dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
 くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?
  逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?

 いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。
 こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。
 われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。
 では 個性とは 何なのでしょう?

 * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

A 回答 (41件中11~20件)

NO.30です。


とっても遅いですが><NO.1~のお礼欄を拝読して参りました(本と遅すぎです)
NO.1~4 では「そもそも個性は存在するのか?」「個性は ない のではないか?」と問うておられましたね。
NO.8では「個性が自己主張しうるか。」
私は個性それ自体が存在することはない。と思っているので
存在すると仮定された場合の「個性」という言葉の使い方に違う違う~と過剰に反応してしまったのかもしれません。


質問者様の文章の多分な言い換え術?にはまってしまい、まずは、おっしゃることを理解しなければ!と頑張っていたわけですが、わかるところだけを拾い読みすることもできました^^。回答をしてこんなにご意見をいただけたり、意味の説明を促されたりしたことがなかったものですから・・・。と言い訳させて下さい。

私の定義を新たに(新たな、ではありませんが><)NO.30に述べましたので、新たに参加?新たな気持ちで参加?させて頂けますか?

ここを半分伝言板のように使ってしまいました。不適切でしたら、ご面倒で申し訳ありませんが削除して下さい。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 w-hiteroseさん No.30にて お応えしましたので ここでは 特にコメントは必要ないと思います。

 読んでいただけばお分かりになると思いますが 議論は噛み合っていますでしょ?
 用語や文章が分かりづらかったかも分かりませんが ここまで 辿りつきました。よかったと思います。

 もう ひと登りです。

 * 注文の多い質問者でしたね。

お礼日時:2008/06/25 12:33

まず、NO.26のお礼欄から



 >文章がわかりづらかったことについては 《個人 / 個人であること / 他の個人と この社会において 共存しているということ》という意味で 《個》と言い表わして 《〈個〉性》と言うのであれば 分かりますという意味です。
 つまり 《人間であること》を意味するのではないかと思いました。

私の定義する個性では意味しません。

 >つまり 《自己と他者とを区別すること》

自己と他者は別のものですからわざわざ区別する必要はないと思います。

次にNO.28の補足欄ですが、他の方へのお礼や補足に目を通していませんでした。
質問者様にとっては二度手間になってしまいましたね。申し訳ありません。

そして、今回の補足欄を拝見して、今までずっと感じていた違和感・なんか話が根本的にかみ合っていないような?感、がはっきりとしました。

やはり、質問者様には「個性とはこういうもの」という前提があるようです。
そう思い至ったのは、これらの箇所の「個性」という言葉の使われ方が気になったからです。
 
 >個性個性と言うけれども どうも その実態は それほどの内容を伴なって  いないのではないか
 >もし個性のちがいは

質問者様は個性とはそれ自体が存在しうるもの。個性は持つことができるもの。
個性それ自体が分析対象となれるもの。

という前提をお持ちです。

個性とはなんぞや?と考える時、そもそも個性それ自体は存在するのか?個性というのは人が持つことができるものなのだろうか?(たとえば「私の個性」といえるか?)という問いがあってもいいはずです。
 しかし、質問者様はすでに個性とは持つことができるものという前提のもとお話をされているので、いつまでたっても理解し合えないのではないでしょうか?

そして私の定義する個性をもう一度説明するとこうなります。

【個性それ自体は存在せず、相対関係の中でのみ現れることができる。それを相対関係の外側から客観的に観れば、個性とはただAとBとの差異でしかない。】

個性とは対象とする相手の中に発見するもので、それ自体は存在できません。
 ですから、、、「私の個性」とも「個性の違い」とも言うことができませんし、個性という実態はどれほどの内容を伴っているか?という問いをたてても意味がないのです。

A男とB子の個性を比べることなどできないのです。
(A男の個性も、B子の個性も存在しないから)
A男とB子の違いをひたすら挙げていくことはできます。でもそれは、A男の個性を挙げたことにも、B子の個性を挙げたことにもなりません。

