プロが教えるわが家の防犯対策術!

 以前の質問において 次のような仮説を捉えました。それの吟味をしたいので お尋ねします。

 第一次に《こと=事》に感応して《ことだま=事霊》を見止めるがごとく思い描き 同時に《ことだま=言霊》としても捉えた。そのあと 第二次に 事の端⇒言の葉⇒言葉そのものに言霊があると見なすようになった。とするなら 《言葉を発すると そのまま それの表わす中身の事が起こる》という《言霊》の思想は 人為的に後で出来たこの第二次のほうではないだろうかと。→《Q:3994017 われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html 》No.11補足欄など。

 ところが この仮説をくつがえす次のような説を見かけました。両者を吟味しつつ ご見解をおしえてください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 我々は祝福というと おそらくすぐ神に祝福されるというふうに考える。《創世記》一二章の一節から三節でもそう書いてある。けれどももっと遡って旧約の中で祝福とか呪いという問題を探ってみると 神との関係が初めにはない。・・・
 というのは 神との結びつきは旧約の伝承を探ると二次的なのである(ショットロフ)。要するに〔第一次のは〕言葉のもつそれ自身の祝福の力および呪いの力である。これは宗教的にいえばいわゆる呪術の段階である。ところが旧約ではきわめてすみやかに神とのかかわりをもたせさられて《あなたは祝福されている》《あなたは呪われている》という言葉が神との関係で用いられはじめており・・・(以下省略)。
 (関根正雄:『古代イスラエルの思想』2004p.63〔初出=1982〕)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (33件中1~10件)

こんばんは、brageloneさん。



                
               “ ヤッホー! ”



あら??? ちがった(*^^*)>゛゛゛山彦でしたワ=☆ こりゃまた失礼m( _ _ )mども。


BGM
【ラチエン通りのシスター】
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND8468/index.h …

●神との関係が初めにはない

契約がとり交わされてないってこと?

信頼関係で成り立っていたってことなのかな?


          

            これやこの 行くも帰るも わかれては
         
               しるもしらぬも 逢坂の関
           (蝉丸)


           「 行く人と帰る人が別れ、知る人と知らない
                
             人が出会うという、これがあの逢坂の関 」






【現場からのリポート】
http://dndi.jp/07-harayama/hara_18.php
【相対主義について】
http://www.kt.rim.or.jp/~igeta/gr00/rs/05.html

この回答への補足

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ●神との関係が初めにはない―→契約がとり交わされてないってこと? / 信頼関係で成り立っていたってことなのかな?
 ☆ そのあとにあるように つまり
 ▼ これは宗教的にいえばいわゆる呪術の段階である。
 ☆ というように まったく理屈抜きで 何でもかんでも そこに超自然的な力が宿るとみれば その力もしくはその力を含む領域へと 体も魂も 乗り移って行くという知性以前の心の動きだと まづは 思います。
 その世界と交通しうる人間の言うことなら 確かで間違いのないことだと 思ってしまう原始心性だと思います。さらには そういうかたちで 社会としては 共同自治がいとなまれていたという情況ではないでしょうか。
 ということは その超自然の領域に 事霊=言霊を 見ようとしていたと言えるのかも知れないのかなぁ。
 でも たぶん このようなアニミスムおよびシャーマニスムであるとすれば もう 一応としては その個人としての心性が そして集団としての心理的な交通情況が 固定してしまうでしょうから そしてそうであるからこそ 《神との関係が初めにはない》という情態だと思われるので 事霊=言霊のやはり以前の状態にあるように考えられます。つまり 第一次のことだまよりも 以前であるという意味です。逆に そうであっても 第一次のことだまより以前の段階だということで それが むしろ取り上げられて 第一次のことだまの段階を通り越して 第二次のコトダマ(言葉霊)の段階では 或る意味で 復活しているのかも知れません。

 次のような整理のもとにです。

 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。

 このとき 《ことだま》は 《イリ》知性の問題であり その情況でこそ 第一次だとわたしは思っていたのですが こうなると 《ヨリ》においても すでに現われていたと見なしうるとするなら 《ヨセ》にとっても 人間本来の心性かつ知性の基礎であると言い張るよすがとなるかも知れません。統治者のホンネとしては そういう学説を望むのかも知れません。
 解いてください。

