アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
 くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?
  逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?

 いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。
 こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。
 われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。
 では 個性とは 何なのでしょう?

 * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

A 回答 (41件中1~10件)

#40です。



> ☆☆ 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
> ☆ これは ないという基礎に立つとき 人の想像力も創造性も発揮されると思えます。そうでない場合 天才秀才の努力があっても その成果は残るでしょうが 何かつまらないと感じます。

これは、「抽象レベルをどこに設定するか」の問題に還元できます。

例えば、抽象レベルを犬、サル、うさぎのレベルに設定すれば、犬、サル、ウサギの間には差異がありますが、サルの中の差異は消滅します。また、抽象レベルを哺乳類のレベルに設定すれば、犬、サル、うさぎの間の差異も消滅します。このように、抽象とは、同一性に注目して、差異を捨象する操作です。

従って、人間の創造性の例で考えれば、音楽における創造性、絵画における創造性、ビジネスにおける創造性のように個別の創造性に抽象レベルを設定すれば、これらの創造性には差異があることが前提になりますが、創造性一般のレベルに注目すれば、音楽、絵画、ビジネスなどの個別創造性の差異は捨象されます。

すなわち、創造性一般の抽象レベルで問題を捕らえる場合は、人は、皆、自分に与えられた課題・問題に対し、それぞれなりに創造性を発揮して解決に取り組むという意味で、人々に差異はないと言うことは可能です。

しかし、だからと言って、「今日、上司に言われた一言に腹が立ち、どうやって仕返しするか」ということに創造力を発揮することと、「アフリカの貧困問題をどうやって解決するか」ということに創造力を発揮することとの差異が消滅するわけではありません。


>《社会的な有用性を創造したという個性と そうでない場合の無個性と これら二つも 互いに 同じく装飾品であるのではないか》 この疑いです。

これも、上の議論と同じで、それぞれの装飾品の差異を捨象して、装飾品一般という抽象レベルで考えれば、「個々の装飾品は千差万別だが、装飾品を身につけているというレベルでは、だれでも同じだ」ということは可能です。


この議論の結論を出すには、「抽象レベルをどこに設定するのか」を決める以外にないと思います。そして、「抽象レベルをどこに設定するのか」を決めるのは、「問題意識」です。どのレベルの問題に価値を、あるいは重要性を感じ取っているかです。すなわち、個別装飾品レベルの差異に価値を見出しているのか、それとも、人皆何らかの装飾品を身に着けているという共通性レベルに価値を見出しているのかということです。

まさに、このことが、「無限に多様な世界の中から、今・ここでの課題(今の場合、抽象レベル)が何か」を見出す個性の姿ではないかと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。
 ようやくたどり着きましたね。小心者であることがばれるようですが ひやひやものだったのです。お聞きしてよかったです。重ねて感謝申し上げます。

 1000827313 さんのご所論の行方が気になりますが これで 個性は飾り物説の可能性について 力強い賛同をいただきながら 個性論について明らかにしていただきました。何も言うことはありません。

 と言っておきながら 一応は見直しました。そうですね。
 属性か飾り物かの議論がありました。後者ならば 取り外しができます。そうは言っても 属性でも それがなければ存在が成り立たないものではないでしょうから それほどの問題でもないということになるでしょうか。
 
 そうですね。もう一点 微妙な問題点を見つけました。
 わたしの志向性としては 飾り物も属性もすべての個性を取り除いた存在そのもの これが 無個性として あるからこそ 人間はおもしろいというところにあるのでした。この点は 徐々にはっきりとして来たところです。
 この点は 別の質問として提出してみたいと思います。

 ということで この質問は締めることにしたいと思います。
 みなさんともどもに 繰り返し感謝申し上げたいと存じます。ありがとう!

お礼日時:2008/06/30 12:50

#39です。



>《志を同じくした者どうし》のあいだでも そのような個性が 互いの差異となっている現象はあると 一応 考えます。

「ミュージシャンを目指す」AとBがいて、Aが目立ちたがりやで、髪の毛を真っ赤に染めたら、それは「個性的か?」という疑問に対し、YESともNOとも言える。外見上の差異があるという意味でYESであり、そんな差異は「大した差異ではない」という意味でNOです。

では、「大した差異」とは何なのか? 比較的広く納得できる「大した差異」は「独創性」ではないでしょうか?

そう考えると、個性とは、「単に他者と異なった表現を生み出す性質ではなく、独創的な差異を生み出す性質である」と定義することもできると思います。すなわち、創造力こそ、個性の本質ではないかという考え方です。この考え方では、「創造力の乏しい人は、個性もない」ということになります。

いずれにしても、個性を議論するときに、何を以って「個性」と認めるのかの線引きをはっきりしておかないと、混乱するだけだと思います。そこで、この線引きを以下のようにしたらどうでしょうか?

個性とは、「社会に有用な方向に創造力を発揮できる性質」。


>つまり 内面と外面とは かなり強くつながっているように わたしには 思われます。そのような事柄について 納得したいと存じます。


問題を「社会に有用な方向に創造力を発揮できる性質を持つ内面とは如何なる内面か」に置き換えて考えることができると思います。

それは、無限の世界の中から、「今ここ」での問題を切り出す能力と、その問題を解決するために、隠喩を駆使する能力を備えているような内面ということではないでしょうか?

この回答への補足

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。
 そうですね。まづ なるほどと思いました。しかも あとのほうで あたかも くつがえすかのような議論をしてしまいました。
 まづ 性格の分類の例をもう一度掲げますが 
 ▲~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《性格 character 》についての 岡田斗司夫の分類
 ○ 王様タイプ:人に注目され認められることを喜びとし、無視されることを嫌う。目立ちたがり。
 ○ 軍人タイプ:勝ち負けに拘る。勝つことを喜びとする負けず嫌い。
 ○ 学者タイプ:ものごとのしくみや法則を理解・発見することに喜びを感じる。
 ○ 職人タイプ:自分の思い通りに物事をやりとげることを重視する。人から見てどうかより、自分の理想に近づくことを喜びとする。
(No.29補足欄)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば このうち どのタイプであっても たしかに
 ★ 「社会に有用な方向に創造力を発揮できる性質」。
 ☆ であれば それが 共通して 《個性》であると言えるかも知れません。
 どのタイプであっても 個性を持つ場合と持てない場合とがあると想定できます。負けず嫌いだからこそ 社会に貢献したという場合もあれば ただ自己の利益のために努力しているだけだという場合もありますから。
 それでしたら 無理なく 内面と外面とが連動しているという見方だと思います。つまり さらに その内面とは
 ★ 無限の世界の中から、「今ここ」での問題を切り出す能力と、その問題を解決するために、隠喩を駆使する能力を備えているような内面ということではないでしょうか?
 ☆ という結論にまで触れていただきました。ありがとうございます。
 
