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こんにちは。


根拠の無い侮辱が不快なのは何故ですか?

根拠の無い侮辱――
たとえば、試合に勝った人が「俺の方が凄いんだ!」となるようなケースではなく、
試合もせずに「俺の方が凄いんだ!」となるようなケースのことです。
つまり「お前らよりも俺の方が凄いんだ!」と言わんばかりに威張った態度で歩くようなケースや、
謙虚な人を馬鹿にするようなケースです。

そのような侮辱的な言動は妄想に由来する言動、または妄想的な言動であることは言うまでもありませんし、
そんなものに心を乱す必要も無いように思うのですが、なぜか心の中に不快が生じます。

そのような状況において不快が生じるのは何故ですか?

また、心の状態によって不快の生じ方が異なりますが、
その辺りも詳しく教えて頂きたいです。

また、そのような不快を消し去るには、どうすれば良いですか?


以前、怒る理由について質問したのですが、『怒り』よりも『不快』の方が適切と考え、
また、質問ももう少し具体的にした方が良いと考え、もう一度質問させて頂きました。


宜しくお願い致します。

A 回答 (16件中1~10件)

いますね。

そういう人。
他の回答者さんのような理屈でなく、簡単に考えて見ますと、、、

無神経さに腹が立ちますね。
しかも、言っても通じない他者の言葉で自分を見つめ直すことが恐らく無いであろう人。
その絶対的バカさ加減に迷惑するのとパーなだけに本人は幸せなんでしょう。
だから、その幸せさに妬みも少し感じてしまうのかもしれません。

こういう風な質問て、早い段階では皮肉ったり、そう思う質問者こそどうよ?とされて、
中後期から質問文を尊重した回答が出始めるんですね。
手柄を急ぐ回答は気をつけようと思いました。
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 回答番号:No.14さんのご回答は練れたご思索ですね。


 示唆にとむお話です。“一寸の虫にも一分の魂”五分の魂ですね。
 侮辱と受け取るか、悪がきが何かいうとるわ、ととるか、いい教えだなとか、受け取る側の問題もありますしね。
 確かにいろんな人が、世界はヴァラエティで、受け取りも対応もお互い様々ですね。
 一概に侮辱ともいえない場合もあろうし、どうってこともないこともありましょうし。
 漱石も草枕で床屋の歪んだ鏡で同じ事を言っているみたいですね。
 まぁ侮辱は怒こりますよね。
 世の常として通り過ぎる以外にはないのでしょうかね。
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まともな(成熟した)人間の生きがいは自己の確立です。

自分を他人と違ったもの、少なくとも対等以上だと考えたい。これは(自己の)尊厳、あるいはプライドと言い換えてもいいでしょう。昔から言われる”一寸の虫にも一分の魂”という、たましい(心)のことです。
猿などは人間から侮辱されるとひどく怒ります。かなり高度な心があることを示しています。しかし人間は特別この念が大きいです。
他者からの根拠のない侮辱は自身のプライド(心)をひどく傷つけるのです。だからこそたまらなく不愉快になり、怒りを覚えるのでしょう。
侮られる根拠があっても、侮辱はそのひとを傷つけます。この場合、卑屈になるか、むらむらと反発の心が湧くか、どちらかで以後のそのひとの将来を分けます。私は、大は世の戦争や小は喧嘩、争いは殆どお互いの人間同士のプライドの衝突が原因だと考えています。
争って勝負を決める(絶滅させない限り)だけでは絶対収まらないのはこのためです。
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私見・散文ですが、回答致します。



人間の基本欲求として、好きと言われたい欲求は誰にでもあると思います。
逆も然りで嫌いとは言われたくありません。

では何故そうなるのでしょうか? 
好き=あなたの行為に合意します。
嫌い=あなたの行為に反対します。
と置き換えて見ていきましょう。

自分のやっている事に合意と言われれば、お礼に「ありがとう」と返して終わりですが、
「嫌い」と言われれば、自分としてはちゃんとした理由があってやっている事なのに、
何故反対を受けなければならないのか? という解析をせねばなりません。

また、自分個人が周囲社会に逆らった行為をしているのではないかという
不安を感じ、どちらが正しいのであるかという心理的葛藤を抱え込まねばなりません。

そうした日常から離れた心理上での作業を行うにあたり、
余計な作業をする事と自己矛盾による葛藤が不快なのであり、
防衛機制が怒りなのだと思います。
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 分かりました次元を歪まされて心理的に追い詰められる事に対する危機と不快感の発生ということだと思う、つまり全てまとめると心理的に追い詰められているから恐怖や怒りなどが沸いてくるわけですよ、なので侮辱する側は人の心理を歪ませるプロフェッショナルと捉えていいと思いますつまり次元を操作する能力の次元に立たされるわけですよ、なので根拠の無い侮辱が不快なんですよ、つまり次元を操作して心理的に追い詰めることはまともな存在は劣性であるんですよ、なので次元を操作して心理的に追い詰めるという次元を歪ませて心理的に追い詰めるという次元に関しては弱いんですよ、無論弱いのではなくそのような行為に罪悪感を感じるとかコントロールしているなど次元を歪ませて心理的に人を追い詰めて侮辱するという行為がし難いという意味です、そう考えると次元を歪ませて人を辱しめる人はまともではないといえると思います。

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>根拠の無い侮辱が不快なのは何故ですか?