 ▼【現場からのリポート】~~~~~~~~~~~~~~~~
 光を照らしてくれるのが「Phronesis」の概念で、野中氏の登場となります。あまり聞きなれない概念なので定義を引用すると「個別具体的な場面のなかで、全体の善のために、意思決定し行動すべき最善の振る舞い方を見出す能力」となります。ここでキーとなるのが主観であり、その主観がよりどころとする価値体系の構成要素である倫理観、歴史観、社会観、政治観、美的感覚なのです。科学的知識と実践的知識を融合してアクションを取るイノベーティブなひとには規範的な側面においても卓越していることが求められるのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《全体の善のために》というのは 思惟の段階で 一般的に 出てくると思うのですが 個人としての行動に際しては あまり考えないほうが つまり むしろ 個人は 自己の利益を 一応 考慮して振る舞ったほうが 無理がない(A.スミス)と思うのですが どうでしょう? と思いました。

補足日時:2008/05/31 23:42
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この回答へのお礼

 ▼ 【相対主義について】~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 漱石の「相対主義」ということに関していえば、例えば、『坊っちゃん』について次のようなことがいえるのではないか。
 この作品においては、主人公の坊っちゃんの側と、教頭の赤シャツの側に分けることができる(すなわち、アンチノミーを形成している)。ある種、「伝統的日本人」の理想像である坊っちゃんが象徴しているものは道徳であり、非合理であり、近代以前である。それに対して、文明開化後の西洋的教養を身に付けたインテリである赤シャツは、科学、合理、近代といったものを象徴している。そして、「勧善懲悪」の小説といわれている『坊っちゃん』だが、江藤淳も指摘しているように(『坊っちゃん』新潮文庫、1980、「解説」)、このアンチノミーにおいて、「善」、つまりテーゼ=坊っちゃんが、勝利しているわけでは必ずしもない。むしろ、最後には学校を去っていく坊っちゃん(と山嵐)は敗者であるともいえる。ここに、鴎外と共通する、漱石の立っていた、ある意味「相対主義」的ともいえる困難な立場がうかがえるであろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ お節介なコメントですが こう受け取りました。坊っちゃんは スサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民であり 赤シャツは アマテラス理性語を話すアマテラス公民とよぶべき一市民であるようだと。
 ことだまは どちらにも宿るでしょう。前者は まだ玉が磨かれていないかも知れない。後者は 言葉によって 磨き過ぎてしまったかも知れないと。
 と言えるのは はじめの仮説が有効であるときでしょうから やはり その揺らぎが 気になるところです。
 いったい どういうふうに考えればよいでしょう? 
 ▼ 〔第一次的に〕言葉のもつそれ自身の祝福の力および呪いの力
 ☆ という別の仮説をめぐってです。《言葉そのものが 言霊を持つ》と捉えるのか? 言語学も関係してくるのでしょうか。

お礼日時:2008/05/31 23:55

primeapeです。


仮説について補足要求というか確認です。
心理学では確かな用語と解説があったはずですが、頭の中を駆け巡っている一般に「考え」とされている言葉を言霊になぞらえているのでしょうか。
もしソレだけが言霊の議題なら心理学書を読めば疑問の大半は解決します。
それとも口から出た言葉も言霊に含まれるのでしょうか。

人によってはありうる状態の例えですが、頭の中は妄想や雑事が言葉として駆け巡っているさなかでも口先からはソレとは無関係な日常会話がもれたりします。そのような人の場合はどちらを観察の対象としているか明示しないと質問内容の理解すら滞ります。

それから私にはこの質問は心の本質と言葉の関係を洞察しようとしているかのようにお見受けしますが、ソレを神との関係になぞらえると次元の違う話になります。

この回答への補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 うっぷ。つまり あっぷあっぷです。心理学また言語学の問題だというふうには つまり その学そのものの探究を俟って初めて解明されることだとは 考えていませんでした。
 wikiの解説では
 ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。

 声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発するとよいことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事がおこるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。・・・
 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とありますが このような定義と事例とは わたしの仮説では 本来の言霊ではないと考えたところから 出ています。そこで 《第一次》と《第二次》とに分けて捉えようとしました。wikiの叙述は つまり それが一般の思想なのですが そこで言う言霊は わたしの整理では 第二次のものだということになります。
 今回 それに反する事例が 趣旨説明に書きましたように 見つかりました。これを どう扱えばよいか。そういう趣旨になります。

 ★ 心理学では確かな用語と解説があったはずですが、頭の中を駆け巡っている一般に「考え」とされている言葉を言霊になぞらえているのでしょうか。
 ☆ これは さらに別の見解のようにお見受けします。
 ★ それから私にはこの質問は心の本質と言葉の関係を洞察しようとしているかのようにお見受けしますが、ソレを神との関係になぞらえると次元の違う話になります。
 ☆ 《神との関係》というのは No.1の補足欄に書いたと思いますが ふつうの人間の知性のあり方 という意味です。(有神論と無神論とを ともに 同等に認めるふつうの歴史知性という意味です)。
 それで 一つ前の心理学の問題とも合わせて ともかく わたしの趣旨説明との関連で どういうことが言えるのか とりあえずそこで必要な事柄は何々か といったようなかたちで お答えいただければありがたいと思うのですが。
 あるいは さらに 設問の仕方が 成っていないという場合には もう少しその理由説明を添えていただいて 説得してくださると ありがいと存じますが いかがでしょうか。窮余の策でのお応えにしかなっていないかと思いますが。

