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 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
 くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?
  逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?

 いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。
 こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。
 われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。
 では 個性とは 何なのでしょう?

 * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

A 回答 (41件中31~40件)

 なんとbrageloneさんでしたか。

こんにちは。

 【ただ それだけでは また新しい人が その分担する仕事を埋めれば もう 旧い人は 個性がなくなるというように思えて来ます。個性が過ぎ去ってしまったということもあると言っているように 思えてきます。】
 ○実際、その通りでしてね。いろんな職場でもそういうことが起こっていますね。でもそれへの対応策としての個性性ではいやですよね。自分本人としても。それは特技や機能価値としての存在性ですものね。
 
 存在性というならば、おかれている位置、全ての状況、視点。そこでの生命性のことではないでしょうか。
 そういうものを一定のことを果たすための機能性の観点から、古くなったとか、遅いとか、量が少ないとか、大小で価値的な判断をするのは、片時、一時の人間のご都合を中心にしたやり方でしょう。
 ですから、そういう社会では知的障害や身体障害のある方や老人などは価値性がなくなる。戦時の軍隊みたいなものでしょうね。
 
 それでは人間の在り方としては、brageloneさんが思っておられるように、はなはださびしい、変則、一方的ですよね。
 文化や人間の歴史はそれをどうかかわり、十全な仕方に近づくかの事でしたかね。
 私は(人を含め)そのものの、位置と存在性、生命性という個という在り方が個性だと存じます。
 みんな同じですが、個になりおかれたところと状況でその存在がでてくるのでしょうね。
 基底はみな同じ意識で、それが個として現れている状況だと存知m巣が。
 私自身、そういう扱いをいただいて、この年まで、こうやってみなさんの中で生きてきています。
 能力も、価値性もありませんし、なんの役にもたちませんでして。
 いえ間違いばかり、迷惑ばかりでこの年齢になりました。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。
 そうですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そのものの、位置と存在性、生命性という個という在り方が個性だと存じます。
 みんな同じですが、個になりおかれたところと状況でその存在がでてくるのでしょうね。
 基底はみな同じ意識で、それが個として現れている状況だと存知ますが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぜいたくな言い方ですが だいたいみなさん 無難なところで ご回答を寄せていただいています。
 ▼ 存在 / 感受性 / 周囲の情況との応答 つまり 自由意志とそれによる判断 / 自分史 / かつ はじめの動機のほうよりは 結果として現われたもので 他者からの評価に耐えるもの / 名前 / ・・・
 ☆ 中で ANo.4の primeape さんの《名前》というのは いまから思うと 面白いかも知れません。つまり 生きていくにつれ その歴史とともに その個体の歩みの跡がつまっていると思われますから。
 
 ただ ここで まだ 釈然としないんですよね。
 《みづからの個性を発揮したものが 個性だ》と言っているようにも 受け取れるのです。
 存在とその個人 これは どう考えても 大前提であり 動きません。むしろ それだけなのでしょうか。それなら それで いいですし そして わづかに それなら どうも《個性》ということばは ふさわしくないと思えて来ます。存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。こんなところです。

お礼日時:2008/06/23 20:32

個性とは別々の肉体を保有しているということではないでしょうか。

完全に同じといえそうな考えや行動というものが仮にあったとしても肉体が別であればどこか違うはずです。
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この回答へのお礼

 kaitara1さん ご回答をありがとうございます。

 そうですか。身体が違えば 個性があるということですか。
 そうですか。
 身体が違えば 存在が 分かれているということですかね。

お礼日時:2008/06/23 17:02

  ご参考に


 ​http://kikitai.teacup.com/qa4119032.html
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。 