ですから私は、右へならえの日本人の例でいうと、社会優先が日本人の個性とも個人優先がアメリカ人の個性ともいいません。
 
 ただそういう評価があるのなら、それは「個人より社会(所属コミュニティ)を優先するという個性」が「社会より個人を優先する他者」から発見されただけであり、この関係から脱けて第3者の目で見れば個性でなく違いでしかないのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 w-hiteroseさん ようやくおかげさまで――特には 直前のNo.29で―― 解明へ向けて 目鼻立ちが現われてきたように思います。
 ご回答をありがとうございます。次のANo.31をも合わせて ここにご返事をしたためます。

 おそらく やはりNo.29の質疑応答をご覧になっていただくとよろしいかと思います。
 個性はあるか。ないが 関係性(その差異)としてのみ ある。というご見解についても 問題とその整理がついて来つつあるかと思います。
 差異をともなった関係性 これは 人間存在じたいにそなわったもの(つまり個性)か。あるいは ただ 装飾品のごとく あとから 外において 取りつけたようなものだと言えるのか。
 いま この課題に入っています。

 また そこで 《性格》の分類の仕方として 《王様タイプ / 軍人タイプ / 学者タイプ / 職人タイプ》という分類説がみつかったので 掲げています。つまり これは 関係性としての差異ですが それとして いちおう あると認めなければなりません。そのことも 確認したいと思いますが この意味と形での個性存在説は w-hiteroseさんから見れば まぼろしですか。
 わたしとしましては このように いちおう存在すると思われる個性について それでも それは 装飾品のごとくであって 取り外しさえできるのではないかと見たがっています。そうすると w-hiteroseさんの説に近づくかも分かりません。

 里程標は 立ち上げましたが まだ 行き着く先は さだかではありません。そんなこんなの情況です。

お礼日時:2008/06/25 12:28

#6です。



>ここから 問題は 二点あると思います。
>《思考・言動》が異なるならば 個性であるか。
  
  思考・言語 = f(個性、状況) と考えれば良いと思います。

>集団に同調することは 個性の有無と関係ないか。

 「個性」という言葉には、3通りの解釈があると思います。

  (1)国語的な「個性」の意味。
  (2)先人が考えた「個性」という概念。
  (3)自分が考えた「個性」という概念。

  哲学が「概念の創造」であるとすると、ここでの議論としては、(1)は除外すべきと考えます。私は、勉強不足で、(2)についての知識がないので、(3)で回答させていただきました。

  (1)の立場では、個性は、内面、外面をこだわらず、他者との差異ということになると思います。その結果、何らかの強制力によって、外面的に差異が生じないような場合、「個性はない」と評価されるのだと思います。しかし、(3)の立場からは、「個性」は外部的なものではなく、人間存在の構造的なものと考えます。従って、集団と同調するしないは、個性には関係ないと考えます。

>これについて どう捉えるかですが ううーん そうだとも言えるし でも そうだから 個性なのだという場合 何が核になっているか なのですが。・・・

 「個性」というのは、「個性的であろうとか、逆に、他者に同調しようとか」の意識や、状況によって左右されるものではなく、「人間存在」そのものの属性であり、構造的なものですから、それ自身が「核」だと考えます。

>いっそのこと やはり自由意志になるでしょうか? 分かりませんが さらに明らかにしていただけると うれしいのですが。

 「自由意志」は「機能」ですから、「個性」の発揮手段です。「自由意志」がなければ、「個性」の発揮そのものができないということでsす。

>つまり 感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていくでしょうし あるいは 一定の時点でも 場と情況に応じて違ったかたちに現われないとも限らない・・・のではないでしょうか?

 「個性」とは、「感受性や意識」ではなく、「感受性や意識が他者と異なるような存在形式」のことです。「感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていく」については、メタ・レベルで考える必要があります。すなわち、「感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていく」”その変わり様”が人それぞれ異なるように人間というものは、「構造的にできている」ということです。