 参考に 関根正雄の叙述を もう少し引用しておきます。
 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 現在の我々は祝福というとただとかく言葉のことに考えるが 古代人には祝福と呪いというのはそれだけで実力的な力だったのである。・・・〔祝福は〕古代人にとっては命令であったということも含まれるし あるいは神の言葉に従うということも含まれるが そのことだけで問題は尽きない。そうではなくて もっと中心的なことは神の霊的力としての祝福だった。そしてその反面は呪いなのである。
 (『古代イスラエルの思想』p.62)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ このあと そもそも 《神との関係が初めにはない》という認識が出て来ています。つまりまた 《ところが旧約ではきわめてすみやかに神とのかかわりをもたせさられて・・・》と続きます。
 もし このような言葉の霊力を問題とするときには 第一次・第二次は どのように認識すればよいのか。こういう問い求めなのですが。

補足日時:2008/06/01 00:25
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primeapeです。


一人で先に進みます。

>人によってはありうる状態の例えですが、頭の中は妄想や雑事が言葉として駆け巡っているさなかでも口先からはソレとは無関係な日常会話がもれたりします。そのような人の場合はどちらを観察の対象としているか明示しないと質問内容の理解すら滞ります。

以下は心理学的裏づけの無い私の独自の解釈です。
本当なら心理学の本の解釈を当てにしてください。
心の内面の言葉との言行一致をしている人の場合、欲望の出口が行いにしか無くなり、いわゆる欲望を肯定した人となります。私が悪い意味で例える現実的な人です。

心の内面の言葉との言行一致をしていない人の場合、一般にソレは見透かされて、腹黒い人、嘘を付く人などとされます。この場合自分自身をどのように解釈するかはそれぞれです。

私の場合仕事中は手先では自分の仕事をこなし、口先では日常会話をしながらさりげなくパートナーの仕事をサポートして、頭の中ではメチャンコ悪魔君が舞い込んで来る欲望を討伐している三位一体状態です。この頭の中(保持記憶機能)が今までひょっこりひょうたん島といったり、人知の浅はかさと言ったり、誰かの心の断片と言ったりのガラクタ状態です。
このガラクタ置き場を言霊の港にたとえるのはちょっと判りにくいです。

無意識野は肉体とは独立しており、心の本質、主観、とは、例え話じみていて判りにくいようです。したがって今回お話の言霊は頭の中に聞こえている声のことに絞っているのではないかと解釈しますがいかがでしょうか。心の内面の話にしないと思考不能です。(観察不能とも言います)
でもそうすると、人間性というよりも人知の基づく自らの主観に対する解釈に論議が圧倒されて、またしても神とはなんぞやの話だけで結論が遠のく可能性もあります。
最近のbrageloneさんのご質問はこれが多い気がします。
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この回答へのお礼

 primeapeさん No.2でのやり取りで おおよそ お応えできたのではないかと思います。心理学や言語学の研究成果にかんしては それを持ち出す以前にとどまりますが。

 《神との関係》も 
 ★ 神とはなんぞやの話
 ☆ には入らずに 問いを提出していることも 説明できたのではないでしょうか。

 そのほかに 心象風景と言いましょうか 大きく心理の世界にかんして お話を述べていただきました。
 たぶん こういうふうな整理になるのではないでしょうか。
 わたしの仮説に言う《第二次のコトダマ》思想にあたかも則って 人びとは 同じくわたしの用語で《デーモン》を頭の中に抱え それを 人に向けて 発出することがある。このデーモンを わたしたちの頭の中に(あるいは心で)受け止めることもある。このとき
 ★ 頭の中ではメチャンコ悪魔君が舞い込んで来る欲望を討伐している
 ☆ と表現される事態も 起こるということのように理解したのですが いかがでしょう。
 ですから こう言っては何ですが この質問では 言霊の起こりつまり起源ですね そこに焦点をあてていただけると うれしいです。具体的には 第一次と第二次とがあるようで これに関して 明らかにしたいという狙いがありますが いかがでしょう。