 さて ここからが ひねくれものの特権になります。
 まづは さらに確認として もはや《王様タイプ》や《軍人タイプ》にかかわる通念としての個性は 単なる装飾品であると言っていいと思います。その上で 何を考えるかと申しますと さらにその前に いま一つの確認として
 ★ 無限の世界の中から、「今ここ」での問題を切り出す能力
 ☆ という言い方に従えば 《精神》の議論について 方向が少し見えてきたようにも思います。単純には 《今ここ》が継続していると捉えればいいのではないかと思いました。
 
 さて 最後(?)のご質問になると思うのですが 
 いえいえ すみません さらに前置きです。
 ★ 個性とは、「社会に有用な方向に創造力を発揮できる性質」。
 ☆ とするとき たとえ仮りに
 ★ 「創造力の乏しい人は、個性もない」ということになります。
 ☆ と見たとしても わたしの考えでは 人は 独立主観であると同時に 関係性としても存在すると思いますので 個性のある人もない人も それぞれ互いに およそ社会性として 絶対的に関係しているとは考えます。実際に面識があれば それだけで 互いに影響を与え合っていると考えるものです。その自己表現たるもの これは 時によっては 無個性の人からの影響がなければ 創造力を発揮し得なかったというものだと考えます。

 最後(?)のご質問です。そしてこれは この質問を設定したときからの問いかけです。
 《社会的な有用性を創造したという個性と そうでない場合の無個性と これら二つも 互いに 同じく装飾品であるのではないか》 この疑いです。
 片や 《大した差異》ではない《真赤に染めた髪》という《その人の考える個性》も どこで どのように 創造力を喚起するか 分からないでしょうし 片や そうですね 何でしょう 病原菌の発見によって疾病の撲滅に貢献した創造力の発揮 という大きな個性 これも 茶髪というささやかな個性と それほど変わらないと 言わなければならない《存在の核》の問題がないでしょうか。
 《永遠の現在》という生つまり存在の形式を問うならば すべての思想やおこない つまり要するに 生活ということ ここにあっては 何事も すべて対等であるという基本的な見方に立っているように思えるのです。
 つまり
 ☆☆ 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
 ☆ これは ないという基礎に立つとき 人の想像力も創造性も発揮されると思えます。そうでない場合 天才秀才の努力があっても その成果は残るでしょうが 何かつまらないと感じます。
 
 なにか 青臭い議論になってしまいました。そのこと自体は もともと そうだったのですが せっかくのご持論を展開していただいたその目の前に こういう感想を持ち出して来てしまいました。しかも 論証無しのままです。

補足日時:2008/06/29 16:57
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 どうしたものでしょう。いかに われは ひねくれているか!! でも それは 初めから思っていたことであるので 論証し得ていないことが 問題ですね。

 ううーん。どうしたものでしょう。

 《精神》論において 差異と同一性とは ありますか? 人間という同一性のほうが その二つの基礎に来ますか? もし同一性が大前提であるなら 考え得るすべての個性=差異は 飾り物であるという結論にも 一理あると思われますが。

お礼日時:2008/06/29 17:02

#37です。



>どうしましょう。この質問の読者のみなさんのためにも kobarero さんの《精神》論をお尋ねしてもよろしいでしょうか。

その前に、ひとつ確認させていただきたいのですが、「精神」を持ち出さずに、「個性」を議論すると、前回も書かせていただきましたように、「この世界に全く同じものは存在しない」わけですから、工場で作られた同じ製品ですら、「個性がある」ということが出来てしまいます。ましてや、工場製品よりはるかに複雑なサルにも個性があるということができてしまいます。もちろん、日常的には、「サルにも個性がある」という言い方は、正しいと思います。しかし、個性をそのような「単なる表現上の差異」と捕らえるのなら、brageloneさんが当初の質問で挙げれておられた「逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?」の疑問の意味がよくわからなくなってしまいます。本当に全く同じなら(現実には、そんなことはないと思いますが)、個性はないし、多少なりとも違いがあれば個性があるというだけの話になってしまいます。「個性=差異」について、どのようにお考えなのでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 kobareroさん お早うございます。(遅ようになってしまいすみません)。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「個性=差異」について、どのようにお考えなのでしょうか?
 ☆ 《個性》の定義は その内容が広がるようだと この質問で分かったわけですが 当初の通念だけの考えは こうです。途中で拾った定義で 《目立ちがりや/ 負けず嫌い》などは 例に上がると思います。誰もが 多少なりとも自己顕示欲があるでしょうし 負けたくはないでしょうが 人一倍それぞれ そうである人がいると思いますので 通念として そう考えていいと思います。
 《志を同じくした者どうし》のあいだでも そのような個性が 互いの差異となっている現象はあると 一応 考えます。

 そうして 個性を人間存在の核というべき領域で捉えるという場合――それを たしかに いま一つの定義として わたしも理解したのですが―― 知りたいと思うところは いわばその内面と外面との関係がどうであるかだと思います。
 はじめに こう定義されました。
 ★★ 同じ環境(世界)をそれぞれ異なった風に感じ取る意識の働きのことだと思います。(ANo.6)
 ☆ このとき わたしが Aさんは目立ちたがりやで Bさんは負けず嫌いだと認識したとき そのわたしの意識は 外面とつながっています。外面の問題を 内面で受け留めています。
 さらには AさんもBさんも それぞれ 内面における働きがあって それを それぞれ みづからの自由意志が用いるかたちで 自己表現している。とすれば その結果 差異となって現われていると考えられます。 
 つまり 内面と外面とは かなり強くつながっているように わたしには 思われます。そのような事柄について 納得したいと存じます。よろしくお願いいたします。

お礼日時:2008/06/29 10:31

もう一度回答、補足、お礼欄など拝見していましたが、どうも私の理解が悪かったようです。


個々で取り上げている「個性」とは、その人の表に出してきた反応を見て“あの人は個性的な人だ。”と言う判断基準だったのですね。それが「日本人は右にならえ・・・」云々に繋がってゆくのでした。最初の「個性とは?」だけに眼を奪われた結果でした。
すると戦時中に大政翼賛会に反対したくても出来ずに、特高に連行されたくないので、協力していた人は個性は無い。大賛成をして協力的な立派な天皇陛下の赤子と褒められ、戦後手のひらを返して民主主義が正しい、こんな立派なものは無いと言って旗を振る人が個性的だということになりますか。
これが、私の避けたかったところだったので、その人の反応の違いではなく、受け止め方の違いのみに「個性」と言う言葉を当てはめようとしました。大変失礼致しました。

