都道府県穴埋めゲーム

クリスチャンではないのですが、自分の人生問題に関するヒントがあるのでは、と聖書(4福音書がメインですが・・・これを読むだけでも難しい)をよく読みます。
特に、最後の晩餐からイエスが十字架にかけられるまでの話は、毎回泣いてしまいます。
しかし、何度か読むうちに「他のことを全部信じたとしても、これだけは信じられない!」というところがありまして、3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかったことがあります。
ヨハネの福音書第13章の最後の晩餐でイエスがユダの裏切りを予告する場面ですが、ペテロがイエスの隣にいた弟子に、裏切り者が誰なのかを質問するように促し、イエスが「私がパンを浸して与えるものだ」と言い、実際にユダに与えます。

ここまでやったら、誰の目にもユダが裏切り者であることがわかるはずです。

何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか?
それだけではなく、その後、イエスが実際に捕まる場面に出くわすまで、他の弟子はユダの裏切りに気づいている様子が見られません(イエスが捕まったときに皆逃げた、というのを「他の弟子だって裏切ったのだ」と見なす人もいますが、私はむしろ「何が起こっているのかを実際に見るまで分からなかったから、パニックになったのだ(あらかじめ分かっていればそこまであわてない)」という意味で、無罪の証拠ととらえています)。
何人かのクリスチャンに訊いてみても分からず困ってます。ある牧師さんは笑いながら「人生の縮図ですから」と答えましたが、これではわかりません(というか、ショックでした。ここでユダを逃がしたらイエスが死ぬ、という場面が笑い事なのでしょうか?)

百歩譲って、この場面は一種の興奮状態で気づかなかった、としても、その後、オリーブ山に行ったときは、財布を預かっていたらしいユダはいなかったわけです。誰か「ユダはどこに行った?」「お使いから帰ってこないのか?」などと言い出しそうなものなのに、ユダがいないことを問題にする弟子はいなかったのは何故なのでしょう?

また、この言葉はユダにだけ聞こえるように言ったのだ、という人もいますが、イエスとユダしか知らないはずの言葉が、何故福音書に書いてあるのでしょうか? ヨハネの福音書の作成にユダはかかわっていないはずです。
(イエスキリスト自身は、最初から全部何が起こるかわかっていたので問題はないし、この質問の答えも知っているはずなのですが、本人に訊くわけにもいかないので困ってます。)

A 回答 (49件中11~20件)

 天安門虐殺から20年、中国指導部が口を拭っていて、それで世界から糾弾されて、政権交代とはなってません。


 生殺与奪の権利を持つ体制にはむかうことはよほどのことがないとできないでしょう。20年前も2000年前も。
 そもそも、どのような宗教であれ、神(仏)という架空の存在の上に成り立っているのですから、多かれ少なかれ砂上の楼閣です。自らの命を持って支えることは並大抵のことではありません。ぶれるのが普通です。
 ガリレオが宗教裁判後に「それでも地球は回っている。」と言ったとか、しかし彼の周りの地動説賛成派は黙っていました。でも、これが普通なのです。
 弟子たちが信じようが動揺しようが、キリストの真理には何の影響もないのです。自らの失態を隠すために各伝が書かれたかもしれません。
あいまいすぎて、判断材料にならないというのが私の考えです。

この回答への補足

何度もご回答ありがとうございます。
私の意見も大まかにはj59fmk53jhさんと同じようなところが多いので、私としてはそんなに対立していないように感じるのですけど。
>ぶれるのが普通です。
>でも、これが普通なのです。
もちろんです。国家的な権力を持つ宗教的指導者たちに個人で命がけで立ち向かうなんて、まずできるわけがありません。
実は、私は非科学的なことが大嫌い人間です。だから、そうそう鵜呑みに信じたりはしてません。
それでも聖書に興味を持ったのは、福音書に少しでも何かあるとするならば、イエスキリストがそのできるわけがないことをやったらしいから、そして、復活後に普通人だったはずの弟子たちが立ち上がったからです。
>あいまいすぎて、判断材料にならない
ほぼ私も同感です。ただ、少しでも材料を求めるとすれば。
>自らの失態を隠すために各伝が書かれたかもしれません。
これは逆かもしれません。
懐疑的に福音書を読んでも「ここは、多分事実だろう」と思われるところがあります。例えば、イエスが捕まったときに弟子たちが逃げたことや、ゲツセマネでイエスが祈りを捧げていたときに弟子たちが眠ってしまったことなどです。イエスの弟子たちは原始キリスト教団のリーダーになったわけですから、こういう権威を失墜しかねないことをわざわざ作り話で付け加えるとは考えにくいので、こういう
● 弟子たちにとって都合の悪いことがわざわざ書かれているところ
は、事実あったことではないかと推測されます。
このヨハネでの最後の晩餐では(長い年月の間にいろいろ話が変わっているところがあるにしろ)ユダを逃がしてしまった、という意味で弟子たちに都合が悪いわけです。従って、福音書の通りかどうかは別として、何かこのようなことが起こったのではないか?という可能性が残ります。

