アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 アニメ・マンガ・TVドラマ・映画そして小説 さしづめ これらの分野で 先端をゆく表現には どんな形式がありますか。どんな思想として捉えられますかというのが 趣旨ですが 社会の流れや世界の動きの中で 作品が どのように位置づけられるのかとしてなど おしえてください。

 芸術至上主義という考え方があります。表現が それ自体として いろんな意味でともかく よいというのであれば それでよいという思想です。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【恋愛至上主義】とは、
 恋愛を人間における最高の価値と考える思想・思考形態を指す。結婚後であったとしても、恋愛の情熱が無くなれば別れることを選び、また他の異性と恋愛に走ることもやむを得ずとする主義である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E6%84%9B% …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とヰキぺディアにありましたが(――ちなみに 芸術至上主義は まだ作成されていませんでした――) これに沿って考えるなら 《つくり捨て・使い捨て》の傾向があるとも 邪推されて来ます。
 とは言うものの 現代においては 単に《ロマン主義》的であるとか《幻想的で退廃的》であったり《神秘的》であったりするとかすれば おもしろいとは限らなくなっているのではないでしょうか。複雑であります。
 推測するに 《物理学や生物学の成果を ふんだんに取り入れて そのあと 想像力によって飛躍させるかたち》ではないかと思います。そうだとすると 想像力の用い方が 問題になるでしょうか。
 (このQ&Aで 《ワ゛テック》という小説を勧められて読んだことがあります。これは 神学が取り入れられていました)。
 (同じく ここで 《ナルト》を勧められ その解説を読みました。解説だけで 長かった。よく分からなかったぁ。《エワ゛ンゲリオン》も解説を読んだ記憶がありますが もうよく覚えていません)。

 昨今 資本至上主義とも言うべきマネーゲームが 大きな失敗に陥り
そのような貨幣論理の追求は ひととおりの限界に到ったとも言われます。ひととおり暴れまくったわけです。芸術表現に関しては いかがあい成っているでしょうか。ふと 関心が湧きました。

 上記の芸術分野に関することは すべて 憶測です。したがって その分 具体的な内容にかんしては 話が合わないかとは思いますが よろしくお願いいたします。
 ともかく 今頃ですが 芸術評論も 重要ではないかと思ったので(と言っても そこに首を突っ込もうとは思っていませんが) とりあえず みなさんから おしえを乞いたいと考えました。

A 回答 (40件中1~10件)

 始めに、貴方の書いている内容が自分の読解力では分からないです。



 安部公房は「テーマが先立つものではなく、後から来るものだ」と言ってました。
つまり、作成をする前にはテーマはなく、作成後(見た後・読んだ後)にテーマが決まるということ。

 作品は人によって、その感想は違ってきます。
ので、どのような位置付けなのか?という問いは本来ナンセンス(問題にすべきことではない)と思います。

 現代の芸術表現で多いのは、「夢」「虚構」をシュールレアリズムを描いている作品が多々目立つ気がします。
 何故か?その時代の哲学の背景とその時代の芸術表現が一致していると自分は思います。
フロイトが「夢」について記述し、それを各界の芸術家が導入されたと考えます。
逆のパターンも存在するとは思いますが。

 つまり、哲学が発展することで、芸術も新たな展開をするということです。
 人が何かを追求しなくなった瞬間、それは芸術の死であると思います(まだまだ資本主義は終わってないです。試行錯誤を続けています)。

この回答への補足

 point-8さん ご回答をありがとうございます。そして はじめまして よろしくお願いいたします。

 いくつか 幅広い視点から 重要なことがらを 批評をまじえて指摘しつつ おしえていただきました。
 たとえばわたしは 現代小説にかんしましては 村上春樹とよしもとばななを ひょんなことから その当時としての全作品を読む機会がありました。ふたりともに対して 結論は それぞれの理由で 批判的なのですが それはともかく そのほかは まづ知りません。
 ハリー・ポッターは読んでいませんし その一つの作品の映画化をテレビ放映で――見ておかねばいけないと感じて――見たのですが 魔法使いの学校で殺人事件が起こって 謎解きに向かおうかというところで もう眠ってしまいました。
 あっ それから テレビで《千と千尋の神隠し》は 全編を見ました。教師役のババアの妹が 出て来ましたが この人物の役割が いまひとつ はっきりしなかったことを覚えています。

 この質疑応答の場で 《デス・ノート》のことが取り上げられていました。なんでも重大犯罪を犯して まだ余命を保っている人間たちを その名をノートに書き込むことによって 死なしめるというような内容として そのとき 受け取りました。これなどは――いきなり お言葉を返すようですが――
 ★  作成をする前にはテーマはなく、
 ☆ でも必ずしもなく 人びとの不満や閉塞感――よしもとばななは これが 主題ですね――を あらかじめ漠然とでも 主題としているか それとも 無意識にでも持っていたというように思えるのですが どうでしょう。そう思ったものですから 《社会における位置づけ》というふうにも 捉えようとしました。もちろん いろんな場合があるとわたしも 思います。

 ★ シュールレアリズム
 ☆ たしかに そうですね。いま上に挙げたものだけでも めちゃめちゃ 超現実的ですね。春樹は 人間が壁を通り抜けますから。なるほど――フロイトは もう旧いと思っていましたが――
 ★ 「夢」
 ☆ は ふんだんに 扱われ 或る種の主題なのでしょうか。謎解きなのでしょうか。ま そうすると 超現実のことも この現実に還ってきますので 千と千尋のように 娯楽と教訓とを兼ねているのでしょうか。

 ★  人が何かを追求しなくなった瞬間、それは芸術の死であると思います(まだまだ資本主義は終わってないです。試行錯誤を続けています)。
 ☆ 大きな課題を取り上げておられます。〔ちなみに 安部公房について 何も 言えなくて すみません。読んでいません。ただし 資本主義社会のあり方に関係しているのでしょうね〕。
 資本主義が終わったかのように わたしが 言ったとするなら それは マネー・ゲームのさらにその中のそれこそ《シュールレアリスティック》な領域での行動です。それこそ現実生活の経済行為から浮かび上がった世界であり そのような金融資本の遊戯が ふとヴァ―チュアルな仮想領域として 芸術の分野と関係しているのかなと思ったという意味です。
 芸術にとっては いい迷惑の連想かつ邪推でした。また芸術を ただの仮想領域だと言うのは 何が何でも まちがいです。
 ★ つまり、哲学が発展することで、芸術も新たな展開をするということです。
 ☆ おっしゃるとおりだと思います。おっしゃるとおりだと思う部分を残していますし それが基本ですので そういう作品についても 何か情報が得られるかも知れないと みなさんにご教授を求めた次第です。

 方向があやふやな文章になってきましたが 広い視野で触れておられるので あっちに行ったりこっちに寄ったりになったと思います。
 ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

 * 例によって 読みづらい文章で 申し訳ないです。立ち止まってもらうようにと わざと 長くごつごつとした恰好にしています。あしからずと いまの哲学思想の情況に対応する上ではわたしは 横着です。(別の考え方とその実行もあるとは 考えています)。

補足日時:2008/09/20 08:00
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 (お礼欄におさまり切れなかったので 補足欄にて お礼を申し上げました)。

