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 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
 くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?
  逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?

 いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。
 こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。
 われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。
 では 個性とは 何なのでしょう?

 * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

A 回答 (41件中21~30件)

補足拝見しました。

質問タイトル通り、「個性」をみんなで定義しましょう。というトピックだと思っていたのですが、違うようですね。

まずは補足欄を拝見した感想からw。
私は哲学を勉強している者でも、何かの勉強をしている者でもありません、アカデミック素人(今つくった言葉w)ですが、哲学者を含む研究者達が必死になって言葉を定義していった気持ちがよくわかりました。日本語を母国語とする者同士でも、言語認識が違うと会話が通じない(T0T)。

まずは、言葉が通じ合えない箇所の穴埋め作業が必要そうです。補足欄を軸に進めていきます。理解に近づけることを願って。

 >★ そう(=優劣の問題)ではない個性の発揮・・・。いくらでもあると思いますよ。
私のこの「そう」は優劣の問題を指し示していません。すでに私は質問文を読みこなせていなかったようです。私は質問文のこの「そう」に質問文のまま、「われわれ日本人は・・・悪評を得ます。」を挿入して読みました。ですから、そう「ではない」個性の発揮とはいったい何なのか、という質問文の箇所を〈悪評ではなく、できれば好評を得られる仕方で個性を発揮するには?〉という意味だと思ったのです。そんなわけで、それに対する一つの回答として「最初から日本人というカテゴリーが良評?好評?・・・」を提示したのです。

 >☆ これは 質問趣旨に《右へならえで行動する・・・の・・・ではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました》と書いたとおり まづ 同じ意味合いになると考えます。
???同じ意味合い?ちょっと待って下さい。質問者様が、「・・・悪評を得ます。」と書かれているので、“右ならえの日本人”という評価は日本人にカテゴライズされない他者が差異を認めただけで、善も悪も優も劣も、もともとは関係ない〈ただの差異〉でしかありません。と異を唱えたのです。

  >一般意志 つまりは 普遍的な人間と社会との意志(つまりは ふつうの生活態度や人と人との交通態度)
とあります。重要そうだというのは伝わってきます。
一般意志・普遍的な人間との意志・普遍的な社会との意志・ふつうの生活態度・人と人との交通態度。をイコールで結んでいらっしゃいますが、理解できません。ご説明頂けますか?ご説明頂けたものを「 A 」としてひとまず置いておきます。ではこの A がはいってる文全体にもどります。

 >個人か社会かどちらを《優先する》にしても「 A 」 を尊重するという大前提があれば そう変わりはないという見方のことです。
最初の「A」までの文は、私の言い方で言えば、(日本人であろうがアメリカ人であろうが→国籍・文化に違いはあれど→違いがあったとしても→)「差異を認めたとしても」でOKですか? Okだったと仮定して進みます。
差異を認めたとしても「A」を尊重するという大前提があれば、そう変わりはないという見方のことです。
この「見方のことです」というのは、もしかして前の段落の「☆ これは」にかかっているのですか?
☆はこういう見方のことです。でOKですね。
☆は私が質問者様の「・・・悪評を得ます。」に対する反論文でしたね。ということは、私の文章を説明して下さっていた!?そして、その同じ事を、「と書いた通り」として質問文に書いてあります。ということでしょうか^^。

ふ~~理解に近づいてきましたでしょうか? 進みますw。

 >ということは もしそうであるならば じつは これは 《個性》ではないのかも知れません。箸を右手に持つか左手にか あるいは 箸の代わりにフォークか もしくは鮨を手で食べるか あるいは右側通行か左側かなどの違いに過ぎないとさえ言えるかも知れないと考えたのです。
「ということは・・・」で私に対する同意、そして
「じつは これは 《個性》ではないのかも知れません。」
これですね。質問者様がなさりたかった質問は。

〈ただの差異でしかないものを大げさに個性といってはいないか?〉

ちょっと私の考えにすり寄せすぎ?無理がありますかねw。
反論お待ちしております^^

疲れてきたので、後半はまた後ほど。
もし私の理解が合っていれば、心理学カテゴリーの質問に私が回答したものがご参考になるかもしれません。貼っておきます。全然違ったらごめんなさい。
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この回答へのお礼

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 全体として おっしゃっていることをお応えの趣旨としたつもりです。
 《個性》のちがいと言うけれども 優劣の問題ではないとおっしゃっているのでしょうし わたしも そのようだと同意しているところです。
 その理由の言い方が 回りくどかったようです。個人を優先するにしても 社会を個人より優先するにしても どちらも その一定の社会じしんの中において そして 外の社会との関係において それら両面において けっきょく互いの共存を目指していると思われるなら そうである限りで たとえ手法や手段がちがっても 同じことではないだろうか。優劣のちがいではない。これでした。
 しかも さらに もしそうだとすれば その手法や手段の違いは 一般に 個性の違いだと思われているかも知れないけれど 個性というほどの内容すら ないかも知れない。こう言おうとしています。
 ★ 〈ただの差異でしかないものを大げさに個性といってはいないか?〉
 ☆ これですね。《すり寄せ過ぎ》でもないですよ。というのは
 ★★ 自意識や 自他の区別
 ☆ があっても 個性と呼べない場合があるのではないかとまで言おうとしていますから。