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 できない人、あれはできるがこれはできない人、
 何でも有能だが、そして根本もりかいできるが、それだけの人。
 あまり能力も、管理もできないが、じっくりすこしずつやっていける人。
 いろんな人がいるけれど、みんなでやっていける能力と方式、システム、哲学を持ち、指導者が得られることではないですか。
 人は、この世界は、千差万別、そしてみな同じ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 能力の発揮される分野について 得意・不得意があるというその差 これは たしかに 前提になっていますね。
 人類の社会は ほどなく 分業=ゆえに協業の仕組みを作り この制度のもとに共同生活が 営まれて来ました。
 現代では さらに 世界的な分業=協業の仕組みが 発達して来ました。われわれの自分たちの毎日食べる食材ですら 他人の手によって加工したものとなっています。
 この差異の網の目の組織の中で それぞれの位置にあって特化している仕事にかかわって 人は 個性を持つということででしょうか。役割分担するそのあり方が 個性を作るということでしょうか。
 そのような側面もあると 思います。

 ただ それだけでは また新しい人が その分担する仕事を埋めれば もう 旧い人は 個性がなくなるというように思えて来ます。個性が過ぎ去ってしまったということもあると言っているように 思えてきます。
 どうなんでしょう。

お礼日時:2008/06/23 16:19

門外漢のタワゴトですが、「個性」には2種類あるように思われます。



1)他との比較によって認識される差異(を裏付けているものとして想定しうる対象)
2)他と比較せずとも目に付くそのもの自身の特徴(を裏付けているものとして想定しうる対象)

(1)では、たとえば赤い花と青い花を比較し、共通する部分を差し引いた余りである赤や青の色が個性になります。または、頭の中にある一般的な花のイメージと比較して、「少し花びらが長い」といった違和感をおぼえる部分も個性になるでしょう。

(2)では、比較対象なしに、新しく違和感をおぼえた部分が個性といえるでしょう。意外なため頭の中でうまく位置づけできないものです。この場合の違和感は、人間が進化の過程で獲得した感受性(たとえば火に対する恐怖や病気に対する警戒心)に基づいていると思われます。

また、(1)の個性は比較によっていつでも再認識できますが、(2)は比較対象がないだけに時間が経って慣れてしまえば個性でなくなるかもしれません。

さて、「個性の発揮」ですが、上のように考えていくと、個性それ自体は単なる違いや動きとしてあるに過ぎず、どちらかというと個性を受け止める主体の側にその成否がかかっているように思われます。
比較対象の取捨選択能力、頭の中の知識・概念の広がり、腹の減り具合、不安、好奇心、そういった主体の状態が「個性の発揮」そのものだといっていいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 unicppさん ご回答をありがとうございます。

 ▼ 差異
 ★ 違和感をおぼえる部分
 ★ 感受性
 ☆ というご意見が まづ先に来ますね。

 あと
 ▼ 他者による評価
 ★ どちらかというと個性を受け止める主体の側にその成否がかかっているように思われます。
 ☆ あるいは
 ★ 時間が経って慣れてしまえば個性でなくなるかもしれません。
 ☆ というように 変化するものは 必ずしも 取り上げられない傾向にあり 他者から見ても 結果として 一定しているものごとのほうに 注目がいくようです。

 * このささやかな個性が おおきく社会の力関係の中で どのように 行動の軌跡を描いていくか あるいは 単純に・通念としてでも 《人格》という概念像のもとに いったい どのような差異や特徴をもって 自己を主張しうるか 関心があるところです。

お礼日時:2008/06/23 15:59

質問者さまは、精神という目に見えない部分でのみ「個性」をお考えで


なおかつ、未来や消え去った過去の部分を中心にお考えのようですか
体系・性別・年齢など人の身体や持てる財や属性や家族、住む場所、
国籍、気候風土、人種、など「目に見える部分」と「今、この瞬間の
世界の現実」は、それぞれの「主観=個人の意識」の視点において
凄まじく個性的なのだと思います。
個性とは、還元した差異ではなく累積した体験の総和によって生み出される
とお考えになったほうがいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 umaiwinenomitaiさん ご回答をありがとうございます。

