こんにちは。いつもお世話になっております。
さて、

「温故知新[論語・為政] ふるい物事を究めて、新しい知識や見解を得ること。」(広辞苑)

この四字熟語は大変ポピュラーながら、いざ例を列挙しようとすると、愚鈍で無教養なわたくしにはなかなか思いつき難いものがあります。

例えば…わたくしならば、座視観賞式庭園の一つである京都龍安寺の石庭を思い浮かべます。
白砂に大小15もの石が点在しておりますが、方丈から、すべての石が一度に見られる視点はありません。
正面庭園に対する方丈が若干東にずれていることもあって、何度訪れても新鮮な感覚を抱きます。
大変にシンプルでありながら、見る視点(角度)によって趣が異なり嬉しい感動を覚えるのです。
ですが、はたしてこれが妥当な具体例であるかどうか、定かではありません。

ですので、哲学・宗教思想の旧いテクストや経典に日々慣れ親しむことにより、独自の新たな発見やよろこびを見出される
【皆様方ならではの「温故知新」】の例をこの場をお借りしてお聞かせいただけたら幸いです。
抽象的・具体的にこだわらず、ジャンルは全く問いませんが、かならずご自身がお感じになった例をお願い致します。 

何卒よろしくお願い致します。

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A 回答 (3件)

横井小楠の伝記「大義を世界に」。

大義とは、今なら「核兵器の廃絶」「地上から戦争をなくして、世界中がともに貧困からぬけだし繁栄すること」。
富山和子「日本の米」「お米は生きている」稲作が日本の地形、川、平野、ため池、古墳、森、水、水運をつくってきた。日本人の農業にたずさわった人々の労働の結晶が、わが大地なのだ、ということ。
福岡正信「自然に還る」春秋社。
1960年代の岩波講座哲学の「現代の哲学」「自然の哲学」50年くらい昔の本なのに、なぜか今日を予測したような論文。名古屋大学理学部坂田昌一博士の論文、討論など。
車庫のすみに文庫本がくくられている、そのなかに「原子論の誕生、追放、復活」というタイトルがみえた。「原子論」を「唯物論」に置き換えても似ている。ギリシャ時代の原子論から、インド・イスラムを経てルネサンスで近代物理学、近代化学のなかで復活する「原子論」。
人類の長い歴史の中で、女性が太陽であった、平和な時代。記録に残された階級社会。新しい秩序をもとめて動き始めた地球上の生き物たち。
アメリカ先住民(イヌイット、インディアン、インディオ)、アマゾン川に暮らす先住民、アイヌの人々は、女性、老人を大切にする。そして、人間的にすぐれていることを、白人が告白している。もしかしたら、人類は、そこを目指して、競争、闘争、抗争を繰り返してきたのか?
敗者の歴史に真実が隠されているのか?
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この回答へのお礼

HANANOKEIJ様、ご回答をありがとうございます。
たくさんの具体例をお持ちでいらっしゃるのですね。
本当に参考になります。

伝記の類を読んだ経験が少ないので、横井小楠の伝記に是非ふれたいと思いました。ありがとうございます。
これは大義を現代風に解釈なさるということでしょうか。

>富山和子「日本の米」「お米は生きている」稲作が日本の地形、川、平野、ため池、古墳、森、水、水運をつくってきた。
>日本人の農業にたずさわった人々の労働の結晶が、わが大地なのだ
>福岡正信「自然に還る」

岩波ジュニアなどで富山氏の著書は親子で良く読みます。
福岡氏の名前も存じ上げております。
単なる食糧需給率や国の減反政策との絡みだけでなく、遥か古代から日本の生態系や文化の根幹である「稲作とその現状」に関し、わたくしたちはもっと重きをおいてもよろしいのかもしれませんね。

>1960年代の岩波講座哲学の「現代の哲学」「自然の哲学」
>名古屋大学理学部坂田昌一博士の論文、討論など。

「なぜか今日を予測したような論文」とはいかなる内容なのでしょう。
なるほど、昔の論文が現代諸事情に通じるものがあると、自ずと「温故知新」的性格を帯びるのかもしれません。
逆に、発表当時は斬新でユニークであっても、時を経てオールド・ファッションになり果てる論文も存在するのでしょうか。

>「原子論」を「唯物論」に置き換えても似ている。
>ギリシャ時代の原子論から、インド・イスラムを経てルネサンスで近代物理学、近代化学のなかで復活する「原子論」。

はい、この「原子論」は古代ギリシャより脈々と語られ「素粒子論」「量子力学」へ連なる壮大な「温故知新の命題」ですね。

>アメリカ先住民(イヌイット、インディアン、インディオ)、アマゾン川に暮らす先住民
>アイヌの人々

「歴史に埋もれた敗者」から「温故知新」の精神で現代社会に対する何らかのアンチ・テーゼをなさろうというHANANOKEIJ様のご考察ですね。
敗者の歴史にはどんな真実が隠されているのでしょう。
そして「敗者の想像力」はどのような形で息づいているのでしょうか。

