プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

例えば、ある人がA駅からB駅に行くのに、何も調べず、何も考えずただ電車に乗り、案の定間違え、C駅に行ってしまった。C駅で気づいたその人はまたよく確認もせずに電車に乗り今度はD駅についた。
こう言う事を繰り返してようやくC駅についた。

こういう人を見たら誰でも普通に「初めに調べてから乗れよ!」ってツッコミたくなると思うのですが、世の中にはこういう種類の事が沢山あります。
この例えほど極端で明快なものはないでしょうが、似たものは沢山あります。
でも、プライド、羞恥心、立場、etcなどが人の目を覆い耳を塞ぎ、こういう種類の間違いを強い者が行なうとOKだが弱い者が行なうとこれでもかと言わんばかりの仕打ちを受ける。
こういう事ってありますよね。


相手の悪い事を指摘せず、むしろおだててなだめて持上げて等してればそれは人から好かれるだろうし、ある程度の成功も治められるでしょう。
でも、それで良いのでしょうか?

私には、こう言う事を繰り返してきたお陰でちょっとした指摘すら認める事ができなくなってる人が増え、結果昨今の分裂社会を作り出しているように思います。
みな自分に自信が十分に備わっておらず、ちょっと指摘されるだけで憤るのでしょう。
だから、みな深く突っ込めず、それなりの人間関係しか作れない人が増え、世界一の自殺大国に成り下がっている。
そういう面があると思うのです。

そこで、「良い面のみを見る」という事の効果を長らく考えています。
しかしながら一向に答えは出せません。

もちろん、指摘できる関係が最も良いのは言うまでもないと思っていますが、それが行なえる程人間の精神が成熟していないのであれば、むしろ良い面だけを見て良い事だけを言って過ごした方が良いのだろうかと思う訳です。

みなさまからのご意見をお待ちしております。

A 回答 (3件)

日本は80年代・90年代などからさがってきているので。

どちらかいえば、無駄をなくすなどがおおいと思います。あまり新しいことにも慎重ともいわれたり。新しい企業だとプラスをかんがえたりもするでしょうけど。日本では古い企業が多くて。またwinwinをねがってないのかもしれません。最近はすこし他の人へとかもでてきましたが、それ以前はお互い伸ばすというのを前提にしてなかったように思えます。正論でうまくいくはずで、全体がつぶれててもわからないという考えで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

仰る内容が色々な意味に取れてしまい、今ひとつ理解し損ねています。
もう少し解り易く仰って頂けますでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2009/04/23 23:31

30才会社員歴5年です。


あなたの疑問への直接の回答になるかは分かりませんが、気になったので書かせて頂きます。

昨日、長年の友人と話していて、「人間はほめられないと成長しない」という結論に至りました。
悪いことを悪いと指摘するのは正しいことですが、良い結果に直接結びつく手段ではありません。

悪い面を指摘するのは、実はすごく簡単なのです。
良い面を見ることを悪いことのように書かれていますが、質問者様の言い方を借りれば、"精神が成熟している人間"ほど「相手をほめ、良い面を伸ばす」ことができるのではないかと思います。

昨今の自殺社会の原因についてはまた別の原因だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

長らくこの事について考えているので仰って頂いた事についても何度も考えました。
一人分の視野として、私の思い煩いに解決を与える一つの十分なご意見だと思います。
現に正に仰って頂いたその事を「効果」として質問文に書いておきながら実際の自分の生活はやはりどうしても単なる簡単な方向へ流れつつあり安い事を自覚しています。

しかしながら、決して意地になっているのではなく、私の視野もまた今の私には事実に見えるのです。
その意味では「精神が成熟している人間程相手を誉め、良い面を伸ばす」というその言葉に何度苦しめられた事かとも言えます。

難しい=良い
ではありませんよね。
精神が成熟している人間がそういうタイプであるなら、どの業界の一流選手も指摘は受けないで育ってきた筈です。
しかし実際には彼らは指摘されてますよね。勿論沢山誉められもしたでしょう。
私だって誉めない訳ではないのです。

ですから、仰って頂いた意見を今までに何度も考えた上でなおかつ未だ考えているのです。

よろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2009/02/09 02:09

なるほど、興味深いご意見です。


答えは持ち合わせていませんが、思うところを書かせていただきます。

まず、他人はともかくとして自分は精神を成熟させて行きたいと思います。ですから、自分は指摘を受け入れられる人間でありたいです。他人に対しては指摘が受け入れられないのであれば、良い面だけ見て、良い事だけを言うしかないでしょう。

でもそこで私の心には葛藤が生じます。相手を見下しているからです。自分は精神が成熟しているから指摘を受け入れられる存在だが、相手は精神が成熟していないから指摘を受け入れられない存在だと思ってしまう事になるのです。相手を見下す自分が嫌です。心に葛藤があるうちは自分が幸せになれません。どうしたら良いだろう、難しいというところで、私の思考は止まります。

