プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

クリスチャンではないのですが、自分の人生問題に関するヒントがあるのでは、と聖書(4福音書がメインですが・・・これを読むだけでも難しい)をよく読みます。
特に、最後の晩餐からイエスが十字架にかけられるまでの話は、毎回泣いてしまいます。
しかし、何度か読むうちに「他のことを全部信じたとしても、これだけは信じられない!」というところがありまして、3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかったことがあります。
ヨハネの福音書第13章の最後の晩餐でイエスがユダの裏切りを予告する場面ですが、ペテロがイエスの隣にいた弟子に、裏切り者が誰なのかを質問するように促し、イエスが「私がパンを浸して与えるものだ」と言い、実際にユダに与えます。

ここまでやったら、誰の目にもユダが裏切り者であることがわかるはずです。

何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか?
それだけではなく、その後、イエスが実際に捕まる場面に出くわすまで、他の弟子はユダの裏切りに気づいている様子が見られません(イエスが捕まったときに皆逃げた、というのを「他の弟子だって裏切ったのだ」と見なす人もいますが、私はむしろ「何が起こっているのかを実際に見るまで分からなかったから、パニックになったのだ(あらかじめ分かっていればそこまであわてない)」という意味で、無罪の証拠ととらえています)。
何人かのクリスチャンに訊いてみても分からず困ってます。ある牧師さんは笑いながら「人生の縮図ですから」と答えましたが、これではわかりません(というか、ショックでした。ここでユダを逃がしたらイエスが死ぬ、という場面が笑い事なのでしょうか?)

百歩譲って、この場面は一種の興奮状態で気づかなかった、としても、その後、オリーブ山に行ったときは、財布を預かっていたらしいユダはいなかったわけです。誰か「ユダはどこに行った?」「お使いから帰ってこないのか?」などと言い出しそうなものなのに、ユダがいないことを問題にする弟子はいなかったのは何故なのでしょう?

また、この言葉はユダにだけ聞こえるように言ったのだ、という人もいますが、イエスとユダしか知らないはずの言葉が、何故福音書に書いてあるのでしょうか? ヨハネの福音書の作成にユダはかかわっていないはずです。
(イエスキリスト自身は、最初から全部何が起こるかわかっていたので問題はないし、この質問の答えも知っているはずなのですが、本人に訊くわけにもいかないので困ってます。)

A 回答 (49件中1~10件)

演出者としてユダの存在が必要不可欠だからです



ユダの裏切りでキリストが処刑されないとその後に起こる
キリストの復活に話が繋がりませんからユダが必要なのです

日本では俗に「やらせ」といいます
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
難解な回答が多く、お礼ができませんでした。
「やらせ」という視点は面白いですね。
ただ、この場面はややわざとらしすぎるので、やらせだとしたら失敗かもしれないです(^^;

お礼日時:2009/06/09 21:55

聖書と言ってもフィクションですからね。


面白く書かなければ信者さんも増えませんし。

キリスト教(その他の宗教も含む)に傾倒するのは若い時の一種のハシカのようなものです。
私も若い時にキリスト教について学びました、エホバの証人に。

ユダ以外の弟子達はよく言えば温厚で人を疑う事を知らないキリストの僕(しもべ)です。
悪く言えば世間知らずですよ。
今なら、おれおれ詐欺に漏れなく引っ掛かるでしょうね。

ユダだけが現実主義者です。
解脱できなくて一番人間臭い人だったのです。
なぜにユダだけが悪く言われるのかなと思ったりもします。
宗教者と言えどわが身が一番可愛いからです。

それからキリストは神の世界にいた時の位は「天使長」です。
天使の中で一番えらかったのです。
聖母マリアに「受胎告知」をした天使はキリストの部下です。

バチカンにいって大聖堂を心行くまで歩いてみてください。
キリストの教えが分るような気がしますよ。
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この回答へのお礼

難解な回答が多いので、締め切り後のお礼となりました。
すみません。
>面白く書かなければ信者さんも増えませんし。
いやあ、なかなかそうはいかないようです。
弟子たちがアテネで布教しようとしているときも、幾分かはそれなりに真面目に聞いていた人々も、死者の復活の話になると「それについては、いずれまた聞かせてください」などとまともに受け取らなくなってしまったそうで・・・。かなり苦労していたようです。

