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現代文です。正解の選択肢が正解であるとする根拠に該当する部分が本文から見出せず困っています。

問:次の文の趣旨として、妥当なのはどれか。

論争に参与するのは知性である。思想は論争しない。ひとりの人間の肉体がそうであるように、思想もまた弱点としてのおのれを完成する。ところが論争はつねにいずれかの側に正邪、適不適の判定を予想するものである。はじめから決着を度外視して論争は成り立たぬ。ひとびとは論争において二つの思想の接触点しかみることができない。論争するものもこの共通の場においてしかものをいえぬ。この接触面において出あった二つの思想は、論争が深いりすればするほど、おのれの思想たる性格を脱落してゆく。かれらは自分がどこからやってきたかその発生の地盤をわすれてしまうのである。しかも論争にやぶれたものは、相手の論理の正しさに手も足も出なくなりながら、なお心のどこかでおのれの正当を主張するものを感じている。このさいかれのなすべきもっとも賢明な方法は、まず論争からしりぞき、自己の深奥にかえってそこから出なおすことをおいてほかにない。が、ひとびとはそれをしない。あくまで接触面に拘泥し、論理に固執して、なんとか相手をうちまかそうとこころみる。それがおおくのひとびとをゆがめられた権力欲にかりたて、たがいにおのれをたて、他を否定してはばからざらしめるのである。

僕の選んだ選択肢
「思想上の論争は、その一部のみを取り上げて論争すべきではないから、論争の勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない。」

テキストでは、「その一部のみを取り上げて論争すべきではない」のではなく、思想上の論争そのものが不要だとされる…とあります。しかし、本文ではハッキリと、「論争はつねにいずれかの側に正邪、適不適の判定を予想するものである」「ひとびとは論争において二つの思想の接触点しかみることができない」と記されてあります。ここの箇所は選択肢とはイコールではないのですか。また、イコールでない場合、何を根拠にイコールでないと判断すればよいのでしょうか。

正解の選択肢
思想は、その発生の地盤から離れることのできないものであるから、知性による論理だけの批判や判定は、役に立たないものである。

地盤から離れることができない…という時点でもう不正解と判断しました。なぜなら、本文では「その発生の地盤をわすれてしまう」=地盤から離れてしまう、と考えたからです。また、「論理だけの批判や判定は、役に立たない」とありますが、ここでの本文の主張は、批判や判定が有益かどうかではなく、論争の問題点について語っているので、「役に立たない」より「ののしりあうことは、すべきでない。」のほうがずっと適切だと考えました。

ね、正解の選択肢の該当箇所が本文には見当たらないでしょう?もう何度解いても、間違えてしまいます。解説をお願いします。

gooドクター

A 回答 (15件中1~10件)

