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10年くらい前に独学でクンダリニーを覚醒させて、サハスラーラーチャクラを抜けさせることに成功しました。
その時には白い光が何度も頭上から降り注いできました。
そのすばらしい経験をまた体験したいと思い、その後何度もクンダリニーを上昇させてみたのですが、光の体験はなく頭に上ったクンダリニーはいつのまにか消えてしまっています。
クンダリニーの上昇による光が降り注ぐような体験は一生に一度しか味わえないものなのでしょうか?

A 回答 (8件)

 私も15年程昔自己流で瞑想してクンダリニーらしきものを覚醒させることができました


私の場合(おそらく)頭頂から出た時点で恐怖心にかられ肉体に戻る方向に意識を誘導し、肉体に戻りやめました。というのもその頭頂からでたのではないか?とされる状態では肉体感覚は”完全”になくなり、白色の光がメインですが、上のほうか周り?(あるいは自分の本体)が7色以上の光で満たされどう判断していいかわからなくなったためです(余談ですが濃密な強烈な光だけの世界で自他の区別無し)
肉体に戻るのに20分程かかり、それから半日くらいは意識が揺らいだり拡大したり突然何もない空間に光が見えたり、精神が落ち着くのにまる1日くらいかかったことを覚えています
それからというもの瞑想時の気のコントロールに癖がついてしまい瞑想するたびに尾てい骨からクンダリニーが覚醒するようになってしまいました、もちろんその後あっまた覚醒した!と気づくたびに瞑想を打ち切っています、でもそれは瞑想時のことで厳密には寝て夢うつつの時、脳天ぶち抜きが何回もおきました、全くもってそのての本に書いてある通りで思い知らされた気分です
長年これの制御方法を知ってる師を探していますがまだ見つかりません
質問に単純に答えればクンダリニーは一旦コツをつかめば、瞑想でいつでもまた覚醒させれるはずです、瞑想で気流の上下運動を呼吸と共にして、吸気の時気流を尾てい骨に集中すれば尻の後ろあたりに虫がいるような感触がはしりやがて切れかけの蛍光灯みたいな電気的な覚醒が起こってくるはずです、こうなった後はyuteybhkwさんもわかるはずですが・・・
私自身頭頂から抜けた後について知りたいところです
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 私も独学で気功を10年以上やってますが、すばらしい体験をすることもあります。



 ですが、それを再び体験したいと思ってもかなわないことが多いです。

 それと体験にも個性があってモノの本通りにやってもそのとおりにならない場合があります。

 私の場合クンダリニーは覚醒していると人には言われますが、尾てい骨から急激にエネルギーが

上ってゆく体験をしたことはありません。じわじわと快感が上ってゆく感じです。

 快楽だけが目的ならばタントラ「ドライオーガニズム」「エナジーオーガニズム」を検索して、

そのとおりすればある程度までの体験はできます。

 それ以上は食事制限や田舎に住む・人のために奉仕するなど日常生活から変えないと難しいですね。

参考URL:http://dryorgasm.info/methods/energy-orgasm.htm
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「ヨガ」の本の中にも、たしか独学でクンダリーニを覚醒させるのは危険だという表現があったと思いますが。

 そのへんは何か読まれたことはあるでしょうか?

私は最初、命にかかわるような意味での危険なのかなとおもいましたが、今ではたぶんですが、それは錯覚に等しい感覚を 大きな悟りと勘違いする世界への危険のことではないかと思っています。

わたしもヨガの動きと呼吸法の中で、頭上からジンジンと電波が注いでるようなそんな感覚を ある動き(ポーズ)で止まっているときに、何度か感じました。  白い光という感じもありました。

へえ、これが宇宙からの何かのエネルギーとつながってるのかなと最初は思いました。 たしかにとても心地よいすがすがしいしかし荘厳な感じもする何かでした。

でも、 私は この人生の中で あまりにもさまざまな地点で それ以上に豊かでたしかな精神の躍動や幸せの世界を知ってきました。

そちらの その感覚には、赤ちゃんがすやすやしてる時ほどの安らぎはありましたか?

これ以上詳しいそのへんの感覚の比較は書きませんが、ほんとうにサハスラーラが抜けるという体験は、もうその記憶だけでもいつ自分自身は死んでもいいぐらいのやすらかで満ち足りた世界だと思うのです。

それぞれの世界には、偽者の師とかもいるでしょうが、かならず本物と言えるような師もいるかと思います。

そのような師がいれば、 たしかにあなたは、私が体験した以上の何かの強烈な体験はしているのでしょうが、 やはり、それを越えた人生の無限の豊かさへのご指導をしてくださるかと思うのです。

なぜかと言うと、人間は生物であり弱い存在でもあるのですが、その感性の豊かな可能性の世界は無限だからです。 サハスラーラチャクラが抜けるということは、 その確実な直感とともに、 そこに人間の相対的能力を超えた評価の世界、どんな人間もその前には同じであり 無限に尊いのだという まさに魂への愛を垣間見る瞬間でもあるだという考えからなのです。

本物のヨガの師ならば その基本を知ってるはずだからです。

どうでしょうか、もし本物の師が見つからないのならば、 そこまでの体験をなされたyuteybhkwさんご自身が、 たとえどんな苦しみをも乗り越えて いつか「本物のヨガの師」となられる意志を持ってみてはどうでしょう。

私の人生からは サハスラーラチャクラが抜ける世界までは哲学できますが、次のアストラル体とかの神秘思想の世界は全く解りません。

あなたこそが、いつかヨガの修行の後、それを私たちに教えてください。

へんな回答となってしまいましたが、 61歳の老人からの感想のような感じのものなのですが…。

もし、ヨガとは別の地点からのこんな哲学にも興味がありましたら、さらに論議しましょう。
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1です。

