

哲学に関しては素人で、大学の一般教養で「ソクラテスの弁明」を読んだぐらいです。
「ソクラテスの弁明」で一番驚くのは、ソクラテスが「自分の哲学によれば、死が恐るべきものである根拠はない(むしろ、喜ぶべきものかもしれない根拠さえある)」という話から「従って、私は死が怖くない」と、死の恐怖を自らの哲学で消し去っていることです。「クリトン」で、死刑の決まった牢屋の中で、ソクラテスが熟睡しているところからみて、死が怖くないというのは演技ではなく、本当に怖くなかったと思われます。
これは、とんでもない精神力のように見えます(よく「ソクラテスは人間くさい哲学者」という言葉を見ますが、私には「人間離れ」しているように感じます)。
そこでお聞きしたいのは、ソクラテスの哲学や行動の詳細やそれが正しいかどうかはさておいて、彼はどのようにしてこれほどの精神力を身に付けたのか、という研究はどのくらいされているのでしょうか? あるいはまた、ソクラテスを学ぶことで死の恐怖を解消できた人はどのくらいいるのでしょうか?
世の中、死の恐怖より辛いことは沢山あることは分かっていますが、自分の生活において、せめて死の恐怖ぐらいは自力で消せる精神力が必要な場面が結構あるので(結局パニックになってしまうのですが)、哲学への興味というより、自分の精神力を強めるものが、何かヒントでもないか、と探しています。
No.3
- 回答日時:
>自分の精神力を強めるものが、何かヒントでもないか、と探しています。
世の中には「わからない」ことって、たくさんありますよね。
わからないことに直面するとき、人間はきっと、知識であったり、感情であったり、感覚であったり、そういうのを拠りどころにして乗り越えて行くのだと思います。ところが、どんな知識を持ってしても、感覚や感情、そういうのを持ってしても、何とも「わからない」というような出来事に遭遇したりすることもあるでしょう。
「生」や「死」というのは、きっとそういうものの最たるものではないでしょうか。
ソクラテスは、どのようにして死を克服したのでしょうか。彼の口からは、死後の世界が語られます。けれど「死」というものが何か、彼があのように語れたのは何故でしょうか。別な作品では、一度死んだ兵士のエルが死後の世界を彷徨い、ついに蘇生する物語が描かれます。そのエルの物語から想起される世界像が、ソクラテスに死の克服を可能にさせたのでしょうか。つまり、ソクラテスには死後がよく「わかっており」、その知識によって彼は安心して死を克服することができた。こういう事でしょうか。
ある時代には、そうだったのかもしれません。けれど、エルならばいざ知らず、僕らにはそんな世界が見えた験しがありません。到底、その物語が死を克服させる手助けになるとは思えません。質問者様のご心情は、恐らくそのような感じではないでしょうか。
あるいは、こんなふうに思ったことはないでしょうか。
国家、権力、暴力、そういう巨大な力が眼前に立ちはだかる時、僕らはとても脅威を感じます。ちょうど村上春樹さんが演説なさった「壁と卵」のように、圧倒的なその力によって、自分は徹底的に損なわれてしまうのではないか。その力の影響、及ぶ範囲、情け容赦の無さ、そういうものをよく知っているからこそ、僕らはそれを怖れる。
でも、よく考えてみれば、わかっているにも係らず、どうしてそんなものを怖れたりするのでしょうか。わかっているものなら、そんなに怖れたりはしないはずです。
なのに、僕たちは巨大な力を前にすると、たまらなく怖くなる。
思うのですが、僕たちが怖れているのは力の巨大さ、そういうものではなくて、その力がいつ行使されるか、それが「わからない」ことにあるのではないでしょうか。
如何に大きな力とはいえ、それがいつ及ぼされるのか前もってわかっていたならば、悲しみに暮れることはあっても、取り乱すような怖れは抱かないのではないでしょうか。そして、その力が仮に「死」と呼ばれるものであったとしても、それがいつやってくるのかはっきりとわかっていさえすれば、怖れを諌めて生きることはできるのではないでしょうか。
ところで、そもそも「わからない」ってどういう事なのでしょうか。もしも、質問者様が『ソクラテスの弁明』を以前に読んでよく知っており、あらすじも、言わんとする事もよく知っているのだとしたらどうでしょうか。その状態で、大学の一般教養で『ソクラテスの弁明』をもう一度読んだのだとしたら、その内容に深く感じ入ることができたでしょうか。
例えば、こういうことです。すでに犯人を知っている推理小説と、まだ犯人を知らない推理小説の、どちらをこれから読む本として選ばれるでしょうか。
おそらく知らない本、すなわち内容が「わからない」本をお選びになるのではないでしょうか。僕たちはどういうわけなのか、「わからない」ほうを選ぶような気がするのです。
まるで「わからない」ことに、惹かれるかのように。
それが何時やってくるのか「わからない」としても、僕たちはどうやらその「わからなさ」に惹かれるようにして、生き続けているように思います。怖いもの見たさとでもいうのでしょうか。片方ではそれを怖れ、もう片方ではそれを求めて手を差し出す。その差し出した手はいったい何を求めているのか。困ったものですけれど、頭で考えるよりも、僕は自分の右手にいつもそうやって教えられています。僕の場合、どうやら手のほうが賢そうです。
この回答への補足
大変失礼ですが、少々確認させてください。
>ソクラテスには死後がよく「わかっており」、その知識によって彼は安心して死を克服することができた。こういう事でしょうか
>わかっているものなら、そんなに怖れたりはしないはずです
「ソクラテスの弁明」でのソクラテス論理は「私は死を知らない(そして、死を知らないことを知っている)。『それ故に』恐怖もない」ということではなかったでしょうか?
