プロが教えるわが家の防犯対策術!

質問タイトルうまく浮かびませんでしたが、教えてください。
興味があって、1939年以降くらいの日本の軍事関係の本をよく読みます。そのなかで後の連合国軍の常套手段となる艦船に対しての航空攻撃と、艦砲による陸上攻撃の有効性を証したのは日本軍であるということをいくつかの書籍で読んだ記憶があります。
 前者においては真珠湾攻撃とマレー沖海戦、後者のおいてはヘンダーソン飛行場への攻撃がその例として挙げられていました。
 そこで前者においての疑問があります。それまで世界の常識とされていた、航空機によって艦船攻撃しても有効ではないという根拠はどういうものだったのでしょうか。また、なぜ日本海軍はそれまでの常道を破る航空機による艦船攻撃で成果を出し得たのでしょうか。航空魚雷の発達によるものでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

戦力が同等なら高い所からの攻撃は有効でした。

戦国時代に**極楽 ++地獄 登る??は、しでの山(*は高い所の地名+は谷間の地名?は登り坂にある地名が入ります)という唄があり戦での教訓のようなものでした。
当然飛行機での攻撃は有効です。だが戦艦には有効でなっかたのかといいますと、飛行機の速度が遅く狙い打ちできた事、爆弾等を多く搭載できない事、航続時間が短いので攻撃地までの燃料の問題(船上から飛行機を飛ばす発想が無い)、飛行機が狙い撃ちされるので無理だと思い込んでいた事等によります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。おっしゃるとおり飛行機はまだ兵器としては黎明期にあったから、攻撃方法において欠陥が多かったのだと思いました。

お礼日時:2008/12/27 16:40

個人的な見解に過ぎませんが、日本が世界で初めて航空機による艦船攻撃の有効性を立証できたのは単なる偶然に過ぎず、海戦の主役が大型戦艦から空母と艦載機に交代したのは航空機の進化に伴う必然であったと思います。



太平洋戦争以前から、日本だけに限らず、世界各国の様々な人々が航空戦力の有効性を唱えていました。
しかし、過去の戦歴から大鑑巨砲神話を信じて疑わない人々も多く、特に海軍の上層部にそのような人々が多かったのが事実です。
(ちなみに、これは日本でも例外では無く、史上最大の戦艦となった大和型の建造はまさにその象徴と言えます。日本で航空戦力の有効性を唱えていたのは山本五十六を始めとしたごく少数派に過ぎなかったのですが、その熱意に動かされたようなものです。)

「航空機によって艦船攻撃しても有効ではないという根拠」は明確なものでは無く、あくまで過去の戦争で航空機が主力として活躍した事例が全く無いために、保守的な考えを曲げる事ができなかっただけだと思います。

海戦の主役が航空戦力に移り変わりつつある時代の中で、たまたま実戦においてその有効性を証明できたのが日本軍であっただけだと思います。

真珠湾攻撃はまだ不意打ちに過ぎず、ハワイ基地に停泊していた軍艦は戦闘態勢が整っていない状況で撃沈されたため、大鑑巨砲神話を打ち崩すほどのインパクトはありませんでした。
しかし、当時イギリスの最新鋭戦艦で「絶対に沈まない」とさえ豪語されていたプリンス・オブ・ウェールズと随伴する巡洋戦艦レパルスが航空機のみに撃沈されたエピソードによって、文字通り大鑑巨砲神話が音を立てて崩れ去りました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。日本軍は航空攻撃で大きな成果を収めていたわりに、艦隊決戦思想を捨てきれず、最後まで敵の艦隊を求めて作戦していたというのがちぐはぐな感じがしますね。新しい戦術の有効性を偶然にも立証しつつも、活用しきれなかったのは日本らしい気さえします。

お礼日時:2008/12/28 10:38

戦前、アメリカ陸軍の航空至上主義者だったウィリアム・ミッチェルが廃棄処分になる戦艦を爆撃実験して沈めることに成功しました。

ミッチェルはこれをもって「いつか戦艦も航空機に沈められる時代が来る」と予言しましたが、世界中の多くの軍人からは冷ややかな目で見られました。
なぜなら、それは静止目標である状態の戦艦に対するもので、しかも実験はかなり無理して沈めたものだったのです。通常戦争では当然艦船は回避運動をしますから、その状態にある戦艦を沈めることは不可能と考えられていました。