お礼日時:2009/06/09 22:27

これによると



ユダの福音書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80% …

>イエスを裏切ったイスカリオテのユダが実はイエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、
>「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「ユダの福音書」というのがあることは知っていますが、中身は全然知りませんので、評価はできないんですが。
ただ、どうも私の文章が分かりにくいようで、申し訳ございません。

私が知りたいのは、ユダのことではなく、イエスキリストとユダを除いた、「他の弟子たちの心理(?)、行動」なのです。

ただ、
>>「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。
だとすると、さらに謎が増えます。もし、そういう計画があったとしたら、誰にも見られていないところで指図をするような気がします。少なくとも、例えば、「イエスが右手の人差し指を上げたら計画決行だ」というようなサインを極秘に決めるのではないでしょうか?他の弟子たちの前で、ユダが裏切ることが分かるような行動を何故イエスがしなければいけないのか? 下手するとユダは殺されて計画がおじゃんになってしまうではないか?と思うのです。

ともあれ、私の質問の仕方が悪かったようで、申し訳ございません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/23 22:10

でも、ユダの福音書は外典ですからね。



ファンタジーですよ。フィクション。。。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/11 15:34

映画などではオリーブ山にイエスとその弟子がいて、ユダが兵隊を連れてきてイエスに抱きついて、それがイエスの判別というようになってますが、これはどう考えてもおかしいのですね。

兵がイエスだけを逮捕するわけが無いので、イエスは一人でオリーブ山にいったと考えるほうが妥当だと思いますね。
弟子たちはオリーブ山にいなかったからこそ、その事実を後から知って逃げたよう思いますね。
なぜなら、最後の晩餐とはいえ、それまでイエスとその弟子は隠れながら移動していたのですから、弟子たちにも逮捕状は出ていたと思います。オリーブ山で一網打尽にならなかったわけですからそこに弟子たちはいなかったということでしょうね。
また、逮捕前、イエスは常人にとっては理解不能な行動や言動が増えていたと思われますので、最後の晩餐前後の言動は弟子にも理解できなかったと思います。
そういう意味で「他の11人の弟子は分からなかった。」と捉えるべきだと思います。それゆえ、あわてたということは妥当な考えかとおもいます。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。申し訳ございません。
ご回答、ありがとうございました。
確かに、当然、イエスが捕らえられたということは他の弟子たちも危ないことは私にも分かります。だから、ペテロ(その他の弟子たちもそうでしょうが)は「あんな人は知らない」と言ったわけですよね。
だから、mmkyさんの話も「なるほど!」と思いました。
ただ、それはそれで問題も発生しまして、No.62さんへの補足でも書いたのですが、オリーブ山でイエスが祈っているときに弟子たちが寝てしまった、という話は創作ということになりますよね。イエスの弟子たちは、後の原始キリスト教団のリーダーになったわけですから、リーダーたちの権威が丸つぶれになりそうな話を、何故わざわざ創作して追加するのか、とか・・・。
>イエスは常人にとっては理解不能な行動や言動が増えていたと
増えるも何も、最初から弟子たちはほとんどわからなかったのではないでしょうか。そもそも救世主というのは元は迫害され続けたユダヤ人たちを開放する指導者のような意味だったらしいと聞いています。イエスの目論見は違っていたわけですから、理解できるわけがありません。
特に、最後の晩餐(ヨハネ版)のとき、イエスはすぐ後にユダにお使いをさせるような口調で裏切りを促すようなことを言ってますから、そんなことは到底理解不能という考えは有り得ると思います。裏切り者を捕らえろ!と言ったのなら分かりますけどね。
まあ、昔のことですから、私も完全な回答が得られるとは思っておりません。ともかくありがとうございました。

お礼日時:2009/05/31 22:15

 こんばんは。



 ★ 他の弟子は、何故ユダの裏切りに気づかなかったのか?
 ☆ この疑問には 今回 初めて接しました。
 ○ 弟子たちは ユダの裏切り行為に気づかなかったのか。あるいは どこで・どのあたりから 気づいたのか。