お礼日時:2008/09/20 08:04

私は60歳の今も肉体労働者の無学な者ですが、 芸術の進化のために命を賭けて生きてきたために、落ちこぼれて(^^)しまったようなものなのです。



簡単に自己紹介しますが、 踊り一筋のつもりで50歳ごろまでは、その心の世界(形式は本物、あるいはもともとあたりまえの踊りには、 あるいは森の民の宗教権威以前の踊りには存在しなかった。 それでいて、それ自体がすでに高度な表現舞踊だった。)のみを求道してきた人間です。  それが50歳の頃に、 急に ほとんどすべての表現ジャンルをそのために勉強してきたことにも気づくと同時に、 追求してきたことがすべての表現の世界に通じ、しかもすべてにおいてかなり重要な改革への本質的は面とつながっていると気がついてしまったのです。    知識は貧しいままでした。   そこで 其の中で一番実践的な要といえそうな歌を中心に、その教育の可能性とかあり方を、私流にまず求めてみたというのが、50歳以後の人生、 もし一言で言うなら踊りと歌に生きた、とも言えるわたしなのですが、  

昔、占い師にも一言三言の会話で、「広すぎてあなたは出世しない」と言われてしまったように、 とうとうそのため身も心もぼろぼろになってしまった(^^)ような人間です。  

ただし、“占いが傾向性についてしかほんとうには当たらない”というのが本当の姿ならば、 私についても“其の傾向性についてなら当たった“ということにすぎないので笑。

どんな無学であろうと、 であるほどに価値はあるかもしれない、ここに命を賭けてきた専門家としてこの回答には自信を持って、回答させていただきます。

次の機会のためのコメントを下さられるかは、そちらのご判断にまかせますが、

そちらの求めていることには、 出来る限りは合わせます…。



>趣旨ですが 社会の流れや世界の動きの中で 作品が どのように位置づけられるのかとしてなど おしえてください。

初回は ここから入ります。

社会の流れや 世界の動き を動かすのは実は これからは感性教育がカギとの考えを私が持っているために、(これは 私の失敗質問である共産主義と資本主義の質疑を読んでくださっていれば それをカギと思っている「思い込み?」自体は解るところかと思います。)  この初回は 至急ヤフーで感性教育と検索しましたら、 それについて日本感性教育学界という名前の教育界の方がかなりまとまった論文をかかれているところが見つかりましたので、  まずその文のURLを ここに紹介させていただきます。

http://www3.omn.ne.jp/~michiko3/kouwa-endou01.html

ここに飛びますと、
「豊かな感性を育てる教育とその理論」という題で、 別な場では「感性教育の基本、基礎」とも紹介されている論文が出てきます。

かなり、しっかりまとまった解りやすい、なるほど基本であり基礎のその理論です。

実は 今回 時間がなくなり、 急いで まず、この論文の紹介から入らせていただくことにしたしだいとなっています。

私自身の考えは、 その先の考え というよりもおそらくその内部の最大の欠陥と思われる部分にあります。  が、感性教育という、これを読みますとまだ新しい分野の教育のその動向自体の全体像を捕らえるには、 この論文はたいへんすぐれているかと思います。

このさらに、一歩先の世界、あるいはいまひとつ深い世界に私は期待しているわけです。

ます、是非読まれてみてください。

しかして、その後に、>アニメ・マンガ・TVドラマ・映画そして小説 さしづめ これらの分野で 先端をゆく表現には<というところから 私の文を対応させていこうと思います。  

「表現形式」という言葉にはこの場合、異議がありますが、 そのあたりは無学な芸術家との何かの言葉の解釈のあたりの「ずれ」があるのかもしれません。 そのへんを確認していきたいと思います。   詳しくは機会が与えられた時の論議とさせていただきますが、  アニメ等のそちらが一応一まずということで書いてくださったジャンルですと 其の「形式」となると そのまま「形」となり、 さらなるカテゴリー分類とかの話となってしまうと思えるので、 そちらの求めてるところと別になってしまうのではと思えるからです。    形式と中身(表現の心等)を結びつける技術のあたりの現今の状況を求めているのではないかと思ったからです。



「恋愛至上主義」も「芸術至上主義」も 私は知識は無いですが、このタイトル(キャッチフレーズ)自体に「主義」という言葉がついた時点で、私には 其の中身への疑いがかなりはっきり出てきてしまいます。 この分野に関しては はっきりとです。

「ロマン“主義”」を例にとれば、 社会の流れや世界の動きを価値ある方向に動かすためのいろいろな対立するビジョンの一派、一考えであるに過ぎないということを自ら表明しつつ、 それを「ロマン」と呼んでいるのですから、実際のそれが社会や世界を動かす責任を放棄しててもいい甘えが感じられてしまいます。   実際のそれが「ロマン」ならば、その責任を背負えるはずです。 といった説明で解るでしょうか?

感性教育論は 私においては「ロマン主義でな無く」、命がけのロマンそのものです。

結果へのはげしいまでの責任感をともなうものです。


芸術至上主義についても、恋愛至上主義についても、 こうして無学な私からは、そうした類推からの切り込みとなってしまいますし、 恋愛至上主義についてはURLのサイトは読みましたので、よけい辛らつとなりますが、 こんな立ち位置からの、そしてこの論理からの過激批判、書く機会をお与えくださいますでしょうか。

真の芸術哲学が生まれるならば、資本主義は、大きく是正の方向にコントロールしうる(導ける、其の可能性がある)という考えの者です。 偽者にたいしては、ここでの論議内にてはきびしいものがあるかと思います。

ここにて、もし 無学ゆえにこそ価値がある専門性を すこしでも認めてくださるならば、  なんらかのコメントをお願いいたしたいしだいです。

よろしくお願い致します。

この回答への補足

 ★ 真の芸術哲学が生まれるならば、資本主義は、大きく是正の方向にコントロールしうる(導ける、其の可能性がある)という考えの者です。 偽者にたいしては、ここでの論議内にてはきびしいものがあるかと思います。
 ☆ arayata333さん すごい意気込みですね。
 ご回答をありがとうございます。たしかに この質問のきっかけは すでに書いていますように 資本主義の先端領域での金融資本の動きから ひらめきを得たものです。
 ☆☆ (No.1補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~
 資本主義が終わったかのように わたしが 言ったとするなら それは マネー・ゲームのさらにその中のそれこそ《シュールレアリスティック》な領域での行動です。それこそ現実生活の経済行為から浮かび上がった世界であり そのような金融資本の遊戯が ふとヴァ―チュアルな仮想領域として 芸術の分野と関係しているのかなと思ったという意味です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ とは言うものの このスペキュレーション(投機)は その種としては ふつうの生活者にも起こると言われます。つまり われわれが スーパーマーケット毎の価格を調べて 安いほうで買い物をする。石油価格の高騰が予想されるなら トイレットペーパーを買い置きしておく。それを 高く売るという人は さすが いないか いても少数だと思いますが 少しでも 差異を見つけて それに《つけ込む》行動は 投機的だと見なされます。
 実物経済と対応した資金・資本 あるいはつまり その株式ないし債券 これらを担保にして 資金を借り入れ 貸出をしたり 債券(国なら国債)を発行したり そしてさらに その有価証券を担保にして 資金を 有利に運営する。さらに さらに・・・というワ゛―チャルの資本の そのワ゛―チャルの そのまたワ゛―チャルの・・・という世界のことです。差異があれば・投資機会が少しでもあれば そこに 必ず 動く。という世界。
 これが ひととおりの果てにまで行きついたかも知れないという声が聞かれます。

 その当否は 別にして ひょっとすると 今の芸術は もし娯楽やその人気・視聴率が 中心の目的であるとすれば あたかも投機的に動いているのかも知れない。と 失礼にも 思ってみたのでした。
 アニメの《ナルト》の解説で覚えていることは 登場人物が 何度も何度も 死んでは生き返るというような印象をもったことです。もう放っておいたのですが 誰か その方面について ひととおりの批評を持っていたら おしえてもらおうという魂胆でした。