もうひとつ、私個人としては、こういうあいまいな話について理数系の考え方としては「実験してみる」というのがあります。実際、追い詰められてイエスの教えを実行せざるを得ないことがあったので「ええい!やってみろ!」とやってみたら、うまくいってしまった、という経験が何度もありまして「何でこれでうまくいくんだ??」という疑問が出たことが、何か普遍的な意味がどこかにあるのではないか、と興味を持ちました。

>弟子たちが信じようが動揺しようが、キリストの真理には何の影響もないのです。
まったく同感です。権力はガリレオを何とかすることはできても、地球が権力を恐れて自転するのをやめたわけではありません。私が普遍的真理というときは、最低限、物理法則なみの確実さをもったレベルの意味です。そして、どんな理由かは分かりませんが、イエスはそういった何らかの普遍的真理を知っていたのではないかという思いがあるのです。
文字数が足りず、補足欄に書かせていただきました。

補足日時:2009/05/31 16:39
    • good
    • 0

 No.6&32&56です。


 この投稿は もろに 信仰に立った見解です。
 引用のみです。No.6での出エジプト記からの引用をも 参照していただければ さいわいです。《顔覆い と それが取り除かれること》が 焦点です。
 ▲ (コリント後書3:6-18) ~~~~~~~~~~~~~~~
 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。

 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。
 そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。
 なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。
 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
 
 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    • good
    • 0

 回答番号:No.1 さんが仰せのように、究極は神の意識内のドラマとしてすべてはとり運ばれているのでしょう。


 そしてそれを見聞する手先として見聞した各個人意識は、それなりに辻褄の合うように事件を編集するのでしょう。
 そしてそれを自己の究極者たる究極意識に伝えて意識してもらっているのでしょう。

 久方に謦咳に接する事の出来たbragelonneさんの能天気論もあったはずです。そして合致し、それとして効力が発生するはずです。
 使徒たちは、偉大なグルの言説を、その声と一所にいることを楽しみ、まだその深刻さを認識できないで、机上の事柄の域で受け取っていたという理解をbragelonneさんのご説明は、私も同感しておりました。

 以上の私の紡ぎ、編集において、No.56さん以降の各位のご説明はとても私には納得的です。
 ここで更にかの該博な学識の貴くるみさんのお声もあるかなぁとも思っています。分厚い量(料かな)を読むのは他称の老人にはたいへんですけれども。(お隣家の○成会支部長さんにおいでの、ずぅっと上のおねぇさまが、おじいさんと呼んでくれていますので。)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

またまたのご回答、ありがとうございます。
>神の意識内のドラマ
こいつを知りたかったのですが、自分の意識レベルをよほど高めないと難しそうですね。
博識の方のご意見も伺いたかったのですが、ここは議論の場ではない、という規約もあることですし、ある程度の納得が得られた時点で締め切るしかないかな?と、締めさせていただきました。
続きはまた別の機会でもありましたら。