 ★ 最後の晩餐で・・・何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか?
 ☆ これは イエスが 弟子たちにとっては あとで気づくように 言っておいたものだと考えます。その席では 弟子たちは 気づかなかった。たしかに言葉ではっきり言っているのですが 言葉どおりになるかどうかは 自分たちで 決めなかったのだと考えます。
 もし キリストなる神の言葉として受け取ったとすれば それには 然り然りとして受け容れたでしょうし(つまり いわば鵜呑みしただけでしょうし) イエスなる人間の言葉としてならば まだなお議論の余地があるというくらいに受け取ったでしょう。(つまり 後者は いったい どういうことだろう?と いろいろ 詮索するだろうという意味です)。
 ところが このとき まだ イエスは 挙げられていませんし 復活の姿を見せてもいません。つまりは この 人間イエスは 神キリストであるという神学的な理解は それを自覚的に受けとめていることは 弟子たちにとって 無理だったと言うべきです。
 つまり 最後の晩餐において イエスの言う・キリストとしての意味が 弟子たちには 分からなかった。ユダの行動についても そうでしょうし 全般的に それは 言えるのだと考えます。

 ★ イエスが実際に捕まる場面
 ☆ このときも イエスがまだ その死を死んでおらず 復活してもいないという同じ局面にあります。
 ちなみに 最後の晩餐の席で ユダに 《しようとしていることを しなさい》とイエスが言ったことは ユダの裏切りのことですが その行動は いまの逮捕されることにとっては どうでもよいことだと わたしは 考えます。
 イエスが 当局にとって いわゆる面が割れていたのは はっきりしていたのではないでしょうか。つまり わざわざユダによって 特定される必要はなかったと見ます。
 では なぜ ユダに やろうと思うことをやりなさいと イエスは 言ったか。これは イエスが死に就く――実際には みづから 死に就くのですが――こととは関係なく ただ ユダという人間の救いにかかわることだと考えます。ここでは 裏切りというむしろ自己に対する背反をおこなってこそ 初めて かれは 我れに還る。ことができる。そういう人間であり そういう人生を送るというものだと考えます。
 ただ それだけの問題です。そのために わざわざ 十二人の弟子のひとりに加わったというものです。自殺行為が 救いの中に入るかどうか たぶん 入らないのですが その前には たしかに 自己還帰が成ったということではないでしょうか。わづかに 裏切りを行ない切ったあとなのでしょう。かなしい人生ですね。

 ★ 「他の弟子だって裏切ったのだ」
 ☆ これは ペテロが おまえはイエスの仲間ではないのかと尋ねられて 否と三度 言ったわけですから 明らかに――ペテロを この場合 代表としてのごとく ほかの皆も―― イエスを裏切ったと考えます。
 ところが ちょうど ユダの裏切りについて イエスが 明らかにして言っているのに かれら弟子たちは 実際どうなるのか分からなかったように イエスの死についても ましてや 復活についても(これは おとぎ話ですので そう断って述べるべきでしょうが) 弟子たちは いっさい 気づかなかったのです。
 言いかえると すでに 復活後は その仕事が決められていたと言うかのように 弟子たちは 選ばれていたわけですが この死と復活の以前では かれらは けっきょく 何も 知らなかったと言ったほうが 分かりやすいでしょう。
 神がモーセに語っている箇所から引きます。
 
   見よ 私の傍らに一つの場所がある。
   私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つ
  であろう。
   私はあなたを岩の頂上に置こう。
   私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。
   私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。 
   私の顔はあなたに現われないであろう。
        (出エジプト記33:20-23)

 要するに イエスの生前には 弟子たちは なんら キリストなる神の子であり神である存在について ほんとうには 知らなかった(自覚し得ていなかった)のでしょう。木の上の死を経て やっと かれの背面を見ることができたのではないでしょうか。気づいたのではないでしょうか。すべてを 理解したのではないでしょうか。かれらに やがて 《弁護者》が送られてきたでしょう。物語が 編まれていきました。・・・

 おおよそ このように捉えています。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
>☆ この疑問には 今回 初めて接しました。
実はここも問題でして(本当に絶望感に教われました)。数人のクリスチャンに質問して分からなかったので、ネットで検索しました。当然、ネットだったら、この程度の問題は簡単に答えが出るだろうと思っていたのです。正解は分からないとしても、当然、星の数ほど説があって論議がされているものと思ったのです。その中で有力な説を2~3知ればよかったのです。ところが、なかなか見つからない。

2000年も聖書が読まれていて、誰もこの問題を不思議と思わず、研究もされていない?そんな馬鹿なことが有り得るのか?聖書学者とか神学者とか宗教学者など、沢山いるでしょう?ここは、聖書の中で一番有名な場面のひとつですよ?