この回答への補足

 1000827313さん またまた 意志疎通に支障をきたしたでしょうか。
 まづは ご回答をありがとうございます。

 もう kobarero さんのご回答とも合わせて 締めることができると思っていたのですが 何か わたしの言葉が お気持ちを害してしまったのでしょうか。
 もうこれで 帰港すると思っていたと言いますのは 次の文章に対して 1000827313さんから コメントをいただき 次の課題へ進むのがよいと思っていたという意味です。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(煩悩ないし無明 この状態が 明るい世界へ転換するという覚りと智慧が説かれるわけですが もしこれに対してなら こういう説明になります。つまり 人間の能力の極致としてであっても その能力としての覚りや智慧によって 人は 光の領域へと回転するのではないという見方だからです。だから 片や アーラヤ識ないし無意識野を説くことになり 片や 無根拠を持ってくることになるのだろうと思います)。
No.32お礼欄
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この箇所に対して 1000827313さんのお立ち場からコメントがあって それを並記するかたちで ひとまづ終えるというかたちです。

 今回述べておられる内容は わたしが 1000827313さんの無意識野の説をなかなか把握し得なかったことと あたかも同じように 1000827313さんも わたしの意図を読んでいただけていないとは思います。
 わたしが問い求めようとしたことは
 ★ すると戦時中に大政翼賛会に反対したくても出来ずに、特高に連行されたくないので、協力していた人は個性は無い。大賛成をして協力的な立派な天皇陛下の赤子と褒められ、戦後手のひらを返して民主主義が正しい、こんな立派なものは無いと言って旗を振る人が個性的だということになりますか。
 ☆ と仮りにしますと このような《個性》は あって無きがごとしではないでしょうかという問いかけです。装飾品説とは そういう意味です。
 ★ その人の反応の違いではなく、受け止め方の違いのみに「個性」と言う言葉を当てはめようとしました。
 ☆ とおっしゃるご所論は――わたしに予想できなかったことですが―― 広く個性論として 理解させていただきましたし その位置づけをも わたしなりに捉えて それでいいのかどうかをお尋ねしたところでした。
 そして 経験科学としての無意識野説と どうしても信仰を――直接に扱うものではないですが―― 容れて説明しなければならないと考えたときの無根拠説 これについては おそらく 並立するであろうというところまでを確認して 次の課題に移ろうと思っていたわけです。
 こういう事情であります。意外なご返答をいただき ただただ驚いています。この事情にもとづいて ご判断くださるなら もうわたしは 何も申さないことと致します。つつしんで申し上げました。

補足日時:2008/06/28 22:13
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 1000827313さん わたしのほうから補遺です。
  けっきょく 1000827313さんの《無意識野》説の特徴は 内面と外面との連動が 人には分からないというところにあると考えます。
 ★★ 情報・・・の受け取り方(=個性)は個人の持っている無意識野が突き動かしている(ANo.19)
 ★★ ☆《人それぞれの個性によって培われたものが 個性である》――★ 私の考えではその通りです。(ANo.15)
 ☆ というごとく 無意識野のはたらきは それが 個性の核であり根源だと考えられるが そのはたらきが 外面にどのように現われるかは 人には認識できないというところです。
 簡単に言えば 行為に際して意識の中にあった意図は 個性が《意図(?)》する内容とは 別であるかも知れない。
 ★★ 個性は個人に所属し、表に表れた反応からは理解できないその個人の持つ特徴そのもの〔なり〕。(ANo.19)
 ☆ ここは 重要であり 希少価値のある見解であると考えます。
 秋葉原の通り魔の個性は 本人の意識したとおりの内容であったかも知れないし そうではなく 別の内容であったにもかかわらず そうしたということかも知れません。
 つまりは 自己表現としての発信のほうによりは 情報の受信の〔仕方の〕ほうに 個性が個性として作られた重要部分がある。胎児のときからの情報の受容ですので そうしますと 社会にあって 情報は回りまわって 母親や家族からの影響だけに限られず けっきょく社会の中で錯綜している全情報であると 考えられます。
 このことを――そう推測した結果―― 《空中戦》ですとか《中性子線の撃ち合い》ですとかと形容しました。良い影響もあるわけです。《中性》という語は たとえとしては 悪くないと思います。また 何でその秋葉で被害に遭ったかを説明するものだと考えられます。
 願わくは その個性の形成や その後の過程として 突き動かされるというときの衝動 これを どのようにして わたしたちが制御するか。これについて――アーラヤ識を掲げておられるからには―― 基本的な考え方をお聞きしたいと思ったというわけでした。
 こんな事情にあると 重ねて お伝えいたしました。

お礼日時:2008/06/30 10:40

#36です。



> ☆ というときの《先天的に持っている物理言語》が では 人それぞれに どう違うのか / 同じものとして持っているなら どのように違ってくるのか というふうに ちらっと思いました。母親の胎内から始まって その環境の違いによるのでしょうか。

物理言語は、物理量(正確には、幾何学的構造と量)を「質」に翻訳する言語です。ここで「質」というのは、五感および内部感覚として個々人が感じる内容です。物理言語においては、物理量がシニフィアン、「質」がシニフィエと考えるとわかりやすいのではないかと思います。

物理言語の特徴は、同じシニフィアン(物理量)に対し、対応するシニフィエ(質)が個人によって異なるということです。すなわち、物理言語は個人言語だということです。たとえば、同じ650ナノメータの光でも、Aさんが感じる緑色と、Bさんが感じる緑色は異なる内容を持っているということです。だからと言って、実世界で混乱しないのは、もともと、通常の言語は、差異に対応しているのであって、緑色の内容の全体的な規準に対応しているわけではないからです。

このように、物理的環境は同じでも、そこから感じ取る内容、すなわち、その総合としての内面世界は、個々人で異なるということ。そのことが、「個性という存在形式」が「内容としての差異」をも生み出すのだと思います。ただし、「個性という存在形式」にとって、「内容としての差異」は結果論であって、必要条件ではないと思います(下記参照)。

>《〈個性がある〉のは なぜか 分からない》という意味です。《おのおの主観において 自由に 捉えなさい》という意味だと思います。

「個性がある」=「差異がある」と考えるかどうかがポイントだと思います。もし、「差異」に注目するとすれば、「世の中に厳密な意味で全く同じものはない」わけですから、工場で生産された同一製品ですら、個性があることになります。これでは、個性のあるなしは程度問題になってしまいます。ですから、個性を問題にする場合は、「差異」ではなく、「存在形式の唯一無二性」を問題にする必要があると思います。そのためには、「精神」とは何かということからスタートするしかないと思います。