お礼日時:2008/06/01 00:50

primeapeです。


試しに「霊」と言う言葉を「感情」と言う言葉に置き換えて再度ご質問なさるとするとどのようなコメントになるのでしょうか。
霊とは不確定な存在のため抽象的です。
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この回答へのお礼

 たしかに 《感情》や《情念》にまつわるもろもろの心理を わたしの言葉で《デーモン》とすれば
 ★ 試しに「霊」と言う言葉を「感情」と言う言葉に置き換えて
 ☆ みれば 第二次のコトダマ(言葉霊)のしわざだという仮説に見合った事態を言っていると思います。

 ★ 霊とは不確定な存在のため抽象的です。
 ☆ が この言霊の思想に限っては 現実経験とつながっていると 習俗としては 見なされていますので 《神学》を持ち出さなくとも 質問もできるし回答もしていただけるものと思います。

お礼日時:2008/06/01 00:55

primeapeです。


質問の内容がつかめてきました。
言霊に一次と二次があるとの説明は文面を見る限り考えが及ばず理解しがたいです。
これはもしかして、brageloneさんの内面にある、「私は生きているのですか、それとも死んでいるのですか」と言った感じの問いかけではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ★ 言霊に一次と二次があるとの説明
 ☆ にかんしては 以前の質問の補足欄に次のように書きました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
どうも 《言霊》には 第一次のそれと 第二次のそれとが あるように思われて来ました。
 空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》という《言》で受ける。もしくは そのように発音を伴なって成り立った時点で〔* (今回の追加としてです:)つまり局面を改めた段階で〕 それは単なる《事の端⇒言の葉⇒言葉》と捉えたかも知れない。
 したがって 〔最初の〕《言霊》は 〔言葉が確定したあとの〕《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。つまりこれら両者が 第一次と第二次とです。
     * 
 というのも 雷は つまり神鳴りは 事であり 神というからには その《事》に 《いか(厳)つ(の)ち(霊)》ということだまが宿ると捉えられた。雷光は 稲の生育に 霊の息吹きを宿らせるという観想によって 《いなつるび(稲と雷電との交接)》と言い あるいは《いなづま(稲妻もしくは 稲夫〔夫も つま と読む〕)》と表現した。生育というよりは 稲が孕むということのようです。
 だとすれば このような《こと(事)》とその《霊》の観想が 初めにあって そのあと《言霊》や《言挙げ》が続くと思われて来ます。
 
 もっと言うならば たとえば《のりと・のろい・まじない・言祝ぎ》は 第一次の《事霊》の現象を 再現しようという段階に至っており したがって 局面が違ってきており その第二次的な人間の側の知恵であり努力であるとなります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 生きている死んでいるについては 次のご回答にて。

お礼日時:2008/06/01 01:42

primeapeです。


先に進みたいのでA5についてです。

あなたの言葉は文字の形にしろ何にしろその思いが伝わります。
だからあなたは生きています。
あなたのお父さんはbrageloneさんです。

こんな感じが体感しうる言霊ですかね。
呪術めいていますかね。

この回答への補足

 ★ だからあなたは生きています。
 ☆ ありがとうございます。

 ★ あなたのお父さんはbrageloneさんです。 / こんな感じが体感しうる言霊ですかね。 / 呪術めいていますかね。
 ☆ ううーん。これは わたしにとっては 残念ながら 文学的な表現ですねぇ。つまりは 内実として
 ★ だからあなたは生きています。
 ☆ ということを伝えてもらっているという意味です。

 でも 文学的な表現にしろ 言葉が なにかを喚起するとすれば それだけでも 言霊であるとも思われます。そうなると やはり単純に そもそも人類が言葉を持った時点で その《言葉じたいに 霊的な力が宿る》と言えるのでしょうか。この事態が 第一次なのでしょうか。

 もう一編 わたしの書いた文章を掲げさせていただきます。次のようにわたしとしては 第一次の言霊を 思い描いていたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きがあるはづです。あったはづです。

  HA.....SI。

というふうに 続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして 発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取った。また その心の状態をも取り立てた形だと思われる。

  HASI . / はし。

 こうなると 心の状態が あたかも表わされたかに思える。《愛(は)し》。ここに 

  う。 アルイハ うる(⇒裏・裡・心)。

と分節して これを添えれば

  うる‐はし。(麗しい)

とつなげて いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができたようだ。
 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる当の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明でもある。

 《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを 合成すれば 《やま‐と》のかたちに その地を 言葉として持った。