 ★ 「個性」をみんなで定義しましょう。というトピックだと思っていたのですが、違うようですね。
 ☆ 途中から 変わって来ましたね。予測がつかなかったのですから 仕方ないと思うのですけれど。

 たぶん もう個性という言葉は 要らないのではないかというところまで 突き抜けつつありますので その点だけは 違ってきていますし 理解しづらいとお感じになるのだと思います。もちろん 再びの軌道修正の発議も 歓迎です。

 
 

お礼日時:2008/06/24 17:08

 法学部に長く在籍していたので、当初自然法についての勉強も致しましたが、一つの主張としての理論であると今は眺めておりますよ。


 欧米のルネッサンス以降や中世、古代の思想はあまりいいものはないですね。イエスの思想もずいぶん、変改されていると存じます。

 【個人はこの世に生まれ落ちてから 親も違えば環境も違う~~~】
 ○⇒個人という存在も、またそれぞれが違うという現象と見え方も何ら否定してはいません 
 
 【さらにさてですが もし個性のちがいは 取るに足りないアクセサリのようなものだとなれば】○⇒アクセサリーというよりないということなのです。違いとして、みている、現れている、というだけなのです。
 【そのときには 逆に人は 互いに自由にいぢわるをしたり 嘲笑ってみたり おもしろおかしく遊ぶようにして 仕事をし 人生を過ごしても 則を超えないということになると予想されますが 果たしてこのことは 現実可能でしょうか。】
 ○⇒そうしてきた結果がこの創造界であり、私たちみんなの下降であり、苦悩と悲惨なのではないでしょうかね。
  唯一の意識はそうやって夢紡ぎをされておられる所、レベル、存在もあり、ずっと上方で、聖性と至福を紡いでいるところも在ります。
  まことに広範多岐、上から下までお付き合いされておられます。
  私たちはではどこにいるようにするべきか。
  それも、常に唯一の意識は強制にならないように、お声をかけておられます。聞いておられるかたもおり、蒸している方もおり、聞こえない方もおります。そして(サイクル━数億年ごとの)最後は全部自分の中に取り込み、溶かし込んでしまう。その繰り返しを、理由もなく行っている。理由もなくとはわれわれには窺知しえなく、といういみでして。 

この回答への補足

 krya1998さん 一つの結論に近づいたようです。ご回答をありがとうございます。

 ▼ 個性は おのおののアクセサリである。
 ▼ その個性を超えて 人間性に信頼を寄せて 共存の道を問い求め かつ 実現させていこう。

 この《人間性に信頼を寄せる》という主題について 
 ● ( A ) いわゆる神学において 尋究し その言葉で表現するようになるか
それとも
 ● ( B ) 経験合理性によって妥当だと納得する言葉で表現するようになるか
 二つの道があると思います。わたしの場合 一般には 後者に重心をおいています。という新たな広場に出たと考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 唯一の意識(* 絶対者)はそうやって夢紡ぎをされておられる所、レベル、存在もあり、(* それには わたしたち人間が 部分的に参加するかのごとく 与かっており 生きており) ずっと上方で、聖性と至福を紡いでいるところも在ります。
 まことに広範多岐、上から下までお付き合いされておられます。
 私たちはではどこにいるようにするべきか。
 それも、常に唯一の意識は強制にならないように、お声をかけておられます。聞いておられるかたもおり、無視している方もおり、聞こえない方もおります。そして(サイクル━数億年ごとの)最後は全部自分の中に取り込み、溶かし込んでしまう。その繰り返しを、理由もなく行っている。理由もなくとはわれわれには窺知しえなく、といういみでして。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについてわたしの要望です。二点です。
 (1)★ 《聞いておられるかたもおり、無視している方もおり、聞こえない方もおります》は 人間のことでしょうか。それとも 《唯一の意識》のうちの多面的なあり方でしょうかという質問です。
 (2)★ 《最後は全部自分の中に取り込み、溶かし込んでしまう》という未来時のことは その未来時を現在において捉えるとすれば いま どういう事態となりますか。摂り込むことはできませんか。
 というかたちで 上の( A / B )二つの道の交流が可能ではないかと考えます。ただ おそらく この課題は いまの質問の趣旨を超えるかとも思いますので もしよろしければ その出発点における基本的な姿勢として おおしえいただけると よいと思います。
 ありがとうございました。

補足日時:2008/06/24 16:06
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brageloneさん


・つまりは そのような有限の範囲内において 人はそれぞれ己れの個性をかたちづくっていく。
 ・つまりは 個性に特徴はないんだ。特徴というのは――むろん くせから思想まで 違いはあるのだが―― それでも 目は目であり 口は口である。顔なら顔も顔であり 手足なら手足も手足である。という大きな見方の中で 現われているものなのか。