根拠が無いということは不確実ということで、不確実なことは証明足りえないから。

>また、そのような不快を消し去るには、どうすれば良いですか?

根拠が無いにも拘らず「常識」を振りかざしたり、感情は循環論となり、ますます証明から遠のくのですが、それが自分の常識とは紛うものであっても、それも自分のだけの常識に基づく判断で、その確実性を証明しなければならなくなる。

「なぜそのような非常識と思える行為に至ったのか」は自分に非があって(のことも多いが)自分のせいで・・・を考えるより、「そうせざるを得ない、切羽詰った状況が相手にあったのだ」と「そんなに困ってない私は寧ろ幸せだ」と良心的に解釈して納得すればいいと思います。
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 《心が傷つく》ということについて 考えます。


 1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ありません。あり得ません。
 2. 外から来るその何かをめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分をあざむくやましさを持っていたときには それによって 傷つくということです。
 3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合 それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるという意味になります。
 4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになります。存在は 関係性より成っているからです。
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最後に書きますが、侮辱する側は優越感の代償です。


その代償で無抵抗な人をターゲットに人を侮辱するのです、そして人を侮辱した暁に優越感を得るのです、そのためには侮辱される側が恥でなければなりません、なので侮辱する側は侮辱されるターゲットの恥を暴露するような辱しめるような発言をするわけです、それで自分の心の奥底にある劣等の気持ちをチャラにしようとしているわけです、無論誰しも劣等性は持っていますが、それを他者を使って相対的に浮き上がらせようとすることはあまりしないものです、(そう思うことはあるけど)他者を辱しめなければ優越感を得れない人というのは心のどこかに問題を抱えているわけです、その問題を他者を辱しめ優越感を得ることで解消した気になっているわけです。
無論恥といのは辱しめる側にも理解できていなければならないのでその辱しめられるという恐怖や不快感は辱しめる側にも発生していると考えられます、つまり自分が辱しめられている感情を他者のものだと思い込んでいるわけです、つまり自分の心の要素を歪曲して切り離して他者のものだとしているわけです。
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なんか的を突いていないなと思ってありとあらゆる思考を使って考えてみたんですが、侮辱というのはNO6のように嫌な情報と結び付けられるというのと辱めさせられるというのがあると思うんですよ、その辱しめさせられている内容が実は侮辱をされる当人も世間一般的に見てあからさまにすると恥になるんではないだろうか?と真には思っているのではないだろうかと思うわけです、例えばいまこうして僕が書いているのは実は本を読みに行った後に考えて書いたんですが、もしその事実を今指摘されたら多少恥ずかしいかな?と一瞬思ったんですよ、それはある種本を読んでないように思わせたいという気持ちが僕にもあったのかもしれません、それが無意識のうちに「思いついたんですが」とかと書いているのでもしここで狂気めいた顔で「本読んだ?」と聞かれたらやっぱりズキ!とくる感じがあると思います、そこでなんでズキっときたのかといいますと言う側の狂気めいた顔と声と雰囲気に無意識が騙されて、少し優越になろうと思っていたことを見抜かれそこを侮辱されたからではないかと思うわけです、無論他にもこの質問の回答になるように模索したり何とか真髄を説明できないかという気持ちも含まれますが、そのなかで雰囲気的に少しぐらいは優越感味わってもいいか、という気持ちがあったんだと思います、しかしそれだけなら屈辱を感じる必要はないと思うんですよ、それなのにも関わらず屈辱を感じるということはやはり相手側に攻撃や潰す意図があるからなんですよ、人は人と絡むと感情移入する性質があります、その感情移入した時点で相手なにか獲物を噛みちぎって食べているかのような顔の表情をするので無意識が「やられた」と感じる訳です。

どうすればいいかというとそのことを気にせずに突き進んで行くしかないです。
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完璧に分かりました、人の心理は2つの部屋があって一つはふんだん表に題している自分もう一つは真の自分、そして真の自分は人から認められたいと思っている時であって、己の価値は下種同然という雰囲気を真の部屋が感受してその雰囲気が真の部屋のその時その時の核の部分を強固な圧力で圧迫する場合苦痛が発生するのだと思う。

なぜ僕がこの質問に膠着したのかというと僕も同じ目にあったからです。
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