わたくしもHANANOKEIJ様を是非とも見習って、広範な事象に注視しつつ自分なりの「温故知新」の精神で新たな発見をしていきたいと思いました。
また是非ともご教授下さいませ。よろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2009/05/16 23:11

 mashumaro2 さん こんにちは。

投稿いたしますのは 初めてになりましょうか。
 
 何ごとにも憑依する《ヨリ》なる原始心性について 悪口ばかりではいけないと思って 次のような挿話を 聞いたことがありますので ちょうど このご質問に 投じます。

 アイヌの巫女の話です。
 広く《共通感覚 sensus communis 》を持っていると捉えればよいかと思うのですが どうでしょうか。つまり

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
 してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
    の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
    あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。
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この回答へのお礼

bragelonne様、こんばんは。
初投稿、光栄に存じます。本当にありがとうございます。

>何ごとにも憑依する《ヨリ》なる原始心性について 悪口ばかりではいけないと思って 

ん? どこぞで≪原始心性ヨリ≫まで、しっかり悪口をおっしゃっていたというのですか! なんと”ぶっきらぼうな”!
(”≪ヨセ知性=アマテラス≫の悪口に対する弁明”はしっかり覚えておりますけどね。)

>アイヌの巫女の話です。
>広く《共通感覚 sensus communis 》を持っていると捉えればよいかと思うのですが

なるほど、アイヌの巫女のような「体の一部が痛くなる」というシャーマニズムというのも≪sensus communis≫の一種と言えますね。
では、かのカントはいったい何からインスピレーションを得てあらたに≪sensus communis≫を定義づけたというのでしょうか。

慰みなんて、まさか、とんでもございません!
わたくしの方こそ、エビで鯛を釣った幸運のようなものです。
なんて悩ましい詩をかつてお書きになられたのでしょうか。
あの”Je EST un autre”はランボ様のソレ(長期間の、破壊的で計算された錯乱によって見者(ヴォワイヤン)としての詩人)とはとても似つかないほど微笑ましくて♪
でも不実なのですよね、わかるわかる~(笑)

あとですね。
三葉虫から屈辱を~のくだりが超シュール!と感激しまくりです。
JeとElleの≪sensus communis≫とJeとIlの≪sensus communis≫も、ちょっとビミョーに”違う”のかもしれません。
ナノ・サイズほどに、ですが。

ほとんど、後半は一人感想となってしまいました。
そうそう、フーコ・デカルト・アウグステフィヌスの「主体」のご回答につき、わたくしはどこかでdeja-vuな≪sensus communis≫を感じるのですが…
きっと気のせいですよね??

お礼日時:2009/05/17 00:20

逆説めいて恐縮なのですが・・・、



私は、古い書物から新鮮味を味わうと言うか、成る程と感動する事が、稀にあります。

理系分野からで恐縮ですが・・・、
例えば・・・、三角関数の加法定理の説明について(数式は省略させて頂きますが・・・)

私の習ったのは、単位円を利用した方法で、単位円上の異なる2点の内積と回転による不変性を用いた導出の仕方だったが、手持ちの古書(・・・と言ってもそれほど古い部類には属さないかも知れないが70年ほど前の書籍)で、同じ三角関数の加法定理の説明に、微分方程式を利用した方法が取られていた。

これは、当方にとって非常に新鮮味のある説明だなぁと思い、感心すると同時に「目から鱗」的に感じた事があった。

「温故知新」の、「故」の側に新鮮味を感じたと言う事で、一例を挙げさせて頂きました。
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この回答へのお礼

Ae610様、ご回答をありがとうございます。
大変参考になりました。

>私は、古い書物から新鮮味を味わうと言うか、成る程と感動する事が、稀にあります。

はい、「温故知新」の意義として一番想起し易い具体例のように思われます。

>私の習ったのは、単位円を利用した方法で、単位円上の異なる2点の内積と回転による不変性を用いた導出の仕方だったが、
>手持ちの古書(70年ほど前の書籍)で、・・・微分方程式を利用した方法が取られていた。

なるほど、かつて学ばれた手法と異なる新たな解法を、お手持ちの古書からたまたま発見なさったということなのですね。
Ae610様が「非常に新鮮味のある説明、目から鱗」と感激なさったくらいですから、さぞシンプルでエレガントな解法だったのでしょう。
よほど嬉しかったのではないでしょうか。

わたくしも数学は好きでしたし(国語は大キライ)、自分なりの変なこだわりといいますか、人と違う解き方を好んで模索したことを覚えております。
とても楽しかったです。
でも、解が正しくても、そこに至るまで筋道立てて説明するのを端折るから、よく指摘されました。
せっかくの「勘」の良さもきちんと他人に伝えないことにはどうしようもないのですよね。
我が子を顧みて今頃過去の顛末を後悔しても時すでに遅し、ですが←これが本当の温故知新です?