ここまではプライベートでのことです。仕事の場合はちょっと考えが変わります。

仕事はお金を貰ってやっていることです。ですから、サラリーマンなら会社の利益向上に一番役立つことをやる義務が生じると考えています。利益に反する事をやるのは、会社との契約を破ることだと思います。そうなると、良い面だけをみてお茶を濁すのは義務違反です。ですから、相手が誰であろうと、私は悪い事は指摘します。

この回答への補足

お礼の続きです。

数学の博士は数学の先生に、物理学の博士は物理学の先生になり、一人の生徒に数学と物理学を教える事ができます。
数学だけでもその生徒は卒業できないし、物理学だけでも卒業できません。
両方揃っているからその生徒は卒業できます。

同じ事だと思います。
受け入れるが故の「弱さ」も勿論ありますし、時として力の無い正義は悪だという考えに私は真っ向から反対する意見を持っていません。
が、受け入れない故の弊害は描写するまでもなくみなご存知の通りです。

手を繋いで協力できるなら何の問題もないのに、「自分と違う=敵」的な見方が起こるのでしょうか、中々協力関係にあるこれらを見る事ができません。

片方が別の片方に対して指摘するのは「仲間として」指摘するのであり、滅ぼす為に言うのではないですよね。
ところが、ここに膨大な量の愛と労りの表現が伴わなければ受け入れない人が居ます。
10円稼ぐのに10年費やす様な努力です。
行なう人が減るのも当然です。

友達がいてもいつ切れるか解らない恐怖におびえて自分らしく生きれない人、社会の中で只管自己満足(右へならえの傾向の強い民族の中に於いてある程度の人数が同じプライドを持っていたとしてもこの内に入ります)のプライドにすがっている人。
これらは多かれ少なかれ誰でも持っている気持ちでしょう。
しかし、何故こう考えなければならないのでしょうか。

正直、世を変えられるとは思っていません。
ただ自分の周りの世界はあるていど変える事が可能です。
花も一つではその匂いは微々たるものですが、沢山咲いている事によってそこに訪れる人を魅了する強い香りを漂わせます。
私たち人間の一人一人はこの花だと思うのです。

ところが、見た目は美しく着飾っても、地中下では根の張り合い、土の奪い合いをしているなら、その匂いが臭くなっている事にも気づかずに栄養の奪い合いをする事になるでしょう。
そうすると誰も近づきません。

社会現象の大部分はこの辺りに基づいていると思えますが、いかがでしょう。

補足日時:2009/02/06 13:33
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私が「実行」していることと同じです。「考えている事」とは別にして。

私は「鍛えた筋肉が違う」程度の認識です。
受け入れられない人は私とは別の筋肉を鍛えた。私は受け入れられる筋肉を鍛えた。それだけの事です。
ただ、ボディビルダーの様に筋肉を鍛えても飛行機を持上げる事はできません。つまり限界はあるという事です。
目の前に飛行機やら豪華客船などどんなに鍛えても持上げられないものが山積しているこの世の中でどの部分の筋肉を鍛えたか等の違い等全く意味がない程の違いとも言える面があります。
それだけです。
しかしだからと言ってその小さな違いに意味が無いとは言いません。

ただ、「なぜその筋肉を鍛えるに至ったかの優先順位を選択したモラル感というか、誠実さ」のような違いが比較的大きな問題ではないかと思っています。
文章でのやりとりなので細かい事は置いておいて、一般的な話しとして、お金を優先した人は当然良い面ばかりを見る事になります。そして誠実な人間関係などを優先した人は指摘などもする事になるでしょう。

そして会社です。
今まで、雇用契約を守って会社の利益を追求してきたからこそ環境問題とか社会問題など様々な問題が浮上してきました。
これはなるべくしてなっている問題だと思います。

たとえ会社が年収何兆円の利益をあげられたとして、地球がマスク無しでは生活できない環境になってしまったら何の意味があるでしょう?
もうそういう総合的な視点を持たないとならない時代になっているのではないでしょうか。

罪を憎んで人を憎まずという言葉をどう思われますでしょうか。
罪は憎むべき物ですが人は愛すべき者です。
指摘した部分=相手そのもの ではないという感性です。
この場合、指差しているのは指摘したもののみであり、人はそこからは切り離されています。

しかしながら、多くの人は「自分自身そのものを非難された、見下された」と受け取り、指摘した人を「裁く者、非難する者」として攻撃しますが、実はこれは単なる二重攻撃であって誤りに誤りを重ねただけの場合もまた多いです。
真摯に受け取れば「築く事ができる」ものを、何だかんだと理由をつけて認めたくはないだけの場合が。
アメリカの様に「認めたら多額の慰謝料を支払わされる」的な防御反応から来る場合も多く、一概に何とも言えませんが。

お礼日時:2009/02/06 00:40

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