 それは そうなのですが。・・・
 つまり たとえば《自分史》という鍵語が これまでに 出ました。これは もちろん その自分が選択して生きて来た歴史のすべてのことです。ですから すでに そういうことで 質疑応答して来ていますので それは そうなのですがというのが まづ お応えになります。
 ただ おそらく umaiwinenomitaiさんが このような疑問を呈する気持ちになられたのは わたしが その自分史を主題にするときにも 自由意志なら自由意志というように その核となる要素へと還元しようとするからだと思われます。
 ★ 個性とは、還元した差異ではなく累積した体験の総和によって生み出される / とお考えになったほうがいいのではないでしょうか。
 ☆ そういう印象を与えてしまったとすれば それは 間違いです。お詫びします。

 そのうえで 問題は 確認事項をも含めて こうなると思います。
 (1) 《目に見える部分 / 心の目に見える部分》は 特には 区別しない。あるいはつまり 《身体の運動・ものごと・概念・精神史》すべてをひっくるめて 個性については 考えます。
 ☆☆ くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 
 ☆ と言っているとおりです。

 (2) すべて現在の時空間において考えます。と言っても これは 現在において捉える過去および未来 あるいは言いかえれば 過去となっている現在および未来として捉えたところの現在をも とうぜん 含めます。
 ★ 「今、この瞬間の世界の現実」
 ☆ に すべての時空間が 収斂して来ているという想定です。

 (3) 類(全体)・種(中位集団)・個(個別)を区別するとすれば いま 個性として問題にしているのは 個としての個人です。
 ★ 体形・性別・年齢など人の身体や持てる財や属性や家族、住む場所、国籍、気候風土、人種、など
 ☆ のうち 《体形・身体・持てる財》が 個性にかかわる主題だと限定しています。ほかは 個性の集まりの結果か もしくは 集団としての個性(特殊性)かだと考えます。

 という前提で お願いしたいと思います。この前提じたいについての疑問でしたら さらに説明していただくとよいです。

お礼日時:2008/06/23 11:26

人類においては、物理言語が個別化されていることが、個性の根本原因だと思います。

物理言語というのは、物理量(シニフィアン)と心が受ける印象(シニフィエ)で構成される言語です。例えば、550ナノメータの波長の光をどんな色として心が感じ取るかということです。

動物の場合は、この関係が、「種」ごとにほぼ決まっていると思われますが、人間の場合は、個人毎に差異が大きい。すなわち、人間の場合は、「人類=1種」ではなく、「個人=1種」の関係になっていて、物理言語も人間の数だけあるということだと思います。

わかりやすく言うと、「人は、同じ客観的環境におかれても、そこから感じ取る感覚や印象は、一人ひとり異なる」ということです。これが、個性発生の根本原因だと思います。そもそも、物理言語が個人別で異なっているのでなければ、「意識」というものが存在している意味が全くありませんし、自由意思というものも存在し得ないことになります。

>逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?

物理言語は、個人の意思で決まるものではなく、天の配剤で決まるものですから、たとえ、趣味が同じで、志が同じでも、個性は全く異なります。すなわち、同じ客観的状況に置かれても、そこから感じ取る印象は、個々人で異なり、印象が異なるが故に、その後の思考・言動も当然異なります。

>われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。

日本人と言うより、「日本語を使用し、日本社会に育った人」と規定したほうがより、実体に近いと思います。人種としては、日本人であっても、生まれたときから英語を使ってアメリカ社会で育てば、集団指向にはならないと思います。また、集団指向ということと、個性の有無は全く関係がないと思います。集団指向というのは、ある社会で生きていくための方便に過ぎないと思います。

>では 個性とは 何なのでしょう?