これからもAe610様ならではの「故」の側に「目から鱗!」な発見をたくさんなさって下さいね。
そしてまたいつかご教授のほどよろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2009/05/16 22:22

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白砂に大小15もの石が点在しておりますが、方丈から、すべての石が一度に見られる視点はありません。
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大変にシンプルでありながら、見る視点(角度)によって趣が異なり嬉しい感動を覚えるのです。
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人類の長い歴史の中で、女性が太陽であった、平和な時代。記録に残された階級社会。新しい秩序をもとめて動き始めた地球上の生き物たち。
アメリカ先住民(イヌイット、インディアン、インディオ)、アマゾン川に暮らす先住民、アイヌの人々は、女性、老人を大切にする。そして、人間的にすぐれていることを、白人が告白している。もしかしたら、人類は、そこを目指して、競争、闘争、抗争を繰り返してきたのか?
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横井小楠の伝記「大義を世界に」。大義とは、今なら「核兵器の廃絶」「地上から戦争をなくして、世界中がともに貧困からぬけだし繁栄すること」。
富山和子「日本の米」「お米は生きている」稲作が日本の地形、川、平野、ため池、古墳、森、水、水運をつくってきた。日本人の農業にたずさわった人々の労働の結晶が、わが大地なのだ、ということ。
福岡正信「自然に還る」春秋社。
1960年代の岩波講座哲学の「現代の哲学」「自然の哲学」50年くらい昔の本なのに、なぜか今日を予測したような論文。名古屋...続きを読む

Q女装に見る進歩的な視点と保守的な視点

以前、ここでの質問で「スカートはなぜ女性の服?&スカート男子の疑問」

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8692669.html がありました。

異性装というのは生物的性別ではなく、ジェンダー(文化的?な性別)あるいは性的役割だそうです。

私が思うのは、性的な自認がたとえば、男性である場合にずっと女性の服装をしているのは生まれてくるのは本人が「性的役割」(まとう―被服行動の心理学)を望んで女性の性的役割でいきたいということかと思います。

また、ユング心理学ではたとえば男性にはアニマ(女性の部分)があるので、明確な区別があって、純粋な男性というのも変かと思います。男性らしさというのか。

男性が女性のアイテムを使う場合、

1.ファッション上級者(女性のものを違和感なく、男性のものの中に取り込める)(体形などを違和感なく実利で使える)
2.性的自認か、もしくは性役割を女性で行きたい人
3.倒錯などの精神的な病気の人
4.ひょっとして自然?(そこまで意識していて、女性の「性的魅力」(まとう―被服行動の心理学)のある服でも性的役割を一時期女性になる人?)

「男性のほうが女性よりも優位にある」 あるいは「劣位」として、勝手に文化が価値をきめているものですね。

4番だと本当は実は自然かもしれない話です。

男性と女性はありますね。脳の機能やホルモンなど少し違います。

いずれにせよ、この議論は生物学、男性学、人類学などまたがるもので結論なんて難しい話かと思います。

その文化がある価値をもって、それより進歩的であるあるいは革新的である人に対して、変な保守的な硬い主張もおこることがあるのかと思います。

保守的な伝統があっていて理性がどこかに問題がある場合
変な硬い保守的な主張がある中で進歩的なものがあってたり間違ってたりすることがある

というのがあるように思えます。

要はある人が人って有限な情報しかもってないので進歩的な話をされてもそれがあっているかどうかわからない場合って多いと思います。やはり理性への懐疑で慎重ではあるけど、かといって進歩を否定するというのは違うと思います。当然、そこまで考えてないのであっているかどうかわからないです。それで間違って違う方向へ進歩されてもこまるので、止めないといけない場合もあると思います。

態度はどのようにあるべきでしょうか?

逆に自分では正しいことも進歩的革新的なアイデアなど存在してたりするということもあると思います。
過激な硬い否定家な理論家にどのように対処するべきなんでしょうか?

もう一つ、女装って上記の考えになるんでしょうか?「解放」などキーワードですね。売られているスカートも実用性以外に女性を想定したアイテムですね。

参考にしました。「まとう―被服行動の心理学 」中島 義明、 神山 進

以前、ここでの質問で「スカートはなぜ女性の服?&スカート男子の疑問」

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8692669.html がありました。

異性装というのは生物的性別ではなく、ジェンダー(文化的?な性別)あるいは性的役割だそうです。

私が思うのは、性的な自認がたとえば、男性である場合にずっと女性の服装をしているのは生まれてくるのは本人が「性的役割」(まとう―被服行動の心理学)を望んで女性の性的役割でいきたいということかと思います。