とのお考えに対して、言葉足らずで申し訳ありませんでしたとお詫びいたします。
阿頼耶識を援用した理由を伝えそこなったかなと思いました。
確かに、表に出てきた反応からその人はどのように受け取ったのかなと憶測はします。しかし、私が言いたかったのは「眼・耳・鼻・舌・身・意」に、ある情報が来た時「眼・耳・鼻・舌・身・意」がどのようにそれを受け取るのかと言うことです。その受け取り方が個性と言われるものではないのか。その受け取り方は個人の持っている無意識野が突き動かしているのだと言いたかったのです。
従って有限なのか無限なのかと問われると無限の方に賭けたくなります。個性とはその人、個人に全知全能の神から与えられた賜物であるとアウグスティヌスなら言うのではないでしょうか?この場合も無限に存在しうるし、無意識野自体も無限に存在しうるものと考えます。同じものは無い!では駄目ですか?個性は個人に所属し、表に表れた反応からは理解できないその個人の持つ特徴そのものだと思いますが・・・
お言葉を返して申し訳ありませんと言いながら自説を曲げないのが私の個性かと言うとそうではありません。違う考えが成り立つかどうかを検証していただいていると思っています。等と言う所は可愛くないですね~ゴメンナサイ。

この回答への補足

 1000827313さん なるほど 最初 わたしの文章の座り心地がわるかった理由が分かりました。きちんとしたご説明をありがとうございます。

 そうですね。
 無意識もアーラヤ識も 特別に探究した経験がないそのまま ご返答することになります。
 のですが 要は 《無限》を扱うか《有限》の領域にとどまるかだと判断したのですが? 別のことばでは 《信仰》を交えて述べるか それを禁欲するかだと思うのです。

 無限が有限を包み込み 信仰は経験思想を基礎づけると言えると思いますが 議論は 《神》の扱い方で 二つに一つだと思うのですが いかがでしょうか。
 たとえば この質疑応答で 《神》が出てきたとき わたしは――暗黙のうちにでも断ったかたちで 信仰のことを述べる場合があるにはあるのですが そうでない場合には―― つねに そういう信仰の立ち場を いくつかある内の一つとして扱っているつもりです。
 その前提に立てば 今回の 1000827313 さんの言説は あいまいだと まづ 感じます。いえ あいまいというよりは 無限の領域と有限の世界とを 明らかに融合させたかたちになると考えます。

 最初のご回答には こうあります。つまり たしかに 初めから そういうふうな見解を示しておられたのかなと いまごろですが 気づきました。
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・成長に伴って経験され、蓄積された記憶はどんどん「無意識野」の中に落ち込み、二度と想起されることは無い。しかし、この膨大になった「無意識野」が、一つの情報が入ってきた時に、それを解釈し、理解し、記憶し、反応するために働いているはずです。(ANo.12)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《二度と想起されることは無い》が 味噌ですね。《精神分析》がこの《無意識野》を分析していると思われているかも知れないが 実際には そうではなく それは
 ★★ それは妄想と思っています。思い出したのならそれは前意識野の話になるからです。( ANo.15)
 ☆ とも そう言えば おっしゃっていましたね。
 すなわち この《無意識野》は 《神》の領域だったのです。少なくとも その《無限》の力を分有するかのように 働いているという想定なのですね。
 これを ブッディスムの《アーラヤ識》として捉えてよいかは にわかには 判別しかねています。たぶん 《種子》などと言わずに――つまりそういう経験的なもの〔のようなもの〕を持って来ずに―― 直截に 《目に見えず心の目にも直接には見えない絶対者のはたらき》だと打ち出したほうが すっきりとするのではないでしょうか。
 それで この
 ★ 無意識野自体も無限に存在しうるものと考えます。
 ☆ という命題についてです。これは もうすでに 信仰の領域に両足を踏み入れていると思うのです。つまり 先ほど《精神分析》に対する批判点としての
 ★★ 〔何らかの表象を得たというのであれば つまり〕思い出したのならそれは前意識野の話になるからです。( ANo.15)
 ☆ というのと ちょうど方向を正反対にしながら 同じように 《無限と有限との融合》にかかわっているように思うのです。片や 経験世界へとその表へと出てくる方向であり 片や もはや裏側へ奥へと信仰の階段を上がっていくという方向であると思うのです。
 
 こういう話になりませんか。つまり 《信仰であるのなら 無意識野があろうとなかろうと わたしは何ものかをなぞにおいて 信じている》ということにです。そして その信仰を直接に論じるのでないならば 無限の領域を有限の世界に 持ち出してくることは 極力避ける必要があります。前者が 後者の世界に つながっているのだという発言も 不用意にするべきではないと考えます。しても いいのですが それは 信仰つまりおのおのの主観真実におさまるものだという前提が どこまでも 有効でなければならないと思うのです。