こんばんは。
解釈ということは忘れて、
体が欲求するように、精神が欲求するように、
しかし同時に、体に問うこと、精神に問うこと、
その応答で体得していくものがあるのではないでしょうか。
果実も熟すれば落ちますし、落ちれば地に還ります。
あたたかな季節があり、激しい熱の季節があり、夜露の季節があり、眠りの季節があります。
四季にかぎらず、土地には土地のこれらのリズムがあります。
果実がその中に生命を循環させているのは、
それに逆らわず、応答しているからであって、志向するところがあるわけではない。
応答というのは、外側にある自己自身、果実なら果実それ自体の声、
というか、素直な魂とでもいったところに対するもので、
太陽や風の命令というわけでもなく、果実が自分で気づくことによる
小さな動きなのです。
、、、なのです、って書いても、実際なかなか難しいけれども。
体験された白い光が、太陽や風のような力の加わり方であるように思っていらっしゃるのではないかと感じられましたもので。
ヨガでは、季節を自分で作り出すことができるのですから、
応答力を十分に養って、健康であることが何よりの目標です。
わたしは行などとても続けられませんので、こんなところくらいしかわかりませんが。
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サマタ(禅定)体験をなさるくらいなら相当集中力があるのでは無いかと憶測します。



サマタ禅定体験なら体験後一時的に俗世的な欲や怒りなどはかなり減少したことでしょう。

体験に固執すると五蓋が生まれてしまうかもしれないので、気をつけてくださいね。

一度、慈悲の冥想やヴィパッサナーもやってみては如何でしょう。きっとすばらしい結果があると思いますよ。書籍に「現代人のための冥想法」などもあります。

参考になさってください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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考えられるのは、あれかなぁ と思うのですが、光ではなく星が降り注ぐ、天使の光臨と表現した人に、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン


って人がいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB% …

彼女の場合は修道女だったので、光の体験を神の光臨だと結びつけたようです。

http://homepage2.nifty.com/uoh/gakubu/z_bingen.htm

http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%86 …

タケシの番組で、予兆があったのに一過性のものだと放っておいたら、、、「くる~ きっとくる~ きっとくる~」ってねぇ。

もしあれだとしたら、側頭派てんかんを故意に起こしているわけで、てんかんを故意に起こせる人もいるくらいなので、コツがつかめれば、自由自在に光が降り注ぐ体験ができるようになると思えます。

ただ、、、部分的てんかんじゃないかと思いますし、部分的てんかんをした人が、後々神秘主義になったって話しは何度か耳にしましが、脳梗塞とか脳溢血とかくも膜下出血を起こして半身不随になったとか、聞いたことはない。
まあ 発作がひどければ、帰らぬ人になるので、どういう体験をしたか話せませんし、命を取り留めても、言語障害が残れば、どういう体験をした後こうなったか等話せませんが。
ヒルデガルドの場合、言葉でうまく表現できないので絵に残しましたが。



が、あまりいじらないほうがいいんじゃないかな・・・と個人的には思います。
ショートして回路が壊れちゃって、他の人がバナナと認識することを、神だと認識しちゃうと、ズレズレになり、会話が成立しなくなり、孤独のまま人生を終えちゃう可能性が。

まあ 自分は神と交信したものだと自認した人の人生が、孤独だとは決して言えませんし、本人は自分は選ばれた者だと優越感を持てるわけだし。
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 それはあります。


 だから更に行は続けなければ、また前と同じです。
 最初から、いえもっと難しくなっているところもあります。
 前のことが生かせることもあります。
 やはりamaguappaさんのご回答は貴重です。
 続けていても、確固とするまでは、日によってはだめなこともあります。だから、行が不要になるまでは、続けます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
勇気づけられました。
本当にありがとうございます。
今までは一度サハスラーラを抜けてしまえば、もう二度とは光の体験はできないのではないか、行も無意味ではないかという半信半疑のつらい状態でした。
もう一度あの降り注ぐ光につつまれる体験のために行を続けていく自信が湧いてきました。

お礼日時:2008/10/19 23:19

カトリックのシスターなどは無意識にしょっちゅう味わっているようですが。

。。
第七チャクラまで抜けた感覚をお持ちのあと、それをどのように外の世界に還元したのですか?
外に広げてまた取り入れるという循環に身を置かないと、クンダリニーの覚醒とは言えないのではないでしょうか。。。

精神的には、生命の充実感、慈愛、献身の自発、自然との共感、自己との深い和解、丹念に向上心を維持することなど、
肉体的には、仙骨に歪みの来ない生活態度、肩こりや眼精疲労を貯めない生活態度、一定の呼吸など、
やはり、体にも感謝の気持ちを持ちつつ体と外部を循環させるイメージによって
自分にとってベストなチャクラの状態を維持することが大事なのではないかと思います。
無理に第七チャクラまで開くよりも、体調を見つつセルフコントロールをもって
暴力的でないベストバランスで外部と自己に関わりを持たせる、ということに太極の意味があるのですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
一度きりの体験ではないのですね。
希望が湧いてきました。

外の世界に還元するというのは、よくわかりません。
外から取り入れて循環するというのは、自分が経験した光がそうなのではないかと思っていましたが、違うのでしょうか?
頭上から降り注ぐ光は、ずっと体内で動かしていたクンダリニーとは明らかに違う外からのエネルギーだと感じていたのですが、間違った解釈なのでしょうか?

お礼日時:2008/10/19 23:08

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