お礼日時:2009/06/09 21:43

すごく難解な質問、疑問にあたってしまいましたね~


はっきり言ってよくわかりません。
そこよりイエスが言ったことが成就した。としか考えてないからね。それより一緒に飯が食えることに目がいっていたのかもね。最後の晩餐になるとも知らず楽しくほかの事を考えていたと思いますよ。
だから誰も何も言わなかったのでは?
わいわいと食事していたと思うけどね。
ルカには書いてないのかな?
なぜでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅れました。申し訳ございません。
まあ、素人目にも難しい問題だとは思います。
>イエスが言ったことが成就した。
そうなんですよねえ。私は日本人的な感覚で「何でユダをここで止めないんだ!?」という感情があるので、こういう質問になってしまいましたが、イエスは既に自分が十字架にかけられると預言していますから、これは成就されなければいけない。だから、ユダをここで止めてはいけないわけで。それじゃあ何でここまでイエスはばらすの?という疑問もあります。
>楽しくほかの事を考えていた
かもしれませんが、ここまではっきり示してしまうと、さすがに気がついてしまうかもしれません。やばいじゃないですか。

ところで、その~~。ちょっと言いにくいことなんですが(^^;
回答者様はクリスチャンのようにお見受けしますが。
>ルカには書いてないのかな?
回答者様は、聖書はお持ちでないのでしょうか(^^;;;;;

お礼日時:2009/05/30 18:47

 「密告者をお教えください。


 ペテロの囁きは、私の進むべき道を示していた。
 ここに集うこの弟子たち全員にさえ、神への信仰を持たせることができない私に、ここを出てさらに多くの人たちを、神への信仰へ導くことができるのだろうか?
 心なき者たちは、ここに集う弟子たちのことを取り上げ、私の神への信仰への反証とするだろう。
 今私がなすべきは、揺るぎない信仰を打ち立てることであり、そのために私のこの命が必要ならば、それが私の神への信仰の証しである。
 ユダよ、どうか私のこの信仰への証しをもって、心の目を開き、汝の心に正しき信仰心を芽生えさせるのだ。
 他の者たちよ、ユダを責めてはいけない。彼の心は未だ目覚めぬ幼子なのだ。目覚めたものが温かく見守らねばならない。
 我が弟子たちよ、このことを信仰の証しとし、多くの人々の心の目を開き、人々を神への信仰へと導くのだ。それが、神の御心に沿うことなのだ。
 ユダよ、私がパンを浸して与えたこれが、お前の信仰心を目覚めさせる心の糧となるのだ。たとえ今は分からなくとも。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
私はまだできていませんので、うまくいくかどうか分からないのですが、取り合えずここに(お礼を)書いてみます。分かります?超自然的なものを求める必要はないのです。
>ペテロの囁きは、私の進むべき道を示していた。
いえ、既にに道は示されていまし、分かっています。実はとっくの昔にもう仕上げの段階なんです。よくポジティブ思考とか言って、目標を定めることが大事とか言われています(別の言い方をすれば「道を決めるのが大事」と言われています)が、大事なのは逆なんです。ネガティブな思考、固定観念、自分の人生の信条(これが役に立っているか?と自分に質問してみるといいです)を、(捨てたらどうなるか、を考えずに)まず捨てることの方が大事なのです。サーカスの空中ブランコでは、次のブランコをつかむ「前に」今、持っているブランコを離しますね? 自分が飛べることを確かめるためには、崖に向かって自分が飛べるかどうかを考えることなく飛んでみるのです。水泳でも「泳げることが分かるまでは水に入ってはいけません」などとは言いませんね。
>弟子たち全員にさえ、神への信仰を持たせることができない私に
ユダ以外には多くの人たちに信仰を持たせることができる、とはっきり分かっていますよ? だって、実際に出来たでしょ? 「悪しきものに逆らうな」「そっとしておきなさい」「汝の敵を愛せよ」などと言われると、「それじゃあ、悪い奴らを放っておけ、と言うのか!」と普通は思いますよね? でも、これを実行しながら、国家権力に勝って歴史を変えることができたでしょ?柔よく剛を制す、のは相手の力を利用することです。何が何でもイエスを死刑にしようと無理をしたために、かえって弟子たちの心に火をつけてしまったのです。イエスが十字架にかけられたのは、ユダヤ人にとって一番宗教的に高揚している「過ぎ越しの祭り」の時期です。
>たとえ今は分からなくとも。
ヨハネの福音書の、私が質問した部分は、まさにそういう時期を狙って、今は分からなくとも後で分かって心に火がつくように仕掛けていると思いませんか? もっとも、今の私ではとても想像できないやり方なんですが(だから質問したのです)。
取り合えず、混乱した文章かもしれませんが、お礼まで。