 ですから 1000827313 さんの説かれるところは 信仰という主観が 個性であるということになるかと思います。
 無意識野をもし説明の中に出さないとすれば そのときには みなさんと同じように 感受性やその経験の蓄積や自己の見識の形成やという自分史の問題になるのだと思います。

 視点を変えて こういう見方をしてみましょう。もし 1000827313 さんの個性説を採るとしますと その《個性》は 自己の個性の問題をらくらく超えて 人びとそれぞれの個性とその集合 これらの総体をも 含む。こうなると思います。・・・これでも いいですかね? いいかも知れませんね。どうでしょう。

補足日時:2008/06/24 15:28
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 ANo.16から   bragelone さん


 直前の 1000828313 さんのご回答と、bragelone さんのお応えを拝読いたしましたが、難しい思索にはついてはいけません。でも私の回答に対するお応えに関して、私の認識の範囲で、余計なことを付言したく存じます。

 なお、今までの、そしてこれからの拙文が踏んでいる私の足などについて拙くも申述させていただきます。
若い方もよくザインとゾルレンとかを対比してお考えになられ、私も対象たる存在や事実とそれを規範する当為とを、対比してきましたし、その対比される関係はあるのだろうとは、今も否定はしておりません。
 でも事実とか、対象客体とかいうものの存在性は、力であり、その凝縮であり、意志と観念、つまりは根拠基盤から価値理念に差し向けられた当為を本体としていると理解してきております。
 そういう意味の当為規範が存在であり、そしてそれが生命なのだ。生命とは須らく、規範であり、当為以外のなにものでもない、という認識をしております。これは論理や演繹の結果ではなく、そうだったのかという認識です。
 客体対象というものも決して、固定の、あるいは単にある存在などではない。価値実現への当為プロセスの一姿以外ではない。ということです。
 当為は存在であり、存在は当為である。とういうことで、それは森羅万象が根源なる一なる当為を父としそして母として、階層的に、数珠のように繋がって存在し、帰阪している当為であるという構造的見方をしております。
 当為ですから規範であり、当然ある意味では倫理かもしれません。論理の条理かもしれません。そして社会的国家的規範の道徳や法律かもしれないし、生理や生物、自然界の法則かもしれません。
そういう意味で当為ということばをつかっております。
 基本のことですが、宇宙や創造界はあるものでも、できてきたものでもなく、意志と当為で、目的を究極者に差し向けて、創られた、創造したもの以外ではない。自然にあるものとは、そんなものはない。身の回りのいかなるものといえ、もたらされたもの、必然でしかない。という思考を正しいと存じております。一なる意識からの贈り物でないものはない。ということなのですが。

 そしてお書き込みに以下の拙文を添えさせていただきます。
 ★ ○一なる神が多となるために衣装を着て、扮装を凝らして、来ている結果を、その表れ、現れを見て、~~~ 中身はおなじではないでしょうか。
 ☆ この《中身はおなじではないでしょうか》の個性を 個性たらしめる要素は ~~~倫理観にあるのではないかと。○このことについて⇒唯一の方という意識の個的表れ、現れであり、生命であり、当為である、ということなのです。当然に同じなのでしょう。それをヴァラエティでみせているのが、この一なる方の創造の観念に内在している、魔術、誘い込みの原理、仕方なのではないですか。みな同じだと存じます。取り留めなく繰り返しながら、人を惑わしてみな違うようにしていて、実は同じものなのですね。この魔術と、続き方、見方、その位置が森羅万象のヴァラエティをみせている曲者です。
★ 舞台で衣装を着て演技しているのは、神自身ではなく、神の思いという力と当為でしかありませんが。○⇒神というか創造者は内在し、超越しており、知覚対象や、経験している主体はその創造者自体ではなく、作り出したものだという意味です。夢、空想です。
 ☆ きちんと この一文を読むのは ~~~ 個性個性だと言っても どうも 歯ごたえがないのではないかということになるように思います。○⇒個性は実体的にはない。単なる見方、経験の仕方、関係や位置でしかない。みな一つの要素、材料でしかない。と存じております。これは論理演繹や、科学探求ではなく、そうでしかないという認識です。
 ★ 「存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。」それとそのように現れている、その位置の個たる生命性だと存じます。
 ☆ とおっしゃるときの《個たる生命性》は~~~個性の問題に直接にはかかわらないのではないでしょうか。○⇒同じ生命性が個として意識され、なんとか区分分別しながら世界を構成し、認識しようとしている涙ぐましい、神なる意識のやらせでしょうね。ひどい方ですね。
★(実際に《生命》が問題になるのは どうしても具体的な《個》にかんしてであると言わねばならないからには これは 人間存在や生命の尊厳という意味合いのほうで 捉えられることだと思うのです。)○⇒全ては神であれば、当然そのように対していけるように自分を鍛錬しておりますが。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご説明をありがとうございます。

 承りました。分かりました。
 ただ もしそうであるならば これは 《人間性》の問題であると考えます。一つひとつおっしゃることに承知いたしましたが すべて 人間であるとは何かに対する答えだと思います。
 