bragelonneさんの考察は大体私もやっていて、ほとんど賛成です。
>あとで気づくように 言っておいたものだと考えます。
それは明らかです。
聖書を見る限り。イエスの弟子たちが立ち上がったのは、イエスが十字架にかけられて復活した後であって、その前は、あるいみ普通の人だった、だからイエスのことはまったく理解していなかったことは自明だと思います。

●それにしても、この場面は、分からないにも程がある。

>もし キリストなる神の言葉として・・・後者は いったい どういうことだろう?と いろいろ 詮索するだろうと
もちろん、後者です。
しかし、神の言葉云々は問題ではないのです。
詮索どころか、あからさまにイエスにイエスに質問して、イエスは答えたのです。福音書に言葉がある、ということは、誰かがその言葉を聞いたということです。
状況からいって、イエスの隣にいた弟子は聞いたと思われます。またペテロ(ペトロの方がよかったか?)は質問するように合図したのですが、結局、ペテロは答えを聞いたのか?聞けなかったのか?聞けなかったのなら、何故聞き返さなかったのか?

聖書では、まるで、ペテロは、質問したこと自体を忘れたかのように振舞っています。

●ミステリーでは、一室に関係者が集まったところで名探偵が「ここに犯人がいる」と言った場合、大体、犯人は誰かが分かるものです。しかし、聖書ではそうはなっていない。これはどうしたことだ?というのが私の質問なのです。

レオナルド・ダ・ビンチの最後の晩餐の絵から、その後、ユダは誰にも見咎められることなく、堂々と出て行ったことになるわけです。常識的におかしいでしょう?

(質問とは別ですが、ここでもしユダが裏切り者だと分かってしまったら、下手するとユダは殺されます。
従って、私には、イエスがわざわざ裏切りの預言をしたときは、イエスは「ここで、これだけバラしても、他の弟子はそのことは分からない」ということを知っていた、と考えるしかありません。)

>当局にとって いわゆる面が割れていたのは
もちろんです。
>わざわざユダによって 特定される必要はなかった
いえ、ここだけは意見に反対で、イエスは、それ以前にも、散々当局によって処刑するため(本気で国家権力を持つ人々がイエスを殺そうとしていました)に言葉じりをとらえようと試みていましたが、イエスはことごとく一蹴していました。ここで、内部告発者が一人でもいれば、イエスを捕らえる理由になりますから、ユダの裏切りによって当局がイエスを捕らえる十分な言い訳ができます(言い訳だろうと、こじつけだろうと、何か理由が当局は欲しかったと思われます)。ユダの裏切りがイエスを捕らえさせたことは認めてよいと思います。

補足日時:2009/05/25 00:31
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
お礼では文字数が足りないので、補足に入れさせていただきました。
しかし、このカテに質問したのは、少々後悔しています。
聖書の謎は山ほどあるので、議論がどんどん発散してしまいそうで・・・。議論をやりだしたらきりが無いことは明らかですから。
沢山ある謎の中から、私にとっては最大の謎である質問を、ピンポイントでしたつもりだったのですが。
ちょっと風邪が長引いて、なかなか他の方へのお礼もできない状態なんですが、その間に議論がどうなってしまうのか、心配です。

お礼日時:2009/05/25 00:39

こんにちは、



>何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか?

おそらく質問者様は、ヨハネ書13章28節根拠にしているのだと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
28)席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これは、裏切りに気づいていなかったともとれるし、イエスの言葉の意味に気づいていなかったとも取れます。

ところが、気づいていなかったとしたら、おかしな出来事があります。

ヨハネ書18章10節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
10)シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ルカ書22章38節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
38)弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『殺人を目的とする道具、剣』を何故持っていたか? それは、イエスを守るため? 何故か? ユダの裏切りを聞いたからです。

レオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」では、聞いた瞬間にイエスを守ろうとペテロが剣を手にしていますね。左から3番目の人と4番目の人の間に剣が見えます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …

もちろん、本当は絵のように聴いた瞬間に剣を用意できる筈がないので、どこかに仕入れに行ったのでしょう、晩餐からイエス逮捕の間に。

>ここでユダを逃がしたらイエスが死ぬ、という場面

どうやら、イエスの面は割れていなかったようです。 ユダの死の接吻が無かったら、確かに捕まらなかったでしょう。

ルカ書4章28~30節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
28)会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、
29)立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。
30)しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

