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映画、漫画、小説とこの世にははるか昔から
数え切れない“物語”が存在しますが、
人間が物語を楽しく感じるのはどうしてなのでしょうか?

また、物語の中の人間が普通にしている
寝たり食べたりする描写、通常それを
延々つづるだけでは物語にはなりません。
となると、物語が物語として機能するにはどのような条件が必要なのでしょうか?

A 回答 (9件)

こんばんは、5567さん。



反意語:範囲語

いいまちがい ききまちがい かきまちがい おもいちがい

【瓢箪から駒】
http://www.eigo-eikaiwa.com/0395.html
http://www.syo-kazari.net/sosyoku/kiroku/koma1.h …
http://www.syo-kazari.net/sosyoku/jinbutsu.html


物語:故事


【ことわざの文化】
http://www.wa.commufa.jp/~anknak/index.htm
http://www.wa.commufa.jp/~anknak/a-kotowaza-06-a …
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来た、見た、勝った。



機能的には動詞だけでも物語になりまする。
面白いかどうかは別として。
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こんばんは、5567さん。

 


たまのお休みぷらっとお外に出かけお散歩

ぷらり ぷら

どこ行くわけでもなく

ご近所を

ぷらり ぷらぷら

ぷらり ぷら

ここらで一服

ロビーの椅子に腰おろし

あたりを見回せば絵がいっぱい

一枚の絵に目がとまる

          

『日だまりの道』 
http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/road/michino_ …

        

しばらく眺め 席を立つ

    
戸口の脇のテーブルに ノートが一冊(一言ノート)

           
あしあと




《『日だまりの道』の作者さんへ》

この絵を見たあと 

“さて わたしは いまから どこへ 行くでしょうか?”

想像してみてください。


ぷらり ぷらぷら

ぷらり ぷら






― 未完 ―
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「今日のは大丈夫!!」


歩美は自信たっぷりに言いながら僕の目の前にカレーライスを出した。
「ほんとかよー?」
僕は歩美に疑いの目を向けながらそう答えた。
というのも一週間前に出された彼女のカレーライスが壮絶な物だったからだ。
カレーライスは誰が作っても美味い・・・その常識を彼女は覆したのだ。
どうやらルーを入れるタイミングが早過ぎたらしく、焦げてるのに生煮えという、体に悪そうなソースであえた生野菜丼・・・
それが一週間前に目の前に出された彼女のカレーライス(自称)だ。
(・・・本当に大丈夫なんだろうか?)
横から覗き込みながらカレーソースを2、3回かき混ぜてみる。
「大丈夫だってば!!」
歩美が怒鳴る。
意を決して食べてみる・・・
「あ・・・うまい。すごい!美味いよっ!!」
思わず口に出してしまう。
「でしょう~♪」
と、歩美は随分得意げに答えた。
しかし、ふと頭の中を冷めた考えがよぎる。
(でも、これって・・・美味いのが当たり前だよな?前が前だっただけに過剰反応しちゃったけど、普通のカレーライスだよな・・・)
なんだか自分が嘘をついた様で、ちょっと申し訳なさそうに歩美を見る。
歩美はにこにこしながら、自分の分のカレーライスを美味しそうに食べている。
なんだかそれを見ていたら考えた事がどうでもよくなった。
歩美が視線に気付いたらしく僕に聞いて来た。
「ん?どうしたの?そんなににこにこして・・・」
「え?そう?いや・・・カレー美味しいね。」
「でしょう~♪」
歩美は又、得意気に答えた。


以外と寝たり食べたりの描写でも物語としていけるんじゃないでしょうか。
あと、すごく恥ずかしいです。
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物語が面白いのは次に何が起こるか分からないことにあります。


次はどうなるんだろうという興味で人間を引き付けます。

あと、物語は偶然というのを良く使います。
これが物語にドラマ性や意外性を生み出して面白くするのだと思う。

物語として機能する条件は、プロット=筋があることです。
プロット=筋の基本は起承転結です。
まず、何かが起こり、それに続くことがあが、そのまま進まずに途中に転機があり、最後に結末を迎える。
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人によって好むジャンルは違うと思いますが、共通するのは、私もやはり<非日常性>を疑似体験するってことじゃないか と。