 別様の見方では 西欧において《自然法》という概念があります。人間存在に備わる自然本性 そこにやはり備わると想定される条理・人倫・規範のことです。したがって ちなみに この自然法は 神の法・永久法のもとに従属しているという世界観です。
 個人はこの世に生まれ落ちてから 親も違えば環境も違う 顔も違えば現われ出る能力も違う。これを 個性と言うか否か。言っても言わなくても その違いについて もし《自然法の人》であるならば 互いに 話し合いをつうじて 同感し合える社会性を持ち 共存していけるという思想だと思います。
 
 さて そうではあっても もしこの《人間性》が おもな問題であるとするならば その限りで言って 《個性》は取るに足らない互いの差異だということになります。むしろ そういうご見解を示していただいたことになります。

 さらにさてですが もし個性のちがいは 取るに足りないアクセサリのようなものだとなれば そのときには 逆に人は 互いに自由にいぢわるをしたり 嘲笑ってみたり おもしろおかしく遊ぶようにして 仕事をし 人生を過ごしても 則を超えないということになると予想されますが 果たしてこのことは 現実可能でしょうか。

お礼日時:2008/06/24 13:19

個性とは他者から区別されると言うことです。



私は私。という自意識が、自分ではないと逆に認識できる者が、他者です。私にある自意識が、すべての他者にもあるという前提です。私が他者であるとする全てが個性を持っています。
この世に一つの自意識しか存在しなければ、個性は存在しません。
2つ自意識があれば私(一方)は一つの個性を認めることができます。そして、私でないもう一つの自意識が私の個性を認めることがわかるので、結局2つの個性を認めることになります。

右へならえの日本人。「個人より社会(所属コミュニティ)を優先するという個性」は「社会より個人を優先する他者」から認められたものです。優劣はありません。
そうではない個性の発揮・・・。いくらでもあると思いますよ。優劣とは結びつきませんが。
最初から日本人というカテゴリーが良評?好評?を得るという目的でw他カテゴリーを認めて発言してしまえば良いのではないのでしょうか?
優劣というのは、ことさら差異を強調して大きな声をあげた方につくられていくものですから。

この回答への補足

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 少しこれまでとは違ったご意見を承りました。ただ
 ★ そう(=優劣の問題)ではない個性の発揮・・・。いくらでもあると思いますよ。
 ☆ の事例をお聞きすれば どうなるか分かりませんが まだわたしは頑固をとおすことになりました。次のような事情です。

 先に 細かいところですが その確認から入ります。
 ★ 右へならえの日本人。「個人より社会(所属コミュニティ)を優先するという個性」は「社会より個人を優先する他者」から認められたものです。優劣はありません。
 ☆ これは 質問趣旨に《右へならえで行動する・・・の・・・ではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました》と書いたとおり まづ 同じ意味合いになると考えます。《個性》という規定は そのあとに考えます。
 個人か社会かどちらを《優先する》にしても 一般意志 つまりは 普遍的な人間と社会との意志(つまりは ふつうの生活態度や人と人との交通態度)を尊重するという大前提があれば そう変わりはないという見方のことです。
 ということは もしそうであるならば じつは これは 《個性》ではないのかも知れません。箸を右手に持つか左手にか あるいは 箸の代わりにフォークか もしくは鮨を手で食べるか あるいは右側通行か左側かなどの違いに過ぎないとさえ言えるかも知れないと考えたのです。

 そして さらに水を差すようですが このように《個性が必ずしも認められないような事例や場合》においても おっしゃるような
 ★ 自意識や自他の区別
 ☆ は存在すると思うのです。同じ左側通行で走っていても 人と車の区別 前後の車との違い あいつはスピード狂だ またあの車は安全運転だ等々の区別は ふつうのことなのですが そしてこれらを個性と言っているようですが どうもその中身は 薄いのではないか こう思ったのです。
 逆に言えば こうなります。
 おっしゃるように 《自意識 / 自他の区別 》が個性であり その《認容》が 人として・社会にとって 肝要であるというとき それは 《人を大事にしよう》ということではないでしょうか。という物言いなのです。つまり 個性を取り上げ 個性を問題にしているようでいて そういう問題ではなく 《人間 しかも 一人ひとりの存在》 これを大事にしようという趣旨なのではないか。となりませんか。
 あれぇっ。言葉づかいの問題になったんでしょうか。  

補足日時:2008/06/24 11:03
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 【 ただ ここで まだ 釈然としないんですよね。

《みづからの個性を発揮したものが 個性だ》と言っているようにも 受け取れるのです。】
  ○発揮しないで、する必要もなく、そういう位置の個としての生命性なのではないかと存じます。

 【 存在とその個人 これは どう考えても 大前提であり 動きません。むしろ それだけなのでしょうか。それなら それで いいですし そして わづかに それなら どうも《個性》ということばは ふさわしくないと思えて来ます。存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。】
  ○一なる神が多となるために衣装を着て、扮装を凝らして、来ている結果を、その表れ、現れを見て、その違いや特徴をいろいろにいっているのだと存じます。中身はおなじではないでしょうか。舞台で衣装をきて演技しているのは、神自身ではなく、神のの思いという力と当為でしかありませんが。「存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。」それとそのように現れている、その位置の個たる生命性だと存じます。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。
 お願いですが 直前の 1000828313 さんへのわたしのお応えを先にお読みいただけるでしょうか。そこと密接につながったご返事になります。