そもそも、当時の艦上航空機すなわち急降下爆撃機が搭載する爆弾では戦艦に対して有効な打撃は与えられませんでした。また魚雷はどこから来るかわかりやすいのでなかなか当てるのが困難です。そもそも戦艦は魚雷が1本か2本当たったところで簡単に沈むものではありません。あの戦艦武蔵はフィリピン海戦でのべ20本近い魚雷を当てられています。
ですから常識的に考えても「航空機に戦艦は沈められない」のです。実際問題、第二次大戦を通じて航空機「のみ」で「作戦行動中」に沈められた戦艦は、P・O・ウェールズ、レパルス、武蔵、大和のみです。英海軍の2艦は開戦当初で航空機に対する認識が甘かった影響があるでしょうし、日本海軍のほうに至っては「象も蟻の大群に倒される」状態であったといえます。

真珠湾においては、米海軍も全く油断していた理由があります。港湾である真珠湾では水深が浅く、通常魚雷を投下すると魚雷が底に当たってしまうのです。日本海軍は魚雷に工夫をして浅い真珠湾でも魚雷が底に当たらないようにしたため(日本人らしいエピソードですね)真珠湾でも魚雷が効果を発揮できたのです。

その真珠湾のきっかけになったのは英海軍によって行われたタラント奇襲作戦です。これによって伊海軍の戦艦が大破着底したことを受けて真珠湾への奇襲作戦を実行することになりました。しかしたった1隻の空母から行われたタラント奇襲と違って日本海軍の主力空母を全て注ぎ込んでの奇襲なんてはっきりいって正気の沙汰とは思えず(奇襲の原則は少数精鋭で行われること)生前「俺ァ海軍辞めたらモナコに行ってバクチ打ちになるんだ」というほどのバクチ好きだった山本五十六らしいハイリスク作戦だったといえるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>なぜなら、それは静止目標である状態の戦艦に対するもので、しかも実験はかなり無理して沈めたものだったのです。通常戦争では当然艦船は回避運動をしますから、その状態にある戦艦を沈めることは不可能と考えられていました。

なるほどと思いました。確かに回避運動を行っている艦船への航空攻撃はあまり有効ではないのでしょう。真珠湾は鹿児島で散々訓練してきた練度の高いパイロットからさせたらあの成果は必然であったと言えるのかも知れません。逆にアメリカは物量に物を言わせて日本に1つだけだった空母機動部隊を複数編成することで、制海権を得たのですね。山本もダメになったからラバウルまで視察に行ったのでしょうか。バクチ打ちだけに十に一の勝ち目がなくなったと思った時点で全部ほっぽり出したのかも知れませんね。

お礼日時:2008/12/28 10:52

軍事における戦術革新は、せっぱ詰まらないと出てこない。


理論だ試技だでは、なかなか受け入れられることはない。
戦場で証明されたというのが、一番効きます。
この前のイラク戦争でも、新方式を推進したのは、文民であるラムズフェルドだったり、第二次世界大戦での電撃戦を進めたのも、伍長あがりのヒトラーです。プロになればなるほど証明された戦術に固執します。

では、日本軍が航空攻撃で先鞭を付けたのはなぜか?
大きな背景としては、対英米艦艇制限により、砲撃戦で絶対的な劣位が明確になったこと。このために、山本五十六は航空戦力の研究を始めました。
さらには、アメリカが1941年までは実戦をしていなかったのに対して、日本はその前から実戦をしていた。戦略爆撃の先鞭とも言われている錦州爆撃は、実に1931年。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。プロになるほど証明された戦術に固執するというのはあるのかもしれません。しかし真珠湾においては第1航空艦隊の司令に水雷屋の南雲中将を据えるといったあたり山本の意図は分かりにくいですね。航空の可能性を見出してその戦術を検討したのに、実行部隊の長に航空に疎い人物を据えては画竜点睛を欠くの言葉どおりですね。

お礼日時:2008/12/28 17:53

>それまで世界の常識とされていた、航空機によって艦船攻撃しても


>有効ではないという根拠はどういうものだったのでしょうか。

敢えて申し上げますが、そのような「常識」はありませんでした。
太平洋戦争の10年前の軍事書籍でも航空機が軍艦に重大な打撃を与えうる事は当然とされています(参考文献:光人社「日米もし戦わば―戦前戦中の「戦争論」を読む)。
また航空機による艦船攻撃は第二次大戦でも英海軍が先んじており(例えば1940年11月のタラント空襲)、真珠湾攻撃の前でも米海軍は11隻ものエセックス級空母の建造を決定しています。
真珠湾攻撃が世界に先んじていたと言えるのは空母6隻の集中運用(英海軍は基本的に分散して運用していました。これは同等の空母が欧州には存在しなかったからです)であって、艦船攻撃ではありません。