 そんなところです。《毒麦》であるだけではいけないでしょうが どうぞ 腕をふるってください。たぶん わたしは 茶々を入れると思いますよ。

 * なお 質問趣旨の中で 訂正があります。
 SF小説の《ワ゛リス Valis 》が ただしい題名でした。《ワ゛テック》は まちがいです。おわびします。
 * 《感性教育》の論文は 実験ないし体験の報告のほうが ピンと来て わかりやすいのだがと思いました。《感性》を直接の対象とするということですよね? たとえば スポーツをするなら 感性は磨かれてくるようにも思います。間接的に涵養する でいいようにも思いますが。

補足日時:2008/09/23 23:08
    • good
    • 0


 つまり、哲学が発展することで、芸術も新たな展開をするということです。

>>
 おっしゃるとおりだと思います。
おっしゃるとおりだと思う部分を残していますし、それが基本ですので、そういう作品についても 何か情報が得られるかも知れないと、みなさんにご教授を求めた次第です。

 「そういう作品」は本を手に取れば、直ぐ見付かると思います。
フランツ・カフカ『変身』が良い例だと思います。

 さてさて、読解力がない自分は、貴方の質問で一番聞きたいことが分からないです。
 簡単に書いてくれると、助かります(まぁ、その程度の人間と交流を持ちたくないのなら、別に無視して構わないので)。

この回答への補足

 point-8さん わたしが ボケていました。ごめんなさい。きちんとご返答を書いていただき おそれいっています。そして ありがとうございます。
 そもそも 少年時代から わたしには 二つの側面がありました。一方で たとえば周りの者が 教師に対して 大抵 《ものわかりのよい》反応を示して 従いますが それに対して わたしは 同じように形としては従っていたものの 納得の行かないところは どこまでも 納得の行かないまま そういう面構えをしていました。
 それだから けっこう いやなやつだと思われていたようです。特に 教師からそう思われていたようで 何かと 用事を言いつかりました。昔の謄写版での印刷を手伝わされることなどです。しかも それが あとで そうだったのかと分かるというものでした。つまり 他方で 二つ目の側面として わたしは きわめて天然の能天気でした。

 この結果 納得の行かないところは とことんまで 追究します。そしてそのままを 文章にします。全体として 気分は 能天気です。
 つまり わたしの文章が 読みづらいと分かったのは あとになってからでした。ただし 数年前までは それでよいと思っていました。むしろ できるだけ 一つの文を 長く書こうとしました。句点(。)に辿りつくまでを 長いものに わざと しようとしたのでした。 
  現在の考えは こうです。ひとつに 読んで分かるものを書く。もう一つに 読み流すように読まれることを 阻むように書く。 
 ★  簡単に書いてくれると、助かります(まぁ、その程度の人間と交流を持ちたくないのなら、別に無視して構わないので)。
 ☆ ですから 《すべての人と交流を持つ》というのが 大方針ですし 《ただそこにいるというその存在だけによって すでに人は 互いに 対等の人間である》という基礎に立っています。

 ★ フランツ・カフカ『変身』が良い例だと思います。
 ☆ なるほど フロイトを出しておられたように そのあたりまで遡るというわけですね。それに対して わたしのほうからも 何か例を出して応答すれば 話が 噛み合ったかも知れなかったですね。
 さしづめこの質問では アニメの広まった時代ということを 《現代》として捉えていましたが そこに 食い違いがでてしまったようです。
 こうしましょう。
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 作品は人によって、その感想は違ってきます。
 ので、どのような位置付けなのか?という問いは本来ナンセンス(問題にすべきことではない)と思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とは おっしゃっていますが 回答者のみなさんが それぞれ主観において 《これを取り上げたい それについて これだけは言ってみたい》というところを そのまま 発表していただくというかたちです。つまり主題は もちろん 現代の芸術の特徴について です。いかがでしょうか?


 この質問が浮かんだときに 思ったことは アニメだったかで 《何度も死んで 何度も生き返る》という話が出てくるところです。これは 或る日 自分が虫になっていたと発見するという超現実性とは どうも 別の発想ではないのか? 言ってみれば あとで はじけるようなバブルではないのか? こう思ったのでした。そのストーリについて ほんとうには知らないので みなさんにお聞きしたかったのでした。

 今朝の朝刊を読むと 一説として 《世界の株式・債券など金融資産と モノやサービスとしての実体経済との差は 二〇〇六年度には百三十兆ドル》だと言います。《十年前には 三十兆ドル》だったそうです。簡単に見れば その額が はじけるべきバブルですよね。
 芸術にも そういう《上げ底》が――わたしの もう一つの性癖としての いぢ悪さから―― あるかも知れないと 邪推したのでした。だって 村上春樹も よしもとばななも 世界が 読んでいるわりには その中身は バブルではないかと 心底から わたしは 思っているのですから。
 ですから こういうふうな おのおのの主観をおしえていただければ よいと思うのですが? 公共の場でありますから その主観を 説得力のあるものにして 語っていただけると思います。

 * やはり依然として 《簡単に書いて》はいないかも知れませんが 意味が通るようには書いたつもりですが。

補足日時:2008/09/26 13:20
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 補足です。

 文章のことですが 考えてみれば わたしは このような文体で書くことが わたし自身であると思って そうしているようです。
 よほどの対抗的な文章に対しても こういう文体です。

 ただ――この質疑応答の場でも あったのですが―― 相手の・つまりわたしの存在じたいを 無視するような内容の文章に対しては いわば けんか腰になります。見て見ぬふりをしないという主義です。
 (一時期 この場でも 直接に面と向かって話しを交わしているのではないという大きな条件がありますから けんか腰は 控えていたのですが 最近 それでは 話がかみ合わないと考えて 解禁しました)。

 翻訳が必要になるまでの拙文であるかも知れないと思うと なぜ 人びとと同じように書けないのかと いま 考えつつありますが どうなんでしょうか。今日明日に変わったというふうには 出来ないかも知れません。
 思うに 主題や課題が もっと 明確なものであれば それほど 悩むようなこともなく 対話をすすめていけるのではないかとも考えたのですが。つまり たぶん この質問に限っては あいまいであるのかも知れません。

 あっ 例のデカルトの話ですか? ううーん。そういうふうに課題が決まっている場合には 分かりにくいところを 突っこんでもらうといいと思うのですが それでは だめでしょうか。

 いま 分かったのですが 文章における言葉や表現が 分かりづらいというよりは たぶん その語り口・述べ方・文を繰り出すときの姿勢 これが ふつうとは別になっているからなのでしょうか? つまり 人とは 文体がちがう ということのようですかね。
 けんか腰と言っても わたしの場合 《滅びなさい》と言い返しますからねぇ。けんかにならないです。それと あたかも同じように ふつうに書いた文章の場合には 文体のその態度を 一たん 受け容れないと 話を聞いても 耳に入らないということになるのかも知れません。

 あぁ 壁 壁 壁。――わたしの力を超えた問題であるように思います。

お礼日時:2008/09/26 14:09

>>それだから、けっこう、いやなやつだと思われていたようです。



 自分としては、別に嫌な奴だなぁとは思いませんけど。
ただ、視点が端々に広がっているので、明確な主旨を伝えて欲しいと思いました。

>>現代の芸術の特徴

 同じことを何度も書きますが、小説を例として。
十九世紀以前までは「人間」が中心に描かれていた(勿論、所々に「夢」「妖怪」などを扱った作品がありましたが)。
しかし、近年は「夢」などの題材が描かれるのが主流となっています。
それは哲学の影響もあり、人間中心の物語に飽きたという単純な理由ではないか?と自分は思います。
小説を例にしましたが、何処の世界(映像・演劇・写真・絵画)を見ていても、同じ風潮(流れ)ですね。