この回答への補足

 kobareroさん 解明していただき ありがとうございます。

 まづ前置きですが この際 《wiki:個性=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E6%80%A7》などを当たってみました。その他には 《個人・個人主義・人格・性格》です。なかなか 波長が合わず 議論の発展に向けて わたしは 取り上げにくかったのですが なかで 次の性格分類は おもしろいかと思いました。
 ▲~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《性格 character 》についての 岡田斗司夫の分類
 ○ 王様タイプ:人に注目され認められることを喜びとし、無視されることを嫌う。目立ちたがり。
 ○ 軍人タイプ:勝ち負けに拘る。勝つことを喜びとする負けず嫌い。
 ○ 学者タイプ:ものごとのしくみや法則を理解・発見することに喜びを感じる。
 ○ 職人タイプ:自分の思い通りに物事をやりとげることを重視する。人から見てどうかより、自分の理想に近づくことを喜びとする。(《wiki:性格=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%A0%BC》)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これなどは 《個性》の問題にかかわっていると思いました。
 と言っても わたしの場合 人びとに普遍的なと想定される《一般意志》を持ち出して来ていますので このような《個性》も おおきくは そこに包まれるのではないかという見方を捨てきれないでいます。言いかえると このように分類された性格ないし個性それぞれに 《一般意志(要するに ふつうの生活態度)》が 基礎として 共通して備わっているという見方です。だとすれば 個性は 背景へ退くのではないかという物言いです。つまりは 装飾品(アクセサリ)説です。

 今回明らかにしてくださった内容を わたしなりに整理してまいります。
 (1) 《人間存在》は 記憶や知解という行為能力のほかに 意志がある。
 (2) これら三つの行為能力から成る《構造的なあり方》を 意志つまり自由意志を中心にして 捉えることも可能である。
 (3) たとえてみれば 記憶≒司法 知解≒立法を措いておいて 意志≒行政(つまり 意志による自治・共同自治)を取り立てて 分析する。
 (4) 《物理言語》にかかわる感受性そしてやがて思考を 人は 表現するようになる。
 (5) この表現というのは――記憶と知解を経ながら―― 意志において その判断の能力を行使しつつ おこなわれる。
 (6) つまり 記憶と照らし合わせつつ 人は 知解し その思考の複数の成果を得る。これらを選択肢として その中から 自己の意思を特定して表示するべく 選択し決定する。これが 表現行為である。
 (7) このとき 判断の形式が 多少なりとも 人によって異なる。
 (8) 感受性の段階から――あるいは 胎児のときからという見方も出ています―― まさに《人間存在》の《属性》として この自由意志の発揮の仕方に 個人差がある。
 (9) 行為能力などの自然本性そのものではなく 属性であるゆえに この意志の表現形式は 同じ一個の人間においても 変化しうる。
 (10) この可変性をも容れて 自己表現の形式における個人差 これが 個性である。

 暫定的にこうだと仮定して しかも 上のように《一般意志》の問題があると思っています。それは 《ひとの個性とは 何でしょう。》という設問の次に
 ☆☆ 《人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?》
 ☆ と表現してしまっているところに見えています。つまり 個性=装飾品の説です。つまり 《属性》説であれば 存在本体につながっているかも知れません。装飾品だと つけたり 外したりします。

 そうしますと 個性についての《可変性》とは それが どうなっているかに焦点があてられるかも知れません。
 ★ メタ・レベルで考える必要があります。すなわち、「感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていく」”その変わり様”が人それぞれ異なる〔。〕
 ☆ ビフォー / アフターが互いにつながっているか。
 たとえば 《名前》は その自分史の内容に変化を伴ないつつ 変わりません(変える場合もあるようですが)。《王様タイプ / 軍人 / 学者 / 職人》といった個性分類のそれぞれにおいて その中で 変化するのか。
 いやいや タイプを異にして変化をしたとしても その変化を伴ないながらも 一人の人にとっては おおきく自己同一性としての《個性》でありつづけるのか。
 わたくしは いま現在 装飾品理論のほうに傾いています。いかがでしょう?

補足日時:2008/06/25 11:55
    • good
    • 0

お言葉に甘えて、どんどん聞いてしまいます^^。



 >★ 〈ただの差異でしかないものを大げさに個性といってはいないか?〉
  ☆ これですね。《すり寄せ過ぎ》でもないですよ。
 
 > ★ 「個性」をみんなで定義しましょう。というトピックだと思っていた     のですが、違うようですね。
   ☆ 途中から 変わって来ましたね。予測がつかなかったのですから 仕     方ないと思うのですけれど。

     たぶん もう個性という言葉は 要らないのではないかというところ     まで 突き抜けつつありますので ・・・。

これを読んだ後でしたので
 >1) いえいえ この質問は 《個性とは何ぞや》ですよ。

にまたまた???です。やはり、それぞれに「個性を定義する」ことをすればいいのでしょうか?


