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善悪を徹底的に探究(哲学)する時、直ぐに善行悪行にすり替えてしまうのは、間違いではないかと気付きました。

善なる者である時、善行だけしていて、悪なる者である時、悪行だけしている?こんな単純モデルで充分理解しているとは、思えません。

「悪意の在る善行」、「善意の在る悪行」もあるかもしれないと思うわけです。何か分かりやすい例示があれば、教えてください。

A 回答 (14件中1~10件)

すみません、編集途中で送信してしまいました。



悪意のある善行:鼠小僧(実在人物)の場合

 鼠小僧次郎吉が【博打の遊び金欲しさに】商家から盗んだ千両箱を中身の金が重たいので
 屋根伝いに逃げる際に中身の小判を(自分の必要分以外を)ばら撒いて逃げた為に
 通り道の住民に臨時収入があった。
 この場合、住民にとって次郎吉の行為は善行だが、行為の動機は悪意。


善意のある悪行:鼠小僧(講談:フィクション)の場合

 鼠小僧次郎吉が【住民に施しを与える為に】商家から千両箱を盗み
 屋根伝いに逃げる際に中身の小判をばら撒いて逃げた為に
 通り道の住民に臨時収入があった。
 この場合、行為自体は悪行だが、動機は善意。
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この回答へのお礼

早速、ご回答いただきまして、ありがとうございました。
なるほど。面白い例示だと思いました。

「善行のばら撒き(施し)行為」と「悪行の窃盗行為」において、

悪意たる「善行のばら撒き(施し)行為」は、盗品軽量化目的の自己保身でもあり、また、気まぐれな弱者救済で不労所得を期待させてしまっては、結果的に逆効果かなと思いました。

また、善意たる「悪行の窃盗行為」は、商家の不当利得糾弾、幕府重臣の場合は、贈収賄糾弾の勧善懲悪的な面も支持されたのでしょうし、手段は悪いが、目的は良いという例なのでしょうね。

しかし、同じばら撒きでも、定額給付金ほど不人気な政策はなく、大義どころか、史上最大の選挙買収という悪意が前面に出ていて、悪意のある善行だと連想しちゃいました。まあ、野党が宣伝してたのは、悪意の面だけで善行だとは言っていませんでしたが・・・。でも、くれるのなら貰っておきますよ。庶民ですから。

お礼日時:2009/01/02 15:57

善悪はたくさんある『物差し』の一つですね。


お察しのとおり善悪という二元論で世界を理解することは無理ですね。
物差しが無くても行為そのものは存在しますので善悪の判断は必ずしも必要ではないと思います。

私個人としては善悪という物差しを使わずにその行為が正しいものかどうかを判断する必要があると思います。
但し、正しい=善とはならないように注意しないといけないですね。
人はとかく行為(例えば殺人)に対して善悪をつけたがりますが行為そのものには善悪は無いです。
行為は物理現象ですからそれに善悪をつけるのは地球の公転に対して善悪をつけるのと同じじゃないでしょうか。
だから正しい行為というものはありません。

まずは善悪とは何かという話にけりをつけないと行為の評価方法としての善悪に振り回されることになりますね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
全く賛成です。
善悪判断は恣意的であり、その意味で基本的には独善なのだと思います。
ですから、絶対的、普遍的な善とか悪はなく、素朴な二元論では幼稚だとshift-2007さんも考えておられるし、僕もそう思います。

そして、これにて締め切ります。
皆様、ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/05 06:25

A No3です。



確かに私の発想は独善以外の何者でもないと思います。
そして『独善』という言葉すら、『偽善』や『悪行』あるいは
『悪意の在る善行』『善意の在る悪行』と全く同質のものです。

つまり行為者以外の他者からの評価上にしか存在し得ない言葉なのです。
もちろん『俺の行為は独善だけど、あえて~をやるよ』という
使われ方ならばありえますが、これを正確に言い換えるならば
「(一般的に見れば)俺の行為は独善だけれども~」という意味でしか
ありません。そこに本人の真意は無いのです。









やりたいことをせよ、というのは常に反社会的行動を取れ
という意味では無いです。そういった明らかな社会悪=社会の視線からの悪は、
現代においては法によって断罪されますよね。