>>この質問が浮かんだときに思ったことは、アニメだったので、《何度も死んで何度も生き返る》という話が出てくるところです。
これは、或る日自分が虫になっていたと発見するという超現実性とはどうも別の発想ではないのか?
言ってみればあとではじけるようなバブルではないのか?こう思ったのでした。
そのストーリについてほんとうには知らないのでみなさんにお聞きしたかったのでした。

 正直、意味が分からないです。
自分の読解力の問題かもしれませんが。

>村上春樹もよしもとばななも世界が読んでいるわりにはその中身はバブルではないかと心底からわたしは思っているのですから。
ですからこういうふうなおのおのの主観をおしえていただければよいと思うのですが?
公共の場でありますからその主観を説得力のあるものにして語っていただけると思います。

 多くの方々に読まれれば、それが何かの影響を及ぼすのですか?
なら、少数の方に読まれるものは影響を及ぼさないと言えますか?
 ですから、その様な議論は無意味です。

>>村上春樹

 本題とは違いますが、「村上春樹」と書かれても、村上春樹の何の作品かで、受け取り方が変わるので、具体的な書籍名を書いて欲しいです。
村上春樹の作品は数十冊しか読んだことがないですが(個人的に嫌いなので)、各々の作品で内容が大きく違います。

この回答への補足

 point-8さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 明確な主旨を伝えて欲しい
 ☆ これは 現代の芸術一般またはその具体的な作品について 思うところを述べて その中身や傾向をおしえてください。です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 近年は「夢」などの題材が描かれるのが主流となっています。
 それは哲学の影響もあり、人間中心の物語に飽きたという単純な理由ではないか?と自分は思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんでしょう? 文学となると 日本では 昔から いわゆる《私小説》のような形態が 多いですね。 西欧では いわゆる宗教関係のものから おっしゃるように 《人間》の物語に形作られてきたのでしょうね。
 心理小説から始まり いわゆる市民社会のいろんな場面 いろんな人物を 取り上げて これを描いてきたと思われます。哲学思想の影響を受け 少年が 人間性に目覚めていくような教養を扱うものも 現われたでしょうか。
 故意に 次の話も入れますが やはり資本主義の進展に伴なって ひとりの人間の力では どうしようもない社会とそこにおける人生が 現実のものとなります。しかも 封建身分制を打ち破ったという限りでは 人は おのおの 自由になりました。自由であるのに 人ひとりの力では どうすることも出来ないという境遇の人びとが 多くなっていきます。
 そこからでしょうか。《夢・超現実・精神分析つまり 無意識》なる鍵概念が現われたのは。
 そして 現代においても この系譜を受け継いでおり たとえば春樹は――ユングのほうなのでしょうか いづれにしても―― 《超常現象》をしきりに好んで描き 大いなる無意識の領域を 探索しているというところでしょうか。アニメやマンガも そうなのでしょうか?

 村上春樹の作品は どれも 面白いです。読みはじめれば 最後まで 引っ張られて行きます。ただし わたしは 《ねじまき鳥》のところで その文学性に 見切りをつけました。人間とその関係について 何の思想もないと判断しました。結論づけました。無意識の海で ただ 泳いでいるだけであるという意味です。
 つまり 作者じしんが もう 人間性の探究を 放棄した。あからさまに放棄した。そう宣言したかたちを取ってしまった。――こういう評価をくだしました。娯楽としては 面白いです。
 たとえば デュマの《三銃士》は 春樹の文章と同じほど 面白いという魅力がありますが 言ってみれば ただのチャンバラ時代小説です。しかも たとえば友情が 主題として 採り出されます。《眠狂四郎》は 同じくチャンバラ小説ですが 主人公が 伴天連と日本人とから生まれたハーフとして 社会の中で 周縁に追いやられる境遇です。そして ニヒリストです。
 われらが・世界のハルキには 登場人物に 何の人間性も感じられません。無味乾燥です。どの作品も同じです。ただし 《ねじ巻き》以降は 《カフカの海(海辺?)》の下巻しか読んでいません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  多くの方々に読まれれば、それが何かの影響を及ぼすのですか?
 なら、少数の方に読まれるものは影響を及ぼさないと言えますか?
 ですから、その様な議論は無意味です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 今度は わたしが この箇所について意味が 分かりません。わたしは そんなことを言っていません。
 ☆☆ 公共の場
 ☆ と言ったのは 単なるなぐり書きとしてのご投稿なら 遠慮くださいと 言っただけです。

 ☆ 同じ《超現実性》であっても 《虫に変身して 家族や周りの者と どう接していくか》を描いたことと 《殺し合いをして 何度も死んで 生き返る》姿をとおして その人間を描くこととは どうも 違いがあるのではないか。こう言おうとしただけですが。

補足日時:2008/09/26 19:26
    • good
    • 0

brageloneさん、こんにちは。

お久しゅうです。

まず、質問に対するお答えと言うより、芸術至上主義に対する私的感想です。ご容赦下さい。

結論から申しますと、【芸術至上主義】は単なる自己満足に陥り、それに接した者が何らかの感情を抱くことは難しいと思います。

これは、感動でも嫌悪でもどちらもそうなのですが、「心を震わせる」ような作品には成り難いと思います。
まあ、作者がそういう事を無視しているのですから、当然の帰結ですし、また作者もそれを求めていないでしょう。

にも関わらず、彼らは「作品を発表」します。

何ででしょうね。

かつては、神や神話をモチーフに芸術活動が行われた時代がありました。

絵画が顕著な例ですが、音楽や彫刻もそうですね。

人間性を越えた存在に対する何物かに対して芸術が行われた時代は、芸術家にとって幸福だったのでしょう。

また、近代にはプロレタリアート芸術というジャンルがあります。主に絵画や小説が主です。

これらは、現在は全く評価されません。
しかし、製作者が本気で共産主義を信じ、労働者に対する愛情を持ち、貧困に満ちた社会を告発する「情念」にあふれていれば、それは見る者の心を揺さぶります。

この場合、政治的立場に同意するか否かは関係ありません。

どんなジャンルの芸術にせよ、「心を揺さぶられる作品」は見る価値があると思います。

現代は、神を信じる者も、イデオロギーに心酔する者もほとんどいません。

よってモチーフを失った芸術家が、「芸術至上主義」に走るのも無理からぬことかなと、そう思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ○ わざをき[業・技・態‐招き = 俳優]
 ☆ と言いますからね。神のわざを招く。・・・

 momonga14さん その節は ニーチェでしたね。アフォリズムだとか やり合いましたね。じつは アフォリズムを持ち出されて 簡潔にまとめたものになると 批判しづらくなると思っていたんですが。・・・

 今回も ご回答をありがとうございます。

 正統派 まとも ふつうの生活態度――これが なかなか 至難の業ですよね――。
 と認定されると思いますよ。

 他方で
 ★ にも関わらず、彼らは「作品を発表」します。
 ☆ このフレーズが 面白いと思いました。
 ということで 芸術も われらが井戸端会議で 練り上げて行かねばならないかもと いつも つねに 不遜なことを 思いつく今日この頃です。

 そう言えば また世界で勲章というニュースの見出しが 最近 北野武にありましたが どうなんですか。かれの短編小説《少年》などを読んだことがありますが。わるくはなかったんですけれど。ふつうの作品だったんですけれど。
 ただ その《あとがき》でしたか 自分で解説をしていたのでしたか 変なことを書いていました。けっきょく かれの思想は 適者生存 自然淘汰 弱肉強食であるようです。映画は 一本も 見たことがないです。
 草々にてですが。