 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり

   やまと(山‐処)‐は うるはし。

 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。

   やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

 《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここに《ま / ろ / ば 》をも添えて

  やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現(それは 判断である)を基軸として 文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。
(《Q:3994017 われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html 》No.37補足欄)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 こと(事)‐たま が先だと思うのです。どうも これは まだ弱いらしいです。これを明らかにするには 脳の知覚や認知というのでしょうか そういう科学を踏まえた言語学が 必要なのでしょうか。

補足日時:2008/06/01 01:56
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♪(*^・^)ノ⌒☆ほーい、brageloneさん。




おっと、そのまえに


               one of them 


******************************************************************************

☆ 《全体の善のために》というのは 思惟の段階で 一般的に 出てくると思うのですが 
個人としての行動に際しては あまり考えないほうが つまり むしろ 個人は 自己の利益を 
一応 考慮して振る舞ったほうが 無理がない(A.スミス)と思うのですが どうでしょう? と思いました。

******************************************************************************


『諸国民の富』諭吉っちゃんですか?

【福沢諭吉:文明論と経済学】
http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~yagi/yagi2005/lin …

あーん、読んできたけど、なんとも???なんだよなー

筆者の見解には、モノイイをちょいとつけたくなる。

どこに?

うん、あちゃこちゃあるけど、終わりのほうP25で書かれてあること。

農民や労働者は眼中にないようなことを書いてはるけど、ホンマそやろか?

ほいでもって、アジアの隣国とその民衆をも眼中にないような言い回し、ど
うも腑に落ちん。

この筆者の書きようだったらとんでもなく悪い奴みたいやん諭吉っちゃん。

弁護、弁護!弁護しちゃろ。

ちょいと年表を用意してっと、タイムスリップ!
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1880 …

バック、バック、バック

ざぁーっと当時の時代背景に目をとをして。

どぅーーーーえっーーーーと戻ってみただけでも



農村で収穫したもんを市場でさばければ、お金に換わる。

自給自足と自分家でだけ作ったもん食べとったら

食べることはできても、お金はどこからも入いってこうへん。物買われへんやん。

そやし、衛生状態も今みたいにようない

早よ何とかせんことには次から次に流行り病で人がのうなっていくばかり

そやから、インフラ整備急ピッチでとりかかってるやん

インフラを行えば、仕事が生まれ、場が提供される

労働に対する対価を得ることができる

貧困から抜け出す道筋

ごっついトンネルや鉄道の線路、いまはあってあたりまえ、あたりまえに目にするけれど

one of theme みんなの力の結晶

農民や労働者は眼中にないなんてことない。逆やー!

眼中においていたからこそ、貧困から抜け出す道筋をつけることに心血注いでたんとちゃうか。

お節介かもしれんけど、アジアの隣国の民衆に対しても、ほっとかれへんかったんやろ

自国同様に貧困から抜け出す道筋をつけることに心血注いでたんとちゃうか。

こんときから、アジア全体に利益がいきわたるような仕組みを夢見てたんちがうかな?

西洋諸国との格差をいち早く肌で感じていた諭吉っちゃんだけに。


【QNo.450292 地域通貨のことについて教えてください。】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa450292.html
【QNo.3193243 もしもこの世から。。。 】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3193243.html

この回答への補足

 お早うございます。お答えをありがとうございます。
 この質問は むつかしいですかねぇ。単純な事態としての仮説を持っていただけなのですが 反対説を前にしては やはり明らかにしたいという思いですし 偉い人の言説だから そうなのだという納得を持つこともむつかしいです。

 ★☆ 《全体の善のために》
 ☆ このことで コメントしたのは スミスの次の考え方に基づいたものです。
 ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは 自分自身の利益のためなのである。
 だが こうすることによって かれは 他の多くの場合と同じく この場合にも 見えざる手に導かれて 自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは その社会にとって かれがこれを意図していた場合に比べて かならずしも悪いことではない。
 社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも 自分自身の利益を追求するほうが はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が 社会の福祉を真に増進したというような話は いまだかつて聞いたことがない。(国富論 第四篇第二章)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どちらか一方に片寄るのも いけないのでしょう。もともと スミスも 《利己心と同感( sympathy )》を掲げたそうです。後者が基本のようです。つまり 個人の利己心を抑えるのではなく むしろ発揮し合いつつ しかも 言わば社会にあたかも《ことだま》の相い通じるがごとく また情念( -pathy )をさえ同じくする( sym- )がごとく 互いにその《文明》のあり方について 同感し合うところを目指す。 そして このとき 果たして 《ことだま》とは それがあるとしたら どういう起源のもとに 社会的な現実の一部となっているのか。おしえてほしーーい。