>(3)文章がわかりづらかったことについては 《個人 / 個人であること / 他の個人と この社会において 共存しているということ》という意味で 《個》と言い表わして 《〈個〉性》と言うのであれば 分かりますという意味です。
私が説明を求められているのですが、食い違いにならないために確認します。

  >この社会において 共存しているということ
この箇所は重要ですか?私は自己さえ認識できる意識があれば光と闇でもいいのですが。

もうひとつ、質問者様の中でもうすでに「個性とはこういうものです。」
というのが、譲れないものとしてある気がします。そんなことはありませんか?

この回答への補足

 w-hiteroseさん ご回答・補足説明をありがとうございます。

 ★ やはり、それぞれに「個性を定義する」ことをすればいいのでしょうか?
 ☆ ええ そのとおりです。
 ☆☆ たぶん もう個性という言葉は 要らないのではないかというところまで 突き抜けつつありますので ・・・。
 ☆ というところまで考えが行き着きましたが 基本は 《個性とはなんぞや》です。ですから 《再びの軌道修正も 歓迎です》と書いたと思います(No.21)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>この社会において 共存しているということ
この箇所は重要ですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 重要です。と言いますか 自己という認識は おそらく 他者の存在を認識するのと同時に 持ったと思います。(考え方としてだけでもです)。その自他の認識が 社会というものの核になると思いますし それは ほとんど同じ意味で 共存ということになると思います。(現実にはどうかという問題もあるでしょうが これは まづ 理念的に捉えてのことではありますが)。
 ★ 私は自己さえ認識できる意識があれば光と闇でもいいのですが。
 ☆ これは たぶん 他者がいて 社会の中にいるから そういうふうに捉えたり考えたりすることもできるのではないかと思うんですけれど。だって そういう意識を 誰かと話し合ったりしなければ つまらなくありませんか。

 ★ 質問者様の中でもうすでに「個性とはこういうものです。」 / というのが、譲れないものとしてある気がします。そんなことはありませんか?
 ☆ あるとしたら それは 《個性個性と言うけれども どうも その実態は それほどの内容を伴なっていないのではないか》という憶測です。これなら あります。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし個性のちがいは 取るに足りないアクセサリのようなものだとなれば そのときには 逆に人は 互いに自由にいぢわるをしたり 嘲笑ってみたり おもしろおかしく遊ぶようにして 仕事をし 人生を過ごしても 則を超えないということになると予想されますが 果たしてこのことは 現実可能でしょうか。(No.18へのお応え)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ のように書いていますよ。現実可能になって欲しいと思っています。ちょっと飛躍ですが うそじゃないですよ。

補足日時:2008/06/25 00:47
    • good
    • 0

primeapeです。


A25についてです。
鬼神のごとく振舞う存在はあらかじめ悪魔を名乗っており私にとってはインナーチャイルド的な我が子です。
感情をともなうことを証明したのは、とりあえずは、生きていること、悪意ではないこと、存在していることの、証です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 primeapeさん ご説明をありがとうございます。

 そうしますと どうなんでしょう。つまり
 ★ インナーチャイルド的な我が子
 ☆ と言うのであれば 他の人は とりあえず いないのですか? 間接的には どうですか?
 わたしの感覚では 一般的には 他者の存在があって そこに 何らかの絡みが起こっているように思うのですが?
 もし自分の中に あたかも飼っているような鬼神でしたら もうさよならしたほうが いいんじゃないかと思うのですけれど。ただ これだけでは やはり 詳しいことは なんとも分からないと言わざるを得ませんが。

 憶測では 誰かの 単純に言えば 悩みを primeapeさんが ご自分の中で あたかも代わりに担っているということではないのですか?