お礼日時:2008/09/26 21:20

すみません。

 前回の回答ANO2にて、  最近「感性教育」とヤフーにて検索して知ることになった日本感性教育学会の 基礎的な論文として紹介したURLの論文についてなのですが、

その後検討しているうちに、 語句の意味合いの感性教育にとっての重要度を無視しているかのような並列なまとめ方の奥に、 基礎のフレキシブルな表現という観点があると考えてもなお、納得しがたい疑問とかも たくさん出てきましたし、これは、 日本感性教育学会についてもう少し全体を知ってから、直接にそちらの方に質問をし、そこで充分論議してからのみ、 ここで取り上げる形にすべきかと思いました。  

したがって、今回は、すでに「感性教育」と銘打ってのそういう名前の教育運動のようなものが始まっているという点だけ押さえておいて、 紹介しましたURLの論文については、一応却下しておきたいと思います。

その論文について、

>実験ないし体験の報告のほうが ピンと来て わかりやすいのだがと思いました。<との感想をいただきましたが、

其の事例報告が あまりにも少ない点も疑問ですよね。 これですと、今までの 音楽や図工、体育や自然観察等の中での学校教育の中ですでに行われて来た努力や成果がどのように検討されているのか、 またリトミックなどの昔から研究されていた感性教育との違いがどこまで明確に検討されているのかが、 よく解らないですよね。

ANO5のご回答者様の語られている 共産主義のレーニンによる実験が始まったばかりの頃には、 人形劇のすばらしい大家の方が、 ヨーロッパ中を旅した体験から 貧しい人達や戦争で苦しんでいる人達の映像を集めてすばらしい映画を編集したりしています。   人形劇で培った形象の考え方等を映画の世界に応用された方でもありました。  深く日常を観察すれば、あらゆるとことに「驚き」や「気づき」があるとして、 それを映像に収めた人としても有名です。

こんなすばらしい人達が、すでに命がけでの感性教育(そういう名前はなかったでしょうが、中身はこの観点からもすでにすばらしいものがあったのです。)の努力もされている歴史があります。  こうしたさまざまなジャンルでのすばらしい過去の努力はどのように学習しとらえ発展させてゆこうとしているのか?  そうした点が、もしかしたらまだ感性教育学会全体にても、しっかりとはまとまったものとなっていないのかもしれません。

いずれにしても、 そのあたりは、私の方から直接、いろいろと質問してからの話とさせていただくことにしました。



なお、これは余談なのかもしれませんが、

芸術という内容も解釈の世界も広すぎる話題を、おそらく質問者のbragelone様ご自身 まとを絞りきれない疑問として提出されてしまっているかと思います。

そのへんが、質問者、回答者ともども、 文のまとめがたい質疑となってしまっている原因なのかな(かな?ですが^^)と 思います。

bragelone様の文体は、たしかに独特のものがありますが、 “文体はそれに慣れるとその個性とその中身は、それによってこそ読み取りやすいものとなる”からこそ、 大切にされてきた文の構成の世界ですから、 それで(独特であるがゆえに)とっつきにくい人が出てきてしまうのだと思うのですが、 長所はのばし、短所は是正すべく、其の努力は必要であっても、 その独自性のある文体そのものをなくしてしまったら、 せっかくの味わいも消えてしまうと思います。     解りやすく という課題は、誰にとっても 文を書く者誰にとっても大きな課題ですし、いつも私自身も反省課題の内の一つにしていますが、 文体というものの性格も その考慮の内にあるべきところと思います。   

あくまで、今回の質疑が やりにくいのは、質問タイトルの「広さ」「大きさ」から来るものだと私は判断しています。

アニメの≪ナルト≫を ヤフーで検索してみましたら、 解説にて、ヨガのチャクラのあたりを 非現実的遊びの世界でおもしろおかしく扱っていました。 死んでは生き返る、という繰り返しも、別な場で登場してくるのでしょう。    でも、 この遊びふうシュールレアリスムですか、そこをたどっても、 ヨガのチャクラが実際には何であるのかとか、ヨガにては生死を越えたチャクラの進化によるアストラル体とかいう神秘の概念(実態でもあるというのですが?)が出てくるところ、その真偽を そのアニメからさぐるすべは無いはずです。という感想を持ちます。 チャクラは私には神秘的なものではなく生物の神経と関わる実態的なものを指しているとしか思えませんが、 そうした論議の世界へと入ってゆきたいのか?  このこと一つとっても質問趣旨が解りづらいもの、あるいは海のように広くてどこから船に乗り込めばいいのかが解りづらいものとなってしまっているかと思います。

そこで、私の場合は ごく普通に、そちらのコメントに従うという形から(私はすでに bragelone様の文体になれています。) その流れを受けて、 無学なりに、 

>昨今 資本至上主義とも言うべきマネーゲームが 大きな失敗に陥り
そのような貨幣論理の追求は ひととおりの限界に到ったとも言われます。ひととおり暴れまくったわけです。芸術表現に関しては いかがあい成っているでしょうか。ふと 関心が湧きました。<とあります。 

>この質問のきっかけ<となったあたりの質問から 的を絞って回答の筆をのばしていってみようかと思います。

それでよろしいでしょうか?



なお、スポーツと感性教育ということでも、もちろん、専門家として考えてください。 興味のある点とかありましたら、回答の筆をのばします。

この回答への補足

 あぁ arayata333さん ご回答をありがとうございます。きょうは 投稿がつらなりました。ありがたく うれしいものですね。

 と同時に おっしゃるように どうも 質問の焦点が絞り切れていなかったです。
 わたしの文章についても 吟味していただき 擁護していただき 何から何まで 準備はOKなのに どうも いまひとつのようです。

 現代の芸術についてならば 何でも取り上げてくださればよい という言い方が いけないでしょうか。
 ★ 〔資本主義のマネーゲームとその失敗という〕>この質問のきっかけ<となったあたりの質問から 
 ☆ も もちろん 歓迎です。
 あらためて 思ったのは 世間で話題になった作品 これを 批評していただくというのが 一つの行き方として よいかも知れません。
 これまで 挙げたのは 春樹・ばなな・カフカ ナルト エワ゛ンゲリオン ハリー・ポッター 千と千尋の神隠し デス・ノート 北野武でしょうか。

 感性教育も 芸術関係として よいでしょうし。これは 芸術哲学の中の感性論なのでしょうか。古くは 情操教育と言っていましたね。日本人形を飾っての情緒の涵養とも言っていました。
 (わたしは 教育にかんしましては 主体的に参加するというには 苦手です。単純に 性格です)。

 共産主義の歴史にお詳しいですね。いろんな意味で 貴重な遺産(?)になるでしょうね。

 文楽の人形遣いの方の《私の履歴書》を読んだことがありますが けっきょく 一口に人形と言っても その表情の表わし方 これに そうとう 研究を積んでいるということのようですね。
 ひょんなことから インド舞踊を見たことがあります。(日本でです)。日本の踊りとちがって 足を 絶えずと言っていいほど 素早く 動かしています。鈴をつけて鳴らしていたりで 趣きが異なりますが 何か 訴えるものがあったことを覚えています。
 
 芸術は 自己表現ですね。虚構をとおして 真実をつたえる。

 この質問は 一週間が経ちましたが おかげさまで 活気が出てきたみたいですね。

補足日時:2008/09/26 22:16
    • good
    • 0

>>単なるなぐり書きとしてのご投稿なら遠慮ください



 という言葉がありましたので、自分はこれで失礼します(別に怒ってるという分けではなく、感想程度の回答しか自分が出来ないからです)。

>>現代芸術における表現形式

 何度も言いますが、芸術に於いての形式という問題は、自分は問題にすべき事柄では無いと思っているので、やはり感想程度のものしか自分には書けないです。

 返事の内容に有りましたが、私小説の問題を始め、哲学的な背景、(キリスト教の影響に因る)全知視点に於いての表現方法等と色々と考察・理解をして行かなければ、此の問題は解決出来無いと思います(歴史を断片的に見た所で、其の事時代が分かるはずがないと自分は思います)。