同じ環境(世界)をそれぞれ異なった風に感じ取る意識の働きのことだと思います。

この回答への補足

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。

 のっけから 中間報告をまづ述べさせていただきます。自由意志をないがしろにすることは出来ないと思いなおしたこと これを確認しておきたいと思います。
☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人工衛星は 地球の引力と飛んだときの遠心力とが釣り合って 回っています。世の中を泳ぐというとき あたかもそれと同じように 社会的な力関係の錯綜するあいだを 釣り合いをとって 動きまわると言っていい場合が あるかと思われます。けれども そのときにも 人間の場合には そのように社会的な力学のいとなみとなっていて つねに 個人が 認識と判断をしつつ 生活しています。
 仮りに 皆が皆 泳ぎ回って生きるにしても そして そうなると 種類や様式に違いはあるとは言え その力学類型は 総じて 波風を立たせず 摩擦を最小限に抑えるという基本内容を持って 同一のものとなるでしょうが そうなるにしても――こうなるにしても―― 一人ひとりは 誰の意志でもなく 自分の意志によって判断しつつ行動します。 
 個性と言うかどうか分かりませんが まづこの個人ごとの意志による自由な判断が介在するということ これは 個人というものを主張しうるよすがだと考えます。
 判断の基本形式が同じでも その一つひとつの判断があるということは 無視し得ません。つまり なければ 生活も社会も成り立ちません。人工衛星が わづかにでも軌道修正するように 意志のはたらきがあるということを確認します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これまでの皆さんのお答えを咀嚼しつつ kobareroさんのお答えに接して まづ 上のように思いました。この場をお借りしました。

 さて kobareroさんのご回答です。
 ★ 人類においては、物理言語が個別化されていることが、個性の根本原因だと思います。
 ★ 物理言語〔は〕人間の数だけあ〔って〕・・・「人は、同じ客観的環境におかれても、そこから感じ取る感覚や印象は、一人ひとり異なる」ということです。
 ★ 同じ環境(世界)をそれぞれ異なった風に感じ取る意識の働きのことだと思います。
 ★ 物理言語は、個人の意思で決まるものではなく、天の配剤で決まるものです。
 ☆ ここから 問題は 二点あると思います。
 (1) 《思考・言動》が異なるならば 個性であるか。
 ★ 同じ客観的状況に置かれても、そこから感じ取る印象は、個々人で異なり、印象が異なるが故に、その後の思考・言動も当然異なります。
 (2) 集団に同調することは 個性の有無と関係ないか。
 ★ 集団指向ということと、個性の有無は全く関係がないと思います。集団指向というのは、ある社会で生きていくための方便に過ぎないと思います。

 ☆ ANo.2のgraf_さんは 主観ごとに 個性のはたらきはあるのだけれど 結果として現われる事柄および他者の評価が 重要であり しばしば 動機のようにして働く個性も かき消されるとおっしゃっているのだと思います。
 そうして ANo.3のharepanda さんによれば 大幅に乱暴に解釈すれば 自己の本音と社会の力関係とのあいだのずれが あたかも個性となって現われてくるということかも知れません。
 ANo.4のprimeape さんのお答えは 自分史→自由意志に気づかせてくれました。 

 さて これらを総合して どういうふうにまとめれば よいでしょう。
 ひとつ思ったことは どうも 個性は ないと言うわけにはいかない / しかし その内容をつかむには なかなか むつかしい / その表現を変えて捉えたほうが 分かりやすいのではないか / たとえば 個人性・自由意志・独立主観(時間を共に生きるという関係性があるゆえにこそ 互いに独立した主観のもとにある)うんぬんです。
 さて ここに
 ★☆ 個人ごとに個別化されているという物理言語・その感受性ともいうべき機能とその意識
 ☆ これについて どう捉えるかですが ううーん そうだとも言えるし でも そうだから 個性なのだという場合 何が核になっているか なのですが。・・・
 いっそのこと やはり自由意志になるでしょうか? 分かりませんが さらに明らかにしていただけると うれしいのですが。
 つまり 感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていくでしょうし あるいは 一定の時点でも 場と情況に応じて違ったかたちに現われないとも限らない・・・のではないでしょうか?