まず、「精神」は「物質」ではないということです。「物質」ではないから「時空間」に存在しているものではないということです。「精神」には「今ここ」しかありません。ただし、ここで言う「今」は過去・未来の間にある「今」ではなく、「今」しかない「今」です。また、「ここ」は、「あっち」と「そっち」の中間の「ここ」でなく、「ここ」しかない「ここ」です。そのような「今・ここ」を占めている私なる「精神」は、人間の数だけあるということです。これが、「精神」の在り様であり、その唯一無二性が「個性」だと思います。

この回答への補足

 kobareroさん とても むつかしいです。
 もう終点だと思っていましたが――あっ まづは ご回答をありがとうございます―― わたしの理解が届いていなかったようです。

 正直に申して わからないという状態です。何が分からないかと言いますと そのように《存在》の核だけを残すというかたちにまで還元してしまうと たとえば《人間の尊厳》ですとか《人権の擁護》ということを主張するときの内容説明になっていると受け取られるからです。
 すなわち 表に出ないという場合の個性論 これは わかります。あるいは 1000827313 さんのように 記憶を持ってくる場合には 母体から始まっての環境からの情報の受容があり その過程が継続していくというからには 何らかのかたちで その無意識野が人を突き動かしているという理論になると思われます。(この理解も あやふやになりかけていますが)。それなら そういう広義の個性です。
 でも kobarero さんの今回のご主張は 
 ★ 「内容としての差異」は結果論であって、必要条件ではないと思います。
 ★ 「差異」ではなく、「存在形式の唯一無二性」を問題にする必要があると思います。
 ☆ そうして この《存在》については 《精神》として考えるとよいという意味で その精神について
 ★ 「精神」には「今ここ」しかありません。ただし、ここで言う「今」は過去・未来の間にある「今」ではなく、「今」しかない「今」です。また、「ここ」は、「あっち」と「そっち」の中間の「ここ」でなく、「ここ」しかない「ここ」です。
 ☆ と説かれて来ます。つまり いわゆる《かけがえのない存在たる人間》ということになるのではないでしょうか。
 つまり 差異は 結果として出てくるが この差異の出現可能性を含めて《存在形式》が 人間の核である。そしてこの人間論が そのまま 差異として現われる広く言うところの個性についても 説明している。ということだと思うのです。
 
 わたしなどは 《永遠の現在》ということを言います。《わたしが わたしであるそのわたしは そのまま 永遠に過程する》といった内容です。つまり それは 動態です。ということは けっきょく
 ★ 「精神」には「今ここ」しかありません。
 ☆ ここが 分からないのかも知れません。煮詰めて来まして こういう問題になるでしょうか。

 どうしましょう。この質問の読者のみなさんのためにも kobarero さんの《精神》論をお尋ねしてもよろしいでしょうか。
 なぜ動態でないのか これが わたしにとって 疑問です。

補足日時:2008/06/28 22:42
    • good
    • 0

#34です。



>《これが普遍的だとみづからが 自由に判断した結果を 自由に 表現していく》 これが 一般意志だと考えます。この一般意志としての生活態度が 自己表現の中核となるならば 《個性は背景にしりぞく》という意味合いで言っていたものです。

おっしゃっているのは、一般意志ではなく、しいて言えば、特殊意志に近いのではないでしょうか? 一般意志とは、簡単に言うと「法」のことですから、個人が自由に判断できるものではないと思います。「一般意志=法」と個人の意志、あるいは、個性との間には、常に矛盾と葛藤が生じます。


>《目立ちたがり》という或る種の個性は 自分の意志で作り上げたものです。ちょっとやそっとでは直らないでしょうが そのこと自体を認識することができるし そのぶん 自分の努力でつつしむことも出来ます。後者の軌道修正は 言ってみれば 一般意志のはたらきです。

「一般意志」という言葉の意味の解釈が全く違うんですね。うーん。弱った....。
私は「一般意志=法」と解釈していますので、上記の文は、なかなか理解できません。「一般意志=理性」と解釈されているのでしょうか?


>《わたしは 双子が生まれぬ前・母親の胎内にいるときから その弟であるヤコブを愛し 兄であるエサウを憎んだ》というような・われわれ人間にとっては ゆえもない不条理が起こりうるという見方です。
 いかがでしょうか。

「個性」は「存在形式」そのものと言うのは、個別の「個性A」「個性B」が宿命的運命的に決まっているというようなこととは全然関係ないです。「個性A」であろうが「個性B」であろうが、そもそも「個性がある」ということ自体が、人間という存在の「存在形式」の特徴だという意味です。すなわち、馬は馬種全体が1つの種ですが。人間の場合は一人ひとりが別の「種」だということです。何故このようなことが起こるかというと、人間には、「内面世界」があるからだと思います。何故内面世界が成り立つかというと、物理世界の「量」を五感という「質」に変換する言語(物理言語)を先天的に持っているからです。と考えます。


> ★ 「外面に現れた差異」を「個性」と考える考え方は、基本的には、「人間=機械」説
 ☆ のほうが 世の中 平和なんでしょうか?

明示的な表現ではないので、意味を解釈しかねています。

「人間=機械」説は、「内面世界」を認めない考え方です。あるいは、「内面世界」を説明できない考え方と言った方が良いかも知れません。「内面世界」がないわけですから、これ以上の「平和」はないでしょうね。


> →その人たちは 覚りを得ているでしょうか?という不遜な物言いにもなってしまいました。どう締めればよいでしょう? とほほ。

悟りとはあまり関係ないですね。悟らなくても、もっと、ロジカルに説明可能な世界の話ですから。

この回答への補足

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。
 議論は ようやく落ち着いて来ましたでしょうか。互いにそれほどの ぶれがなくなって来ました。

 今回 ほとんど全部 もう 同感するくらいです。強いて言えば わづかに
 ★ 何故内面世界が成り立つかというと、物理世界の「量」を五感という「質」に変換する言語(物理言語)を先天的に持っているからです。と考えます。
 ☆ というときの《先天的に持っている物理言語》が では 人それぞれに どう違うのか / 同じものとして持っているなら どのように違ってくるのか というふうに ちらっと思いました。母親の胎内から始まって その環境の違いによるのでしょうか。
 