 ★ 【QNo.3193243 もしもこの世から〔お金が無くなったら〕。。。 】
 ☆ わたしは いまも インタムライスムを提唱しています。国家を超えて ムラ(市町村)どうしが 地球規模で 相互にあらゆる分野で提携していくという思想です。
 ■~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たぶん ある日 いくぶんSF的に 金融の一切のシステムが消えたとき、 / スーパーの店員一人にさえ、たぶん彼がいままで学習したことのない / 尊厳の自立や 魂の自立が 必要となるのであって / われさきに詰めかけてキャベツを持っていこうとする人間を / ただ持って行かせてはならない と彼は気づかねばならない。(ANo.12)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これをめぐってなら 《みな誰でも 〈キャベツを持っていけ〉という》販売(?)のあり方を空想します。むろん生産も流通も すべて お金無しの状態です。つまり スミスの《利己心と同感》つまり 《ことだま資本主義》です。すべてにわたって 自由な主観の自由な判断に基づくという《文明論の概略》です。(誰かは 《無秩序の秩序 / 無法の法》だとか言っていました。nabayoshさん おーい!)。
 しかしながら 《ことだま》の起源が分からない。

 ★ 福沢諭吉の《脱亜入欧》等々
 ☆ 専門的な議論ではありませんが 総じて 《和魂洋才》でやって来たのですから あとは どこに重点を置くかでいろんな考えと施策があったと考えます。
 かえって少し冷たい言い方になるかも分かりませんが 政策論に入れば その時々において どういう事項を先に取り扱うかは 人命や人権に損害を与えるのでなければ みな相対的なものだと見るべきではないでしょうか。★《西洋諸国との格差をいち早く肌で感じていた諭吉っちゃんだけに》。

補足日時:2008/06/01 10:45
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この回答へのお礼

 スミスも もろに現象的なことを
 ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 われわれが自分たちの食事をとるのは 肉屋や酒屋やパン屋の博愛心( benevolence )によ〔って 肉や酒やパンを分け与えられて と〕るのではなく かれら自身の利害にたいするかれらの関心に〔訴えて 交易し購買することに〕よる。(国富論 1・2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように 言ったりするので 諭吉も
 ●~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「西洋人の心の誠実にして、日本人の心の不誠実なるにあらず。西洋人は商売を広くして永遠の大利を得んと欲する者にて、取引を誠実にせざれば、後日の差支と為りて、己が利潤の路を塞ぐの恐あるが故に、止むを得ずして不正を働かざるのみ。心の中より出たる誠実にあらず、勘定ずくの誠なり。」(『概略』4 一三二)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ となじったりする。とは言うものの 結局――つまり局面を結ぶに際しては―― 次のように スミスと同じように 《利己心と同感》の命題を出してくる。
 ●~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「利を争うは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり。今、我日本は外国人と利を争うて理を闘するの時なり。・・・・けだしその気象なく またその勇力なきは、天然の欠典にあらず、習慣に由て失うたるものなれば、これを快復するの法もまた習慣に由らざれば叶うべからず。習慣を変ずること大切なりというべし。」(4 八○-八一)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《習慣》あるいは広く《文明》 これにかかわって では 果たして 《ことだま》は いかにして歴史上 現われたるや? 《言葉そのものに 霊的なちからがある》というのは 乱暴に言ってしまえば 《迷信》ではないのか? おしえて欲しーーーい。

お礼日時:2008/06/01 11:11

言霊とは、万物を成さしめている、波動のことを言います。

この回答への補足

 h1r0s13さん ご回答をありがとうございます。
 趣旨説明に掲げた以前の質問でも ご回答をいただきました。その質疑応答から かかわりのある箇所を まづ再掲します。
 【ANo.26】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言霊とは、念です。それは日本人に限ってだけではないのです。全ての言語による愛の波動です。・・・
 現在は唯物論者が幅を利かして、さも利口そうに、簡単な事柄を複雑に書いたり喋ったりしています。・・・
 貴方が聞かんとすることは、より高次な次元から降りてくる妙なる波動のことではないのでしょうか。
 この世の全ての物は、無償の愛の波動から成り立っています。それが言霊です。なにも人間専用のものではないのです。

 【お礼・補足】  
 ★ 貴方が聞かんとすることは、より高次な次元から降りてくる妙なる波動のことではないのでしょうか。
 ☆ 《雷=神鳴り;いかつち;稲つるび;稲妻》の例を出して 《事霊=言霊》が 世界の基礎にあると人びとは受けとめていた / それが 今でも土壌となっていると思われる。と書きましたが どうも それ以上の《より高次な次元》の何ものかを 想定されているように受け取られます。 
 ★ 言霊とは、念です。それは日本人に限ってだけではないのです。全ての言語による愛の波動です。
 ★ この世の全ての物は、無償の愛の波動から成り立っています。それが言霊です。なにも人間専用のものではないのです。
 ☆ さて おおきく――おおきく です――《なぞ》において さらに《なぞ》として そういう領域が想定されうるとは思います。《なぞ》を含めたかたちで 第一次の(初源の)《事霊=言霊》の想定と同じものだと思います。
 はて そのあと どう受け取って どうあつかえばよいのか。