補足日時:2008/06/23 10:55
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primeapeです。


そういえば地元の市の文化祭で無名ですが確かな芸術的感性をお持ちの方の遺作を見たことがあります。
文化祭で故人の作品を展示していたんです。
コラージュ写真でした。(写真をパーツに使った抽象画とお考えください)
2点ありまして、ひとつは慈愛と安らぎの浄土世界を連想しました。
生きているうちに死の準備が整ったことを連想しました。
もう1つは「のぞき」と言うタイトルで「仮面」ペルソナの実態を表現したものです。
この世に脱ぎ捨てる墓標のようでした。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 そうですね。ペルソナ=仮面に すでに触れましたが そういうふうに 芸術あるいは広く虚構という世界を併せ持つというこの経験現実というのであれば むしろ逆に 移ろい行く自分史という内容のペルソナが その永続性を持つのではないという性格において 《個性》をかたち作っているということかも知れません。

 すべてこの世は 鏡であり 鏡に映った像であり この像が それでも なにがしかの謎を持っているものだとすれば そのなぞにおいて 永続性につながることになるかも知れません。その想定のもとに 個性がある。というさらに想定。

 ううーん。《わたしは / わたしが》と言って 文章を 意志表示として 判断行為として 押し出すとき そこには なにものかに裏打ちされた個性が それぞれ にじみ出てくるということなのかも知れません。ううーん。・・・

お礼日時:2008/06/23 00:00

primeapeです。


個性とは名前に集約されます。
仮にprimeapeが私の本名だったとしましょうか。
私は38歳ですが、生まれてから現在までのprimeapeとして生きた自分史が個性です。
魂としてどこから来てどこに帰るのか、それは問いません。
この世を去るときには脱ぎ去る仮面です。

無関係ですがprimeapeってのはポケモンのオコリザルの英語名です。
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この回答へのお礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。また 始めました。

 ★ 個性とは 名前である。
 ★ 自分史である。
 ☆ 後者は No.1へのお応えでも触れていました。
 名前というのは 識別のしるしとしてだけではなく 個性だという見方なのですね?
 昔むかし 《わたし》というのが 人それぞれに――同じことばであっても―― 固有名詞ではないかと考えたことがありました。そして その名前が それぞれ代名詞であるという見方です。ふつうの文法の言い方とは ちょうど逆の見方です。
 これは別として いづれにしても 《固有》というのであれば 《個性》とよぶものにふさわしい内容を持っているかも知れません。

 ただ どうでしょう? この名前としての個性も そして 自分史としてのその内容も 識別のためのしるしという性質内容であればよいというまでに還元されてしまいませんか?
 人格というものが 人みな 共有するようであるならば そのあたかも同一の人格というもののもとに すべての自分史も個性も 収斂していくようにさえ思えて来ます。
 つまり ペルソナという仮面であれば よけい そう思えてきます。

 でも 特定の関係にあれば 自分史というように さらにその自分史どうしのつながりにおいては きわめて特別の性格を 互いに 持つかにも思われます。それが 個性であるかと――すでに触れたと思いますが―― 考えられもしたのですが これとて 知り合いの圏外に出れば 個性がなくなるかのようでもあり そうすると 知り合いの圏内であっても ただ 移ろい行くような性質のものであるということにも思えます。
 少々 論理に走りすぎていますか。

お礼日時:2008/06/22 23:51

brageloneさま



またお会いしましたね、harepandaです。

さて、この問題に関する議論については、一般意志は全体意志とは違うというルソーの見解を理解しておく必要があると、私は考えています。ヘーゲルの「法の哲学 自然法と国家学」には、学生の書き取った講義録から、ガンスがまとめた補遺が、以下の通りついております。

この概念を探し出すという点で、ルソーには、単に形式上思想であるにすぎない原理(たとえば社交性衝動とか神的権威とかいったもの)ではなく、形式上のみならず内容上も思想であり、しかも、思惟そのものであるような原理、すなわち意志を、国家の原理として立てたという功績がある。だが彼は、意志をただ、(のちにフィヒテがそうしたように、)個別意志という特定の形式においてとらえただけであり、普遍意志を、意志の即かつ対自的に理性的なものとしてではなく、ただ意識された意志としての、この個別意志から出てくる共同的なものとしてとらえたにすぎない。」(§258A)