 今朝いただいたNo.15&16のご回答を読んで 新たな進展が わたしの中にありました。
 それは 個性には 多少の当為論が入っていて 個性と呼べる個性になってくるのではないかという見方です。
 ★ ○一なる神が多となるために衣装を着て、扮装を凝らして、来ている結果を、その表れ、現れを見て、その違いや特徴をいろいろにいっているのだと存じます。中身はおなじではないでしょうか。
 ☆ この《中身はおなじではないでしょうか》の個性を 個性たらしめる要素は 多少とも ことの善悪にかかわるような倫理観にあるのではないかと。
 ★ 舞台で衣装をきて演技しているのは、神自身ではなく、神の思いという力と当為でしかありませんが。
 ☆ きちんと この一文を読むのは むつかしいと感じますが そして 従って ほんとうは 感覚で受け取っていいかどうかも分かりませんが でも そうするとしますと この《当為》が かかわってくるのだという見方です。多少でも かかわっていないと 個性個性だと言っても どうも 歯ごたえがないのではないかということになるように思います。

 ★ 「存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。」それとそのように現れている、その位置の個たる生命性だと存じます。
 ☆ とおっしゃるときの《個たる生命性》は 必ずしも 個性の問題に直接にはかかわらないのではないでしょうか。実際に《生命》が問題になるのは どうしても具体的な《個》にかんしてであると言わねばならないからには これは 人間存在や生命の尊厳という意味合いのほうで 捉えられることだと思うのです。

 いま例として思い浮かべるのは これは 控えるつもりでいた集団としての特殊性としての個性ですが。たとえば 人質を犯人の手から解放しようというとき 人質の生命を第一に考えて 犯人の要求を飲み その仲間の囚人を解放するまでの処置(つまり 超法規的措置)を取るという傾向は 個性ではないかと思います。
 でも この当為論・倫理観のからみも まだまだ 個人としての個性を出すまでの中身を持つかどうか さらに考えてまいります。

お礼日時:2008/06/24 10:16

bragelone さん



又難しいコメントを返されて困り度は最高です。
《人それぞれの個性によって培われたものが 個性である》
私の考えではその通りです。無意識野そのものがその個人のものであり、何人たりとも侵す事の出来ない領域だからです。精神科ではこの領域に土足で踏み込んで精神分析をしているのだと言うかもしれませんが、それは妄想と思っています。思い出したのならそれは前意識野の話になるからです。とフロイドを信じておきます。
この無意識野の領域に踏み込む事の出来る存在は「神」、「仏」、「絶対者」、「超越者」などという事になりますでしょうか。一人の人間がその個人的存在として尊ばれなければならないのはこの「無意識野の領域」を持っているからと思いますが如何でしょうか。役に立つ人間か否かは関係ありません。
ですから、集団への帰属意識が強くなろうと、なるまいとどちらでも良いと思います。反社会的行動を罰するのは別の次元の話と思いますが・・
お答えになったでしょうか?
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この回答へのお礼

 1000827313さん ご説明ありがとうございます。

 なるほど 堂々めぐり(自同律)も それとして 成り立つという見本を見せてもらったかも知れません。

 ここで きょう 新しい日の明けるとともに わたしの中に進展があったかも知れません。あったようです。1000827313さん そして 次のご回答の krya1998 さんのご解明を承けて 個性の現われ方には どうも 当為すなわち倫理がかかわっているのではないかと思うようになりました。

 でも
 ★ 反社会的行動を罰するのは別の次元の話と思いますが・・
 ☆ とおっしゃるように 不法・違法の行為の問題にまでは いかない段階の倫理だと思います。
 ★ 役に立つ人間か否かは関係ありません。
 ☆ と言える段階にとどまったところでの倫理観です。自己顕示欲がふつうか少ないか強いか ちょっとしたことで 自分が悪かったばあい それでも 自分が悪いとは どうしても言わないとか その程度の段階において 倫理がかかわっているとき おそらく 個性が出てくる。ということではないかと思いました。

 そうでないと こうなります。すなわち
 ・人は 白紙のままで 生まれてくる。
 ・胎内にいて 母親の状態から何から すべての環界からの情報を受け取る。
 ・そこから始まって 自分も発信するようになり 自然環境なり社会環境なりすべての自己にとっての外部との応答が 展開される。
 ・なるほど 人によって 感受性が違い そこから形成されてくる見識や見解も違ってくる。けれども それら意見や思想の違いにかかわらず おおむね人間の思考や想像の可能性は 限界があると言えるだろうし そこに未知・未開の分野があるにしても 大枠の能力の範囲は 悲しいかな 決まってくる。つまりは
 ・つまりは そのような有限の範囲内において 人はそれぞれ己れの個性をかたちづくっていく。
 ・つまりは 個性に特徴はないんだ。特徴というのは――むろん くせから思想まで 違いはあるのだが―― それでも 目は目であり 口は口である。顔なら顔も顔であり 手足なら手足も手足である。という大きな見方の中で 現われているものなのか。
 ・なあんだ。つまんねぇーの。