つまり「道徳的であれ。」というこの強制命令はすでに道徳ではないのです。





世間や宗教がいくら道徳的であると賛美する行為であっても
その効果には意図しないものが介在し、あるいは元の基準があやふやなため
"社会を円滑にする"とは真逆の効果をもたらすことがあるのです。

質問者さんは給付金の例を挙げておられますが、この効果についても
私はある足かせ(つまり財源を将来の増税とした点)のみを解消できれば
効果があると考えています。
このあたりを政治学・経済学の範疇になりますので、ここで論ずるつもりは
ありません。ただし、私の道徳的基準においては、この給付金も許容の範囲
であり、質問者さんとの基準とは明確に逆の立場であるわけです。
このとき道徳的であれ、という命令は効力を失います。
なぜなら世界には異なる基準が存在するのですから。





その上で。
例えばあなたが電車で席を譲りたくなったならば、周りからいくら
好奇の目で見られ偽善と蔑まれようと、自らの独善を貫くべきであるという意味です。
世には他者を「偽善」「独善」「行為悪」と分類する人が居るかもしれませんが
そういった人々に対し、私はなんら恥じ入る必要すらないと考えています。







なぜなら私は独善的なのですから。












題意からかなり離れるかもしれませんが、
せっかく回答いただきましたので政治についてです。
政治家に必要なものこそ、その「独善」です。
議会制民主主義においては、完璧な個人が完全な
善政を敷く必要は実は全くありません。


政治家は「独善」により主張を行う。
有権者はその「独善」の正当性の評価を行い、
有効な政策と判断すればその政治家に投票を行う。
すなわち、政治家は単なる選択肢で良いのです。
昨今、この独善は「政策」と呼ばれます。



もし、完璧な個人であれ、神の地上の代行者たれ。
という漠然とした要望のみを民衆の側が為政者に求めるのであれば、
それはすでに民主主義ですらなく王政以外の何者でもありません。

選挙とは政策・理念に対しての選択であって
個人への全権付託、言い換えれば単なる人気投票であっては
ならないのです。過ちを認めて、従来の方針を180°転換させる
という必要すらないのです。なぜならば、代わりはいくらでもいるのですから。
誤った指導者に方針を転換を転換させ継続させる必要性は全くありません。
もしあなたが為政者誤りを感じたのならば、従来から反対の主張をしていた
人間に国政を任せれば良いでしょう。


個人の能力に頼らない。それこそが民主主義と考えます。
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございました。
全く反論ありません。
やはり、独善だったのですね。
納得しました。

お礼日時:2009/01/05 06:17

聖書の中では、まさに人類の最初人間アダムに神が命じられた善悪について書かれています。



*** 聖8‐参 創世記 2:15‐17 ***
それからエホバ神は人を取ってエデンの園に住ませ,それを耕させ,またその世話をさせた。16 また,エホバ神は人に命令を与えてこう言われた。「園のすべての木から,あなたは満ち足りるまで食べてよい。17 しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」。

哲学に関しては、用心すべきものとしてパウロは以下のように書いています。

*** 聖8‐参 コロサイ人への手紙 2:8 ***
気をつけなさい。もしかすると,人間の伝統にしたがい,また世の基礎的な事柄にしたがってキリストにしたがわない哲学やむなしい欺きにより,あなた方をえじきとして連れ去る者がいるかもしれません。

聖書は哲学を人間の愚かな知恵として扱っていて、本来は宇宙の創造者であり、人間を造られた神が善悪についても基準を設けて判断されることを教えています。

加えて、だれが善い者なのかについて、イエスはこう言われました。
*** 聖8‐参 マルコによる書 10:17‐18 ***
[イエス]が出かけようとしておられると,ある人が走り寄って来てその前にひざまずき,こう質問した。「善い師よ,永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」。18 イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。」

聖書によれば、アダム以来行われてきたことですが、善悪の判断基準を人間が決めようと試みること自体が不可能であり、そもそも間違っているようです。

この回答への補足

これこそ、独善的な善意の悪行の例示です。
思考停止(信仰)の推奨は、余計なお世話なのです。
一種の思想テロでしょう。
テロは排除します。

補足日時:2009/01/05 06:25
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この回答へのお礼