 何故無問題と考えるのか、と言いますと。
単純な理由で、芸術の表現形式を知った処で、自分の生きる上で何にも影響を与えられるとは一切思わないからです。
知らないから、そういう事が言えるのかもしれませんけどね。
 
 要するに興味無い話しは、感想程度の思考しか出来無い。
又、時間も割いて遣れないのが自分です。
 という事で、御邪魔になると思いますので、失礼します。

 一つ指摘しますが、芸術形式の中には無数の「派」「種類」が存在しますので、其れを一つ一つ分けていかないと、貴方が求める回答に辿り着かないと思いますよ。
其れには多くの時間が必要です。
 自分は興味が無いので、其れには多くの時間を掛けたくない次第です。

この回答への補足

 point-8さん ご回答をありがとうございます。

 主観でいい と言うと たしかに 全くの感想だけを書き捨てるようになるおそれがあると思ったので 《なぐり書きは 遠慮してください》という趣旨で 《公共の場として》と言ったのでした。あなたの文章のことではありません。
 でも そういう意味と問題から 降りるとおっしゃるのでもないのですね。

 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 本題とは違いますが、「村上春樹」と書かれても、村上春樹の何の作品かで、受け取り方が変わるので、具体的な書籍名を書いて欲しいです。
 村上春樹の作品は数十冊しか読んだことがないですが(個人的に嫌いなので)、各々の作品で内容が大きく違います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と伺ったので 張り切って ハルキについて書いたのに 肩すかしですか。でも
 ★★ 本題とは違いますが
 ☆ になるのでしょうか。わたしは そうは思っていないのですが。

 ひとつ あとで 思ったのですが 柔道では やはり 一本を取るのが その精神だと思うのです。古賀稔彦のように 一本を取りに行ってこそ 試合になるでしょうし そのスポーツとしての言わば芸術性があると思うのです。そのような精神が 芸術一般にも あるかないかで 変わってくるのではないでしょうか。ですから
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何故無問題と考えるのか、と言いますと。
 単純な理由で、芸術の表現形式を知った処で、自分の生きる上で何にも影響を与えられるとは一切思わないからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ では必ずしもなく そうとも言えず 問題はあるでしょうし 作品に 一本 筋が通っていれば(――と言っても この表現が あいまいなのですが それでも 強引にでも――) 誰もが背負う《生きる》という宿題への答えを考えたというその中身があるのではないでしょうか。
 ダルタニャンは ただ栄誉を求めて 戦いに明け暮れるのですが 三銃士らとの友情は 並大抵のものではないものがあります。眠狂四郎は まったくのニヒリストですが それが 強きをくじき弱きを助けます。
 春樹について 嫌いであれば その理由が 哲学の問題になるということではないでしょうか。
 それに 社会にとって大きな話題になっている場合には それ相応に 批評をしておかないと その話題性だけによって 流されていくおそれが出て来ます。じつは わたしは そのことに甘んじていたわけなのですが。

 このように考えます。よろしかったら ご見解をご披露ください。

補足日時:2008/09/27 06:48
    • good
    • 0

ANO2、ANO6、のアラヤタ3(この方が簡単ですね^^、別に意味は無い名前ですので、書きやすく解りやすいほうがよさそうですので。

)です。

例によって、そちらの補足コメントに対応するところから書きます。 

上から順に 対応してゆきます。 

そうでないと たしかに回答しづらいです(^^)。

おそらくですが、 そちらの文は普段は知的に見つめられ醒めた形で捉えられた内容が 幅は広くても、きちっとコントロールされた文章構成になっていて、 それが起承転結の一文、一文をクリアーする形の文となりつつ、その上で幅のひろい重層のある全体の論議の豊かさにつながっていて、 それがbragelone様の文体の持ち味を高めているのですが、

それこそ、論理だけでは捉えられない世界、だからこそ、逆にどこへいってしまうか解らないその世界は ほんとうはより深い地点から、よりしかりした論理とともに歩むべき世界、 そこは専門家(私のことです。)の案(アドバイス)を聞いてみてください。

「芸術」という、海のような広がりをもった、そこから海のような価値を引き出しえる世界をけしてあなどらないでください。

商用文ではことさらに言われてることですが、人はいっぺんに二つ以上の起承転結、あるいは起転(テーマの転がし)を一つの文で扱うと 読み取りづらい(それでは商売にならない)という法則があります。

他の文、特に質疑の場においては、上にも少し書きましたが、重層的な豊かさを最初から求めての質問も、 知的に把握されたリーダー(議長のような役目の出来る人)が一人いるだけでも、すべてはOKで、成り立ちます。

でも、
>現代の芸術についてならば 何でも取り上げてくださればよい という言い方が いけないでしょうか。<

という言い方は、どこか芸術のひろさをあなどっていないですか?

仏陀の知的精神の広がりは エベレストのようであり、海のように広いと聞いていますが、  むしろ狭い(というと語弊がある言い方となるでしょうが続けます。)と捉えるべきところと思います。

その感性の深さ、あまりにも静寂な平安と、新鮮な心とかで、究極にまで突き詰められたもはや崩れることなき精神、  究極の狭き門、  

それは、逆に言えば 弱さのもはや無い世界です。 生物であるにもかかわらずです。  その愛情の広さならば、それはいきとしいける 全ての歴史の実在の私たちに及びかつ深いでしょうからそれを海と例える分にはどこもおかしくなんてないのですが、

そこまで安定してしまった人の記憶には、もはや、私たちの現実のあるべき姿はその記憶の世界に あまりにも過去の事となってしまうはずだということです。   例をあげれば、 そういう人達が怒りとはなんだかの実際を思い出せるとは思えません。 憎しみとはどんな感情だったかを思い出せないと思います。  あくまで偏在知である神とは別な 人間の究極であるはずだからです。  (キリストだって 偏在知ではないという意味では人間そのものです。 そうとしか私には考えられません。 ただ、キリストは偏在知である神について 簡単な言葉で説明し尽くしている方で、他にそういう方は知りませんし、 それ以上の人間です。  宗教論はここでは略しますが)

けして、広いわけではないという地点は bragelone様ならば、これだけで解ってくださるかと思い それにたいして、芸術こそ本来は、 なによりもなによりもなによりも 広い広い広い価値を内包した世界だ、という私の叫び(シャウト)を ここに知ってほしかったのです。

こんなことをこんなに手短に書くと 大勢の方から反発を受けると思いますが、bragelone様ならもしかしたら、解ると思い    ということなのですが、…。

「その究極の至福」の可能性についての道は 広いでしょうが、その模索が人間知の世界であった仏教の歴史については 誠実な人ならばむしろ懐疑の思索を向けるべきところ、 そのへんの姿勢がbragelone様と私の似てるところかもしれません。 でも その議論はここでは 追いかけません。

芸術の広さをあなどっていないですか?とか きびしい言い方もしましたが、それは これを書いている相手がbragelone様だからこその言い回しのつもりです。

現代の芸術 についての回答を私が専門家として(こだわりますが)書けないということではないです。

でも そうすると、そのためには、各表現ジャンルの全てに通じる芸術論の根幹の論議から書く必要も出てきますし、 >さしずめ これらの分野で<ということでならば、 具体的には 映像モンタージュ論(場面場面の組み合わせで 感情のひだにすら効果的表現の重みをつけくわえてゆく心的・技術的な 映像における表現効果論)から それこそ表現形式についてまでも扱ってゆくのが解りやすいところかと思います。