 あいまいな形のまま しゃべっている箇所など しかるべく扱ってもらいましたので 何も言うことはありません。

 そうして 《一般意志》 これについての用法が 混乱しているとのご指摘 ごもっともです。w-hiterose さんからも ご指摘をいただいています。
 二つの たぶん 別々の意味合いで 知らずに 使ってしまっていました。ルウソ本人が言うような意味 これは 端的には 《市民の宗教》という事態にまで発展するようです。単なる集合としての全体意志を超えて そしてそのとき ただし もはや 観念の世界においてのごとく 社会総体にとっての《ともかく 普遍意志》といった形です。
 わたしが積極的に一般意志を持ち出すときには やはり端的に――kobarero さんも 《法》とおっしゃったように―― 《自然法》として その最小限の規範性を内容として 用いてしまっています。勝手な解釈によってです。
 この点 みなさんにも 深くお詫び申し上げます。ごめんなさい。

 そう言えば――もう一度 見直してみて――
 ★ 「個性」は「存在形式」そのものと言うのは、個別の「個性A」「個性B」が宿命的運命的に決まっているというようなこととは全然関係ないです。「個性A」であろうが「個性B」であろうが、そもそも「個性がある」ということ自体が、人間という存在の「存在形式」の特徴だという意味です。
 ☆ このとき (1) 《風は気ままに吹く》というのは 《宿命的運命的に決まっている》ということではないと思います。《〈個性がある〉のは なぜか 分からない》という意味です。《おのおの主観において 自由に 捉えなさい》という意味だと思います。
 (2) つまりは 上の見方においては 分からないが 個性Aや個性Bがあるというふうには 見ています。(この個性の内容は 表面に現われて来ているような性格などを含むかどうかも 議論になるでしょう)。つまりは
 (3)★ そもそも「個性がある」ということ自体が、人間という存在の「存在形式」の特徴だという意味です。
 ☆ というとき 《〈個性A〉として Aさんが捉えたものと 〈個性B〉としてBさんが捉えたものとは 同じか違うか これは 分からないでしょうし 分かる必要もないとおっしゃるのかも知れません。知れませんが 同じAさんが 〔あるいは 同じBさんが〕 これら二つを認識・識別したというのなら とうぜん その主観においては 〈ある〉》ということになるでしょうね。と思いましたが いかがでしょうか。

 もうすでに九回裏あたりに入っていると思います。もうひとこと お願いしてもよろしいでしょうか。

補足日時:2008/06/27 21:55
    • good
    • 0

ちょっと引用。

社会契約論より。

「互いに結合した多くの人間が、みずからただ一体をなすものとみなしている限り、彼らはただ1つの意志を持っており、この唯一の意志は共同の自己保存と全体の福祉に関わるものである。」

ここで彼は、全人類を念頭に置いて、一般意志を想定しているでしょうか?彼の所属する社会のみが念頭に置かれています。普遍的でも何でもありません。彼にとって、他人種、異教徒が結合し一体となった唯一の意志は一般意志とは見なされないでしょう。彼の描く社会を理想としない人々は、一般意志(彼の社会の人々の共存とその人達への福祉)を阻害する要素、特殊意志とされてしまうのです。

「全体意志と一般意志にはしばしば多くの差異がある。一般意志は共同利益にしか注意しないが、全体意志は私的利益に注意するもので、特殊意志の総和にすぎない。」

我々極東の黄色い人が人権を叫んだら、社会悪と見なされてしまいそうです。

「しかし、社会の絆が緩み、国家が弱まりはじめると、そして特殊利益が感じられはじめ、多くの小集団が大集団(政府)に影響力を持ち始めると、共同利益は損なわれ、それに反対する者があらわれる。採決に際してももはや全員の一致が支配することなく、一般意志はもはや全体意志ではない。意見の対立と議論が起こり、最良の意見といえども、論争をへないでは通らなくなる」

 彼の所属するコミュニティーの中でにのみ一般意志を想定したとしてさえ、特殊意志が声高に異を唱えれば、一般意志は共同利益を保てなくなるようです。

 今の民主主義(上辺だけでも、マイノリティを尊重しようとしています。)からは想像できませんねぇ。

質問文に“ルウソのように想定しうる”とありましたので、もちろん↑これらを思い浮かべましたよ。

“ルソーがしたように、私も(私の)一般意志を想定すれば”ということだったのですね。 
 >ただし 民主主義という歴史の趨勢は あるように思います。《普通の生活態度》というのは そういう意味です。外から上から規定されるような存在ではないと わたしもですが つねに 言い続けそれを実現させていくというくせ(エートス)のことです。これが 一般意志です。
 私が(私の)一般意志を想定するとしたら↑もその意志の中に入ります。(ただし、といわれてしまったので(T0T)素直に同意するといえないw)

 質問者様のおっしゃる一般意志はルソーにならうと、特殊意志の総和である全体意志。でしょうか?

この回答への補足

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ 一般意志は そもそもは 普遍的な意志として 提出されています。
 ☆ と書いたのは 迂闊でしたね。せいぜいが それぞれの国家において その範囲内の一般意志を想定し そのことを通じて 国際的にも一般意志を実現させるといったかたちになるのかと思います。
 わたしの《一般意志》観については No.3補足欄をも参照していただくと幸いです。
 また ルウソの一般意志を持ち出したのは 質問趣旨にあるように 個人と社会とのあいだで どちらを優先させるかの問題で 日本とそして西欧との対比のためでした。西欧のほうの代表選手としてルウソを出してきた恰好です。
 とは言うものの 全体として 用語をおおざっぱな中身のまま例示したことは 不注意でした。そのようにあらためて受け取っていただくようお願いしたいと思います。

 もし社会契約論じたいとしてのご議論でしたら 引用箇所について 第何編 第何章というように示していただくと あらためて考えてまいりたいと思います。
 第一の引用は 現実的にというのでしょうか 一つの国家という単位体を 前提として 言っているようです。
 第二の引用は 上の前提があるとは思いますが それほど 奇異なことでもないのではないでしょうか。
 ▲ 一般意志は共同利益にしか注意しないが
 ☆ 表現がこなれていないようですが 国内において 普遍的であろうということだと思うのですが。
 第三の引用は よく読みとれません。文脈を知りたいです。
 ▲ 一般意志はもはや全体意志ではない
 ☆ この箇所が 分かりません。一般意志は もともと 全体意志ではない と思いますが?