これを読んだ批評家の中から、多数、ヘーゲルは普遍意志(一般意志)と全体意志の区別が出来ていないという、批判が飛びかっています。

しかしです。ヘーゲルは小論理学で、以下のように述べているのです。

「上に述べた単に共通なものと真に普遍的なものとの区別は、ルソーの有名な『社会契約論』で見事に述べられている。そこでは、国家の法律は普遍意志から生じなければならないが、だからといって、万人の意志である必要はないといわれている。もし、ルソーがこの区別を念頭においていたら、彼は国家論でより深い業績を残しただろう。普遍意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律は、この概念に基づいている意志の特殊規定である。」(§161Z1)

ここに、問題解決のヒントがあります。一般意志は、単なる人々の集合的意識である全体意志よりも高次元のものであるということが、見事にルソーとヘーゲルによって表明されているのです。

個性とはなにか?といわれれば、ヘーゲルの枠組みであれば、以下のような回答が可能でしょう。

「一般意志に合致しなくとも、全体意志に合致すれば、それは良き個性であり、状況的必然のなかから生まれてくるものである。一般意志にも全体意志にも合致しない個性は、偶然の産物に過ぎず、一般意志の中で、何らの役割をも果たすことが出来ない」。

なお、社交性衝動は、プーフェンドルフという法理論家のキー概念です。後期ヘーゲルは、プーフェンドルフの社交性衝動から、カント・ルソーの意志への移行が、自然法思想の歴史の中で重要な転換であることを指摘しており、社交性衝動概念が一般意志概念の先駆者と理解されています。

この回答への補足

 harepandaさん ご回答をありがとうございます。お世話さまです。

 さて いきなり本論に入りますが
 ★ 〔人々の集合的意識である全体意志に通じるところの〕社交性衝動概念が 一般意志概念の先駆者と理解されています。
 ☆ ということでしたら 《全体意志》は それ《よりも高次元のものである》《一般意志》に 含まれると見てもよいような印象ですが さにあらずでしょうか。

 もちろん 概念が違うわけですが 《個性》の定義として
 ★ 一般意志に合致しなくとも、全体意志に合致すれば、それは良き個性であり、状況的必然のなかから生まれてくるものである。
 ☆ ということであれば 平面的な数量的な部分ではないにしても 全体意志は そのさらに全体を成す一般意志の部分要素であると理解する場合が出てくると思うのですが それでもよいでしょうか。

 あるいは
 ★ 一般意志に合致しなくとも、全体意志に合致すれば、
 ☆ という部分は 通俗的に 《ただ時流に乗る》ことだとも理解してしまうのですが 全体意志が 一般意志を部分的に表現しているのならば よいということになるでしょうか。全体主義の思潮は すべて 全体意志を表わし 一般意志に通じるという解釈になり きわめて あぶない理論(定義)のようにも感じられます。

 それにしても 一般意志は 
 ★ 単に形式上思想であるにすぎない原理(たとえば社交性衝動とか神的権威とかいったもの)ではなく、形式上のみならず内容上も思想であり、しかも、思惟そのものであるような原理、すなわち意志
 ☆ ということでしたら 単純に《高次元の》と言って 終われりとは し得ず むしろやはり 日常生活の次元の《自然法》思想に置き換えて捉えたほうが 現実的だと思われてきますし これは いま措くとしますと どうしても 一般意志が それ自身を普遍だと規定すればするほど 全体意志との違いが 分からなくなります。実際問題としてです。
 と言いますか おそらく つねに 全体意志は 一般意志とは違っていて 簡単には 一般意志に到達し得ないという但し書きが 必要でしょうし すでに そのことは 暗黙のうちにでも 合意されているようにも思われて来ます。
 だとすれば――だとしますと―― この一般意志が やはり《なぞ》であるとしますと そうであっても まさに《普遍性》として人びとに共有されているとするのならば その基礎理論の想定の上で 人びとは 生きる。ならば 基本的には 《個性は ない》という帰結になります。(あるのは 一般意志からの ずれ としての個性であるとなるでしょうし この《ずれ》は けっきょく 実際問題として分かるわけではないと すでに言っているようにも思われます)。
 よろしかったら ご批判ください。