>さしずめ<という形で書いてくださった最初の形にそって そのへんは私の方からの専門的(解りやすい書き方を その分できるところとも思っています)回答をしてゆきたいと思っていますが、  そこから他のジャンルに派生する質疑に移っていってもいいかと思います。

広さ自体は むしろ豊かさを意味しますが、 広い海を航海するのではなくて そこに飛び込んでおぼれてしまうだけではしょうがないです。 私のほうからは、そうしたつまらない結果を生む回答は 専門家の責任上できないということです。



そのように断っておいて、 いざ、資本主義とシュールレアリスムのあたりに筆を伸ばす段となるわけですが、 そのまえに、ANO6へのbragelone様のコメントに添って すこしだけ、回答の筆を伸ばしておきます。

☆ 「感性教育」については、 私の頭の中では回答としてつながっていますが、一般的にはそちらの質問からそれてしまう内容となりかねない世界です。 「感性」ということにしぼり、 「表現形式」やモンタージュ論の続きのあたりに登場する形にしたいとおもいますが、 はっきり芸術にっての命の部分ですからこれを 抜かすことは私にはできないところです。
「教育」については 抜かしておきます。

☆ 共産主義の歴史自体については詳しくありません。 ですが、書きました人形劇の世界の大家(セルゲイ・オブラスーツォフ)のような レーニンの時代からスターリンの時代にかけて活躍した芸術家のすばらしい業績についてなら、知っていますということだけです。 ユーゴスラビアについても あるその地の女性シンガー・ソング・ライターの反戦歌から いろいろその地の問題をさぐるうちに知ったことです。 あくまで その面も無学ですが、 これは私たちの住んでいる社会の問題として、興味が無いわけではない世界です。 社会が変わらなければ、隣の人があまりにも苦しくて泣いていたとしても、もどうしようもなかったりするのですから。無学もなにも 哲学とか知恵とかのある人なら 必死に知りたいことと思うのです。

☆オブラスーツォフも 文楽については高く評価しています。 私も 日本人の肌感覚としぐさや表情ということで 興味はあります。 インド舞踊については、それころチャクラとの関係のあたりにも興味があったりします。 でも、そのへんは、いきなり深い世界になりすぎるのではないかとおもいますので、 こちらからは後回しにさせていただきます。

☆オブラスツォーフは、晩年映画にも 人形劇と同じぐらいの情熱で命を書けて取り組んだ人です。 へたすればスターリンから殺されかねないような内容まで扱っています。  二つの大きな主題のうち、ひとつはドキュメントの追求となっているのですが、 このチャップリンとかとも友達であったにわか映画監督?は、 そのドキュメントの構成にも大きな質的改革をしているのです。 ナレーションとの関係の理論はすばらしいものがあります。  ドキュメント自体は、自己表現ではないでしょうが、その構成の部分によって いかに真実をより深くはっきりと伝えゆけるかを考える時、 彼のその努力が歴史上途切れてしまっているように思われるところが気になります。   今のこの写真を含めた映像の時代にこそ、その続きとしての個人個人のその編集の進化の表現の世界が求められるところです。   それには まだまだ奥深い可能性の世界がひろがっています。 つまりその意味では、ドキュメントも広く考えるならまさに自己表現の世界でしょう。  そのとおりだと思います。


またまた、資本主義のあたりに筆をのばせませんでしたが、 それは次回の予定とさせていただき、 ひとまず、 こんな方向を考えて見ましたがということで 間をおきます。

この回答への補足

 arayata333さん――通しで こちらを使わせていただきます―― なるほど 手厳しいご指摘が 待っていましたか。何も 考えずに 《芸術一般》というような言葉を出した時点で アウトということのようですね。これは まいりました。ま そういうものです。素人とはです。
 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。たぶん ひとつには 作品じたいを見よ。こういうことかと存じます。横から 外から 遠目から 見ていて 何をぬかすか。こういうことだろうと理解しました。
 ううーん。一本。ということなんですが。それでは どうすればよいか。

 これも 素人の怖さ知らずの言述ですが こうも考えられますまいか。おもに小説についてですが 文学評論という分野が あります。すでに その価値を 一般的に 与えられていて それとして 大きく文学を成すとも捉えられます。(江藤淳は 作曲家の譜面としての作品と その演奏とに 小説作品とその評論とを たとえたことがあります)。
 こういう大きく広い表現形態のもとにおける住み分けのようなかたちは ないのでしょうか? つまり 芸術作品とその評論との関係についてですが? 
 あまり考えたことがないのに いま 類推して 思い浮かんだままを言ったのですが ぶつけてみます。音楽作品の場合は 明らかに 原作と同等に 《評論》の作業つまり その演奏のほうも 必要不可欠になっていますよね。
 これは ジャンルに従って 度合いが違ってくるでしょうか。
 1.音楽における作品とその演奏
 2.文学における作品とその評論
 3.~10がなくて
 11.アニメ・マンガ・TVドラマ・映画などにおいては 作品が ほぼ全部である。
 12.演劇・舞踊に到っては 作品が すべてである。
 * 歌は 歌詞が (2)あたりで 歌唱そのものが (12)なのでしょうね。

 ま 素人としましては この最後の《演劇・舞踊》を 質問趣旨の中で 例に挙げていなかったことが せめてもの怪我の功名だったでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 でも そうすると、そのためには、各表現ジャンルの全てに通じる芸術論の根幹の論議から書く必要も出てきますし、 >さしずめ これらの分野で<ということでならば、 具体的には 映像モンタージュ論(場面場面の組み合わせで 感情のひだにすら効果的表現の重みをつけくわえてゆく心的・技術的な 映像における表現効果論)から それこそ表現形式についてまでも扱ってゆくのが解りやすいところかと思います。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうして 延々とつづくということでしたら こうしましょう。
 文章にして 伝えてもよい範囲で どうしても このような質疑応答の場ででも 伝えておきたい基本的なことがら これを 披露していただけばよいのではないでしょうか。そんなものは ないのぢゃ!とも 言われかねませんが とりあえず お尋ねしてみます。

 * Sergej Obraszov につきましては 外国語の参考サイトが いくらかあるようです。人形のつくり(顔かたち)は やはり 日本とは違うように感じます。

 * 文章作法につきましては もし引け際のわるさを誇るならば まだ 《破格》という手法があります。これを理由にするという奥の手があります。arayata333さんも 一文が けっこう長いのですけれどね。改善をめざします。

補足日時:2008/09/27 14:28
    • good
    • 0

ANO8ですが、 ふと、この部分のへの対応を忘れてるのに後から気がつきました。

 質問者のbragelone様の方からの回答への方向付けを含んだ、その意味では重要な箇所です。

急ぎ、触れておきます。

>あらためて 思ったのは 世間で話題になった作品 これを 批評していただくというのが 一つの行き方として よいかも知れません。
 これまで 挙げたのは 春樹・ばなな・カフカ ナルト エワ゛ンゲリオン ハリー・ポッター 千と千尋の神隠し デス・ノート 北野武でしょうか。<

の部分についてです。

恥ずかしいですが、ここに例として掲げてくださった作品についても、私は、ハリー・ポッター以後に書かれてる4つの作品等しか知りませんし、それも、なんと名前は知ってるという程度 テレビでチラッと宣伝のような形のを見た程度という ところです。

それでも 4つ全部について、感想ならたくさんありますけどね。

読み物としてはおもしろいでしょうが、 はたしてタイトルの質問への回答となるかどうか?  でもそこからも内容を深めてゆけば それぞれ回答へと結びついてゆかないことはないと思いますが、 雑談から始めていいのであれば、 平行して、その4点にも筆をすすめていこうかとも思います。

でも、今のところは、わたしのほうからはANO8で書きました方針にそって話して行きたいと思います。 

こちらの方は専門家からとは言えそうに無いので、 OKウェブ上の形式には迷ってしまいますね(^^)。 一応ANO9は 「一般人」を選びました(--);。

それでは、しばし、間を置きます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 前回からのつづきとしてです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 なんと名前は知ってるという程度 テレビでチラッと宣伝のような形のを見た程度という ところです。

 それでも 〔ハリー・ポッター 千と千尋の神隠し デス・ノート 北野武の〕4つ全部について、感想ならたくさんありますけどね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 何か不可解なことをのたまわっておられると思いますが 市民の芸術という星のもとに 言っておくべきことを どうぞ 伝えてください。
 わたしは 千と千尋の神隠しについて 人生にかんする教訓が 込められている部分では こちらも 譲歩しておくべきかと思ったことを 覚えています。
 そう言えば アニメが 世界各国へ 進出していっていますね。世界の日本人化?