>善悪の判断基準を人間が決めようと試みること自体が不可能であり、そもそも間違っているようです。

人は、善悪が分かるから、その積み重ねで、判断基準を一部推定できていると思いますよ。そのような善悪も分からないようでは、おそらく人間失格です。もちろん、善悪を超越したり、判別不可能なこともありますから、何でも判断できるという状況にはありませんけどね。

それと、ここは哲学カテなので、思考停止のすすめは止めてくださいね。
哲学は、カント風に言えば徹底的な「批判」であり、ウィットゲンシュタイン風に言えば徹底的な「探究」です。
哲学妨害は、破壊工作員と同じですから、次回から排除します。
以上、忠告します。

お礼日時:2009/01/04 18:33

qsxdrfvgyhさんは 《真心の善の世界》と《道徳の善の世界》を 一度 区分したことはありますか?



そのようにして “真心とは何か”を明確にしておかないと、実は“道徳の価値の根拠”も不明確となってしまうということを考えたことはありますか?

まず、真心とはということを明確にしていってみることが大切と思われ そこから回答を試みてみます。

一般的にも言えることと思いますが、 通常の楽しい体験とか 一方での苦しい体験とかには、  楽しいからそれを他の人にも分かち合いたい という気持ちとか、 こんな苦しいことは誰もがして欲しくないとか同じ苦しんでいる人をなんとか助けたい気持ちに すぐつながるとは言えません。

それどころか その逆の心も生まれてしまう時があります。 楽しいことは独り占めにし、 苦しいことは 人もその苦しみに引きずり込みたいという心、冷たい無慈悲な心を生んでしまうときもあるということです。

はっきり言って そのような苦楽の生み出す心は 差し引きゼロとも言えてしまう世界であり、  真心の地点は 動かなかったりします。

針が動くのは、感動の積み重なりの世界からとも言えます。

あるいは 大人の通常の楽しみには、子供が大自然と触れ合う時のような新鮮な気持ちが失われていて ストレス発散のように時間がむしろ短く感じられるような楽しみの世界であり、  ほんとうに豊かな充実した時間として感じることができなかったりするのですが、  その素朴な子供達の充実した心のような世界も 真心の針を 動かします。

では、ここでかりに真心の針が 差し引きゼロの状態を仮に便宜上設定して  道徳の世界を眺めてみてください。



すると見えてくるのが 嘘の善?の世界です。 自己の保存とか自己資産の守り、とかともかく自分のためのビジネス上、社交上の信用のためにのみ道徳があるというような そんな心もそこに存在しえることが解かってきます。

秩序を自ら訴えるかもしれません。 しかし それは自らの権威づけのためであるだけかもしれません。 そして権力が確定し安定したら もう小さな秩序の方はどうでもよくなるかもしれません。   法を破っても権力に守られるならば 何をしでかすか解からないような人たちのことです。

権力という小さなそして満たされることのないそれなりの充実に そういう人たちはさらに“しがみつき”ます。

つまり「悪意の在る善行」は積み重ねもするのですが、 真心がないので信用は失わないようなするい仕方にては 悪行はかんたんになされてしまう姿です。

もし 共産主義のように社会全体の秩序を そのような人たちが一手に握ってしまうと、 善が目的だったはずの社会は 簡単にくずれてしまいます。   巨大な悪が その善の革命の結末には待っていたわけです。

粛清は 権力にしがみついたその守りのための行為としての必然だったのでしょう。

この悪意が 結果 善の結果となるような、過程もまた 存在します。

これはたくさん例はあげようと思えばあげられることとおもいます。

しかし、この場合 人間の善の意志という持続反省の世界はそこにともないません。  シャボン玉みたいな善の結果でしかないですし、 悪はそこに別に生まれづ付けます。  悪意が その人の中にあり続ける限りはです。