また、ユング心理学ではたとえば男性にはアニマ(女性の部...続きを読む

Aベストアンサー

よく判らないけど、思ったことを。

日本では昔から異性装はありますよね。
その時々で使い分けたりもしてるよう(仕事時と私生活とか)なので、仕事上や社会的役割上行ってそうです。


また、祭祀上、異性装をすることもあったようです。
(神を降ろした状態になる時とか。人と異なる者に成る為なのかな? また、降ろす神に性別があった場合、そちらに合わせるとかもありそう)

現代でも、お祭りの時に女装する方もいますよね。
(一般人で)
これは祭りの時は、いつもと違う時である種の異界となってるから(若しくはその事を表すため)なのかも。

これの発展型で、一種のお祭り的なとき(学祭や体育祭、コミケ等のコスプレが許されるとき…など)に行われてる事の理由の可能性がありますね。

この場合は、性的役割とは違う気がします。



そして…体験リポート漫画で昔読んだのですが、女装趣味の方の倶楽部みたいなのに行った時、本人が女性であったため、編集の方に代わりに体験してもらってのリポートで。
肩の力が抜けて表情が柔らかくなってた。っての印象的でした。
こんな格好して、顔を引き締めてるのはバカらしい と。
ガチガチの格好をしてれば、ガチガチの状態になるんでしょうね。ひらひらのやわらかふわふわを身に付けることによって普段の自分から解放されるってのもありそうです。
(ここでも性役割は関係が無さそう)
女装趣味と性嗜好(同性愛)は別物のようです。
もう一人の自分(別の人)になる、分かりやすい方法なのかも。(本人の脳内で別と分けやすそうで、その気に自然と成れるとか)

よく判らないけど、思ったことを。

日本では昔から異性装はありますよね。
その時々で使い分けたりもしてるよう(仕事時と私生活とか)なので、仕事上や社会的役割上行ってそうです。


また、祭祀上、異性装をすることもあったようです。
(神を降ろした状態になる時とか。人と異なる者に成る為なのかな? また、降ろす神に性別があった場合、そちらに合わせるとかもありそう)

現代でも、お祭りの時に女装する方もいますよね。
(一般人で)
これは祭りの時は、いつもと違う時である種の異界となってるから(...続きを読む

Q「あくまで」「あくまでも」の意味

「あくまで(飽くまで)」「あくまでも」という副詞の意味ですが、辞書をひくと「物事を最後までやりとおすさま・徹底的に」とあります。例文も「あくまでもがんばる、あくまでも主張を貫く」などとあります。

しかし、よく話の中で「あくまでも個人的な考えですが・・・」「あくまでも噂です」「あくまで一例です」「あくまでの話しです」などという風に使われます。このような文章中では「徹底的に」という意味ではないと思うのですが、どうなのでしょうか。

Aベストアンサー

あくまでも、という意味の「徹底的に」という所から転じて、「完全に」とか「中途半端ではなく(どこまでも)」という様な意味合いも持っています。


「あくまでも個人的な」
完全に個人的な

「あくまでも噂です」
=「あくまでも噂[に過ぎません]」
完全に噂に過ぎません

「あくまで一例です」
=あくまで一例[に過ぎません]」
完全に一例にすぎません

「あくまでの話です」
・・・すみません、この用法は聞いた事がありません。

Q手紙はかならず宛先に届く

これは、ことば遊びではありませんか?

質問に不審な方は、HNをクリックして、コメントを見てください。

以下余白

Aベストアンサー

原因があるところには、必ず、結果が生じるからだと想います。
「エネルギーの交換」が行われるからだと想います。

「作用・反作用の法則」というのがありますが、
例えば、台車を「押す」と、台車には「押される」という反作用が生じます。
「押す」という「+のエネルギー」と同じ大きさで「押される」という「ーのエネルギー」が生じます。

原因があれば、必ず、結果が出るように、この宇宙は出来ているんです。そして「エネルギー保存則」により、それは作用したのと同等のエネルギーの反作用として現われるからだと想います。(因果応報)

Q意味を研究する事って

こんばんは。
今、授業で「認知意味論」を学んでいます。私は「意味を研究する事に意味があるか」という質問に答える事になったのですが、意味が無いと言ってしまうと授業が成り立たないので意味があると答えるべきだと思いました。
しかし、その根拠となる事柄がなかなか思いつきません。「どんな語にも意味があり、言語活動は意味を伝達する事であるから」ということだけでは、意味を研究する意味の根拠としては乏しいと思うのです(語の持つ意味が重要だとしても、言語によって意味は違い、その全てを網羅するのは不可能に近く、また、ある一つの言語に限っても、類似した意味の区別をつけることは困難、つまり意味というものは曖昧なものだから。)
そのような訳で、意味を研究する事の意味はどこにあるのか、皆様の考えをお聞かせ願いたく、質問しました。
また、私は専門家ではないので難しいことは分かりません。もし上の私の考え方でおかしなところがあれば訂正頂ければ助かります。

