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自分自身に対して、他人に対しても、許す行為(心理)と諦める行為(心理)はイコールになりますか?

ポジティブ(許す)かネガティブ(諦める)の違いでしょうか?

「許す」も「諦める」も、「認める」ということに違いはないと思われますが…

何かアドバイスを頂けますか?

A 回答 (8件)

こんにちは



心理的にということでは、「許す」と「諦める」は違う心理作用があります。

「許す」という行為は、前提に相手に対しての被害感情(恨み・辛みなど)が在り、
その自分の中にある被害感情を手放すことです、
心理的には、「許せない」とい相手に囚われている被害感情を手放すことで、
自分の自由を獲得すること、その行為を「許す」と言います。

これに対して、「諦める」行為は、相手に対しての行動や考えなどの
何らかの働きかけを止めることであり、その働きかけの原因は、
「許す」行為のように、被害感情とは限らずに、愛情などの様々な動機に基づくものです。

そして、「諦める」場合、「後悔」などが残る場合があります、これは、「諦める」という行為が、
その根本にある心理的要因を完全に解消しないで、理性(合理的思考)だけで決断する為に、
心(感情に)しこりが残るモノと思われます。

従って、
・「諦める」のは、「許す」よりも前提にある感情の範囲が広い
・「許す」のは、心理的には、自分が縛られている感情を開放することである、
 「諦める」のは、同じように「手放す」ことではあるが、感情は開放しない。

その為
・「諦める」とき、囚われていた感情の開放(=許す)をしないと、「悔い」などが残る。
・「諦める」→「許す」または「忘れる」という過程が、自分自身を縛る感情や考えからの開放になる。

まとめると、
「許す」は被害感情を前提にして使われる、「許す」ことで、心の自由を得られる
「諦める」は「許す」よりも前提としている感情の種類が大きく、「許す」ことを一部に含む概念である。
「諦める」だけでは、感情は開放されない為、諦めた後で何らかの心理的開放が必要だと考えられます。
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国語的な回答ですが、その結末が自分の思い通りになるかどうかの違いです。



許す
→その結果が自分の思い通りにはなるが、対象の状態からそれを認める。
 例)子供が花瓶を割ってしまったが、真摯に反省していたので許した。

諦める
→その結果が自分の思い通りにはならない。対象の状態からそれを認める。
 例)洪水で道路が水没したので、外出する事を諦めた。
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この回答へのお礼

回答して下さった方々、お礼が遅くなり申し訳ありません。

こちらでまとめてお礼をさせて頂きます。参考になりました。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/07 18:43

こんばんわ。



>「許す」も「諦める」も、「認める」ということ
:どうなんでしょうね。

「許す」←「理解・納得したから・満たされたから」
「諦める」←「疲弊・負傷したから・枯渇したから」

「許す」→「共生・継続」
「諦める」→「離別・放棄」

「許す」→「希望」
「諦める」→「絶望」

「許す」→「(自分にも相手にも)優しい」
「諦める」→「(自分にも相手にも)冷たい」

「許す」→「(主に自分に)厳しい」
「諦める」→「(主に自分に)甘い」

「許す」ためには→「交渉」
「諦める」ためには→「遮断」

こんな感じだと思います。
どちらも、選択の結果、いつも、しているのではないかと思います。
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国語的な意味合いでは、許すと諦めるは違いますが、心理学的には、ほぼ同じことです。


ポジティブに認めることを許す、ネガティブに放棄することを諦める・・・という解釈は、国語的なものです。
心理学的には、「許す」も「諦める」も、それ以上対象物に対して考えないという心理作用が同じです。
心理学的には「諦める」は決してネガティブなものではありません。
ほとんどの場合、人間は余計なことを「諦めずに」いるからネガティブになるのです。

例えば、自分の欠点を直したい直したいともがき苦しんでいることが、ネガティブな心理を生み出します。
直すことを諦めた時、それは自分を許すことです。
諦め、許した時にポジティブな前進ができるのです。
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 現状に対する心根での評価が、「まあそんなもんだよね」とプラマイ0にするのが「許す」、「本当は満足してないけど…」とマイナスなのが「諦める」でしょうか。


 (頑張り・やる気)の原動力が「0⇒プラス圏」の時にはワクワクしてドーパミンが分泌するので、さらにやる気が出ますし、幸せ感があります。ところが「マイナス圏⇒0」、つまり『やって当たり前』というモチベーションだとドーパミンは分泌せず、幸せ感もありません。
 義務感やべき思考で行うとつまらないものです。自己満足でもいいので、『ヤッター』と思えると好循環が生まれます。左脳と右脳の交互作用がドーパミンを生みます。左脳は“慣例”、右脳は“新奇性”に対応しています。この両方が神経伝達物質をやり取りする状況が悦びを生み出します。「言葉でない心情を言葉にしてひねり出す」とか、「少しでも効率的な勉強法を工夫する」とか、「美味しくて早く出来て栄養のバランスの良い料理を研究する」とか、「ものごとの法則性を見つけ出す」とか、こういう右脳・左脳の共同作業は楽しいのです。だから俳句も料理も刺繍も趣味(楽しいもの)として成立するのです。

参考URL:http://www.counselingservice.jp/lecture/lec206.h …
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 許す行為、諦める行為、まずこの言葉二つに矛盾がありますね。

許す、諦めるということは、その人物の内心で起きることであって、外界へ放射されることがあっても、その行為がその人物の本心から来ているのかが、まったく分からないからです。したがって、行為という段階に及んでも、心的領域は、推し量れないからです。そこから、自分自身には、行為というより、感情価(emotion-tone)から、湧き上がる気持ちの問題になります。
 反対に、他人に対して、許す、諦めるは、相手次第になります。当然、相手の心理がわからないからです。それから、決して許すと諦めるという事象は、認めるという内的現象に還元されません。なぜなら、認めるとは、他者が存在することによって、成り立っているからです。そして、その他者の心理も分からないからです。ニーチェの言葉に、「人は諦めを知らなければならない」と、ありますが大抵の大学教授はこれを曲解して捉えます。諦めを知るというのは、自分のふがいなさを認知することであり、人々にソクラテスの箴言の「汝自身を知れ」に通じるものがあるのです。それとは違って、許すとは、キリスト教的考えであり、同情につながるものです。要するに、諦めは、自分自身を認知することによって、生まれ、許すことは、他者へ対して、自分の感情価を前面に押し出すことによって、生まれるものなのです。
 以下参考資料 フロイト著作集 ユング全集 アドラー心理学 クレッチマー全著作 クレペリン全著作 ジャネ全著作 哲学者等の本
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『新明解辞典』一部より。


「許す」手放しで、そうであることを認める。
「諦める」それ以上考える(する)ことをやめる。

たぶん、他人に対する「許す」はそういう人(考え)もあるんだな、と受け止めること。
「諦める」はもうこれ以上何を言っても無駄だな、と自分の考えを受けとめさせることをやめること。

自分自身に対する「許す」は自分の嫌な部分を認めること。
「諦める」はこうでありたいと思う自分の理想をめざす事をやめること。

てな感じ?
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初めは許すことから始まります、それでも改善されない場合には、やがては諦めることも必要かなと感じられてしまうものなのです。



両方とも、それは認めています。

自分自身のことであれ、他人のことであれ、それは同じだと思います。
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