり想像したが、それは普遍的なものじゃない としたんです。

例えば、50キロの体重。
160センチだと、ちょうどいいが、180センチだとやせすぎだし、140センチだと太りすぎ。

だから50キロは普遍的に善いことじゃないことと同じように、イデアは時とか場所とか何かの状態とか、それらによって 善いか悪いか違ってくるので、何が善いかと考えたとき、中庸がよい としたんです。

例えば怒りっぽい人は、自制することで温和になれる。
でも ここぞってときに怒らないってことはいくじなし。
怒るべきときは自分が損をすることを覚悟で、勇気をもって怒る。
つまり いくじなしの中庸は勇気(だったかな?)


いつも温和だったり なんでもかんでも許す寛容な人が善人のように思えますが、そればかりだと、いつか息子は父親を馬鹿にするようになり、秩序無い人間になってしまう。
で、どういうときに温和になり、どういうときに怒るか を見極めることができることが人にとっての徳である としたんだったような・・・・。


で、確かに宗教が原因で戦争が起こっていますが、それをよく診ると、宗教を利用して「自分は正しいものだ」とするため、相手を打ち負かすために宗教を盾にした場合、これは人の徳にならない。

他人にとっても善いことでなければ、特にならない。


で、戦争で勝てば自分は正しかったことになるとなり、懸命に殺して勝というとするわけです。

買ったら自分が善だという証明になる とした。

同じ宗教でも殺し合いをしますが、自分の理解の方がただし つまり 自分は正しとする補強として、宗教を使ってねじ伏せようとする。

こういう使用の仕方をしている限り、宗教戦争は無くならない。
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:26

失敗と言えばそれまでですな。



マイナスな面も明らかにあるが、プラスになっている事も確実にある。

そもそも、人間という存在そのものが「一番無駄な物」でありまた、「一番尊い物」だからです。

この二面性こそに「人間の本質」があるのだと私は考えています。
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この回答へのお礼

有難う御座いました。

お礼日時:2008/05/30 13:27

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