となりませんか。多少の倫理がからんで来ないとです。
 次の krya1998 さんへのお応えに継ぐかたちにもなります。

お礼日時:2008/06/24 09:48

primeapeです。


brageloneさんの立ち上げる最近のご質問は精神的な最弱者の救済と道案内が主題にお見受けします。
以下は精神世界の住人たる鬼神の声をとりとめも無く書いたものです。
判断材料としてください。

主観とは「主観的存在」として仮に定義するものです。その人の本質を表しているとは限りません。特に悪党を自認する人なんてそうです。

無意識世界に住人達は自らの本質に、主観の回答又は行動に還元する出力(心の鏡の反映)など通して間接的に触れているのみです。それゆえに自己の同一性に対する亀裂たる迷いが生じます。

「個性」に関しては鬼神たるメチャンコ悪魔君が一時何度か触れました。個性たる言葉を投げかけても精神世界には反響がありません。したがっていわゆる「外見」又は上っ面などの現実的な回答のみが正解の可能性があります。個性から心の本質に迫れないとするならば、そこで言う本質とは無意識の住人と同じくどこまでも広がっていく境界の無い存在かもしれません。少なくても脳を制御している無意識には心の本質についての認識(又は思考)でそれが限界かもしれません。インドの古典に語る「それは存在しない」がやや乱暴で誤解を生み易いのですが一面で真実かもしれません。
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この回答へのお礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 わたしの解釈では 意識上も意識下も引っくるめて また 自己の中に芽生えるにしろ 外(つまり他者の意識)からやってくるにしろ 鬼神は 大きく心理の現象であり わたしは デーモンと呼んでいます。
 これは おそらく 主観そのものではないでしょうね。いわゆる心ではないでしょう。そして たしかに 自己の同一性を錯乱させているかも知れません。
 類推によって 単に わたしの経験に当てはめただけだと思います。

 * 主題として なにやら 大がかりなことをおっしゃってますね。たぶん わたしは いつも 問題意識を絞って 一点突破だけを思っていると思います。ひろがりが あるでしょうか。出るでしょうか。

お礼日時:2008/06/23 23:24

自然なもの、無機質なもの或いは機械的なものというのは失敗がありません。

法則秩序に従って不平不満もありません。

人間は知っていることでも、わざとでもないのに失敗をする。
ミスや勘違いばかりの経験をするので可能性を探ったり目標を立てます。
実態そのものというよりその目標の根拠が「個性」です。

何に成功しつづけるかより何を間違いやすいかに個性があります。
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この回答へのお礼

 えっ!? なんですって!?
 ――その前に miko-desiさん ご回答をありがとうございます。――
 ★ 何に成功しつづけるかより何を間違いやすいかに個性があります。
 ☆ いまいちど えっ!? 個性とは 発揮するものではないのですか?

 自己の心あるいは夢あるいは思いあるいは野望あるいは ひょっとして 下心も でしょうか これらを表現したり実現に移そうとしたりして どこかで しくじったり へまをやらかしたりするときの傾向のようなものが 個性なんですか?
 ★ ミスや勘違いばかりの経験をするので可能性を探ったり目標を立てます。 / 実態そのものというよりその目標の根拠が「個性」です。
 ☆ 間違いやすいその傾きをも 考慮に容れて さらに新しい《可能性を探ったり 目標を立てたりする》ときの《根拠》が 人それぞれの持つ《個性》だということでしょうか。
 あっ そうですね。つまりは 大きく広くは 自分史であるし その判断の傾向や形式にかかわっているということでしょうか。

 一時は どうなることかと思いましたが こういう解釈でよろしいでしょうか。だいたい みなさんと同じようなご見解とお見受けしました。ということは いぢわるくて すみませんなのですが 《行動の軌跡などについて 個性が発揮されたところを分析すると その基礎に 個性がある》というふうに 響いてしまうんですけれど。・・
 あぁ われは まよえるこひつじなり。