また、 道徳の中では、「善意の在る悪行」というものは 本質的には存在しません。

みんながおいしい魚を食べるために握っている常識という名の網を握る手と手の絆こそ 秩序の源泉と考えてください。  その集団的強制力を文書化し法制度化して強力にしたのが法律であり、 その無意識的強制力をより強力に物語るものが道徳です。

他人への思いやりや、配慮心、優しさ、その幸せを祈る気持ちがひとかけらもなくても、 常識を守ることが心身にてなんらか益になれば その人はその範囲での善はします。



しかし、 その逆の 善意はあっても 非常識な行動(みんなから非難される行動)というのは道徳の範疇を越えてしまう善になるかと思うのです。

これは、真心と 知識の深さが時として可能とする行為 これが「善意の在る悪行」です。

非常識を思われ 時にはその迷惑行為によって社会的罰をうけようとも、 それでも これはその人、またはその人たちのためになることだと信じることができる時、その行為は 通常の善よりさらに深い真心をともまうことは充分考えられるところかと思います。



たしかに 善と悪とは複雑なのが 現代文明の中での必然だと思いますが、  しかし、ここにこそ逆に(シンプルにも)真心の存在がいかに大切かがみえてくるかと思います。

そしてそれ自体は、まさにシンプル・イズ・ベストな状態で いついかなる時代にも 同じように大切なものでありつづけてきたし、 そしておそらくこの今の時代にこそ よりはっきりとそのシンプルな真実を自覚すべき時です。



では どうしたら、そのシンプルな真実である「真心」を私達は つかむことができるのか?

この問題は、ここを充分理解するのでなければ、 何一つ理解していないに等しい問題かもしれませんね。

わたしの考えでは そこを理解した上は、この問題は 大勢の人がじっくり時間をかけて 感性の成熟の問題として 考え抜いていくべき問題だと思うのです。   ゆっくりじっくり 一歩一歩です。

しかして、この問題は 感性、あるいは情ということを抜きにした知の世界にては もはや 袋小路に陥るだけのそういう知性の問題だと私は思っています。

ここでは、 そこから先の私の回答は 一応略しますが、 どうか そのへん今までの西洋哲学が 大きくなぜか見落としてしまった世界?を 一緒に考えて欲しいところなのです。



qsxdrfvgyhさんは、 お味噌汁は好きですか?

昔 スペインの旅行家が 日本の旅館で心のこもった味噌汁でのおもてなしを受けて それを一口飲んだら 涙が なつかしくてなつかしくて溢れこぼれてきた というお話を聞いたことがあります。

五感のうちの そんな舌の感覚ですら 科学ではやっと 表面のテイストをテストできる基準を捕まえたばかりです。  舌が 深い出汁の味わいをキャッチする時に、時どき存在する 全存在からの充実感とかそのひと時の世界を 科学はまだ少しも実験可能な段階にはたどりついていません。

五感の奥に 無意識を想定するのが、はやってきましたが、 それは普段きづかれない五感自体の深みに すべてが収まってもいるはずの意識なんです。 

 はるかなる仏界とかいうのも 同じんはずです。 同じ五感の中の奥深い感性の はるかなる地点であるはずです。  それとも仏陀って生物ではなくなってしまったんですかね。 そんなのがオシャカ様なんですかね。 だったらそのまま オシャカなお話ですけどね^^)

いったい何故 五感それ自体、感性の世界の探究が こんなに遅れてきてしまったのでしょう?

わたしなりのその回答はありますが、  そちらの質問への私からの回答としては、 哲学の歴史へのその疑問の提出を持って回答としておきたいと思いました。
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この回答へのお礼

大変示唆に富んだご回答をいただきました。
ありがとうございます。

多分、真心は神道系で特に大切にされている概念なのでしょうね。
僕は、これまで徹底的に探究する対象として、真心を意識したことが
ありませんでしたので、気の利いた返答ができないですし、
「私欲を離れた誠意」くらいのイメージしか思い浮かびません。

真心は、知的な探究をほとんど必要としないくらいに明らかではないかと思われますし、
その重要性は分かっているつもりです。
そして、道徳との厳密な区別が必要だとは思えません。
「善意の在る悪行」が、道徳にはなく、真心にはあるというあたりが
いまひとつ理解できていません。
そこは問わずに、「善意の在る悪行」の例示を教えていただきたかったわけです。
趣旨に賛同いただけましたら、投稿してください。