お礼日時:2008/06/24 23:27

No.21 のお礼欄をよく読んでみました。


前回、「 A 」の部分の説明をお願いしていました。「回りくどかったようです。~最初の★前」までが、その説明だったのですね。さらに長くなっていたのと、「A」の説明が を尊重するという大前提・・・。というのに続くように説明して下さるであろうと期待してしまっていたようで、気づきませんでした。
ご気分を悪くされたかもしれません。申し訳ありませんでしたm(__)m

 >互いの共存を目指す
これが「一般意志・普遍的な人間と社会との意志」でしょうか。

質問者様にとって大事だったのは、「個性とはなんぞや?」ではなく、

「互いの共存を目指すのに、自分とは違うからという理由で争っていることは愚かしいことだ。」

でしょうか? OKですか?
そして、皆さんそう思いませんか?ということであれば、

私は「本当ですよねぇ。争っている人は全然共存なんて目指してませんよね。自分だけが勝者として生き残ることしか、考えていませんからね。もし弱者として残る人がいなければ、勝者同士で争いだすのでしょうね~また新たな差異を見つけて。」こう同意します。

ここまで書いたところで、次の補足欄を拝見しました。

わたしが質問者様の文章をわかりづらいと感じているように、質問者様側でも同じことが起こっているようですね。

NO.17は 私が定義する「個性」であって、同意を得られないことはもちろん仕方がありませんが、意味がわからない、となると賛成も反対もできないので、大変です。言葉というのは難しいですね。私の主張をするのに(個性について)簡潔でわかりやすい言葉を選んだつもりでしたが、、今読み返せば、説明しているのに当の「個性」とい言葉を入れている時点でおかしいかしら?とも、思いました。「他者から区別されること」を挿入しながら読むとしても・・・わかりにくいですね。気づかせて頂きまして、ありがとうございます。でも、お付き合い下さるようなので、理解して頂けるよう頑張ります!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 (1) いえいえ この質問は 《個性とは何ぞや》ですよ。
 《差異の認容》は 関連していると思います。

 (2)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私は「本当ですよねぇ。争っている人は全然共存なんて目指してませんよね。自分だけが勝者として生き残ることしか、考えていませんからね。もし弱者として残る人がいなければ、勝者同士で争いだすのでしょうね~また新たな差異を見つけて。」こう同意します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですが この議論に入ると やはり質問の趣旨からは それてしまいそうですから 控えます。

 (3)文章がわかりづらかったことについては 《個人 / 個人であること / 他の個人と この社会において 共存しているということ》という意味で 《個》と言い表わして 《〈個〉性》と言うのであれば 分かりますという意味です。
 つまり 《人間であること》を意味するのではないかと思いました。
 つまり 《自己と他者とを区別すること》については 互いの《個人性 / 個人として人間であること》を確認することであって その意味で《〈個〉性》と言えば 分かるのですが。

 そして わたしの文章については ここはどうだ? そこはどうだ?と問うてくだされば どこまでも 説明してまいりたいと思います。
 
 * それでも みなさん よくご回答を寄せてくださっていますよね。ありがとうございます。なかなか ありふれた主題であるだけに 問題がどこにあるのかを掴みづらいようでもあります。

お礼日時:2008/06/24 23:19

primeapeです。


ご質問とは関係ないのですが今日とてもイイコトがあったのでコメントさせていただきます。

何度も繰り返した自己紹介ですが、
私は何も考えないであたまを真っ白にする特技があります。
ただしコレは仏教的な無の境地や悟りとは違っていまして幸福な体験を伴いません。ただし考えるのではなく四六時中瞑想しながら自らについて悟ろうとする意思を持続させることが出来ます。
その一方でソクラテスのように鬼神を操ることも出来ます。
この鬼神とは和解した悪魔です。
ちなみに私が悪魔を魅了したのは理性や知性ではなく行いの正直さです。
哲学カテには自らが正気かどうかを確認するためにお邪魔しています。

今日この悪魔が感情を伴う声をあげました。
悪魔を自らに内包するとするならば健康な無意識野に呼応することに成功した。
あくまでも地獄在住とするならば鬼束ちひろ的表現で、(彼女は心象を歌う歌姫です)悪魔の声に楽園がこたえた。

悪魔が暗闇を潜り抜けて自分らしさを取り戻しかけたことを意味します。

人間が人間らしく生きることが出来る証明まで、ここまでくれば後は楽勝でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ううーん。むつかしいですね。