 * 《個性》を定義するのに 特別の根拠はないし 要らないということなんでしょうか。

お礼日時:2008/06/23 21:26

brageloneさんの質問はいつも奥が深く、何か口を挟むと、違う見方を要求されそうで「う~ん」と唸って拝見しているだけです。

今回は清水の舞台から飛び降りて見ます。

個性の定義はその人らしさのあり方と取ります。ここで突っ込まないで下さい。先に進みませんので・・・

恐らく「記憶」だと考えています。胎児の時代に母体の鼓動を聞き覚えているようです。(神経の中で聴覚系の発達が一番早いとの事。)この時、母親の精神状態により当然のこととして心臓の鼓動は変化しています。大雑把に言って、母親の妊娠中の生活状況や夫婦の問題、外的・内的ストレスの状態が第一子と第二子の時と全く同じとは考えられません。同じお腹から生まれてきても、兄弟は他人の始まりと言われる所以と認識しています。この記憶も長持ちせずに、フロイドの言う「無意識野」に落ち込んでしまう(唯識で言うところの阿頼耶識と言い換えてもよいです。 )。一歳のとき、二歳のとき、小学生の時などの成長に伴って経験され、蓄積された記憶はどんどん「無意識野」の中に落ち込み、二度と想起されることは無い。しかし、この膨大になった「無意識野」が、一つの情報が入ってきた時に、それを解釈し、理解し、記憶し、反応するために働いているはずです。この「無意識野」は人それぞれの持ち物であり、決して共通のものは無いはずです。我々はそれを“個性”と言っているとするならば如何でしょうか?
勿論、その時代、時代による社会的制約はあるものの(これを理性と言うかどうかは知りませんが・・・)、基本的にある個人が経験したものを、全く同じように追経験することは不可能です。当然のこととしてそれまでに蓄積された「無意識野」は異なるからです。「そうではない!」と思いながら、「まあ、それにしておくか。長いものには巻かれろというから。」と言うのは個性ではなく社会的制約の範疇の問題かと思いますが。
フロイドの説を援用しましたが、唯識の阿頼耶識での種子(しゅうじ)が起こり末那識、六感からの煩悩の発生も同じように説明できると思いますが。

この回答への補足

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。
 いつも読んでいてくださったとか。重ねて感謝申し上げます。けっこう ざっくばらんな性格だと思いますので もし何かありましたら ご参加ください。

 まづ ANo.1へのお応えとして わたしは こう書きました。
 ☆☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・ふと 思い浮かんだのですが rongo-dogさんのようにみづからの歴史に触れて お話をされるとき――そしてそれは 決して 恨みつらみで愚痴を言うためではなく 過去を顧みて 未来に対処するためにおっしゃっていると言わねばならないようなのですが このとき―― そのように人それぞれのみづからの人生の歴史 これが 個性なのかなぁというものです。
 となると――もしそうなると―― ただし 個性は 人と人との違いの問題を はじめに=基本的には 問うていないと言ってもよいのでしょうか。そう言うべきなのでしょうか。
 つまり こうです。そもそも生まれつきには 個性はないし 人間存在じたいにも 個性はない。ただ その後の生きる過程で 人それぞれに情況の違いや いくらかは互いに違った生き方をすることがある。もしそうして来ているとするなら その部分が 個性だとなります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この趣旨に 深層心理・精神分析あるいは 唯識の理論 これらを 下支えにしてのごとく 加味して 個体の歴史のことを あらためて打ち出して来られたと受け取りました。
 胎児のときからの自分史ですね。
 また これまでは 意識上のことが主だったのですが 無意識の領域を出して来られた こういう内実です。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 成長に伴って経験され、蓄積された記憶はどんどん「無意識野」の中に落ち込み、二度と想起されることは無い。しかし、この膨大になった「無意識野」が、一つの情報が入ってきた時に、それを解釈し、理解し、記憶し、反応するために働いているはずです。この「無意識野」は人それぞれの持ち物であり、決して共通のものは無いはずです。我々はそれを“個性”と言っているとするならば如何でしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぜいたくな不満 あるいは まるで因縁をふっかけるような要望を述べるとしますと けっきょく No.11の krya1998 さんへのお返しでも書きましたように 《人それぞれの個性によって培われたものが 個性である》と言っているように響くのです。
 はじめは 母親の胎内にいて かのじょの心臓の鼓動を聞くこと つまりは そういう受け身から始まって その感受性を鍛えるとともに 自分からも反応するようになり さらには 自己の見解を形成して 人は 互いに 社会的な交通をおこないつつ 共生する。
 いぢわるく捉えれば 人は 生きるから生きる。個性は作られるべくして作られ さらにこれを発揮するようになる。その結果・その成果が 個性なのだと。
 いやぁ わたしは 天の邪鬼なんでしょうか!!!???
 
 ★ 「そうではない!」と思いながら、「まあ、それにしておくか。長いものには巻かれろというから。」と言うのは個性ではなく社会的制約の範疇の問題かと思いますが。
 ☆ 右へならえの問題ですね。このとき 大きくは日本という集団のもとに生まれ落ち 特定の集団にも入り そこで だんだんと馴染んできて 大概は 集団への帰属意識が強くなると思うのですが 一匹狼ではなくても 集団とともに行動していて なおかつ 個性があるという事例は あるのでしょうか? ないでしょうか? こんな問いも持ちました。
 
 * 要領を得ないお返しで すみません。これまでの質疑応答の中で けっこう 話は噛み合っていたとも思うのですが。わたしも あらためて読み返し 何か浮かんだら この 1000827313 さんへのお礼欄にでも 書きこませていただきます。

補足日時:2008/06/23 21:06
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