Aベストアンサー

意味論というのは定義が難しくて定義も様々ですが、共通して確認できる前提としては、意味というものは社会的な性質を持っているということです。要するに、言葉の意味とは事物の中に隠れているものが発見され命名されるのではなく、人間がその言語を通して事物に意味を与えていくものだということです。

将棋をさす時にある駒が足りなければ、そこらの石でも牛乳瓶のふたでも、何でも代用することができますが、これは駒そのものが重要なのでなく、将棋というゲーム全体の関係性の中においてその駒に与えられた意味が重要だからです。逆にいえば、ある駒を見つめていてもその駒の持つ意味というものは決して理解できません。

これと同様に、意味というものは全体の関係性の中で言葉に付与されるものですから、孤立した単語を眺めていても決して浮かびあがってくるものではありません。言葉の持つ意味とは、他の単語との関係の中に捉えられる、ある体系内の価値である、という風に認識できるでしょう。言語とは網のようなもので、意味とはその中の流動的なひとつのマスに過ぎません。これが意味論の根本的なスタンスと言って良いでしょう。
そう考えると、ご質問にある「言葉の意味を考える」ことは、すなわち社会制度としての言語の意味のネットワークを考える、ということに直結するわけですから、文化・社会・歴史全般にわたる広がりを持つという意義もわかるでしょう。裾野が大変に広いわけです。

言葉がご指摘のように曖昧な意味を担っていて、周辺のぼやけというかある幅を有することも事実ですが、先の意味から考えればこれは逆に、意味が他律的に周囲との関係の中で定まるものであるがゆえに、意味の中心が存在せず、せいぜい最大公約数的なものしか認識できない、という風に言えるでしょう。

要するに、明快な意味が定義できないから駄目なのでなく、そこをスタートとして、それなのに曲がりなりにも意味が通じ合うのはどういうことなのか、という風に意味の意義を求めてみてはどうでしょうか。
「言葉はモノの名称リストではなく、我々の世界認識の結果である」というのが、現在の言語観の基本です。

また、意味というものは意外と動的なもので、単純なものではありません。意味論の初歩でデノテーションとコノテーションを学ばれることと思いますが、例えば『ユダヤ人は所詮ユダヤ人さ』というせいりふの意味を考えてみると、最初のユダヤ人は「ユダヤ民族に属する人」という外示的意味(デノテーション)を指すのに対し、あとの方のユダヤ人とは「狡猾でずるいやつ」という共示的意味(コノテーション)を担っています。

これはひとつの些細な例にすぎないのですが、コノテーションを深く知れば、表現を通じて人間の意識というものを知ることにもつながります。言葉の意味は一定しないもので、常に既成の意味体系に限定されていく人間の意識が、言語の表現作用を通じて解放されていく様がコノテーションには見られるからです。
意味というのは世界の分節化であり限定性を本質的にもつものですが、それに抗って新しい意味生産を行うこと、つまり、言語の網の目の改変、という点で言葉の意味をたどることは人間の意識や思考方法そのものを見つめることに直結します。無意識のレベルで言葉の音と意味がどのように関わりひとつの語として紡がれるのか、というプロセスを研究する人達もいます。

さらに、認知意味論というのは特に人間が意味を認識する過程を問題にするわけですから、意味を考えること、ひいてはどうやってその意味が認識されているのか、ということは人工知能や認知哲学など広い分野に活用されるべき知識です。
例えば、海に浮いているメッセージボトルを見たとき、我々はすぐにそこに何らかの意味があることがわかるのですが、これはなかなか容易なことではありません。内部情報(中の紙に書かれている意味)を理解する以前に、外部情報(例えば「この文章が日本語で書かれている」といったこと)、さらにフレーム情報(つまり「このボトルの中には意味のある情報が入っている」ということ)が適確に理解されなければなりません。
「これは意味のあるモノである」という情報それ自体もメタ情報として意味を担っているわけで、実は語やモノの意味を理解することはそれ以前に多くの意味の解釈を必要としているのです。我々にとっては無意識の作業ですが、そういった事柄が我々の頭の中でどのように認識し処理されているのか、大変興味深い研究テーマだと思います。その困難さは、人工知能にこれらの行為を代替させようとした時にどれほどの困難が伴うことかを想像してみればわかることでしょう。

※少しご質問の内容とはずれがあるかもしれませんが、あまり意味論を理解していない回答が多いようなので、敢えて考え方のヒントとして書いてみました。ご参考までに。

意味論というのは定義が難しくて定義も様々ですが、共通して確認できる前提としては、意味というものは社会的な性質を持っているということです。要するに、言葉の意味とは事物の中に隠れているものが発見され命名されるのではなく、人間がその言語を通して事物に意味を与えていくものだということです。

将棋をさす時にある駒が足りなければ、そこらの石でも牛乳瓶のふたでも、何でも代用することができますが、これは駒そのものが重要なのでなく、将棋というゲーム全体の関係性の中においてその駒に与えられ...続きを読む