死を怖がる、ということは、誰一人(ソクラテスを含めて)死を知らないくせに「死は恐るべきものだ」と知っていると言っていることと同じだから。
この点で話が合わないと、私の質問そのものに意味がなくなってしまうので。
「『死を知らないが故に、死の恐怖もない』とは、哲学者という人種はとんでもないことを考えるものだ!」というところにインパクトがあったのですが。
もし、ソクラテスが死を知っていたとしたら、他の人間は死を知らないのにソクラテスは知っている、従ってソクラテスは知者である・・・ということになって、「無知の知」の出番がなくなってしまうのではないでしょうか?
>その状態で、大学の一般教養で『ソクラテスの弁明』をもう一度読んだのだとしたら、その内容に深く感じ入ることができたでしょうか。
推理小説や漫画ならともかく、この本はちょっと読んだぐらいでは分からないですよ。まあ、それでも、素人でもその気になれば読める、ということ自身が凄いことですけれど。それも分厚い哲学書(とても素人に読めるしろものではありません)ではなく、ぺらぺらの文庫本で。
「わからない」にも、単に知識を獲得すればわかるものと、そう簡単にはいかないものがあるのではないでしょうか?
わざわざご回答ありがとうございました。
本来なら、お礼を先にすべきだと思ったのですが、私の認識している「ソクラテスの弁明」とpasscardさんの認識とにかなり食い違いがあるように見受けられましたので、補足の方を、先に投稿させていただきました。
ご容赦ください。
No.2
- 回答日時:
[死の恐怖ぐらいは自力で消せる精神力が必要な場面が結構あるので哲学への興味というより、自分の精神力を強めるものが、何かヒントでもないか、と探しています。
]私の祖父母・父・親類などすでになくなっていますが死に際して恐怖心などなかったですね。私の実家や村全体が浄土真宗系の信仰が根付いており、死は阿弥陀如来の救いの世界という考えが浸透しているからでしょうね。大都会の真っ只中の私もソクラテス以上に死に対する恐れはありませんが、これは霊的世界の確信からですね。友人の1人が若くしてガンの病でなくなりましたが、ガンの告知後、非常に死を恐れ一時精神錯乱状態でしたね。普通の人が死の恐怖から抜けるのは難しいものだと知ったのはこのときですね。ソクラテスの言う「無知の知」の意味を理解したときですね。いかに知識を積み重ねようといかに肩書きを重ねようと一陣の風が吹き命が尽きるときに錯乱したのでは「無知の知」としか表現のしようがないですね。学問もなく地位もなく毎日、真っ黒になって畑仕事している爺さんや婆さんでさえ死など恐れないのに、ここに質問するほどのお方が、恐怖ぐらいは自力で消せる精神力が必要とおっしゃる不思議ですね。
ソクラテスは死というのは肉体の死でしかないということを知っていただけですね。精神力でも勇気でもないのですね。自身の知に対する信仰ですね。知に対する信仰しか自身を救うことはできないのでしょうね。
回答、ありがとうございました<(_O_)>。
>これは霊的世界の確信からですね。
>普通の人が死の恐怖から抜けるのは難しいものだと知ったのはこのときですね。
精神力の問題というよりは信仰の問題のようですね。そして、私にとってとても大事なことが分かりました。「死は怖いものではない」という風土の中で育った方は、実際に怖くはないのだ、ということなんですね。
物質万能の信仰では、こうはいきませんけど。
>学問もなく地位もなく毎日、真っ黒になって畑仕事している爺さんや婆さんでさえ死など恐れないのに、ここに質問するほどのお方が、恐怖ぐらいは自力で消せる精神力が必要とおっしゃる不思議ですね。
いや、まったく、お恥ずかしいです。自分でも「何でこのぐらいのことができないのか?」と。しかし、実際、もしガンの宣告を受けたときに錯乱しないという絶対の自信が今のところないわけなので、嘘を言うわけにもいきません。
しかし、確かにソクラテスは正しいようです。ソクラテスは、知者と言われている人よりも取るに足りないと思われている人たち(真っ黒になって畑仕事している爺さんや婆さん、など)の方が、より知があるようだとおっしゃっているので。
実際、学校その他で詰め込む知識とこういう問題はまったく別ですよ(むしろ、不安をまぎらわすために議論をする人も沢山いますし)。
>自身の知に対する信仰
これは、とても、私に素直に染み込みました。ありがとうございます。実際に、不安が減りました(^^)。私が怖がっているのは、単に自分の知に対する信仰がなかっただけのことだったんだ・・・とても説得力があります。本当にありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
私の死をどうやって私は自覚すればいいのでしょう。
死後の世界があるなら私の死骸を確認することも出来るかも知れませんが、
確認している私がいるので死んだことにならないでしょう。
死んで無になるならそれこそ確認の方法はありません。
どう頑張っても私が私の死を確認することはできない、
つまり私にとって私の死は無いのです。
言い換えれば私は死なないのですから死を恐れる根拠はないのは道理ですね。
さっそくの回答、ありがとうございました<(_O_)>。
>私は死なない
なるほど。
かなり納得しました。「死は存在しない」と言い換えられないこともないですが「私は死なない」という言葉の方がずっといいですね(^^)。
そこに恐怖の存在する余地はないですね(^^)。
非常に参考になりました。
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