お礼日時:2009/06/04 22:41

 No.6&32です。



 ひとつのことを 補います。
 ☆☆ (No.32) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔弟子たちは〕 たとえ イエスを裏切ることになろうと 何をしでかすことになろうと あるいはまた イエスにたとえ裏切られることになろうとも 何の心配もしていなかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう結論を述べましたが これに補足します。
 ○ もし 裏切りのことで ユダがその犯人だと明らかにされたあと イエスが さらにそのことを どうしても 弟子たちに はっきりと知って欲しいし きちんと注意するように求めていたのであれば イエスは さらに 言葉を継いで 伝えるでしょうし それにどう対処するかを考えるように 促したでしょう。
 ☆ イエスとしても まだ――つまり イエスのときは来ているのですが まだ しかるべき死を死んでいないときには まだ―― その裏切りという行為じたいについては 弟子たちは 能天気でいいのだと 言わず語らずに 伝えていたのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

補足、ありがとうございます。締め切り後で申し訳ございません。
>さらにそのことを どうしても 弟子たちに はっきりと知って欲しいし きちんと注意するように求めていたのであれば
さすがに、これはないですね(^^; brageloneさんに賛成します。

ユダが出て行ったのを見届けた後に、イエスは「今や、人の子は栄光を受けた」(ヨハネ-13-31)と言ってますから、まさにそこでユダが出て行くことがイエスの予定どおりだったのでしょう。

お礼日時:2009/06/09 22:36

 回答番号:No.53 補足:


 ことば表現として、≪文学的、小説的理解≫ということばを遣いましたが、これは無論、それなりの根拠、論理構成と論理的表現が必要でしょうし、荒唐無稽であったり、あまりに自己の個人感想であったりしては意味の共有ができないでしょう。
 それに何より、キリスト教や聖書、そして我々が理解している当時の歴史的状況や事情に沿い、なるほどと思えるものでありたいですね。
 単なる想像や現代経験とのダブらせ叙述ではないことが必要でしょうね。
    • good
    • 0

 では簡単に、「同じ釜の飯(日本的に言ってます)を食っている弟子の中に、師を裏切るものなどあるわけがない。

」という、希望的楽観論によって自らの疑念を払しょくし、事態の悪化を招いただけです。
 その意味では、2000年後の現代でも相も変わらず普通に日々起こっていることです。
 日本の政治家たちの騙しの巧さといったら、詐欺師顔負けです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅くなり、申し訳ございません。
ご回答、ありがとうございました。
これは十分有り得ることですね。
日本の経済も希望的楽観論で考えては危ないですよね。

ただ、実はこれだけでは答えの半分なのです。
この答えでは「しかし、これだけはっきり示してしまったら、もしかしたら、他の弟子も気づいてしまうかもしれない」という可能性が残るからです。
ユダを何故ここで捕まえないのだ!という気持ちが強かったので、このような質問になってしまったのですが、イエスは十字架にかけられることが預言されているため、ここでユダを捕まえては絶対にいけないのです。何か、絶対にここでは弟子が気づく可能性が0である、といった意味があるか、イエスが楽観論を完全に「見切って」、この状態ならここまでばらしても大丈夫と確信しているはずなのです。

イエスは愛を説いて実践したのは本当だと思いますが、権力者に毎日命を狙われていました(従って、平和ボケやお人よしだけは絶対に有り得ないのです。日本人に悩みを相談しても平和ボケが平和ボケに相談しているような感じになってしまうため困っているのです)。ほんのわずかの失言でも殺される状況を、簡単に一蹴しています、ここら辺を見ると、政治家の騙しなど児戯に等しいまさに神がかり的な人心操作能力(?)のようなものを持っていたと思われます。そこらへんの秘密を知りたいのです。

とはいえ、きちんとご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/30 15:49

 信仰上のご説明もたくさん寄せられております。


 私もご質問者さんと同様とはいきませんが、キリスト教という名称の宗教の信者ではありません。
 ですので、ご質問で挙げられていることを、事実とその経過の中で理解しようとすると、同じ疑問があります。
 どうしても払拭できない疑問ですね。
 これは俗的世界というか、警察的、検察的、裁判所的、そして新聞報道的からみての、矛盾と疑問です。