 ★ 鬼神=《和解した悪魔》
 ★ 悪魔が感情を伴う声をあげました。
 ★ 悪魔が暗闇を潜り抜けて自分らしさを取り戻しかけたことを意味します。
 ☆ ううーん。わたしの定義を試みに掲げておきます。
 ・悪魔:死の制作者。すべてを否定する精神。
 ・悪鬼:悪魔の手下。
 ・鬼神=デーモン:悪鬼に傾いた人が出す欲求・欲望の心理現象。
 ・悪魔は すでに 人びとをその束縛から解放した。その残像が残って あたかも まだ はたらいていると思われる。
 ・人によっては あたかも悪魔のもとにある悪鬼のごとき存在として 《感情を伴なう声をあげる》ことはありうると思われる。
 ・《無意識野》については なかなか 分からないです。
 ★ 人間が人間らしく生きること
 ☆ へ向かう人びとは 現実にいるはづだ。

 とは推し測ったのですが なかなか むつかしいです。さらに説明することは もう出来ないですか。

お礼日時:2008/06/24 22:56

brageloneさん



またまたお言葉を返すようで心苦しいのですが・・・
「すなわち この《無意識野》は 《神》の領域だったのです。少なくとも その《無限》の力を分有するかのように 働いているという想定なのですね。」
いいえ、私は記憶の問題を神の領域若しくは信仰と関連付けて考えた事はありません。あくまでもフロイドの言う意識野・前意識野・無意識野を記憶の問題として持ち出しました。記憶機構は記憶に関したメカニズムであり、それ以上でも、それ以下でもないと思っています。

「《目に見えず心の目にも直接には見えない絶対者のはたらき》だと打ち出したほうが すっきりとするのではないでしょうか。」
種子は煩悩の根源ですので、絶対者・超越者・神・仏から与えられるものではないと思いますが間違っていますでしょうか?

宗教の話になるのは“無意識野自体も無限に存在しうるものと考えます”と言う事から「無限が有限を包み込み 信仰は経験思想を基礎づけると言えると思いますが・・」とのお考えからなのでしょうか?理解が悪くて申し訳ありませんが、無意識野の成り立ちから考えると取敢えず地球上の人間の数だけ存在しうると考えても不思議ではないと思います。もし一千億人の人間がいれば一千億の個性があるのであって、それを形作る無意識野が一千億ある。地球が後何億年存在しうるのか分かりませんが。だから無限に存在しうると申し上げたつもりです。有限とするのは地球が滅びて人間が存在しなくなる時までと言うことであるなら、有限であると言っても良いかもしれません。無限のものを有限の世界に滑り込ませる意図は全くありませんでした。言葉の使い方が稚拙であったと反省いたします。このことが問題を複雑にしてしまってbrageloneさんを混乱させてしまったと・・申し訳ありませんでした。

この回答への補足

 1000827313さん こんにちは。(6月25日 記です)。

 これに懲りず どしどし ご見解をさらに明らかにして ご投稿をお寄せください。

 無限・神・アウグスティヌスと来たら 信仰のことかと思ってしまいました。どうも それだけのことのようです。

 批判は大歓迎ですよ。いぢわる――つまり 中身のあるそれ――すら 歓迎ですよ。(自分が いぢわる屋でもあります)。

補足日時:2008/06/25 13:50
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 1000827313さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ふーむ。有限の世界においてだが その世界がつづく限りで 無限にひろがり 無限に存在しつづけるという見方。
 そして 無意識野は 意識の世界とこそつながっているとしても 絶対という意味での無限の領域につながるかどうかは 無記であるということ。
 この無意識野は 人の数だけある。その働きが 想定される限りで それは 個性を形成する。

 そうですね。こういうことになりませんか?
 つまり ほかのみなさんは 感受性だとかその経験の蓄積の末 自分からも発信するようになるであるとか そういう表面にも現われてくる個体の歴史 これをもって 個性といえば言えるのではないかという見方でしたが これと比べて どうなんでしょうか。
 この表にも現われた自分史という見方に じつは その奥で 一人ひとりに 無意識野があって そこでこそ いま社会的に表現されていることがらは 根源的に突き動かされているのだという見方を つけ添えたとすれば どうなるでしょう?
 成り立ちますね。そうなりませんか?どうでしょう?