お礼日時:2009/01/04 18:18

「善意も悪意もない善行、悪行」があるんじゃないの事例について参考まで


「善意も悪意もない悪行」
わき見運転による事故、スイッチを押し間違ったことによる惨事、人ごみで押されて、相手に当たり相手が転落したなど、悪意でも善意でもないのに人命を奪ったり、大事故になったりする結果的「悪行」の事例はたくさんあるわけです。これを総称して単に「不注意」と呼びます。この不注意は単一の事象としては善意も悪意にも分類できません。刑法上も「過失・・」といってますね。
「善意も悪意もない善行」
これは「わらしべ長者」の例ですね。御伽噺ですが、気ままに交換していたら最後は長者になったという話ですがこれなどは「善意も悪意もない善行」に近いんでしょうね。
つまり、単に単一の事象をみても判断できない事例はたくさんあるということですね。原因結果の時系列連鎖を鳥瞰して初めて分類できるという場合もあるということでしょう。
例えば、不注意は其の原因をさかのぼると大体「悪行」に行き着くので悪意はないにしても悪意に分類される場合があるのですね。
酒の飲みすぎによる寝不足、働きすぎによる過労、勉強不足によるものなど、本来してはいけない状況で行うからミスが起きると考えられるからですね。(客観的見方)、一方、人間だから過ちもあるのが普通と考えれば、善でも悪でもない(主観的見方)ともいえますが、繰り返せば「不注意も悪」ですね。飲酒運転による事故は今では不注意ではなく悪意による悪行とされてますね。これなどよい例ですね。
つまり、善意・悪意・善行・悪行は原因結果の連鎖のどの時点(前後)で判断するか、どの範囲(連鎖)で判断するかによって違ってくるものだからでしょう。
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この回答へのお礼

なるほど。No.9に関連した回答ですね。
ありがとうございました。

「善意も悪意もない悪行」・・・「不注意」、「過失」に起因する事故
は、そのとおりだと思いました。
そして、
>飲酒運転による事故は今では不注意ではなく悪意による悪行とされてますね。
も、全くそのとおりで、「轢き殺してやろう」という積極的な悪意がないにもかかわらず、結果責任から逆算するように悪意を推定しているようにも思えますが、「善意悪意を問わずに、単に悪行として」ということかもしれません。そのことをmmkyさんは書いたのだと思いました。

「善意も悪意もない善行」・・・「わらしべ長者」
は、ちょっと疑問です。おそらく、相手側のご厚意を善行と考えているのでしょうね。また、「気ままに交換していた」者の方には、お役に立ててくださいという善意があったと思います。

そこで、思いついたのが、経済学で出てくる「外部効果」です。
果樹園を始めたら、養蜂家に喜ばれたというような場合です。
養蜂家を喜ばせようとして果樹園を始めたわけではないですからね。
意図せずに、お役に立てていただけですからね。

お礼日時:2009/01/04 15:36

 理解しているとは思いますが、善悪というものは非常に区別がしにくいものです。

とりあえず、俺の思う善悪を区別するうえでの考えを種類別に分けて書いてみました。

1.総意的なものの場合
総意的に善悪を判断できる範囲とは、当事者(善行、悪行を受ける人)にとって、結果利益になっているかどうか位ですが、事実として善行か悪行か捉えるのならば極めて適していると思います。総意的なものである以上、当事者達の恣意的な考えは除外されます。つまり総意的な以上、善行か悪行かは判別できても、善意か悪意かまでは判断できないわけです。そうすると、善行=善意、悪行=悪意と判断せざる負えなくなるわけです。つまり、善意、悪意の是非は結果イコールということになり、「善意ある悪行」、「悪意ある善行」は否定されます。

 しかし、この考えでは事実として捉えているのはあくまで善行か悪行かであり、善意か悪意かの判断はできていません。善意、悪意は、なにかを他人にする上で必ずあるので、総意的なもので考えるのは間違っているのでは? と書いているときに思いました。

