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こんちには。二十代の男です。

誰にでも優しくすることを、慈愛って言いますよね?
でも、それっていちばん残酷なことじゃないでしょうか?

たとえば、その人がシスターとか、神父さまとか、お坊さんとか、聖職者の立場にいるのなら、とても尊敬できるんですが、ふつうの人にそんなことされると、かえって傷ついてしまいます。

たとえば、夢をかなえている友人に優しくされても、上から見られているようだし、彼氏がいる女の子に優しくされても、ほんとはバカにしてんじゃないのか? と思えてきます。

そして、それを本人に伝えても、「おまえは俺の(私の)優しさを無下にするつもりか?」なんて言われます。

ほんとうに、みんなに優しくしたいなら、自己犠牲が必要なんじゃないでしょうか? 少なくとも慈愛は、ふつうの人が持つには、手に余るものじゃないでしょうか?

もちろん、相手がただ「人に嫌われたくない」、って自己防衛で、僕に優しくしてくれてる可能性はありますが……。

どんな回答でもいいので、お願いします。

A 回答 (9件)

人に見返りを求めないのが本当の優しさだと思います。





>「おまえは俺の(私の)優しさを無下にするつもりか?」

     この言葉は完全に見返りを求めてると思います。


多分、相談者さまは、見返りを求められる優しさを受けてるので
今のようなお気持ちになるのではないでしょうか。

人との交流の中では、大抵、こういう見返りの優しさというものが
多いのではないでしょうか。
そして、その見返りがなければ、いつのまにか
縁も切れてしまう。

なかなか他人様に慈愛できるものではありませんが
私も、聖職の方の気持ちはとても尊敬します。


慈愛は、誰にでも優しくするではなく、
親が子供をいつくしみ、かわいがるような、深い愛情という意味です。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

>見返りを求められる優しさ
この文章を読んでいて、自分の不快感がわかったような気がしました。

>親が子供をいつくしみ、かわいがるような、深い愛情
やはり、自分が犠牲になってもいい。きらわれてもいい、という強い愛情が慈愛なんですね。

他人にそこまで求めるのも、またあたえようとするのも、まちがっているんでしょうか?

お礼日時:2008/08/21 06:39

#3です。

因果って聞いたことありますか?平たく言えば原因と結果です。こういうことがあったからこうなった…他人から優しくされたみたいだが、それが優しさとは感じなかった。むしろ迷惑に感じた。そして相手から『人の優しさをムゲにするのか?』と言われる…何が原因で、何が結果かは分かりますか?
ここは哲学のカテゴリーではなかったので『慈愛』の意味ではなく、あなたが言う『自分は求めすぎ?』に回答します。やはり、求めすぎていると思います。
自分に《何かが足らない》とほしがる人は、それを人並みにしても満足しないで『人並みではいやだ、もっと欲しい』と際限がなくなることはあります。そういう時でも因果とか、《誰かの、何かの力》で求めても充足されない状態になります。
あなたは慈愛を求めているのかもしれませんが、今は《誰かの、何かの力》で慈愛はお預けに。今のあなたにアドバイスできることは、その《誰か》に感謝の気持ちをかたちにすることです。今、生きていられるのは《誰か》のおかげ。その《誰か》は一人ではないかもしれません。常にその《誰か》に感謝して毎日を生きていけば《何かの力》で、慈愛を与えてくれる方に巡り合えます。
すごく抽象的ですが、言葉の意味を追うばかりで、質問者の悩みが増えてはまずいと考えてこうしました。最後に…他人に対して何かすることって、すごく大変ですよ。
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 端的に言って、エゴの無い慈愛は無いと考えます。

大きな意味での自己満足です。「優しくしてあげたい」「愛してあげたい」「理解してあげたい」という己の意志でするとことであり、エゴ以外の何物でもありません。頭で考えて意志でするのが“愛”、心(感情)ですると言うか流されるのが“情”、ふたつ合わせて“愛情”だと思います。
 人間に性欲や食欲があるのは当然だと思いますよね。それは種を保存するために、進化の過程で遺伝子に刻み込まれた欲求だからです。他にも種を保存するために組み込むべき欲求があると僕はにらんでいます。それは≪自己肯定欲求≫です。高度な脳を持った人間は社会的動物です。他者から『誌ね!』と言われただけで、字札するようでは種の保存はおぼつきません。「自分は正しい」と思ったとしても、それは食欲と同じように、ごく普通のことだと思います。さらに、自分のことを「価値ある存在」だと思いたい、という≪自己重要感に対する欲求≫があったとしても不思議ではありません。
 この≪自己重要感に対する欲求≫が無意識の動機となり、人に親切にしたり、子育てをしたり、おせっかいにも回答したりするのだと思います(笑)。手のかかる子どもという存在は、親にとっては自分を「価値ある存在」と思わせてくれる存在であるに違いありません。この無意識な欲求があるからこそ、人は子育てをする気になるのでしょうね。
 「同情に託〔かこつ〕けたイジメ」「愛情という名の支配」「罪悪感による脅迫」は、もう僕の中では常識となっています。エゴを動機としてする行為のすべてを忌み嫌う必要はないと思います。要はその結果が役に立ったか立たなかったかで判断すべきものだと思います。特に、支援者側はこの基準で自らの支援行為を評価すべきです。
 支援を受ける側には、それとはまた違った留意点があると思います。同情に託けたイジメに引っかからない、愛情という名の支配に屈しない、罪悪感による脅迫を取り合わない、といった心構えが必要です。“愛”が頭で考え意志でするものなら、その愛を受け取る側も頭で考え判断する必要があると思います。もし僕の回答が役に立たなくても、それがエゴから発した行為だとしても、次回は良い回答をしてくれるかも知れないから礼だけは書いておこうというのも一計です。調子に乗らせるといけないから紋切り型の礼だけにしておこうというのも一計です。かならず感謝しなければいけないという強迫観念を持つ必要はありません。
   http://yukiduke.jp/hitorigoto/huko.htm 不幸な考え方
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