 そろそろ終わりにします。

すみません。
 ズバリ、質問者様は細かい言い回しに振り回されすぎだと思います。1)「論争は…なので、不要である。」、2)「…意味が無い。」、3)「…役に立たない。」、4)「…すべきでない」 この4つの言い方は、ほぼ同じ意味です。ただ、4)は踏み込みすぎで、ほんの少しだけニュアンスが違いますね。
 「思想」を「論争する人びと」に重ね合わせて主語にした場合は、「論争が深いりすればするほど……その発生の地盤をわすれてしまう」(本文)となり、普通に表現すれば「思想は、その発生の地盤から離れることのできないものである」(正解選択肢)となるのです。前者は「論争が深いりすれば」という、本来とは違う態度をとればという条件の元なので、真逆の結果「その発生の地盤をわすれてしまう」になります。本来ならば「その発生の地盤から離れることのできない」のです。ですから逆ではなく、同じ意味です。「その発生の地盤」と「自己の深奥」とは同じ意味で使われています。「論争にやぶれたものは、…なお心のどこかでおのれの正当を主張するものを感じている」「自己の深奥にかえってそこから出なおすことをおいてほかにない」と筆者が言っているので、「思想は、その発生の地盤から離れることのできないものである」という選択肢の表現も是認されるという理屈です。ここの試験は、意味さえほぼ同じなら、選択肢で結構大胆な言い換えをしてくるということですね。引っかからないように注意しておきましょう。
 冒頭でも言いましたように、文章の理解を機械的、あるいは数式を解くような方法で考えておられる点が質問者様の最大の問題点だと思います。細かな語尾の違いに目を奪われているので、出題者が少し表現を換えただけでみごとに引っ掛けられてしまうのです。「思想上の論争は、お互いの思想の発生の地盤からかけ離れて、知性や理論だけで行われるので役に立たない。」なら正解肢かも知れません。ですから、「思想上の論争は…」だけを見て不正解肢と決め付けるのは、やはり危険なのです。
 もう一つの問題点は、無意識に行ってしまう読替えです。「接触点」=「共通の場」を「一部」と読替えてしまうと、「接触点」の性質が台無しになります。知性の参与を得て論争するものは、(思想の「地盤」ではものがいえず)「共通の場」でしかものがいえないという、「接触点」の性質は、(「全体」に対する)「一部」という言葉で言い換えてはマズイのです。「思想は全体として意味を成すものである」のような記述があれば、これが正解肢でも良かったと思います。「論争の勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない。」は、筆者の論旨を勝手に具体化しすぎです。抽象的な論旨は抽象的なまま、趣旨としてまとめるべきで、「余分なものを足さない、引かない」という、ウイスキーのCMのような態度が必要です(笑)。

 http://blogs.dion.ne.jp/hamalog/archives/cat_179 …木を見て森を見ず
 問い;抽象的な文章は抽象的なまま理解できるか? 
 問い;筆者が抽象的なことを伝えようとしているなら、本当に理解したときには、言葉ではないモヤッとした何かが伝わっていなければウソではないか?
 僕のやり方;紙に線を引き、上下・左右4つに区分けし、左<肯定的>右<否定的>、上<主張>下<根拠>とします。この本文の場合は、右上<否定的>に「論争」、右下<根拠>に「知性では、この共通の場(接触面)でしかものが言えない」、左上<肯定的>に「思想の深奥(思想の地盤)」、左下<根拠>に「思想の地盤は知性でないもの(感性)に参与されてる?」と書き込みます。この左下については、筆者は直接は述べていません。他の3つから想像するのです。
 人の意見というのは、所詮人の意見です。無理に接木したとて、花が咲くとは限りません。己の身にしなければ枯れるだけです。(このように形の無いものを形のある何かや、何かと何かの関係性にたとえるのがメタファーであり、抽象的なことを伝える手段です。)
 長々と失礼しました。
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この回答へのお礼

まとめてこちらでコメントさせていただきます。

>「論争の勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない。」は、筆者の論旨を勝手に具体化しすぎです。抽象的な論旨は抽象的なまま、趣旨としてまとめるべきで

これは、以前に上のほうでいただいたコメントと同じ内容ですよね。
大丈夫だと思います。まぁ、今回学んだこれが、別の問題でも活かせるようになるには、さらなる訓練が必要だと思いますが。

いつも熱心にコメントをつけていただき、ありがとうございます。今日は日曜なので、まだまだ頑張りたいと思います。

お礼日時:2008/06/29 11:08

誤解のないように一応補足しておきます。



これは国語のテキストの話です。そしてこの問題は、純粋に読解力のみを試しているわけです。つまりそこで問うているのは、
「次の文の趣旨として、妥当なのはどれか」
であって、
「次の文を読んで批評せよ」
ではではありません。
この種の問題に答える場合は、「筆者は何を言おうとしているか」を正しく捉えない限り点数はもらえません。したがって読む際には筆者の視点に立つ必要があり、そこに自分の思想・意見を持ち込む余地は100%ありません。予断が入り込めば、見えるものも見えなくなってしまいます。
試験問題に解答する場合は、常に頭をニュートラルモードにしておく必要があります。ご質問に対する私の回答も、基本的にそういう立場に立っています。