2.恣意的なものの場合
恣意的なものの場合、当事者たちの考えが重視できます。実際にはもっと複雑な状況はありますが、今回は「行う人」とそれを「受ける人」の二人で書いていきます。

 ある人が、とある人に善行を行いました。そして善行を受けた人は助かりましたが、どうもその人のやり方が癪だった。つまり「悪意がある」と判断したのです。この例え話の場合、「悪意がある善行」があることは肯定され、その逆である「善意ある悪行」も肯定されます。

 ただ、事実として判断できるのは、お互いに半分ずつです。つまり、善意か悪意を事実として判断できるのは「行った人」で、善行か悪行かを事実として判断できるのは「受けた人」といった具合です。それはつまり事実として捉えることが、お互いに中途半端にしかできていないということでもあるのです。善意か悪意、善行か悪行かを判断することが可能になりましたが、それはあくまで当事者達にとってであり、しかもお互いに片方ずつでしかないのです。

結論を申しますと、「善意ある悪行」、「悪意ある善行」はあると思います。しかし、それは当事者達の事実誤認で生まれるものですが。つまり実際にあるのでしょうが、判断できないので、「当事者達の事実誤認で、是非は判断できる」としか結論を出せませんでした。書いていて、何とも矛盾しているように感じましたが。

あと、これはついでの話ですが、俺は最初の総意的なものの話のとき、「善意、悪意は、なにかを他人にする上で必ずある」と書きました。あれ、例外もあるんじゃないか、とふと思いました。何というか、「善意も悪意もない善行、悪行」があるんじゃないか、と。つまり、善意、悪意を持つ場合、とある事柄を意図的に行わなければなりませんよね? でも、意図しないところで思いがけず誰かを助けたり困らせたりすることもあります。その時、そこに結果(事実)として善行、悪行はあっても、善意、悪意はなかったことになりますよね? まあ、総意的な考えでいうのならば、そこに善意と悪意はあると判断するかもしれませんが。

結局、どっちやねん! てことになるんですが(汗)。
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この回答へのお礼

なるほど、なるほど。
きちんと場合分けできていますし、詳細に検討されていて、
大変良い回答だと思いました。
そして、迷いも分かりやすく表現できていますね。

質問欄で例示した単純モデルに収まらない複雑な周辺状況を
表現できていると思いました。
また、実際問題として、善意や悪意が表出していない場合が多く、
結果とか外形から推測しているだけかもしれませんね。
読んでいて、そのように思いました。

そのような面も考慮して、面白い具体的な例示があればと思いました。
よかったら、後でまた投稿してください。それでは。

お礼日時:2009/01/03 18:55

mmkyです。

この場をおかりして、k-5ya8roさんのご指摘「【私は貝になりたい】は実話じゃなく小説ですよ。」の件、そのように訂正します。
同時に、「例示としては、フィクションでも有効です。」とのQsxdrfvgyhさんの寛大さにお礼申し上げます。
【私は貝になりたい】という気持ちや実際の事例は他にたくさん存在しますが、映画の件はフィクションとして議論の例としてとっていただければ幸いです。
実例としては、例えば、新撰組の人々の処遇、戦時中の多くの事例、ベトナム・ソンミン事件などがありますので【私は貝になりたい】という気持ちをもった兵がいたこと自体はほんとのことです。
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この回答へのお礼

なるほど。
フィクションではあっても、全くのファンタジーではなく、
ねた、話の種は、そこここに実在していたわけですね。
僕もそう思います。
創作物は、ねたの寄せ集めとちょっとしか加工・修正だったりします。
その脚色次第で、感動の効果が大きくなるでしょうし、
そこは作家の腕として良く評価されるわけですし、
楽しみでもあります。

お礼日時:2009/01/03 14:33

イメージし易い例示としては、


アウシュビッツのガス室担当看守(ドイツ人)は、
良き夫であり、二人の男の子の良き父親であり、
かつ、自らも国のために疑いなく尽くしていた
ということでしょう。
(ドイツ人戦犯の話をTVでやっていたと記憶してます。)