 ★ 私が(私の)一般意志を想定するとしたら↑もその意志の中に入ります。(ただし、といわれてしまったので(T0T)素直に同意するといえないw)
 ☆ これは つまり《ただし》と入れたのは
 ★★ なにか(誰か)の意志が存在するであろうことは全否定できませんが。
 ☆ に わたしが 反応したものです。きちんと説明すべきでしたが これは 一般的な意味での《信仰》のことを想定したかたちになると思います。その《一般的な意味》というのが あいまいになる / これがあいまいだと せっかくの信仰のすがたも きちんと伝わらないという反応を持ったところから 《ただし》と出てしまっています。
 《ただし》は 取り払いますが w-hiteroseさんも 上の一文について いったい どういう《意志》であるかを明らかにすべきだと思います。もし漠然と言ったにすぎないということでしたら わたしが 上の一文を引用しないかたちにして 受け取ってくださるとよいと思います。

 いやぁ むつかしいですね。

補足日時:2008/06/26 21:33
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 補足です。
 第三の引用部分について そのあとの文章をさらに引用します。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「しかし、社会の絆が緩み、国家が弱まりはじめると、そして特殊利益が感じられはじめ、多くの小集団が大集団(政府)に影響力を持ち始めると、共同利益は損なわれ、それに反対する者があらわれる。採決に際してももはや全員の一致が支配することなく、一般意志はもはや全体意志ではない(*)。意見の対立と議論が起こり、最良の意見といえども、論争をへないでは通らなくなる」
   * 《一般意志はもはや全体意志ではない》:《・・・もはや社
   会全体において優勢な意志ではなくなる》という意味だと理解し
   ます。
 ・・・・・・・・・・
 それだからといって 一般意志が破壊あるいは腐敗したということになるであろうか? いな それはつねに存在し 不変で 純粋である。しかし 一般意志は それに打ちかつ他の意志に従属せしめられているのだ。各人は 自己の利害を 共同の利害から引きはなしながらも それをまったく分離してしまうことは 不可能だということは知っている。・・・
 (J.-J. ルウソ:社会契約論 第四編 第一章 桑原武夫・前川貞次郎訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり あたかも わが国の《右へならえ》の事象を言い当てているかに捉えられます。特に 問題はないと思います。

 わたしは むしろ 『エミルまたは教育について』から 次のように その思想を整理したことがあります。その筋で――つまり自己流の解釈ということですが―― 受け取っていただければありがたいです。
 《 sympathie 》=共通感覚・同感・共同主観を中心とした捉え方で 同じくこれを 自然法・自然法主体として解釈したものです。

 ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自然の歩み(自然の教育)=原理 =永久法
 自然人         =原点 =《自然法》
 《同感人》         =出発点 =自然法主体
 同感実践の交通理論  =原則  =共同自治の基本法(憲法)
 社会人        =交通規則 =実定法(法律)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2008/06/27 13:01

#29です。



>《一般意志(要するに ふつうの生活態度)》が 基礎として 共通して備わっているという見方です。だとすれば 個性は 背景へ退くのではないかという物言いです。つまりは 装飾品(アクセサリ)説です。

「一般意思が支配する事で、個性が背景に退く」と言う物言いが可能なら、「暴君の支配下で個性が背景に退く」という物言いも可能と思われます。

このような意味での「個性」であれば、それは、単に「外面に現れた差異」のことだと思います。

私が考える「個性」とは、「外面に現れた差異」のことではなく、個人の意思や方便では如何ともしがたい「存在形式」そのものとしての「個性」です。

「外面に現れた差異」を「個性」と考える考え方は、基本的には、「人間=機械」説だと思います。すなわち、「精神」というものの存在をその「機能」にのみ注目して考える考え方です。しかし、もし、「精神」を「機能」として考えるのであれば、人間各人が、「内面世界」を持つことに、特別な意味はないということになります。それも一つの考え方ですが、少なくとも、私の考えとは違います。

この回答への補足

 kobareroさん 人生は紆余曲折ですね。ご回答をありがとうございます。
 wikiのように はじめの定義としてだけですが
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・個性(こせい)とは、個人を個人たらしめる特徴である。
 ・人格(じんかく)は、個人の心理面での特性。人柄。または人間の人としての主体。
 ・性格(せいかく)は、その者の性質を表す。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに規定していられれば なんてことはないんでしょうけれど。と言っても 思わぬ発見が よろこびでもあるわけですし。・・・

 まづ 簡単な確認です。

 ★ 「一般意思が支配する事で、個性が背景に退く」と言う物言いが可能なら、「暴君の支配下で個性が背景に退く」という物言いも可能と思われます。
 ☆ これは ちょっと言い過ぎだと思いますので 訂正をお願いしたいと思います。
 つまり ルウソ本人のことは知りませんが わたしの考えでは 《これが普遍的だとみづからが 自由に判断した結果を 自由に 表現していく》 これが 一般意志だと考えます。この一般意志としての生活態度が 自己表現の中核となるならば 《個性は背景にしりぞく》という意味合いで言っていたものです。

 (弱点は 主観の数だけの一般意志があることになるではないかという反論です。そして ここでこそ あなたと同じように メタ・レベルを出して来ます。主観の数だけある一般意志を 調整しつつ もっとも妥当な内容を実現していくのが 一般意志であると)。

 ★ 私が考える「個性」とは、「外面に現れた差異」のことではなく、個人の意思や方便では如何ともしがたい「存在形式」そのものとしての「個性」です。
 ☆ 《目立ちたがり》という或る種の個性は 自分の意志で作り上げたものです。ちょっとやそっとでは直らないでしょうが そのこと自体を認識することができるし そのぶん 自分の努力でつつしむことも出来ます。後者の軌道修正は 言ってみれば 一般意志のはたらきです。
 これらは 判断の形式の 特に傾きとしての 自己表現にかんする形式です。

 これに対して 《存在形式》となると 1000827313 さんの無意識野の理論に近づきます。もしくは 単純に(=飛躍してでも) 信仰の形式のことになります。《個人の意思や方便では如何ともしがたい》ことがらの奥に 一切規定し得ぬなにものかを想定し それとの関係を 或る種の心の態度として 持つところの状態(動態)です。

 もしそのような意味で《存在形式》を取り上げるとすると そこから人が突き動かされて取る表の振る舞いやその情況としては 究極的には 《風は気ままに吹く》という見方が趨勢となると思います。
 《わたしは 双子が生まれぬ前・母親の胎内にいるときから その弟であるヤコブを愛し 兄であるエサウを憎んだ》というような・われわれ人間にとっては ゆえもない不条理が起こりうるという見方です。
 いかがでしょうか。

 いったい覚りを得たという人は どう考えるのでしょう?
 ★ 「外面に現れた差異」を「個性」と考える考え方は、基本的には、「人間=機械」説
 ☆ のほうが 世の中 平和なんでしょうか?