この回答への補足

タラント空襲WIKIで見ました。全く知りませんでした。貴重なご回答であったと思います。ありがとうございました。

補足日時:2008/12/28 20:17
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>敢えて申し上げますが、そのような「常識」はありませんでした。
ご指摘ありがとうございます。そうであればどこでそう思いこんだのか、完全に思い違いをしておったようです。

空母の集中運用についてはおっしゃるとおりなのでしょう。機動部隊の司令が山本だったら、と考えてしまいます。

お礼日時:2008/12/28 18:05

真珠湾は水深が浅いので、従来の航空魚雷では攻略不可でした。


航空魚雷は投下後10m付近まで深度を下げてしまいます。

どうしても深度の下がらない魚雷が必要でした。

日本化軍は同じような水深の鹿児島湾で実験を開始し、
九一式航空魚雷改を完成させます。
更に高速度、超低空からの投下と言う猛訓練を行います。

当時の米軍雷撃機は日本軍のそれに比してお粗末な物でした。
航続距離700km(攻撃半径2~300km程度)
搭載魚雷500kg程度でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/TBD_(%E8%88%AA%E7%A …

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%B8%83% …

真珠湾で沈んだ
オクラホマを例に取れば、12.7ミリ機銃8門。
アリゾナはこれに28ミリ対空砲8門が追加されている程度です。

雷撃機は戦艦に致命傷を与えられない戦力である
と判断していたと思います。
また、湾内に逃げ込めば航空機の援護もあり、
爆弾による消耗を防げばどうにでもなると言う作戦だったと思います。(実際は標的になるだけ。)

洋上の決戦兵器は戦艦である。
と言う意見を持つ者も多かったと思います。

真珠湾が攻撃されるまで、
800kg爆弾や800kgの魚雷など搭載して
航空機が長距離を攻撃出来るとは
夢にも思ってはいなかったと思います。

爆撃による兵器の消耗には敏感だったと思いますが、
航空機が決戦兵器になると思っていなかったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。第1次大戦で複葉機から爆撃手?が手で爆弾を目標に投下する映像を見たことがありますが、その時代から考えれば一定に進歩しているとは言え、まさか航空機がフネにのって爆弾かかえてやってくるとは想像できないことですね。戦争は技術を進歩させるというのをあらためて実感します。

お礼日時:2008/12/31 12:18

>それまで世界の常識とされていた、航空機によって艦船攻撃しても有効ではないという根拠はどういうものだったのでしょうか。



1939~1941年までに
英空軍が独伊海軍に与えた損害。
独伊空軍が英海軍艦艇に与えた損害。

これらを一切無視するならば、「それまで航空機によって艦船攻撃しても有効でない」という結論に至るでしょう。

沈没艦のみ見るならば大したことないかもしれませんが、損傷艦などを見るとかなり印象が変わるかと思われます。
航空攻撃による損害で作戦を断念せざる終えなくなった艦艇は存在します。

英独伊(日米含む)海軍は敵航空機の存在をかなりの脅威、艦載対空兵器では到底防ぎきれない攻撃、と見ているのです。
もち、1939年以前から。
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ご質問については、下記の本



「パールハーバーの真実 技術戦争としての日米海戦」PHP文庫
兵頭二十八/著
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31624972

を精読されると概ね疑問が解けると思います。
非常に深い話ですので、とてもここでは説明し切れません。

なお、上記の本では
「前の晩から準備していないと、雷撃機を編隊で出撃させることは難しい」
「閉鎖型格納庫の日本空母での、艦攻の爆弾<->魚雷の換装は困難を極めた。詳細については最早分からないことも多い」
「魚雷というのは現在の価格で一本が約2億円程度であり、非常に高価であった。よって、艦攻に魚雷を積んで出撃させるという判断は指揮官にとって容易ではなかった。敵を攻撃できなかった場合、着艦前に魚雷を海上に捨てなければならないため」
「日本の空母は、規定より少ない数の魚雷しか積んでいなかったらしい。高価で製造が難しい魚雷の調達が間に合わなかったためか」
「艦載機の空冷エンジンは、2週間も放置しておくとサビて使えなくなってしまうものだった。なので、ハワイに向かう南雲部隊の空母では、飛行機のエンジンを順番に試運転してそれを防いだようだ」
「魚雷も、一定の頻度で入念な整備を行わなければ使えないものであった」
など興味深い話が満載です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。紹介していただいた本、かなり興味をそそられました。特に魚雷が一発2億円でありそれが指揮官の判断に影響を与えていたという経済面での視点は目からウロコです。この本はぜひ購入したいと思います!