お礼日時:2008/09/27 15:36

すみません。

 文章を書く姿勢のあたりで、間違いを犯していました。

私は 人に何かを教える立場となった体験は 数から言えば少ないですし、最近はリアルな場ではほとんど無いです。 そのためか、たぶん雲の上から物を言ってるような書き方となってしまっていたと思います。

実際は 先生と生徒の差は、それを先に知っている生徒(生きる徒)とそれを伝え聞く生徒(生きる徒)の 同じ地に生きる同じ学ぶ立場、それを生かす立場の同じ「生きる徒」としての同じ人間同士の対話があるだけです。

それが基礎教育後の 私たちの教育の理想の在り方の世界であり哲学をおしえおそわるという事態であるという確認はしたばかりでした。

心の内は、けして高飛車なつもりはないのですが、そのように思えるような文章となっていたことはいなめません。

 例えば私は 踊り心の世界があることに気がつくまでは、 踊りというのはプロのとんでもないような努力の後に存在する自分とは縁のない「雲の上」の事と 思い込んでいました。 踊りについては聞く話聞く話、「同じしぐさを何万回やって 初めてほんのその所作の意味あいが解った程度」とかの話のたぐいばかり、 そのように思い込んでいる人達は山ほどいるかと思います。

そこを わたしは、そのことばかり考えて生きてきた人間ですから、逆にそれ以前の私の状態が普通(の市民の心の状態)であることをどこか忘れています。 一番きおつけるべき点だったと思います。 

神という相対を包み込むという意味でのbragelone様の言われる「絶対」のような存在、(私の考えの中では偏在知という形で人間の脳が絶対的に追いつけない知の世界をもった存在)が  わざわざキリストとなって(生物である弱い人間にまでなって)神がなんであるかを示されたというところにも信仰(非思考)の“ひれ伏すような心”を置く、 そのお心の前に はずかしいです。

まず、定義しなければならないのは、専門家という言葉についてです。

「プロとは、結果に対して責任を持つ人のことだ。」という定義を聞いたことがあります。 それにたいする信頼性がビジネスの信頼関係をささへているという感じの定義でしょう。  しかし、そのビジネスの世界では時間的に(その結果を出した後には、)お金が対価として支払われてしまえば 後々の結果は 信用さへうしなわない程度であれば何かの問題が起きてもうやむやでいいような そんな感じで動いているかと思います。

松下幸之助はそれは本当の商人道ではないよ。 ニーズの裏の庶民の幸せへの責任こそ、考え抜くべきだと 言った人だと思います。

が、それが(株)松下産業の現在に引き継がれる「結果を生んでいるか」と言えば そうともいえない世界も多々あるわけです。

結果うんぬんは、おそらくは 正確には神様でないのですから約束は出来ない世界だと思います。   

しかし松下幸之助は おそらく商人道の≪専門家≫である。

その分野の専門家とは、 その分野の本質にいたるまで知識を、他の多くの人よりも 先に知っている人のことであり、 その知識や知恵を人に伝える時に、その生徒の結果に対して「つよい伝える責任」を持つ人、その意志の強さの必要性を その関係に対して自覚してる人である。

結果自体を「プロ」の必然として要求されるという理論は、儲けのノルマ目標のようなものとして成り立つのかもしれませんが、 専門家という存在の自覚の世界は、結果への意志の強さ、その必要性の自覚が問われる世界である。

人の生涯に対して いわゆるプロよりもなお大きな責任を、その分野について持っている人のことでもある。

こんなふうに 上下関係一切無しに、私の専門家宣言を受け取っていただけると幸いです。

書き方を 急ぎ工夫しなおします。



>☆ こうして 延々とつづくということでしたら こうしましょう。<

大丈夫です。 延々と続くような論議をするつもりで書いてるのではありません。 そのへんどうか私という「専門家」を信頼してください。

>そんなものは ないのぢゃ!とも 言われかねませんが  ~  <

そんなことないです。  めちゃくちゃ伝えたいことがあって書いています。 それどころではないと思っています。 心臓が飛び出そうなぐらい書きたくて伝えたくて 伝えたくて伝えたくて書いてます。

その機会がここの場にあることを、どんなに感謝しても足りないぐらいの心を内側の持ってこれを書かせていただいています。

逆です。 大丈夫です。 どうか信頼してください。



今回は まずこの姿勢についての反省と 

でも「専門家」であることにこだわるしかない心の内側の責任上の葛藤と

そのような「私という専門家」に対する信頼を ともかく求め求めて 書かせていただきました。


◆なお、 予定(対話ですので未定でもあるわけですが)ですが、次はそちらが一番最後に書いてくださった

>そう言えば アニメが 世界各国へ 進出していっていますね。世界の日本人化?<
というふうにbragelone様特有の 重層的な幅のある質問の「見事な」振り方を 手がかりにさせていただき、

そこから それと絡めて資本主義のことについても(このへんは無学ゆえ質問もさせていただきながらとなりますが)「芸術」については筆を伸ばさせていただきます。

できれば どうか期待していてください。

宜しくお願い致します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 arayata333さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。
 何も問題ないですよ。こちらこそ あちこち 舌足らずだったと思う箇所があり 言わずじまいにさえなっています。おそらく気がつかないところでも そろそろ 気がゆるんで 言いたい放題になっているのではないかと思ったところです。
 なにしろ 世界で二番目に いぢ悪な男ではないでしょうか わたしは。(しょうもない冗談としての言い方です)。気をゆるせば どんどん 地が出てきてしまいはしないかと思います。ただし それは おもには 突っこみのときにだと思います。けっこう辛辣なと言いますか ずばりものを言う性格です。能天気で そういう性格なようなのです。
 なにしろ 宗教・教会が 間違っていると確信したなら ローマ教会を初めとして 一切の教会は 自己解体すべしと言う男です。
 どうぞ 末永くおつき合いのほどを こちらからも お願いしておきます。(二十一年九月の生まれだとは お伝えしましたか。一つか二つの差でしょうか)。

 * 《専門家》の資質として 一点添えるとすれば おそらく 《ど素人》の目あるいは心を持ちつづけていること ではないでしょうか。(けっこう 冴えていますか?)

 * 世界のアニメ化は 《オタク》の要素があるのか どの程度あるのか よく分からないので 触れ得ませんでした。そう言えば オタクとは 何ぞやについても ほとんど しっかりとは認識せずに来ています。《電車男》のテレビドラマは じつは 見ています。

 よろしくどうぞ。

お礼日時:2008/09/28 09:20
1  2  3  4 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!