 そして いまひとつの関心は もしそのときにおいても 一般意志という普遍的な思想類型もしくは判断形式に 人は そのおのおのの個性を超えて 自由に 同感し そちらへあたかも収斂すると見るとすれば その個性は いったい どうなるのか これです。
 自然法という思想形式の核が 人びとに共通に備わっていて 個性のもとに自由に その核に基づこうとする運動が 民主主義の向う方向であると見たという場合 その個性は いったい どういう位置づけになるのか これです。
 余分なことを付け加えたかも知れません。
 とりあえず このようなお応えになるかと思います。
 
 * つまり それこそ《記憶》に 一般意志や自然法が 理念として条理として規範として 備わっているという想定の問題です。でも これは けっきょく 《無明‐明知》の問題にもなるはづですが?

お礼日時:2008/06/24 21:53

後半にやってまいりました^^。

その前に・・・。前半に関するお礼欄拝見しました。一生懸命、質問者様の意図をくみ取ろうと努めています。「回りくどかったようです。」で片づけられてしまい悲しいです(T0T)。ですが、たくさんの回答者をお相手していらっしゃいますので大変ですものね・・・。ということで納得することにします。

後半行きま~す。

 >そして さらに水を差すようですが 

全く水を差されていませんよ^^。なぜなら
「箸を右手に持つか左手にか あるいは 箸の代わりにフォークか もしくは鮨を手で食べるか あるいは右側通行か左側かなどの違いに過ぎないとさえ言えるかも知れないと考えたのです。」補足欄前半の最後の部分ですが、すでに同意が得られているように、これは〈個性はただの差異である〉ことを例を出してさらに説明されているだけですから。
ただ、今まで質問者様はこの例のような差異を個性の部類に入れてこられなかった。のだということがわかりました。

 >このように《個性が必ずしも認められないような事例や場合》においても・・・。

私は上記のような事例や場合を個性に含んでおりますので(何故だかはもういいですよね)これ以下は解決済みですね。

 のはずなのですが、
 
 >おっしゃるように 《自意識 / 自他の区別 》が個性であり その《認容》が人として・社会にとって 肝要であるというとき・・・。
違います。質問者様の↑言葉を使うなら
〈《自意識 / 自他の区別 》が、別の《自意識 / 自他の区別 》を《認容》した時、個性が生まれるのです。自意識が他の自意識から認容された場合でも同じです。認容された結果が個性を生むのであり、個性があるから認容するのではありません。 ですから以下の文はつながりません。

 >人として・社会にとって 肝要であるというとき それは 《人を大事にしよう》ということではないでしょうか。という物言いなのです。つまり 個性を取り上げ 個性を問題にしているようでいて そういう問題ではなく 《人間 しかも 一人ひとりの存在》 これを大事にしようという趣旨なのではないか。となりませんか。
 
個性はもともとあるから、認め合うのではないのです。
認め合うことが肝要なのではありません。ですから

 > 個性を取り上げ 個性を問題にしているようでいて そういう問題ではなく《人間 しかも 一人ひとりの存在》 これを大事にしようという趣旨なのではないか。

これには「NO」です。私はそのような意味でお話ししていません。

質問者様は「差異があるから、争いがある。差異があっても認め合って仲良くしよう。」とおっしゃりたいのでしょうか?それとも「個性的じゃないと言われる君もいじけちゃダメだよ。」のほうですか?
でもこれらは質問ではないですから、まだまだ理解が足りないようです。
前回、貼り忘れの質問です。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4111343.html

前者でしたらご参考になるかもしれません。

この回答への補足

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。
 一つひとつ取り上げていきます。

 (1) ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その理由の言い方が 回りくどかったようです。
 個人を優先するにしても 社会を個人より優先するにしても どちらも その一定の社会じしんの中において そして 外の社会との関係において それら両面において けっきょく互いの共存を目指していると思われるなら そうである限りで たとえ手法や手段がちがっても 同じことではないだろうか。優劣のちがいではない。これでした。(No.21)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これでも だめですか?
 