【以下余談】
この文章は、穿った見方をすれば意図的に読者を混乱させようとしているのではないかと疑ってしまうくらい難解で、ある意味悪文の見本のようなところがあります(それ故に読解力の試問にはもってこいの例とも言えるわけですが‥)。しかし、予断を交えずていねいに読めば、筆者の主張が終始一貫性を維持していることは解ると思います ( ^^
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>意図的に読者を混乱させようとしているのではないかと疑ってしまうくらい難解

この問題が出題された試験は、決して難易度の高い試験ではありませんでしたので、意外でした。今日は日曜なので、頑張って復習します。

お礼日時:2008/06/29 11:10

 個別の問題の解法から、一般的な解法の≪法則性≫を見つけ出すのでなければ、質問する意味があまり無いように思います。



 今回の本文は、MockTurtleさんの慧眼のとおり、主語が「思想」なのか「人びと」なのかで違う2つの系列が出来ています。そもそも、この文章が難解に感じられるのは、「思想は論争しない」と言っておきながら、<思想にまつわる論争の是非を論じている>点です。論争が無いのなら、その是非を語る必要も無いはずです。一見矛盾しているように感じられます。読者に『…?』と感じさせるのが、筆者の計算なのでしょう。その矛盾をかろうじて整合させているのが2系列の主語「思想」と「人びと」です。一方の「思想」を行為主体とする文では、「思想は論争しない」と述べ、もう一方の「人びと」を行為主体とする文では、「まず論争からしりぞき、自己の深奥にかえってそこから出なおすことをおいてほかにない。」と述べています。ただ、「自己の深奥」の「自己」とは「思想」なのか「人びと」なのかは、もうぐじゃぐじゃにメルトダウンしていて、筆者も区別する意識を持っていないように感じます。この2系列は、2枚の薄いシートのように密着して重なっています。人びとが「論争」すると、それまでは1枚のシートのように思えたものに齟齬が生じて、2枚に分離するのです。
 普通の感覚において、「論争」するのは人間です。それを敢えて「思想は論争しない」と、架空の行為主体を創ることで2枚のシートを作り、それがズレた時の齟齬を浮き彫りにしています。本文中で「論争は存在しない」としているのは、片方の系列である「思想」を主語とする方便としての表現内でのことであって、受験者が解答するときまで守らなければならないルールではありません。どだい「思想は論争しない」という表現は、読者を説得するための方便であって、趣旨を答えるに当たり、形にこだわる必要はないのです。イソップ物語の『北風と太陽』では、北風や太陽が行為主体となっていますが、趣旨をまとめるときには、人間を行為主体にして、「人を動かしたいなら、その人が自らそうしたいと思うようにするのがよい。無理強いは失敗するものだ。」とまとめるでしょう。それと同じです。

 理解;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%A7%A3
 十分に解明されていない概念なので、僕でも自由に意見を述べることが許されるでしょう。僕にとって「文章を理解する」とは、「どんなフレーズや言葉が載っていたかは忘れたけれど、筆者の言わんとすることだけは理解した」という状態なのです。そして、自分がどう理解したかを他人に説明するときに、それを上手く説明できる言葉を拾い集めるのです。<わかるとは分けることである>とも言いますし、<人に説明できて、初めて理解したことになる>とも言います。「理解」にも、いくつかの段階や側面があるのでしょう。
 質問者様も、その「理解の仕方」自体が正しいかどうかを見つめなおされるのが有意義ではないでしょうか。文章を読んで、どのような「理解の仕方」をしているか、人に説明できますか?
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> おぉ(@_@;)。

だいぶスッキリした感じがします。

そうですか。多少は役に立っているみたいですね ( ^^
時間が出来たので、下記の件についてまた少し述べます。

> 「論理だけの批判や判定は、役に立たない」とありますが、ここでの
> 本文の主張は、批判や判定が有益かどうかではなく、論争の問題点に
> ついて語っているので、「役に立たない」より「ののしりあうことは、
> すべきでない。」のほうがずっと適切だと考えました。