医学書は難しいので、読んでいるうち眠くなりますが、<妻と帽子を間違えた男>は興味深いです。

創作じゃなくて、実際の症例を本にまとめた本ですが、非日常がそこにある。
だが、患者はそれを日常として生きている。
このギャップが興味深いです。


で、アイデアとして、当たり前のことを書いても、人の心は動かない。
驚くような非日常性をもってくることで、読者を作品に釘付けにする。

つまり、作品に<驚き>というアイテムを入れることで、面白いと読者に感じさせることができる。



例えばユージアルサスペクツって映画。
ユージアル=普通の。 
サクペクト=疑惑。

鑑賞者は誰が犯人だろうと、推理しながら見ていく。
で、物語が進むたびに、<ゾゼ>という謎の人物像が頭の中でできあがる。
とてつもない怪物のイメージを持つ。
こんな奴がこの世にいたら 恐ろしい 悪魔だ とか思う。
早く捕まえないと とんでもないことになる とか思う。


で、最後に。。。やられた・・・・・。

実際のゾゼが何者か暗示的に表現されていて、驚きとやられた という感情が一気にわきあがり、<おもしろかった>となる。

「推理小説はだいたい途中で犯人を当てれるのに、どうしてこれだけはわからなかったのだろう。」とか地団太を踏む。

このような<驚き>が無ければ作品はつまらないんですね。
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こんにちは。


物語を楽しく感じられるのは、それは我々の脳内に「心の動き」が発生するからです。
小説の条件といいますのは「読み手の心を動かす文章」と考えます。ですから、これがそのまま「物語の条件」ということになると思います。

「楽しい」「嬉しい」、あるいは「悲しい」、このようなものはみな我々の脳内に発生する「情動」であり、そのときの状況に応じて自然と生み出される「心の動き」であります。我々はこれを「日常生活の変化の中」で体験するわけですが、このような「受け手の心を揺り動かすような状況」を敢えて小説やお芝居など架空の舞台に再現したものが即ち「物語」ということになります。

現実の体験を語るならばノンフィクションであり、想像の世界を提供するならばそれはフィクションです。
誰も体験したことのない貴重な事実というのはそれだけで多くのひとに語る意義があります。ところが、昔の講談などではだいたい話が大袈裟に伝えられます。では、それがフィクションとなれば想像力といいますのは情動の起伏を大きくするために使われるものでありますから、これは明らかに「娯楽」を目的としていることになります。
通常、「恐怖」や「悲しみ」といった情動は刺激にはなっても快楽にはなりません。ですが、「ホラー小説」や「人情物」などが広く受け入れられるのは、これはそれが自分の現実ではないからだと思います。因みに私はホラーがからっきし苦手でありまして、これを娯楽とすることはとてもできません。

では、娯楽を直接の目的とするのではなく、読み手の心を動かす効果を利用して自分の考えを多くのひとに伝えようというのが純文学です。映画や芝居でも社会問題を扱ったものはたくさんありますが、このような大衆的なコンテンツは公共の報道とは異なった役割を果たしています。
このように、物語といいますのは娯楽を与えるだけではなく、ひとの心を動かすことによって社会を啓発することができます。また、昔話の多くは子供の心に感動や恐怖を体験させることによって信心や道徳を教育するというものです。
従いまして、「物語の条件」といいますならば、それは「我々に心の動きを与えてくれるもの」ということになると思います。
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 淡々と日常のことを記述していても、やはりそれは日常から切り取った、ということで非日常になるし、自分とは対岸や窓外、あるいは車外の景色ですものね。


 ある日の小説大石内蔵助や、笠 智衆さんの演技なども味わいがありますね。
 眺めることができる、そこに画け(描くではなく)るからではないですか。
 そういうことが出来るように、寝たり食べたりするを延々つづると物語を書き、演技しているのだと存じますが。何気ないことの中に。
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楽しいのは、非日常性と共感がポイントでしょうね。


ただ、何気ない日常を描写するだけでも物語にはなります。
物語は、ものを語るですから、何でも語られてれば良いんです。
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