律法学者や、パリサイ人は、中々イエス本人を割り出せずにいたようです。

なぜなら、イエスは、目立つ事を嫌っていました。

マタイ書6書5節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
5)また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

それだけでなく、

ルカ書22章25~26節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
25)そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
26)しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まさか、皆の世話を人一倍焼いている人がイエス(=リーダー)だとは、誰も気が付かない。

そこで、彼らはユダを雇うわけです。

>イエスが捕まったときに皆逃げた、

命懸けで、イエスに仕えるつもりだったペテロ他弟子一行。

戦闘態勢を構え、おそらくモーセ以上の預言者を味方に付けた彼らはおそらく、何人を相手でも勝てる気がしていた。

出エジプト記17章11節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
11)モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もしくは、主の霊によって怪力でも手に入れて戦うつもりだったのかもしれない。
士師記15章14節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
14)サムソンがレヒにきたとき、ペリシテびとは声をあげて、彼に近づいた。その時、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おそらく、何らかの奇跡を期待しつつペテロは斬りかかった!

しかし、

ヨハネ書18章11節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
11)すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ええええええええええええええ~~~!!

とその時弟子達は驚く! 『戦って死ぬ覚悟を決め精神が張り裂けそうになっている最中に』、、

「捕まる事が、私の天命なの邪魔しないで。」なんてリーダーのお言葉!

そこで、弟子達はどうして良いか分からなくなり、、パニクリ、、、とりあえず、皆逃げる訳です。 

これが、イエス逮捕の情景だと推測されます。

この回答への補足

>ヨハネ書13章28節根拠にしているのだと思います。
それも根拠のうちですが、それ以外には。
ヨハネ13.37
ペテロ(ペトロ)は「あなたのためになら命を捨てます」と言っています。他の福音書にも同じような言葉が出てますね。
しかし、最後の晩餐のときなら、残り11人も弟子がいたのですから、命を捨てずともユダ一人を取り押さえることはできたのです。
もし、そのことを自覚していたら、こんな言葉をペテロは言ったでしょうか? これは、ペテロは結局ユダを逃がしてしまったことにまだ気づいていなかったからこんなことが言えたのだ、と感じます。まあ、これでは「命を捨てます」という言葉をまともに受け取るわけにはいかないですけどね。
また、オリーブ山でも、もしユダの裏切りに気づいている弟子がいたとしたら、ユダが道案内をしてくることもわかるはずですから「主よ、ここは危険です!別の場所に移動しましょう」という弟子も現れてよいはずです。
さらに、いくら疲れていても、何が起こるかわかっていれば、イエスが祈っているときに弟子たちも寝てはいられなかったでしょう。

>イエスの面は割れていなかったようです。
基本的には割れていましたよ。覆面もせずに各地で堂々と説教していたのですから。ただ、当時はカメラはなかったので、指名手配写真を持ち歩くことはできなかったでしょう。だから、面が割れていたとしても、本人確認の情景があることは不思議ではありません。

あと、剣については、そうかもしれませんがあてにはなりません。治安もよいとはいえないでしょうから、持っている人がいても不思議ではありません。
むしろ、2ふりしかなかったことの方が問題です。それ以前でも、イエスは常に命の危険に晒され続けていました。しかし、弟子たちがイエスを守った記述が見当たらないのです。イエスは一人で自分の身を守ってきました。弟子たちは、危機意識が非常に少なかったと言わざるを得ません。

>これが、イエス逮捕の情景だと推測されます。

●● お願いですから、「私の質問」の答えをメインとして書いてください。

ここも、重要な場面ですから吟味するべきですが、ここでこの議論はしたくありません。聖書には謎は山ほどあるので、話を拡大してしまったら、いつまでたっても終わりません。

補足日時:2009/05/25 02:10
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この回答へのお礼

長々とご回答ありがとうございます。
私の意見は補足の方に書かせていただきました。

お礼日時:2009/05/25 02:18

>私が知りたいのは、ユダのことではなく、イエスキリストとユダを除いた、


>「他の弟子たちの心理(?)、行動」なのです。

すいません。
私が質問を勘違いしました。


>「ユダの福音書」というのがあることは知っていますが、
>中身は全然知りませんので、評価はできないんですが。

私も中身は全然知りませんから、評価できません。
いい加減なことを言いました。

私の回答は撤回します。
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この回答へのお礼

いえいえ、とんでもない。
ご回答に感謝しております。
まあ、私もユダの福音書には興味はありませんけど(^^;