論理だけの批判や判定が無益であるという趣旨のことは、ちゃんと書かれています。具体的には下記の部分がそれに該当します。
------------------------------
「論争にやぶれたものは、相手の論理の正しさに手も足も出なくなりながら、なお心のどこかでおのれの正当を主張するものを感じている。このさいかれのなすべきもっとも賢明な方法は、まず論争からしりぞき、自己の深奥にかえってそこから出なおすことをおいてほかにない。
------------------------------

これは私の経験ですが、中学生の頃、クラスメートに「キセル乗車は悪いことではない」と主張して憚らないヤツがいました (笑)
私の “思想” では、「電車に乗る時は所定の料金を支払わなくてはならない」でしたから、当然私は彼に詰め寄りました。
「そんなバカなことがあるもんか、一体どういう理屈だい?」
- 以下対話 -
彼:「国鉄(JR)が電車を動かすには電気を使うよね」
私:「そりゃそうだろう」
彼:「で、君が電車に乗った場合と乗らなかった場合では、国鉄が東京電力に支払う電気代は違ってくるかい?」
私:「それは、えーと‥ 多分同じじゃないか?」
彼:「だろ? 国鉄は君を運ぶために余計な電気代は一切払っていない。だったら君が運賃を払わなくたって、国鉄にとっちゃ何の損害もないわけさ」

私はあまり頭の回転が速い方ではないので、不覚にもすっかり彼の詭弁に嵌ってしまい、この時は何の反論も出来ませんでした (笑)
したがって、判定は彼の勝ち!

さて、議論(論争)で判定負けを喫したことによって、「乗るならちゃんと電車賃を払う」という私の思想は敗北したのでしょうか?
答えは明白です。たとえ私が言葉巧みな友人のロジックに籠絡されようとも、運賃を誤魔化すという行為が正当化される筈はありません。そんなことは、そもそも “議論(論争)の余地がない” ことなのです。

「論理だけの批判や判定は、役に立たない」とは、つまりはそういうことを言っているわけです ( ^^
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 発言の機会をいただき、ありがとうございます。


 「ひとびとは論争において二つの思想の接触点しかみることができない。」の部分についてですが、こう言い換えることが出来ます。「知性では二つの思想の接触点しかみることができない。」と(知性では…の部分に下線)。というのは、論争を参与(=手助け)しているのは知性だとしているからです。「論争するものもこの共通の場においてしかものをいえぬ。」も同様に、「知性に頼る論争では、この共通の場(=接触面)においてしかものをいえぬ。」と言い換えることが出来ます(知性に頼る論争では…の部分に強調の意味の下線)。
 どうして、この共通の場(=接触面)でしか、知性がものをいえないのか?逆に言えば、どうして思想の地盤を含む部分においては、知性はものをいえないのか?
 ちなみに言っておきますが、「論争」「思想」などの抽象名詞を主語にする方法は、単なるデザイン、文体であって、“人間”を主語にするかどうかは、まったく問題ではないのですよ。
 論説文には、筆者の「主張」とその「根拠」があり、この2つが趣旨となるのですが、そのほかにも筆者の「根本認識」を知る手掛かりも述べられてあります。
 『お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから、というのは理由になってない!』と、さらに問われたお母さんは、『強い人が弱い人に優しくするのは、人間として当たり前でしょ。』と言ったとしましょう。それ以上どうして、どうして、とお姉ちゃんに問われてもお母さんは答えませんでした。これが「根本認識」です。
 この論説文での筆者の「根本認識」は、「思想とは知性でないものを地盤として、その上に論理で築かれたものである。」という認識だと想像出来ます。また、「論争を参与する知性だけを持ってしては、思想の地盤を見ることも語ることも不可能である。」という認識です。
 前回の対立の構図をもう少し丁寧に表現し直しますと、「知性によって捕らえることができるもの」VS「知性によって捕らえることができないもの」となります。思想の地盤は知性では見ることも語ることも出来ないというのが筆者の「根本認識」(=根本思想)なのです。
 よくあるじゃないですか。「どうして人を殺してはいけないの?」とかという命題と同じです。理屈じゃなくて感情・実感がその根拠となり得る問題は数多あります。
   http://psycho.u-gakugei.ac.jp/teacher/kishi.html 
 ≪次にどのような話になるのかを予測し,待ちかまえていてすばやく理解をしていくことが必要になる≫…文章構造(例示、根拠、比較、まとめ…)を予測しながら読むということです。
 ≪図表を活用する≫…因果関係、包含関係、根本認識、主張と根拠、説明と例示、説明とそのまた説明、などを記号や図表で書いてみる。
 参考になさってください。
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こんにちは。