Q般若心経と般若経典群

素人ですが、般若心経に興味を持ち、一般向けの解説書を十数冊読んできました。

般若心経は般若経典群のエッセンス、とのことですが、これはたとえば「超訳」「まとめ」のような意味なのでしょうか、それとももっと別の意味があるのでしょうか。

般若心経には難解な部分、意味の通じない部分、そして後半に突然羯諦羯諦・・・の呪文が出てくるわけですが、これも般若経典群の「まとめ」と解釈すれば納得できます。

そして、「超訳」であるなら、そもそも般若心経だけを理解して大乗仏教の深淵が理解できるわけもなく、般若心経をステップにして般若経典群を学びに入る・・・というのが本来のあり方のように思えてなりません。にも関わらず、「般若心経には宇宙の深淵がある」などといわれても、ちょっと困ります。

なんだか、般若心経はそれ自体がありがたがれ過ぎて「権威」となってしまい、疑うことまかりならん、わからんのはお前が未熟だからだ的な雰囲気がありますが、それにしては仏教会の権威である皆さんの(そのハズですが)書かれた解説書の解釈がバラバラ過ぎて、このような疑問を抱いてしまいました。

アドバイス、お叱り、否定、なんでも歓迎ですが、「知らない人の憶測による話」や、「思い込みによる感情的な否定」についてはご遠慮申し上げます。よろしくお願いします。

素人ですが、般若心経に興味を持ち、一般向けの解説書を十数冊読んできました。

般若心経は般若経典群のエッセンス、とのことですが、これはたとえば「超訳」「まとめ」のような意味なのでしょうか、それとももっと別の意味があるのでしょうか。

般若心経には難解な部分、意味の通じない部分、そして後半に突然羯諦羯諦・・・の呪文が出てくるわけですが、これも般若経典群の「まとめ」と解釈すれば納得できます。

そして、「超訳」であるなら、そもそも般若心経だけを理解して大乗仏教の深淵が理解でき...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは。



☆般若心経には難解な部分、意味の通じない部分、そして後半に突然羯諦羯諦・・・の呪文が出てくるわけですが、これも般若経典群の「まとめ」と解釈すれば納得できます。
◇これは間違いです。
テキスト的にいいますと、
おまじない(真言)の部分は他の経典から引用されたものですから。
そして、
この経典の功徳の素晴らしさを強調するために付け加えられた、と考えるべきです。

また、般若心経の本文も他の般若経から借用したものに過ぎません。
さらに、般若心経は経典の体裁を有しておらず、このために、「般若心経は経典でない」とする考え方もあります。
梵文(サンスクリット)は存在しますけれども、これは中国語からサンスリット語に翻訳されたものであり、この般若心経はインドではなく中国で作られた経典、つまり、偽経の疑惑もあります。

般若心経は、結構、いかがわしい経典なんですよ。


☆そして、「超訳」であるなら、そもそも般若心経だけを理解して大乗仏教の深淵が理解できるわけもなく、般若心経をステップにして般若経典群を学びに入る・・・というのが本来のあり方のように思えてなりません。にも関わらず、「般若心経には宇宙の深淵がある」などといわれても、ちょっと困ります。
◇「般若心経には宇宙の深淵がある」というのは大げさ過ぎると思いますが、
般若経で最も重要な思想である《空》について簡潔に記されているワケですから、
般若経のエッセンスがここにあるというのは、あながちウソではありません。

般若経は、一つの経典ではなく、聖書のように文献が多数集まった経典群であり、
般若経研究の専門家でもなければ、その全体像はつかめません。
専門家であっても、その全容はつかめない、といっても過言ではありません。
私を含めて素人には、ハッキリ言って、般若経は手に負えませんよ。

これを本格的に勉強しようとしたら、アビダルマなどの仏教の基礎学の知識が欠かせません。
そして、
般若心経が分からないというのは、こうした仏教の基礎知識が欠如しているためです。
ですから、
質問者さんが一般向けの書籍をいくら読んでも、分からないのは当然だと思います。

まずは、仏教の基本思想について書かれた本を読むことをおすすめします。



☆なんだか、般若心経はそれ自体がありがたがれ過ぎて「権威」となってしまい、疑うことまかりならん、わからんのはお前が未熟だからだ的な雰囲気がありますが、それにしては仏教会の権威である皆さんの(そのハズですが)書かれた解説書の解釈がバラバラ過ぎて、このような疑問を抱いてしまいました。
◇これらは、仏教学の専門家が書いた書籍でないからです。
僧侶や芸能人などの有名人が書いた本ではなく、仏教学者の書かれた本を読まれたらいいのではないでしょうか。