 ここでの事実とその経過の叙述ばかりではなく、聖書の事実の記述には多くの事実が捨象されているのでしょうし、背景やバック的事情と状況が記述されていないと存じます。
 そういうものは、今の私たちが事件事実を理解する上では不可欠のことなのでしょう。
 そういうものが欠落して記述され、編集されながら伝わってきていると存じます。
 ですので、細かい事情を私たちの論理のなかで理解する事は限界があるのは仕方ない。
 言わんとする事実だけを受け取る以外にはないと存じます。
 
 そしてどうも今、我々に伝わっている聖書というものが、一人の人の作ではないと存じます。
 いえ、○○による福音書とかがそうだというのではなく、著者名が書かれていないのですが、一つになっている本であれば、原則として一人の人がどの福音書も書いた、と理解できるものです。
 でも聖典の中で、聖書はとりわけ、一人の人による記述ではなく、しかも編集や書き込み、或いは訂正もなされていると存じます。
 そればかりか、排除されているもの多数ありそうです。
 つまり取捨選択されてきていると存じます。
 キリスト教という宗教は宗教改革やなにかが有りましたが、それ以上にたくさんのものがありえた、たくさんの民俗的な分化の一端だと存じます。
 統一的に、理論的にキリスト教を知る事は無理のようです。
 記述者はたくさんの聖者さまたちでしょう。
 その中にはたくさんの意図、目的、そしてバックグラウンドが介在していると存じます。
 しかも聖者方は事実と理論を意図的にまたは、性格からごっちゃにしながら、双方を織り綯いながら、記述していると存じます。
 他のところの話なども持ってきていると存じます。
 そういう記述ですので、晩餐や逮捕劇のところの辻褄を、今の私たちの、刑事的頭では合わせようがないのですよね。
 事実の受け取りをしようとすれば、まぁ仕方ないから、いろいろ足りないところを補い、解釈して理解することしかないと存じます。
 もし、どうしても現代の辻褄考えに合うように理解しようとするなら、そういう文学的、小説的理解を求めることに、方針を転換することが必要であると存じます。
 歴史の事実は芥川の藪の中みたいなもので、十人十色の説明となると存じます。
 信仰上の説明なら、まぁ信服とか、偉い人への感激とかで、一応宗派的束ね、統一見解になることもありうるでしょうけれども。
 それでも異端されざるを得ない事は当然あるでしょうね。

この回答への補足

すみません。お礼ポイントを差し上げたい方は沢山いるのですが、最高2人までだけですので、今回はご容赦ください。

補足日時:2009/06/08 19:27
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅くなり、申し訳ございません。
非クリスチャンとしてはkrya1998さんの態度が一番妥当だと私も考えます。
そもそも、4福音書の最後の晩餐の記述も食い違いがあるし、ヨハネでは日付さえ違いますものね。

ただ、この疑問は、高尚な宗教的・神学的・哲学的なものというより「常識的に見ておかしい」ので、キリスト教信者が布教しようとするとき、質問される可能性があります。だから、この疑問に関しては、宣教師が答えられないと布教になりません。
従って、誰かがこの疑問を研究していそうなものだ、と思っていたために質問いたしました。何しろ聖書の一番有名な場面です。21世紀になっても誰も研究していなかったら、それこそ奇跡です。

また、現代日本人の観点から質問してしまいましたが、古代ユダヤ人の視点では「預言は絶対である」というのがあります(「予言」ではない)。イエスが自分が十字架にかけられると預言したからには、それは絶対に実現しなければいけないのです。従って、ここでユダは絶対に捕まってはならないのです。だから、捕まらない理由があるはずなのです。

お礼日時:2009/05/30 16:03

ユダを評価する意見もありますが



「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」
と記述されています。

サタンが登場します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

いろいろ考えていただいて、ありがとうございます。
ただ、もしかして、これはNo.51さんへの反論でしょうか?
大変申し訳ございませんが、質問者の質問の方向と違うところで、他の回答者様への意見を投稿なされた場合、かえって余計な議論が起こる可能性があります。
私の質問の中には、ユダを評価するかしないか、の問題は入っておりませんので、回答でない回答、という禁止事項に引っかかるおそれがあります。
できれば、回答のみ投稿されるようお願いいたします。

お礼日時:2009/05/26 19:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す