回答多数のせいか、大分混乱されているようですね ( ^^;

> 「その発生の地盤をわすれてしまう」=地盤から離れてしまう
> というのは、拡大解釈である、というわけですね。

「その発生の地盤をわすれてしまう」=「地盤から離れる」という解釈自体は間違っていません。ただし、地盤を忘れるのは思想ではなく “人間” です。思想は、どこまでも「自己の深奥(=地盤)」にあると筆者は言っています。


> 不正解の選択肢の、間違っている箇所は、どこなのでしょうか。

そちらからお話しした方が早道だったかもしれませんね ( ^^;

繰り返しになりますが、冒頭の「思想は論争しない」がすべてを語っています。つまり筆者は、「思想上の論争」というものの存在自体を「そんなものは存在しない」と言っているわけです。
論争するのは「知性」であり、その産物たる論理に他ならない。それが、「あくまで人間の精神地盤に存在する思想」を離れ(忘れ)て勝手に一人歩きを始め、ただひたすら相手を論争で打ち負かして権力欲を充足することのみを目的として互いに相争う・・・

そんなものは、「思想」(根本精神)とは無縁のものだ!

‥と、筆者は言っているのです。
従って、hypnosis さんが選んだ選択肢は、

「思想上の論争は‥」

と言った時点で既に不正解なのです。よろしいでしょうか、筆者の考えでは、思想は論争しない(= 思想上の論争などというものは存在しない)のです。
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この回答へのお礼

>>論争するのは「知性」であり
>>「思想上の論争は‥」と言った時点で既に不正解なのです

おぉ(@_@;)。だいぶスッキリした感じがします。ありがとうございました!!

お礼日時:2008/06/22 21:05

 コメントありがとうございます。


 趣旨…物事の中心となるおもむき。文章や話で言おうとしていること。また、或る事をする目的や理由。趣意。

 設問が、「妥当なものはどれか」なら、正しい記述のしてある選択肢を選べば正解です。たとえ、それが筆者の主張の中心部分でなくてもです。ところが、「趣旨としてふさわしいのはどれか」という設問なら、“主張の中心”とその“根拠”を捕らえていなければ、正解にはなりません。おそらく、「思想上の論争は、その一部のみを取り上げて論争すべきではない」も、「論争の勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない。」も、筆者の考え方と一致するでしょう。しかし、この文章の中心的主張ではありません。しかも、この選択肢の場合は「主張」+「主張」という構造になっていて、「根拠」が見えてきません。それが、この選択肢を「趣旨」とするには致命的な不具合となってしまうのです。問題を作る側は、わざわざ受験者が間違いやすいように、「筆者の考え方と一致するが、中心的な主張ではない」選択肢や、「筆者の考え方らしきものを記述しているが、その根拠に触れていないので深みが無い」選択肢を設けるのです。意地悪ですねえ(笑)。受験では、一般の受け止め方とは少し違う感覚の、厳密な読み取り方が必要なのです。
 もし、「勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない」と言いたいのなら、その理由を示して然るべきです。「その一部のみを取り上げて論争すべきではないから」が理由だとして、はたして趣旨として意味が通じているでしょうか。読者は、『なぜ一部のみを取り上げて論争すべきではないの?』と、さらにその根拠を聞き返したくなるのではないでしょうか。省略してあるだけ、とするには大きすぎる省略だと感じます。
 おもちゃを取り合って、幼い姉妹でケンカをしている姉の方に向かってお母さんが言いました。『もう、お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから、おもちゃを妹に譲ってやりなさい!』と。これがいわゆるトートロジーです。一般的な感覚では、このお母さんの言い方で納得してしまうところですが、受験生は簡単に納得してもらっては困るのです。『お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから、というのは理由になってない!』と突っ込みを入れていただきたいのです。僕の言ってる意味、わかりますか?