たとえば、
 真釈 般若心経
 宮坂宥洪著
 角川ソフィア文庫
あたりを読まれてみてはいかがでしょう。

この本はいい本ですよ。

ただし、この本に書かれている内容をすべて鵜呑にしてはいけません。
著者の独自の解釈なども多数含まれているので、批判的に読んでください。


ではでは。

こんばんは。



☆般若心経には難解な部分、意味の通じない部分、そして後半に突然羯諦羯諦・・・の呪文が出てくるわけですが、これも般若経典群の「まとめ」と解釈すれば納得できます。
◇これは間違いです。
テキスト的にいいますと、
おまじない(真言)の部分は他の経典から引用されたものですから。
そして、
この経典の功徳の素晴らしさを強調するために付け加えられた、と考えるべきです。

また、般若心経の本文も他の般若経から借用したものに過ぎません。
さらに、般若心経は経典の体裁を有...続きを読む

Q悪い意味からいい意味へ、またその逆。

こだわる、という言葉は本来「そんなことにこだわるな」というようにネガティブな意味だったものが「味にこだわる」というようにポジティブな意味でも使われるようになってしまいました。「すごい」や、最近では「やばい」も本来悪い意味がいい意味でも使われるようになったと思います。悪い意味からいい意味、いい意味から悪い意味に変化した言葉を他にあれば教えてください。またこういう変化のことを専門用語では何といいますか。(意味の昇華?意味の降下?)

Aベストアンサー

「素晴しい」(すばらしい)現在ではほとんどの場合いい意味で、「大変優れている」「程度がはなはだしい」時に使いますが、古くは良くないことに対して、「ひどい」「とんでもない」の意味で使いました。辞書には「この女ゆゑにやア素晴しい苦労をして」という例文が載っています。また大正時代の新聞の関東大震災の写真の説明に「素晴しい被害」という表現を見つけて驚きました。

Q主義主張がしのぎを削っているのが世界の当たり前|というわけで|わたくしの回答履歴

主義主張がしのぎを削っているのが世界の当たり前|というわけで|わたくしの回答履歴は許容性について考察対象となりえますか|その場合の蓋然性も求めます

Aベストアンサー

まいど。

主義主張が鎬を削っているというよりは、主義主張の解釈が鎬を削っているような気がします。

>わたくしの回答履歴は許容性について考察対象となりえますか

何の許容性についてですか?
まずそれがハッキリしないと、絞殺大将……いや、考察対象もへったくれもないと思うのですが^^

Q「抗原」の2つの意味

「抗原」には、次の意味1、意味2の2つの意味があるように思います。

意味1 抗原性を有する個々の蛋白質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5、N1は、それぞれウイルスの表面にある特定の蛋白質であり、それぞれ抗原であるとお聞きしました。H5、N1などのような「抗原性を有する個々の蛋白質」が意味1です。

意味2 抗原を有する物質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1の2つの「(意味1の意味での)抗原」を用いて他の生物に感染するとお聞きしました。このような「「1つ又は複数の(意味1の意味での)抗原」を有する物質」(例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルス)が意味2です。

質問1
「抗原」には、意味1、意味2の2つの意味があるとする上記の理解は正しいでしょうか。

質問2
上記の理解が正しい場合、「意味1の意味での抗原」と「意味2の意味での抗原」とを区別するために便利な名称があるでしょうか。

「抗原」には、次の意味1、意味2の2つの意味があるように思います。

意味1 抗原性を有する個々の蛋白質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5、N1は、それぞれウイルスの表面にある特定の蛋白質であり、それぞれ抗原であるとお聞きしました。H5、N1などのような「抗原性を有する個々の蛋白質」が意味1です。

意味2 抗原を有する物質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1...続きを読む

Aベストアンサー

 shozi_nkさんには前も忠告したのですが、前の質問へのQ&Aで派生した疑問については、その質問の中で再質問するなどして解決を図るのが筋でしょう。
 質問内容が元の質問からかなり離れてしまうと判断したため別の質問を立てる場合でも、せめて前の質問に対する回答には何らかのレスを付けて締め切るのが回答者に対する礼儀でもあるでしょう。

 それにそもそも、こうやって次々と「勝手な解釈による新しい質問」を立てていって、理解が深まるとも思えません。
http://okwave.jp/qa5346194.html
http://okwave.jp/qa5340779.html
 これらの前の質問に対する回答をきちんと理解すれば、本質問のような解釈は出てこないと思うのですが・・・
 「勝手な解釈」が前の回答に対するレスに書かれていればちゃんとフォローできるのですが、その都度新しい質問を立てられてはそうそうつき合い切れません。
 よって、本回答を最後にします。自分で書いた回答に対する再質問にはいくらでも対応しますが、これ以上の"新質問"にはつき合い切れません。

 「抗原」の意味は、基本的には"意味1"が正しく、それ以上の意味("意味2")はありません。
 otxさんが"間違い"と指摘したのは、

>抗原性を有する個々の蛋白質

 の"蛋白質"が間違っている、ということです。抗原は蛋白質だけでなくある程度以上の大きさを持つ分子であれば、たいていのものは抗原性を有するからです。(でも医学分野で問題にする大半の抗原は蛋白質ですが)