補足日時:2008/06/22 17:57
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個性についての悩みは古今東西尽きないものだと感じます。



個性とは、個々の特質の違いとするのが一般的です。
個々の違いについては、色々な意見や段階の違いがあるとは覆いますが、私は「反応」違いこそが「個性」であると思います。
例えばあるニュースについて怒ったり、喜んだり、無関心であったりといった「反応」があります。それから、私から見て、どのような顔立ち、仕草、体型であるかという「反応」もあります。この違いをもって個性です。
ですから、質問者様の「右へならえ」といった反応は違いではないですから個性ではないという判断になります。同じではなく違うことが個性だからです。

しかし、ここに重大な問題があります。先ほどの「右へならえ」の場合にあって、「嫌々従う」「率先して従う」「親族などのしがらみから従う」「無理やり従わされた」・・・・などなど、実際には千差万別の反応があってしかるべきです。個性は確かに存在できます。
ところが、結果「右へならえ」と言った瞬間に経過の個性は消滅します。無かったことになります。同じであれば個性はありません。

ということで、「個性」というのはそれを発揮する人の「違い」だけでなく、その「個性」を確認する他者の存在も必要になることが分かります。ですから、もともと我々人間たちは違う固体でありますから、「個性」の存在は疑いようはないのですが、「個性」を捉える側の事情によって「個性」が存在しなくなってしまうということです。

では、「個性」には「個性」としての違いを発揮する人と、違いを認識する他者をもって存在するものなのでしょうか。
例えば、他者が一方的に「個性」を認識してしまった場合はどうでしょう。他者の中には存在します。他者も人間ですから存在した以上「個性」が成立します。ここで、他者が「個性」を疑って「個性」ないと思い直した場合、「個性」がなくなります。
するとどうでしょう。「個性」に「真実の違い」は必要なくなります。それも当然。違いを認識するのは他者だけですから、他者の中で認識するだけで足りるのです。

個性とは、「人間の幻想」ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 graf_さん ご回答をありがとうございます。

 (1) 第一命題
 ★ 個性とは、個々の特質の違いとするのが一般的です。
 ★ 「反応」の違いこそが「個性」であると思います。・・・同じではなく違うことが個性だからです。
 ★ 「右へならえ」の場合にあって、「嫌々従う」「率先して従う」「親族などのしがらみから従う」「無理やり従わされた」・・・・などなど、実際には千差万別の反応があってしかるべきです。個性は確かに存在できます。

 (2)第二命題 
 ★ ところが、結果「右へならえ」と言った瞬間に経過の個性は消滅します。無かったことになります。
 ★ 「個性」を捉える側の事情によって「個性」が存在しなくなってしまうということです。

 (3)したがって
 ★ 個性とは、「人間の幻想」ではないでしょうか。
 ★ 個性についての悩みは古今東西尽きないものだと感じます。


 ☆ (1)ものごとに対する人それぞれの反応に 互いの差異があって その限りで 《個性がある》と見られる部分もある。(2)しかるに それを決定するのは むしろ他者からの評価だ。(3)ゆえに 《個性がある》というのは 最終的には 反応の結果のほうを取り上げてみて その評価に従うことになる。

 通り魔を称賛することは 反応の違いだからと言っても 事の内実から考えて 個性だと言い難いということであれば そうであるなら 最終的に ほぼ同じ見解(負の評価)に落ち着くであろうというとき そこには 個性の違いは出て来ていない。ということになるでしょうか。
 No.1へのお礼・補足欄をも参照してくだされば 幸いです。

お礼日時:2008/06/22 16:40

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