 またまた、メタ回答なのですが、下記URLを参考にしてください。
   http://xn--u8jwg830ibnc6yd8xnk42bn2m5h2a.jp/site … サイトマップ
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%89%E5%BC%B7% … 『勉強の技術』
 僕は決してこの組織の者ではないのですが、ある種の人々の「理解」は、僕が思う「理解」とは全く違う種類のものではないかと疑っているのです。そう、正直に言って、質問者様の「理解」も、うわべだけの理解ではないかと疑っています。ひょっとして、目からウロコかも知れませんよ。
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この回答へのお礼

「論争はつねにいずれかの側に正邪、適不適の判定を予想するものである」「ひとびとは論争において二つの思想の接触点しかみることができない」

「論争は正誤二択を求めるものだ。論争では思想の一部すなわち両者の接触点のみ扱われる」

「論争の勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない。」

これは、NO4の方への回答です。「勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない」と言いたいのなら、その理由を示して然るべき、というのはこのあたりのことを指していた、ということでしょうか。いつもいつも、僕の質問に対してコメントを下さってありがとうございます。

お礼日時:2008/06/22 21:02

 ある辞書によると、論説文の定義はこうあります。


 「社会事象,身辺生活の事実,研究上の問題などについて,自分の意見,主張を根拠に基づいて論理的に述べ,読み手を説得する目的をもった文章をいう。」
 ですので、論説文の趣旨には筆者の「主張」とその「根拠」が盛り込まれているはずです。質問者様がこの選択肢を選んだということは、「論争の勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない」が筆者の主張であり、「思想上の論争は、一部のみを取り上げて論争すべきではないから」が根拠だと判断したということになります。それに対して正解の選択肢は、「知性による論理だけの批判や判定は、役に立たないものである」が主張であり、「思想は、その発生の地盤から離れることのできないものであるから」が根拠だとしています。「根拠」の記述のない文は趣旨になり得ませんし、「主張」と「根拠」がふさわしくなければ、趣旨としてもふさわしくありません。
 筆者にとっては「説得」ですが、読者にとっては「納得」です。
 http://www.geocities.jp/nm3032nakatsu/genkoku/gk … 論説文読解方法
論説文では、自分の言いたいこと(主張)を読者に納得してもらうために説明をします。説明の方法には、(1)例を使う (2)言葉を変えて繰り返す (3)比較する (4)体験談を文中に入れる があります。では、何故(1)~(4)のようなことをされると私たちは「納得」してしまうのでしょうか。僕は、≪納得とは何か?≫≪理解するとはどういうことか?≫≪知るとはどういうことか?≫について考えざるを得ません。これは非常に難しい問題を含んでいます。
 辞書を引くと言葉の意味が解かったりします。いや、解かった気になります。「分析」という言葉を調べるとhttp://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%8 … とあります。何のことはない、「分析」を「要素や成分に分け、その構成などを明らかにすること」と言い換えているだけです。次に、「要素」を辞書で引くとhttp://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%A …とあります。このように、言語を定義するための言語を「メタ言語」と言います。メタhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF、理解http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%A7%A3 難解な言葉や概念は、ふだんの生活で慣れ親しんでいる感覚にまで落とし込めたとき、私たちは『解かった!』と感じるのではないでしょうか。つまり、「言葉」を“言葉以外の何か”として感じて受け止められたときに、『解かった!』となるのではないかということです。
 僕の回答を見て、『自分勝手な解釈をすべきではない』と批判する人がいます。しかし、自分の身近な経験や慣れ親しんだ感覚として受け止めなければ、“理解”も無いのです。一旦はそのように理解したうえで、あとで独善的な表現や例えを排除すれば良いだけの話です。今回の論説文では、「知性」vs「知性ではないもの」という構図だけ頭に描けばじゅうぶんです。あるなしクイズじゃないですが、「知性」側にあるのが「論争」「論理」であり、「知性ではないもの」側にあるのが「思想たる性格」「自分(=思想)がどこからやってきたかその発生の地盤」「自己(=思想)の深奥」となります。この構図が盛り込まれていないものは趣旨としてふさわしくなく、この構図を盛り込んだ選択肢の中に正解があります。
 ちなみに、言葉の重要な技法(レトリック)に「暗喩」(=メタファー)というのがあります。http://www.ntv.co.jp/sekaju/old/student/20060128 … メタファー 
金田一秀穂、「この接触面において」と、まるで立体(銀河)と立体(銀河)が斜めにぶつかった時の接触面を想像させるような表現が使われています。これも一種のメタファーです。また、トートロジーhttp://okwave.jp/qa2680661.htmlという概念もあります。思想を知性で語るのはトートロジーに陥ることであり役に立たない、とも読み取れます。
 今回は回答以前の、メタ回答の部分を多くしました(笑)。わかるかな~?^^;。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>「知性」vs「知性ではないもの」
>この構図を盛り込んだ選択肢の中に正解があります