お礼日時:2009/05/25 00:45

うーん。


私の疑問は、金庫番を任されているってことは、一番信頼されているってことですよね、ユダは。

そのユダは何故、イエスを裏切るってことになったのか。
全くもってその理由が見当たらない。

またしても誤訳か?
かも。


裏切りとされる言葉は、古代では裏切りという意味では使われていなかったとか、そんなようなことを何かの本で読んだことがある。

弟子たちが「俺たちの中で誰が一番偉いか」と議論していて、イエスはそれに対して「この中で秀でたものがいる」みたいに応えて、弟子たちは「それは誰か?」と聞き、イエスは「私と同じ泉から飲むもの」と表現したわけですが、馬鹿な弟子たちはその比喩がわからなかった。

だからユダがでした地の中でイエスの唯一の理解者ってことで、金庫を任されていた。

こう解釈すれば、ストーリーのつじつまが合う。


何故ユダは裏切り者ってことになったのか。
一つは古代ギリシャ方面では、人に市民の罪をすべておっかぶせて突き落として殺して、市民全体の贖罪をするという風習があったそうです。
ユダは2通りの死に方が書かれていますが、その一つが飛び降り自殺。
全ての罪をユダにおっかぶせて殺したってストーリー。
それでユダは裏切り者ってことにキリスト教はした。
なんぜギリシャ方面でできた宗教ですから、ギリシャ方面の風習が物語りに反映するのはしごく当然。

もう一つかシカリが関係しているのかも。

ちなみにギリシャ方面では、イスカリオテのユダの神話があった。
そいいうのもあって、歪んでいって裏切り者って解釈になったのかも。



>イエスとユダしか知らないはずの言葉が、何故福音書に書いてあるのでしょうか

創作文学だから。
新約聖書はあちこちに古代の神話をつぎはぎしてできたもの。
創作文学なんです。

あなたは小説み「二人だけの会話」とかも読むことあるでしょう。
読者であるあなたは二人だけの会話すら知っているわけですが、設定は二人だけで内容なので、他の登場人物は知らず誤解したまま。
「じれったい 俺が真実を言ってやる」って思ったとしても、あなたは作者じゃないので、他の人達にあなただけが知る真実を教えることはできない。
それができないとわかっているが、イライラしたり、誤解されている人の同情したりと、心がゆさぶられ、小説を堪能するわけです。


小説家は全く何も無いところからは物語を作れない。
何かをベースにして作る。
例えば イエスはユダに銀貨30枚で売られたという箇所。
旧約聖書では ヨセフがユダに銀貨20枚で売られたとあるので、パクったわけです、作者は。

他にもいろいろな神話がパクられているし、イエスの人生とされる内容も他の神話のパクり。
キリスト教自体 他の多神教のパクり。
オリジナルなものは何一つ無い。
あっちこっちの宗教からパクったものがキリスト教。
シンボルのマークすら他からパクったもの。
新約聖書の内容もパクりづくし。
事実ではない。
他の神話から拝借して物語が作られた。
つまり創作文学です。
新約聖書通りの人生を歩んだ者などいなかった。
架空の人物です。
ユダもそう、ペテロもそう。実在の人物ではない。
12使徒全部 実在の人物では無い。
ピラトは実在の人物ですが、夜に裁判は行われない。
ピラトはローマに逆らう疑いのあるものは、裁判無しに処刑していた冷酷な人物。
ピラトがユダヤ人の暴動を畏れた?
逆。ピラトはユダヤ人を挑発したので、暴動が起っていた。
史実とは違うわけですが、小説は史実と違っても可。
エンターテイメント作品として内容が人々を感動させられれば、優秀な娯楽作品になる。
たとえ内容が史実とは違い、あっちこっちの神話のパクリだろうと、構成がすばらしければ売れるわけです。


パクリという表現はよろしくない、、手法って言ったほうがいいかも。
例えばドラマを作るにしても、神話をモチーフにして現代版を作るってのはザラにあるので、そういう過去の物語をベースにして、新しい物語を作るってのは、古代からあったもので、例えばイエス物語は紀元前何前年も前に作られた神話。
何度も何度も主人公の名前は違うが、同じ内容が各地に語り継がれ、そして最後のがイエス物語。
また紀元前何前年も前の物語は作られるでしょう。
現代風にアレンジされて。
読者の涙をそそるような創作文学は誰かが作るでしょう。