 ひとつ 思いつきました。《唯物論》も その第一原因として想定する《物質》は けっして《質料(もの)》のことではなくて そうでなく 質料の究極の抽象化として想定する概念だと思います。つまり 《もののけ(物の怪)》のことだと思いますよ。
 つまり 《高次の次元》にあるいわば《平等神》(無神というでしょうけれど)のようなものだと思うんです。つまり 回りまわって 究極においては おっしゃっている《無償の愛の波動》(あるいは 原子=ものが 方向の偏りを起こすようなその運動)のことと同じ性質のものだとさえ 思うのですが いかがでしょう。

 ★ 現在は唯物論者が幅を利かして、さも利口そうに、簡単な事柄を複雑に書いたり喋ったりしています。
 ☆ これは そのとおりなのですが 大雑把に言えば げんみつな意味での《唯物論》ではないからです。これを誤解し曲解した《〈ただ物〉論》――物が大事 / すべては物という説――から来ているはづです。
 それが証拠に 唯物史観の描く理想社会では 《経済的な必然性によって 体を売ったりする女はいなくなり 金で買ったりする男は もう いなくなる》(F.エンゲルス)と言っていますから。《愛の波動》でしょう?

 茶化してはいけませんが これは またまた みなさんからも考えを出していただいて わたしも おそわりつつ 練っていかなければならないように思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり《波動》理論を どのように展開するか。しない(または する必要がない)とすれば その抽象理論のままで どのように 現実のことだまのことを捉え説明するかだと思います。
 この波動は primeapeさんにも触れていただいた情念や感情つまり わたしの言う《デーモン》のことであるかも知れません。あるいは 言葉そのものの持つ霊的な力それ自体を言うのかも知れません。
 心理や情感と 言葉と そして 言霊なる波動と それらの関係的な成り立ちは 果たして いかなるものであるのか。

補足日時:2008/06/01 11:38
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primeapeです。


ママ、又はマンマは赤ん坊が誰にも教わらなくても始めに話す言葉の代表選手です。世界共通です。
このマンマをきっかけに言葉の発祥について研究した本はいかにも探せば出てきそうですね。
これは第一次の言霊ですね。
ちなみにwikiでこんなのを拾いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BC%E5%85%90% …

『古代イスラエルの思想』の引用は神を見出す課程ではないでしょうか

この回答への補足

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 《ママ (母)/ マンマ(飯)》は wikiにもあるとおり 《両唇音》なんですね。上下の唇を合わせて離すという動作 これは まったく自然に出てくる動作であり そういう調音の仕方なので 意味としても 赤ん坊がよく体験するものごとに当てられて 多くの言語で 語となっているようなんです。世界共通であると言います。これは じつは 知っていました。
 わたしが恐れていたのは 認知科学と聞くと まったく答えられないものですから その関連のことがらが かかわっているのかなと思ったからです。

 『古代イスラエルの思想』から さらに抜き書きします。
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 《バールーク・アッター》の《バールーク》というのは動詞の受身の分詞で 《バーラク》は《祝福する》であるから 《君は祝福されている》という事実の確認なのであるが それを《〔祝福〕されよ》と理解したら もうすでに二次的段階で受け取っているのである。
 古代的に考えれば 《バールーク・アッター》という言葉を語れば 言葉自身がすごい力をもってその相手に働きかけていくわけである。遊牧的社会において《バールーク・アッター》は相互の挨拶に用いられ 共同体の中に霊的力が強く働くことを求めたものと考えられる。
 (関根正雄:古代イスラエルの思想 pp.63-64)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち

 第一次:バールーク・アッター(受身形):《君は祝福されている》
 第二次:   〃        (命令形):《君は祝福されよ》
 
というかたちで 第二次段階としては 《祝福されよ》というからには 《何かによって》が予定されている。つまりは 《神によって》というふうに《神》がかかわって来ているということのようです。
 第一次では 《祝福されている》というのは その言葉じたいにおいて霊的な力が働くということのようなのです。
 だとすると その説での第一次では あたかも 人は その知性がまだ眠っていて その言語行為そのものに寄り憑いて行っていると わたしには映ります。だとすると それは 原始心性であると思われます。