「二つの思想の接触点しかみることができない」「接触面に拘泥し」というのは、あくまで論争の一つの問題点・特徴でしかないため、
それよりもトータルに論争・知性云々に触れている選択肢のほうが正解にふさわしい…

と、解釈しましたが、あっていますでしょうか。

お礼日時:2008/06/21 20:35

こんにちは ( ^^


この種の文章では、大抵最初の数行に重要なキーワード書かれているものです。hypnosis さんが正解に対して抱いた疑問について少し考えを述べます。


> 「その発生の地盤をわすれてしまう」=地盤から離れてしまう、と考えたからです。

この文章の筆者は、思想そのものがその発生地盤から離れるとは言っていません。逆に冒頭で「思想は論争しない」とはっきり言い切っています。
思想とは、個々の人が経験の積み重ねや物事への考察を通じて得た人生観や社会観です。したがって、思想は人の数だけ存在して然るべきもの ─ つまり、本来互いに否定し合うべきものではありません。思考パターンや経験が異なる以上、個々人の思想が異なるのは当然です。人は人、自分は自分でよいわけです。
しかし・・・・・

思想はただ「自己の深奥」に存在するだけに留まらず、現実の行動に反映します。人が行動すれば、必ず他人との利害の衝突が起きます。これがいわゆる「思想同士の接触点」です。

そこから生じる論争を、筆者は「思想同士の争い」と見てはいません。それは単に自己の利害を守るための権力闘争に過ぎないと言っているのです。そこでは、接触面(自己の利害と衝突する部分)のみが注視され、互いの思想がなぜ異なるのかという背景事情は一切無視されます。つまり思想は最早忘れ去られ、知性の産物たるロジックを駆使して相手を打ち負かすことに目的が摩り替えられているのです。
そのよい例が宗教戦争です。本来人々に幸福をもたらすべき宗教が多くの人を殺戮する愚行は宗教思想の為せる業ではなく、人間のエゴイズムの所業に他なりません。思想それ自体は、あくまで発生地盤の上に存在しています。