 で、「抗原性を有する」というのは、「抗体のターゲットとなる」と同義です。従って、「抗体のターゲットになるもの」は「抗原性を有するもの」と同じ意味になります。

 ・・・ま、「抗原」という言葉の定義に「抗原性」という"抗原"を含む言葉を使うのは適切ではないですけど。

>最初の質問で言いました次の(a)~(c)のいずれもが「ターゲットとなるもの」であると思えます。
>(a)H5蛋白質
>(b)N1蛋白質
>(c)H5N1鳥インフルエンザウイルス

 この中で(c)は違います。H5N1鳥インフルエンザウイルスに対する抗体、というのは厳密には存在しません。言い換えると、抗H5抗体や抗N1抗体は存在しますが抗H5N1抗体というのはあり得ないのです。
 ですから、ウイルス粒子そのものは厳密には「抗原」ではないのです。

>例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1の2つの「(意味1の意味での)抗原」を用いて他の生物に感染するとお聞きしました。

 ちょっと違います。
 感染の際に重要なのはHA蛋白であり、細胞内で増殖したウイルスが細胞から脱出(出芽)する際に重要な役割を果たすのがNA蛋白です。この2つの蛋白は、細胞への感染~出芽に至るウイルスの増殖サイクルの中で、別のステージでそれぞれ役割を持っています。別にHAとNAの組み合わせがどうこういう話ではありません。
 インフルエンザウイルスの亜型がH5N1というようなHAとNAの2つの血清型による亜型で型別されるのは、この2つの蛋白の組み合わせがウイルスの増殖サイクルや病原性にとって重要だからではなく、この2つの蛋白に多型性があるからです。

 例えばインフルエンザの迅速診断キットは、ほとんどの場合インフルエンザウイルスのNPという核蛋白に対する抗体を使用しています。
 つまり厳密に言えば、これらのキットで陽性となった場合、「患者の鼻腔拭い液等の検体の中に、NP抗原が存在することを証明」しているのです。直接的にインフルエンザウイルスそのものの存在を証明しているわけではないのです。

 しかし、ウイルス粒子が存在しないのにNP蛋白という"パーツ"が単独で存在することなどあり得ませんよね。なので、「NP抗原の存在を証明」=「A型インフルエンザウイルスの存在を証明」でokというわけです。
 この場合、学会や論文レベルでも「A型インフルエンザウイルスの抗原を検出」というような表現がされる場合があり、この場合は"意味2"のような使われ方をされていることになるのですが、あくまで読み手は「=NP抗原」と脳内変換して読んでいるので、ウイルス粒子そのものを「抗原」という認識はありません。(論文だとレフェリーに指摘されて書き直すことになる可能性が大)

 ちなみに迅速診断キットが、なぜHAやNAでなくNPをターゲットにしているか、は、「NP蛋白に多型性がないから」です。

 A型インフルエンザウイルスは、HAやNA、それと今話題になったNPの他に、RNAポリメラーゼ(PA,PB1,PB2の3つの遺伝子によってそれぞれのサブユニットがコードされている)やマトリックス蛋白(M)、非構造蛋白(NS)といった蛋白質を作ります。というよりウイルス遺伝子にこれら蛋白質がコードされています。
 また、MとNSはスプライシングされてM1とM2、NS1とNS2といった蛋白に合成されます。

 これらHA,NA,NP,PA,PB1,PB2,M1,M2,NS1,NS2といった蛋白(あるいはそのサブユニット)は全て「抗原」となり得ます。実際に感染した人はこれら全ての蛋白に対する抗体を作るでしょう。

 shozi_nkさんには前も忠告したのですが、前の質問へのQ&Aで派生した疑問については、その質問の中で再質問するなどして解決を図るのが筋でしょう。
 質問内容が元の質問からかなり離れてしまうと判断したため別の質問を立てる場合でも、せめて前の質問に対する回答には何らかのレスを付けて締め切るのが回答者に対する礼儀でもあるでしょう。

 それにそもそも、こうやって次々と「勝手な解釈による新しい質問」を立てていって、理解が深まるとも思えません。
http://okwave.jp/qa5346194.html
http:/...続きを読む

Q西洋哲学を究めたいと思っています。

西洋哲学を究めたいと思っています。

それにあたり、読むべき本を厳選して教えてください。

できれば、最初はこれ、その次はこれと順番もあるとうれしいです。

なにとぞ、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

西洋哲学には結論は無く常に新しい学説によって古い理論は論破されますので最高点に達したときにはそれは最高点ではなくなります。

それに対し東洋哲学=仏法は最高=最善=完全=完璧=永遠=全宇宙=仏と最初に頂点を定め、目標を定めていますのでいかに仏になるかを探るので極めることができます。

ですので答えのない西洋哲学には心の安定がないので哲学を志す人が少ないのです。ま、そこらあたりも勉強しだすとわかるでしょう。


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