 もし強いて わたしの説に水を引いて来て 解釈するなら そのように歴史知性の以前である原始心性においてにせよ その言語行為が 《事》であると同時に《言》であるという事態に注目することができます。《言》および《事》に 霊的な力が働くと捉えるなら なるほど 第一次の《ことだま》だと見なせるかも知れません。

 ただ やはり 矛盾が残ると思われるのは 《言葉じたいに魂が宿る》とすれば 言葉を発することで そのことだまが働くというように捉えているわけです。これは わたしの見方では 後天的な人為的な第二次のことだまなのです。初めの第一次の《ことだま(事霊=言霊)》の表わす事態を 言葉の発出をつうじて 再現させるように願うという人間の思い或いは思惑があると捉えて 第二次的に出来た習慣なのではないかと見たのでした。
 この仮説には 未練があって 捨てがたいです。どうしたもんでしょうか。 

補足日時:2008/06/01 23:50
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こんばんは、brageloneさん。





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☆ この《習慣》あるいは広く《文明》 これにかかわって では 果たして 

《ことだま》は いかにして歴史上 現われたるや? 


《言葉そのものに 霊的なちからがある》というのは 乱暴に言ってしまえば 

《迷信》ではないのか? おしえて欲しーーーい。

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【結核の文化史】
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0246-7.html

【結核の文学史序説ー病の比較文化史的研究ー】
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu …

P228に、迷信に触れて書いてある。

【『支那人の食人肉風習』 桑原隲藏 著】
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4270_ …

【近代日本人の発想の諸形式】
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/itos …
http://p-www.iwate-pu.ac.jp/~acro-ito/Lectures/C …

この回答への補足

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 霊感(?)が働かなかったです。
 ★ 【結核の文学史序説ー病の比較文化史的研究ー】
 ☆ まるっきり だめでした。

 ★ 【『支那人の食人肉風習』 桑原隲藏 著】
 ☆ 一応 広く捉えようと思って 次のwikiを参照しておきました。中国は けっこう広く構造的に 習俗があるように伝えていますね。
 ・wiki:カニバリズム=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B% …

 ★ 【近代日本人の発想の諸形式】
 ☆ 伊藤整の文章のほう。注目した箇所を抜粋しておきます。

 ▼ 相対的に人間関係を把握して、人間の調和を求めながら追求することは、極めて困難である。また日本のやうに、目に見えない所まで、無の意識がひろがつて人間の思考を支へてゐる国で、人間関係を相対的に設定して見ても、元来は有の形でしか安定し得ない人間と人間の関係に、強い調和を望むことはできないかも知れない。また日本のやうに人格が容易に孤立して神秘性を帯びて絶対化することで安定してゐる国土で、相対的な調和を求めることは、それ自体、雇傭関係、夫婦関係、社会階級関係等において危機意識を深め、不安定な気持に人間を陥れるものである。
 ☆ これは もう少し見方を変えて 表現し直せるように考えております。

 ▼ 社会的存在としての人間の論理を伴つた調和感を作り出すことは、日本人には不可能なのであらうか。マルクス主義、精神分析学、条件反射学等が出現して現実の外形を分解する前に、若し日本にそれがあればあり得たかも知れないのだ。明治年間にそのやうなものを強く主張し、実践した存在に福澤諭吉がゐる。彼はいかなる事業をなす時にも、それが失敗した場合を先づ考へておいて、その上で大胆に実行したと言はれる。さういふ所には、彼の実践的論理性は、やつぱり無の意識の上に築かれた自然的なものであつたと推定させるものがある。
 ☆ 《社会的存在としての人間の論理を伴つた調和感を作り出すことは、日本人には不可能なのであらうか》という主題・課題は ことだまに関係していると思います。
 
 ★ 東北という主題
 ☆ ケルトとユダヤをも合わせて 主題としており あまりにも広いと感じるのが ふつうですよね。個々に おもしろい歴史を持ち ヒントも隠されているかとは思うのですが ざっと見たかたちに終わりました。
 ・ 東北は しかし 今では アイヌが〔アイヌ民族として〕住んでいなくなっており まったく ほかの日本人そして日本の地域と同じなわけですから アイルランドやスコットランドとは 別の位置づけであり あり方をしているように思えるのですが。冷害とそれによる食糧難の歴史を経て来ている点などが 隔たりを感じさせるのでしょうか。あるいは アイヌとの混血といった要素はあるのでしょうか。
 ・もっとも 質問でも 日本とユダヤとの対照を平気でおこなっているので ことだまに関しては 東北が 特殊だという要素は 見なくてもいいように思います。

 * 覚え書き程度のお応えでした。

補足日時:2008/06/02 02:52
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