お礼にとても時間がかかってしまいましたが、
それだけgadgetdesuさんの回答には考えさせられるところが
多かったです。申し訳ありません。

うまく今の僕の気持ちを言葉にはできないのですが、
どちらかに偏ってしまうのはよくないことだと、思っています。
慈愛がすべて正しいわけでもないければ……、というか……。
すいません。
やはり、うまく言葉では僕の今の言いたいことを、説明できません。

お礼日時:2008/09/03 04:26

マザー・テレサという修道女がいらっしゃいました。

彼女は、インドでもう助からない末期の病気の貧しい人たちの最後を迎える施設を作りどんな宗教の人でも受け入れました。素晴らしいことで、誰にでもできることではありません。真の慈愛の人であったと思います。

しかし、彼女はそれこそ命を狙われるほど激しく非難されました。いわく、自分の名誉欲のためにしているんだ、とか、ヨーロッパにも(マザー・テレサは旧ユーゴスラビア出身です)そういった人たちがいるのになぜインドでやるのか、とか、なぜ異教徒を助けるのだ、とか、挙句にはインドには様々なほかの宗教がありそういった異教徒の信者も分け隔てなく受け入れたので他の宗教の信者からは彼女はああやってキリスト教を布教しているのだということで命を狙われたりもしました。
もしあなたがマザー・テレサに会ったらどうでしょう?彼女に優しくされたら「俺をインドの貧しい奴らと一緒にするのか」と思うかもしれません。かように、愛というのは伝わらないものなのです。

愛というのは伝わらないのです、なかなか。以前私がお付き合いしたある女性は私のことが大変気に入っていましたが、私はそれほど好きではありませんでした。私は遊び半分(というか、遊び)でしか付き合っていなかったのですが、彼女は私の身の回りの世話をしたりずいぶん尽くしました。ひどいことに、なんと彼女は結構モテモテで彼女を誘う男性は何人もいたのです(そういう熱心なお誘いメールを何度も見ました)。中には真面目に彼女に交際を求める男性もいました。かように愛というのは理不尽な存在なのです。
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本当の慈愛は、誰も困らせたりしないと思います



本当の慈愛で、貴方も周りも、私も、幸せに暮らしたいですね
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口先でならなんとでも言えますからね。

言葉だけの優しさなんてその程度のものですよ。行動が伴えば、やさしいと思える日もくるでしょうね。女の子紹介してくれるとか。

慈愛は自己犠牲があってはじめて成立するものだと思います。優しくすることが慈愛とかじゃなくて。慈愛ってのは難しいもんだと思います。
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誰にでも優しくするのは、慈愛じゃありませんよ。

あえて言うなら、それは八方美人かと。
 慈愛は聖職者だけが与えるものという解釈も、少し違うように思います。
辞書で慈愛を調べると「いつくしみ愛すること」とあります。「いつくしむ」を調べると「かわいがる、大切にする、大事にする、愛する」などが出てきます。
私は慈愛は、肉親や近親者の家族愛みたいなものを感じます。私なりの解釈ですが、参考までに。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

たしかに慈愛は聖職者だけが持てるものではないと思います。
慈愛はまさしく、家族愛のようなものだと僕も思っています。

ですが、家族愛は、やっぱり自分をどこか犠牲にしてますよね?
僕は求めすぎなんでしょうか?

お礼日時:2008/08/21 06:34

それはどう考えても人それぞれでしょう。


優しくしてくれる人のなかには(実際大半がそうだと思うのですが)本当に相手の事を想ってそう接してくれている人だっています。
そこまでいかなくとも無意識のうちに気遣ってくれてる人も多いと思います。
質問のどのあたりに主に回答していいのか悩んだのですが、
>でも、それっていちばん残酷なことじゃないでしょうか?
に関する私の意見としては、一番残酷なのはそのことよりも「その優しさを残酷な事と考える事」、というものですかね。
自分が信じない相手についてどうこう考えたところで意味もないですし。

また、相手に自己犠牲なんてされたらたまったもんじゃない、と考える人も少なからずいると思います。
こっちが悪いことしたみたいに感じてしまう可能性もありますからね。
>少なくとも慈愛は、ふつうの人が持つには、手に余るもの
なのかどうかは知りませんが、少なくとも慈愛を持とうとするその姿勢はすばらしいものだと、私は感じますよ。

>慈愛ってなに?
究極に客観的に言えば、どうやら人によってすばらしいものにもなったり人を傷つけるようなものになったりするようなもののようです。

参考程度にお願いします。
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質問者さんの逆恨みとも思います。



また、本当に、自己犠牲がいりますか?
それは、求めすぎだと思います。
それは、質問者の欲求を満たすため、使えろ!と言ってると思います。
求めすぎだと思います。



また、人によりますが、世話好きの人もいます。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

僕は求めすぎですか?
たしかに、僕は求めすぎな傾向がありますが、
でも、優しさは自己犠牲が必要だと思います。

恋愛だって、自分を捧げる覚悟がなくちゃ、結婚まではいかないんじゃないんでしょうか?

それも、僕はひとつの自己犠牲だと思います。

お礼日時:2008/08/21 06:27

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