 * もったいぶった言い方になってしまいました。もちろん 覚りに関係している人びとは 闇から光への転換を説いておられると思います。
 →その人たちは 覚りを得ているでしょうか?という不遜な物言いにもなってしまいました。どう締めればよいでしょう? とほほ。

補足日時:2008/06/26 14:25
    • good
    • 0

一つの言葉だけでもこれだけ認識に差があるなんて、びっくりです^^普段誰かと会話しているなんて(言葉が通じるなんて)奇跡ですね♪



 性格分類ですか^^。・・・タイプ。動物占いみたいですね。自己分析チックな心理テストでも、性格をタイプ別に分けたりしますね。これに学歴や能力を加味すると今流行りの?キャリア診断でしょうか。(多くの)女の子の大好きな部類です。
 個々人の分析を行い、いくつかのモデルをつくり、人を振り分けていくのが心理テストの類でしょうか。
 統計(信頼性は微妙ですが)的なデーターをある条件のもとに複数(コミュニティになじみのある数)に分類したのが、占いの類?

 多くの人が、たわいもなく分類されたがるのは、これらになんの拘束力もないとわかっているからではないでしょうか?

 今の私達がもし、25才の年に一斉に性格で分類を行い、その結果で、暮らすコミュニティも、住宅環境も、学校や職場も振り分ける。となったらどうでしょう?

 性格なんて他人に決めつけられるものじゃない!そんな1分類に俺の性格は当てはまらん!おしとやかにしている方が得だと思ってたけど、物静かだから一生工場暮らしだなんて!本当はそんな性格じゃない!暴動だ~!革命だ~!wなんて。

 私達が自分の性格を推し量れるのは、知識と経験の中で内省を繰り返した結果です。性格が形作られる過程では、環境に左右されることも大きいでしょうが、自身に理想があれば自ら変えていけるものですよね。誰かに決めつけられたらたまったものじゃありません。自分自身でさえようやっと「推し量れる」程度にしか明らかにならないのに。

自分の性格が認識できるから、個性も持てると思われているのでしょうか?
アクセサリー説は性格でなら理解できます。

 ただ・・・。自分の持っているもの(性格?)を見つめる作業をしていると、意識して変えることのできない属性を、私は持っているのではないかという思いに駆られることがあります。ゲームのように自分で決められる属性ではありません。それは私の先祖の起源であるかもしれないし、私の子孫の行き着く先であるかもしれません。
 そんな思いに駆られることがあるからといって、一般意志(私はこれを普通の態度とも、普遍的な意志とも理解しません)が想定されうるといっているのではありません。私たちは「こうである」ようには存在しないし、「こうあるべき」と決められた存在ではないでしょう?
 なにか(誰か)の意志が存在するであろうことは全否定できませんが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。
 話がおもしろくなって来ましたね。たのしくさえなってまいりました。哲学とは こういうものでしょうか。

 今回は 一たん休憩室にでも引き上げて 自由に気楽に対話をするように 述べておられますね。中身は 引き下げたものではないですが。

 《占い》のたぐいについては つねに その横に 反対意見を掲載するという行き方を望みたいです。あらゆる可能性の中から それこそ無限の起こりうる場合を想像してその中から 或る程度 妥当なところを 当てずっぽで 言い放っております。当たるも八卦当たらぬも八卦 どうぞご容赦のほどをと占い氏は 素直に言ったらどうなんだ。・・・お聞きぐるしいところを お見せしました。

 最後の段落 これは おだやかではありませんね。穏やかに述べておられるのですが そうして 必ずしも決めつけて議論するわけでもないですから 自由な楽しい対話の中におさまっていますが その問い求め自体は きびしい内容でもありますね。
 ★ それ(意識して変えることのできない属性)は 私の先祖の起源であるかもしれないし、私の子孫の行き着く先であるかもしれません。
 ☆ これだと 少し片寄ってみるならば 先ほどの占いのたぐいよりも 深刻であるかも知れませんし。・・・
 ★ 一般意志(私はこれを普通の態度とも、普遍的な意志とも理解しません)
 ☆ 一般意志は そもそもは 普遍的な意志として 提出されています。普通の生活態度と解釈したのは わたしです。
 ★ 私たちは「こうである」ようには存在しないし、「こうあるべき」と決められた存在ではないでしょう? / なにか(誰か)の意志が存在するであろうことは全否定できませんが。
 ☆ ただし 民主主義という歴史の趨勢は あるように思います。《普通の生活態度》というのは そういう意味です。外から上から規定されるような存在ではないと わたしもですが つねに 言い続けそれを実現させていくというくせ(エートス)のことです。これが 一般意志です。

 ★ 一つの言葉だけでもこれだけ認識に差があるなんて、びっくりです^^普段誰かと会話しているなんて(言葉が通じるなんて)奇跡ですね♪
 ☆ こう言っていただいて 質問者として よろこばしく思います♪♪

お礼日時:2008/06/26 11:56

brageloneさん


コメント有難うございました。お言葉に甘えて、またたてつく事になりそうですが意地悪からではなく、私の考えのオカシナ所を指摘していただければありがたいと思います。
その前に、
「無限・神・アウグスティヌスと来たら 信仰のことかと思ってしまいました。」
との事に関して、アウグスティヌスを読んでいらっしゃるのでご理解いただけるかと思いました。さらにbrageloneさんなら唯識をご存知だろうと思い、フロイドより遥か昔に阿頼耶識と言う言葉で、無意識野に言及しているのを想起して頂ければと思いました。同様に、観音経では虚数の解が示されているし、無限集合論も然りです。
さて、皆様方の回答を拝見していて最初の私の考えた事に近いと思いました。それは、行動、反応、表現、など他人から見えるものです。個性は他者との差異だとすると、それもあり得るかとも考えられます。私はその考えを捨てました。それは、純粋にその人個人にあるものを認めようとすると、実社会の中での行動、反応、表現、などで修飾された全てを剥ぎ取り、裸にしたものを考えようとしました。すると、無意識野だけが浮かび上がってきます。即ち情報の受け取り方のみになってしまいました。付和雷同も、へそ曲がりも、趣味グループも、同志も全ては社会的人間関係の中で存在するものであり、これを個性としてよいのか疑問を抱きました。全く素直に「ひとの個性とは」に向き合ったつもりです。
これをユダヤ人が見たら「それ見たことか。本当の言葉は無いのに判ったつもりになっている愚か者奴!」と言いそうです。彼らにしてみれば、折角神から受取った本当の言葉は気の短い指導者が粉々に毀してしまったのだから、物の本質を表す真実の言葉は無いとのこと。しかし、アリストテレス以後論理学が科学となり、名前を付ければその本質を表すという事になってしまいました。例えば原子、原子核、陽子、電子、中間子、Π中間子、ある一定時間にある一定の場所にある一定の確率でいるクオークと次から次へと名前が付けることにより、人間は相手に勝ったと信じているのでしょう。でもまだ見つかるかもしれません。一体何時になったら原子の本質は理解されるのでしょう。
今の私は西洋に追いつけ、追い越せの世界の論理学の世界からはみ出て、ユダヤ人のように言葉と格闘している気分です。
brageloneさんが岡田斗司夫の分類を個性の中に入れられていますが、これは性格と言うより反応様式とでも言い換えることが出来るかもしれませんね。これでよいなら胆汁質等の言葉の方が曖昧模糊として良いかななどと考えてしまいますが・・他の回答者の方の中にも、社会との関わり合いの中での個性の定義をするのは如何なものかと言うか、そぐわないと感じていらっしゃるようですね。極端な言い方をすれば、タクシーに乗ってお金を儲けるのは個性とは言わないと言う事でしょうか。
最後の所で
「それこそ《記憶》に 一般意志や自然法が 理念として条理として規範として 備わっているという想定の問題です。」
と仰られましたが記憶なんてものは魚類、昆虫類でも持っている古い脳の働きですから、自然法は備わっているのでしょうが、上位の理念とか条理が存在しないといけないとは思いませんが・・・
またお言葉を返してしまいました。お怒りになりませんよう。