鬼畜の行為も本人にとっては崇高な思想による善行でなされるということですね。

・・・そういえば・・・http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4407292.html
を覚えてますか。
qsxdrfvgyhさんが基準を明確にしろと口火を切ってますね。
ごもっともです。

家畜の屍肉を食らいながら、家畜の命の重さを平気で語る逆立ちしたくなるような 自己分裂 も善意の在る悪行なんでしょうかね。
この本人達さえ気が付かない善悪の内部共存が対存在の典型例なのかもしれませんね。

この回答への補足

少しだけ、補足します。

>本人達さえ気が付かない善悪の内部共存が対存在の典型例なのかもしれませんね。

そうだと思います。
罪びとでありつつ、善行もなしている者でもある。
対存在という以外に、適切な表現が思い付きません。
決して、純然たる「罪びと」だけと思ってはいけないのだと思います。

補足日時:2009/01/03 15:44
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この回答へのお礼

さらなる投稿、ありがとうございます。

そうですね。
罪無き者など、何処にも居ないということだと思います。
罪とは無関係だと誰もが思いたいにもかかわらず、皆罪びとです。

ご回答いただいた悪行の二例が、「善なる意思」と言えるかどうか、僕には分かりませんが、ただ、独善的であると言えそうではあります。

リンク先の質問の件は、種別の命の比較とか優劣とかは、誰も決定できないでしょうと言いたかったわけです。ですから、絶滅収容所の行為は集団的で独善的な悪行だと思いますし、肉食でも草食でも独善的で罪ありと言わざるを得ないと思うのです。ただ、もしかすると善悪を超越していたり、善悪判断不能なのかも知れず、発言に自信がありません。

bananasandさんに限らず、今後の回答・投稿で教えていただけたらと思います。

お礼日時:2009/01/03 14:18

おはようございます。



存在、善と悪、善行悪行、等々を考えるとき、論理性で判断する
善悪といわゆる善意、悪意、のような精神性によるものを分けないと
混乱すると思いました。

まず、「存在」ですが、ここでは最大限広く、真の「無」以外を
存在とするならば、善と悪は、どちらも存在の中にあり、
同時に、正しさの基準(方針、理念、戦略、目的等)が
その善悪の発生前に(少なくとも発生と同時)「存在」しないと
「善」「悪」にならないですね。
これは、個人の内心とは無関係に基準にてらして論理的に
善悪が審判されるわけです。
「善」であるといったときには、それを「善」たらしめる基準とその対極にある「悪」が原理的に想起されます。善行、悪行もぎりぎりこの基準の範疇で審判して良いのではないでしょうか。
さらには、この正しさの基準が思想、場所、時代、状況変化等々によって多数存在するのだということを付け加えなければならないですね。

一方で、善なる者とか、善意、悪意となると、道徳、倫理等の中であっても精神性の部分が主となり、まさに内心そのものを問題にします。
優しく、慈悲深く、他を生かすような心が善であって、
自己の利益の追求、うしろめたさ、他を殺すような心が悪に
なるのでしょうか。内心の何が善であるか否かは、まさに独善です。
その内心が善と感じたことが善であってそれ以外にはなりようもありません。

悪意ある善行、善意ある悪行は、上述の論理的に帰結される善悪並びに善悪を審判する基準が多数存在すること、及び、そこに自他の内心の善悪が絡み合って複雑な様相を呈するということではないでしょうか。

要するに善とは何かを探求するとき、愛とは何か、美とは何かと同じように哲学するなら、善≒愛≒美、悪≒憎≒醜であるかの如き、あるいは、これ以外にはないというような間違いに陥り易いようにも
思いますね。
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この回答へのお礼

再投稿、ありがとうございます。

ただ、今回の質問では、「存在」はテーマにしていません。
存在の一部である「対存在」とか「善悪判断可能領域」だけで探究していたつもりでした。

「善悪超越領域」とか「善悪判断不可能領域」とでも名付けるべきもの・ことは、必要最小限なものを除いて、対象外にしていたつもりです。できれば、イメージし易い例示をお願いします。抽象論はできる限り避けたいと思います。
よろしくお願いします。

お礼日時:2009/01/03 11:42

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