> 「論理だけの批判や判定は、役に立たない」とありますが、ここでの本文の主張は、批判や判定が有益かどうかではなく、論争の問題点について語っているので‥

論争が思想同士ではなく知性同士の戦いだとすれば、論争における敗北は、思想の敗北を意味しません。ちょっと次元が異なりますが、例えばキリスト教国がイスラム教国に戦争で勝利したならば、それがイエスの教えがムハンマドの教えよりも正しかったことの証明になるのか‥?
著者が言いたいのはそういうことです。つまり「論争における勝利 → 権力欲の充足」という行動は、元々は思想を背景としながらも、思想本来の精神を見失った無益な議論だということです。それゆえ筆者は次のように語っているわけです。

「この際、彼等のなすべき最も賢明な方法は、先ず論争から退き、自己の深奥に帰って、そこから出直すことをおいて他にない」

この場合、自己の深奥(思想背景)を省みると同時に、対立する相手の思想背景にも思いを巡らせることが必要なのは言うまでもありません。なぜならば、接触面(思想同士の利害が具体的に食い違う部分)だけを見ていたのでは、なぜ相手の主張が自分の主張と衝突するのかは分からず、根本的な問題解決には至らないからです。

自己と相手の思想背景を理解すれば、自然互いを尊重し合うようになり、結果として上手に利害関係の調整が出来る筈だ。
「思想は論争しない」という言葉が示唆するのは、つまりそういうことだと思います ( ^^
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>正解に対して抱いた疑問について
そうです!これがわからないんです(T_T)。

「その発生の地盤をわすれてしまう」=地盤から離れてしまう
というのは、拡大解釈である、というわけですね。そのことについては、わかりました。しかし、後々の解説を読むうちに、だんだんごっちゃになってきてしまいました。

>接触面のみが注視され、
>背景事情は一切無視
>接触面だけを見ていたのでは、根本的な問題解決には至らない
>自然互いを尊重し合うようになり、上手に利害関係の調整

これらをまとめると、つまるところ、「その一部のみを取り上げて論争すべきではないから、論争の勝ち負けに拘泥し、互いに相手をののしりあうことは、すべきでない。」になるように思えてきてしまいます。不正解の選択肢の、間違っている箇所は、どこなのでしょうか。

お礼日時:2008/06/21 20:25

 コメントありがとうございます。

間違いとされた選択肢には、「言い換え」をしている部分があります。本文では、「論争すべきではない」とは述べていなくて、「論争に拘泥すると、おのれの思想たる性格を脱落してゆく」と述べています。そして、「自分がどこからやってきたかその発生の地盤をわすれてしまう」とも述べています。
 では、「思想たる性格」とは何でしょう。これを理解するには、「論争=知性」に対比して、「思想≠知性」すなわち「思想の地盤は、感情や感覚など、知性とは根本的に異なるもにある」という、暗に示された筆者の見解を読み取らねばならないのです。論争を参与する知性とは論理・言葉・頭であるが、それに対して、思想はその背後にある時代の要請、雰囲気、感情、気分、実感、心を地盤としているということです。
 ちなみに、「思想もまた弱点としてのおのれを完成する」の意味についての私見です。私たちを取り巻く「世界」(=身近な人間関係、自分自身のこと、世界情勢まで全て)は、「事実」と「認識」で構成されているという二元論で語れます。この二元論においては、「思想」は「認識」の側に含まれます。それ自体は混沌として意味を持たずに横たわっている「事実」を、「言葉」という恣意的な区切り方で抜き取り、意味を与えたのが「認識」と言えます。言葉にした瞬間に、あるいは判断や価値観を通して意味を与えた瞬間に、それは元の「事実」とは異なるものになっている筈です。それはまるで3次元の世界を2次元で表現する絵画のようなもので、元のものとは違うじゃないかと指摘されれば、その通りです。この「元のものと違っている」という弱点は、空想の世界では無敵でも、人間の肉体を持ったとたんに弱点を身にまとうのと似ています。全ての「認識」は(ここでは「思想」という言葉を使っていますが)、「認識」を完成した時点で弱点を持つという性格を内包しているのです。
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