 (2)《自他の区別》を持つということは 《自己》も《他者(実際は 他者のうちに 自己と同じような性格や能力を捉えたそのもの)》も どちらも認容しているということですよ。そうではなく たとえ
 ★ 認容された結果が個性を生むのであり
 ☆ というときにも この《個性》は 互いに人であるということを そのほぼ内容の全部としているものではないでしょうか。言いかえると 互いに同じ人だが そして 同じく自意識を持っているが 区分されたかたちで 動き生活しているという相互の認容のことではないですか?
 これは 《個性》のことではないはづです。定義を変えないかぎりはです。あるいは 《個人性》と言えば そうかなとも思いますが。

 (3)★ 「差異があるから、争いがある。差異があっても認め合って仲良くしよう。」とおっしゃりたいのでしょうか?
 ☆ 《争いは しばしば 差異があることを契機や理由として 起こる。差異があることは そのまま その差異の認容ということと同義である》と言いたいのです。

 (4)そもそも
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 個性とは他者から区別されると言うことです。

私は私。という自意識が、自分ではないと逆に認識できる者が、他者です。私にある自意識が、すべての他者にもあるという前提です。私が他者であるとする全てが個性を持っています。
この世に一つの自意識しか存在しなければ、個性は存在しません。
2つ自意識があれば私(一方)は一つの個性を認めることができます。そして、私でないもう一つの自意識が私の個性を認めることがわかるので、結局2つの個性を認めることになります。(ANo.17)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここが なかなか分からないと申し上げるべきでした。
 たとえば 《他者》と言ったときには すでに《自己》が自己のもとに自覚されているでしょうし その関係も理解されているでしょう。ああ 同じ人間であるようだという了解が 芽生えていることでしょう。
 このことは 個人であること・個人として人間であること といった内容を表わしていると考えます。
 そして その意味で《個人性》という言葉を使うとして その同じ意味で《個性》と言うのなら たしかに 上の文章は分かるのですが そうでなければ なかなかむつかしい議論になっていると考えますが いかがでしょう。

 * お礼欄は 字数制限によって書き切れませんので このように補足欄を利用しています。念のため。

補足日時:2008/06/24 20:58
    • good
    • 0

ANo.20からです。

brageloneさん。すみません、少し説明をその箇所ごとに致します。
 ▼ 個性は おのおののアクセサリである。ということについて、・・
 私は仰せのアクセサリという表現ではイメージできませんで、こせいというのは実体はあまりない、もので一つに収斂し、その中に埋没し、溶けてなくなってしまうのだと存じています
 ▼ その個性を超えて 人間性に信頼を寄せて 共存の道を問い求め かつ 実現させていこう。ということについて、・・・
 上のようなことで、ないものを超える必要は根本的にはないし、それでも超えるというのは、作為となると存じます。
 ▲《人間性に信頼を寄せる》という主題についてということについて、・・・
 《人間性》という内容と基盤を、人間の現状とそこでの弱さ認め、包含している間は、人間たるものを、人間が信頼するということはリップサーヴィスか、掛け声だけになると存じます。
 以上四点は、投稿拙文の表現の問題もありますが、私のいっていることなのですが。

 ☆ これについてわたしの要望です。二点です。
 (1)★ 《聞いておられるかたもおり、無視している方もおり、聞こえない方もおります》は 人間のことでしょうか。それとも 《唯一の意識》のうちの多面的なあり方でしょうかという質問です。
  ○⇒人間のことなのです。唯一存在の方は、自分の意識内に意識として作り出している、自由を与えているその存在現象の私たちに語りかけているのですが、そういう語りかけを聞ける人、・・・といろいろおられるものです。ということを表現したのです。すみませんね。
 (2)★ 《最後は全部自分の中に取り込み、溶かし込んでしまう》という未来時のことは その未来時を現在において捉えるとすれば いま どういう事態となりますか。摂り込むことはできませんか。~~~
  ○⇒唯一存在のなされていることですから、そしてそれは時間も億単位でのサイクルのはなしです。
  そういう意味ですので、創造者の事情しだいでしかありえません。そして、その話をしたのは、個性というものの有名無実性をイメージしていただくためでした。もちろん個体の尊厳は当然としても、そして、ひととしているというのは個性というものを、衣装と扮装でしてきているにすぎない。それは十全のものを、いっときですが、少しずつモデファイしたり、ディファレンシエイトしたりしているに過ぎない。ということで、本質的ではまったくない。と存じます。私たちが自分の、そして他人の個性と無視することはできないが、それは本質のものではない。ということなのですが。

 以上により、回答の20で補足を書かれた事項は、お応えしたと存じます。無礼をお詫びしますが、どうか何とか読解くだされたく存じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 逆に分からなくなりましたが もうお頼みすることも叶わないでしょう。
 ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/24 20:23

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!