ギリシャ悲劇。
想像するに、沢山の人が円形ドームに集まり、舞台では悲劇の観劇が行われ、観客たちの心をゆさぶったでしょう。
一種のギリシャ方面の娯楽で文化。
このような土地柄で作られた新約聖書ですから。。。。

まあ あなたを泣かせるだけのストーリーを創作した作者 あっぱれですよね。
昔は映画とか民主が手軽に読める本とかありませんでしたけど、市民たちは集まって、ストーリーテラーの話す言葉に涙して満足度を上げていたのではないかと。


ほら 人の不幸は蜜の味って言うじゃないですか。
泣くことで自浄作用があるというか。
だから悲劇文学ははやったわけです。

何故そういう芸術が盛んになったのか。
シビリアンコントロール。
支配者にとって都合がいいわけです。
芸術が盛んになると、市民は支配者の不平不満を言わなくなる。
政治に関心を持たず、支配者が観劇を推奨してくれたら、支配者を同胞だと思う。
支配者の命令に従いやすくなる。
シビリアンコントロールの成功者の一人、コンスタンティヌス1世。
彼はニカイア会議の時 草案作りのほとんどをした。
異教徒のコンスタンティヌ1世がキリスト教の基礎を作った。
ニカイア公会議って有名ですよね?

キリスト教徒になるとき宣誓する時の言葉。使徒信条。
使徒信条の産みの親は多神教信者のコンスタンティヌス1世。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。申し訳ございません。
クリスチャンではないですけど、少々のことは目をつぶって出来るだけ書いてあることは本当、という目で読んでみたけれど「いくら何でも、これはないだろ!?」ってとこがあったので、質問したわけっす(^^;
まあ、パクリかどうか知らないですが、ノアの洪水もイエスの断食も40日って具合に「何で、こんなに40という数字が出てくるの?」とかもありますが・・・まあ、そこらへんはおいといて。

>ピラトはローマに逆らう疑いのあるものは、裁判無しに処刑していた冷酷な人物。
何で読んだか忘れましたが(遠藤周作氏の本だったかな?)このとき、丁度ピラトはバックの大物が亡くなってしまったため、立場が危ういので揉め事は困った、なんてのもあったような。まあ、取り合えずローマに逆らわなければ、今はそれどころじゃないのでユダヤ人同士のごたごたなどどうでもよかったのかも。

で、創作文学だから、って答えもあるかもしれませんが、質問したのは面白いからではなく異様だから。ここは。
普通、何か知らんけどユダって奴が裏切った、なんて話を聞けば、他の弟子たちが眠っている間なんかのときに、こっそり抜け出したんだろう、って思うじゃないですか。普通の人は。

ところが、何しろよりにもよって、あのレオナルド・ダ・ビンチの最後の晩餐のシーンから、隣の弟子が「誰が裏切り者なんです?」と質問して、イエスはほとんど名指しに近い返事でユダを示して・・・・・・それで、皆のいる中、誰にも見咎められることなく堂々と出て行った? 何だこりゃ?

小説家がこんな話を出版社に持ち込んだら、読者の理解を得られない、という理由で没決定でしょ?優秀な娯楽作品とは程遠い。
せっかく感動してたのに、ここだけ感動できなくなってしまったではないですか。

まあ、私が泣いたからといって全然あっぱれではないですが、この内容で世界中2000年騙してた、としてたら、それこそあっぱれですよ。

創作という答えもありとは思いますけど、質問は変わんないわけで。

あと、
>人の不幸は蜜の味
これはひどいですよ(T_T)。私がまるでこれで泣いたように見えるじゃないですか。そこまで陰険じゃないです(^^;

それでも、長文の答え、ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/01 11:58

ここまできて冗談じゃないですよ。


私の回答が「参考になった」1件になって疑問だったし。。。

カタルシス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF% …

wikipediaによるとカタルシスはオルペウス教などで魂の浄化を意味するって。

キリスト教ではないわけね。
ギリシア趣味の馬鹿は困りますね。

ユダの福音書だって、
全部嘘ってことではないよね。
なにかあったんでしょう。。。

もう、どうすればいんですか。。。
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この回答へのお礼

締め切り後、長期間たってからのお礼、申し訳ございません。
ご回答、ありがとうございました。
あまり悩まない方が健康に良さそうです(^^;

お礼日時:2009/06/27 02:58
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