この回答への補足

 1000827313さん たいへんな理論を掲げていらっしゃったのですね。これは 個性論ではないですよ。超えています。
 まづは ご回答をありがとうございます。わたしは 以下の解釈によって このように説かれている無意識論は たしかに《人と人とのちがい》を根底的に明らかにしようとする理論であり それは 少し具体的には こうだと捉えました。つまり 二人の兄弟のうち なぜ弟は 人びとの受けがよくて 兄のほうは悪いのか / あるいは 友達どうしで あいつは何故運良く助かったのに 一緒にいたおれだけが被害に遭ったのか このような問いに対する答えを用意するものだと考えます。つまりこれが個性論だと言ってしまえば そうなのでしょうし ふつうは 別の解釈であるとも思います。
 つまりは ちなみに わたしのおこなった質問の 《Q:3965802 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3965802.html 》 に対するご回答であると考えます。

 ★★ もし一千億人の人間がいれば一千億の個性があるのであって、それを形作る無意識野が一千億ある。(ANo.24)
 ☆ しかも とは言っても その一千億の互いの違いは 人には分からないという含みになると思うのです。言葉や振る舞いによる表現の形式として捉えられるような《個性》を問題にしているのではないからです。
 ★★ しかし、私が言いたかったのは「眼・耳・鼻・舌・身・意」に、ある情報が来た時「眼・耳・鼻・舌・身・意」がどのようにそれを受け取るのかと言うことです。その受け取り方が個性と言われるものではないのか。その受け取り方は個人の持っている無意識野が突き動かしているのだと言いたかったのです。(ANo.19)
 ☆ おそらく この無意識野は おおかたは 物心がつく前に 胎児のときからの経験において 形作られているのだと推測します。
 (もし それが 無明であって これを明知の順観へと転換するという場合でも その煩悩が 煩悩じたいが 明るい容貌を見せてくるようになって 菩提と見え呼ばれるようになる。その意味で すでに 幼児において この世に二つとない自分自身の無意識野は すでに形成されているのではないかと)。
 ★★ 同じものは無い!では駄目ですか? 個性は個人に所属し、表に表れた反応からは理解できないその個人の持つ特徴そのものだと思いますが・・・(ANo.19)

 ☆☆  視点を変えて こういう見方をしてみましょう。もし 1000827313 さんの個性説を採るとしますと その《個性》は 自己の個性の問題をらくらく超えて 人びとそれぞれの個性とその集合 これらの総体をも 含む。こうなると思います。・・・これでも いいですかね? いいかも知れませんね。どうでしょう。(No.19)
 ☆ ですから 《人びとそれぞれの個性が互いに互いを含む》のではなく いわば互いに 知らず知らずのうちに 空中戦をおこなっている。あるいは 菩薩行としても煩悩丸出しの行としても あたかも中性子線のやり取りをおこなっている。その結果が 《わたしは 双子の弟のヤコブを愛し 兄のエサウを憎んだ》と神をして言わしめた形の表現を 人間は持った。風は気ままに吹く / 故もなく 不条理が起こりうるということ / ・・・。
 ですからして
 ☆☆ 《無限と有限との融合》にかかわっているように思うのです。・・・もはや裏側へ奥へと信仰の階段を上がっていくという方向であると思うのです。(No.19)
 ☆ 《信仰の階段を上がっていく》必要はないのですが そういう《方向》を 言わず語らずのうちに 示しているのではないでしょうか。つまり あらためて
 ★★ 個性は個人に所属し、表に表れた反応からは理解できないその個人の持つ特徴そのもの〔なり〕。
 ☆ のうち さらに
 ★★ 表に表れた反応からは理解できない
 ☆ つまり――だから 無意識野なのですが―― このことは みづからの自由意志とそのはたらきについての意識をも超えているというからには 期せずして 無限(絶対者)の領域へとつながっていると わたしは 捉えました。
 つまり もちろん 1000827313さんは 無意識もアーラヤ識もがそうであるように 無神論と言いますか 経験科学として経験思想として 探究し説いておられる。と同時に それが 無神という絶対者をめぐる理論になっている。こういうことではないでしょうか。
 無神論も有神論も おおきくは絶対をめぐる信仰の問題であるというのが わたしの持論です。
 それは どうでもよく いづれにしても これが 《記憶》であるというとてつもない理論のようです。

補足日時:2008/06/26 01:58
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 つまり 《意志》のほうから考える方式ではなく その自由意志をも超えたところに立てる理論であるようです。

 ささやかに それでもわたしは 意志も知解も 記憶とは 一体であると考えます。時間のへだたりを介して 一体であると捉えますので その一体性のもとでは 或る種の規範・条理そして自然法の息吹きを宿しているとは 思っております。
 (三つの行為能力が一体であると なぜ 規範性にかかわるかは 論証していませんが 自然本性として 公理だという扱いです。つまり 無根拠という推論です。これは 決して対抗するわけではなく 無意識にしろ意識にしろそれらの経験世界を超えるという意味であり そういう無意味ということのみを表わすことばです)。
 (煩悩ないし無明 この状態が 明るい世界へ転換するという覚りと智慧が説かれるわけですが もしこれに対してなら こういう説明になります。つまり 人間の能力の極致としてであっても その能力としての覚りや智慧によって 人は 光の領域へと回転するのではないという見方だからです。だから 片や アーラヤ識ないし無意識野を説くことになり 片や 無根拠を持ってくることになるのだろうと思います)。

 ここからの行方は 少し時間をおいて みなさんとともに さらに考えてまいります。もちろん その間 ご批判や まちがいのご指摘を歓迎します。新たなご回答をも。

 * 登るのは 《ひと山》どころではなかったようです。

お礼日時:2008/06/26 02:17
1  2  3  4  5 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!