お礼日時:2008/12/31 12:44

漫談です。



実は、航空機のみの攻撃で沈んだ戦艦は、パールハーバーで浮揚をあきらめた船のほかは、POW、レパルス、武蔵、大和、だけなんです。ジャジメント作戦のイタリア戦艦や、カタパルト作戦の時のフランス艦も、航空機のみで沈みはしなかったのです。ティルピッツも、Xクラフト使っています。戦艦はそれほどに固いのです。

艦砲射撃も、さかのぼればデ・ロイテルが英欄戦争の時にテムズ川さかのぼってロンドンと港湾施設撃ちまくっているので、大砲を十分に積んだ軍艦が陸を撃つことは有効だ、とみな知っていました。日露戦争の日露海軍、一次世界大戦の英独海軍もやっています。
一方軍艦に対する爆撃は、一次大戦でロシアの戦艦・スラヴァが(日本海開戦にでてきたボロジノ級の4番艦。スウォーロフがそう)世界初の「航空機からの爆弾命中」という記録をもっていますし、雷撃は英国海軍がトルコの商船に魚雷あてて沈めています。やることは、一応やっていたのです。

航空機による艦船攻撃が有効ではない、という考えの根底には、「航空機の攻撃は常に初弾である」という言葉の理解が必要です。

近代軍艦(ドレッドノート以降)が、敵艦を砲で攻撃する時は、まずねらって発射して、外れた位置を観測して、徐々に「あたるように直していき敵艦に対する命中を期待する」ことを行います。つまり、最初の一発は外れて当然だったわけです。航空機が攻撃しても、その攻撃は一回だけだし、修正もできないから(航空機で運んだ爆弾・魚雷の)命中は期待してもムダ、だという考えでした。

これが覆ったのは日本海軍が96陸攻作った時でして、なんでのろい双発機作ったんだ、と言われたのですが、飛行機にしてみれば軍艦なんてとまっているようなもので、実際演習をやったら、軍艦の対空砲火はまったくあたらず、逆に飛行機は「狙いをつけながらせまってきて、攻撃する」ことにより、長門、山城、魚雷10数本命中轟沈、扶桑4発命中辛うじて浮いているが戦闘能力喪失、という結果になりました(練習魚雷の弾頭には電機がついていて、審判が船にのっていて数えます)。

そこで、戦艦を量産できない貧乏国日本が、航空機でやろう、と思いついたのです。で、やるなら空母を集中して一気に殴ろうよ。こうして第一航空艦隊が、世界初の空母中心の機動部隊(といっても、実際は航空打撃艦隊)ができました。飛行機の着艦誘導装置などは、日本は世界一の装備を開発していました。翔鶴の機関馬力は大和より大きいです。

それがいかに働いて、いかに滅びたかはいうまでもないでしょう。

漫談は以上です。ネタになれば。
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「航空機だけで戦艦は沈められない」



艦載機で魚雷を搭載して軍事作戦ができるほど
航空機のレベルが上がったことが要因の一つだと思います。

空母が本格的に作られるようになったのが1920年代だったと思います。
空母に搭載できるようなコンパクトな機体で
雷撃機を作るとなると技術的に難しかったのではないでしょうか?
それと空母の場合、誰でも発着艦できる訳ではないですし、
夜間の発着艦は非常に困難であったと思います。
(多分、夜間は行なっていなかったと思いますが自信ないです…)
飛行機は工場で作るのは容易でしょうが、
パイロットの養成は、工業製品ではないので簡単ではないですね。

開戦当初は対空砲火をあまり重要視していなかったし、
上空を戦闘機が守っていなかったため、
攻撃機のみで勝ってしまいました。

しかし、当然のごとく対応策を講じるわけで
対空砲火を強化し、攻撃機に対する備えとして
戦闘機に上空を守らせました。
そして、攻撃機を護衛する為に戦闘機を配備するという
非常に大規模な戦闘になっていきましたね。
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