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イエス様は「姦淫してはならない」と言ったそうですが、僕はSEXがしたくてたまりません。
他の戒めは良心と突き合わせても「まぁそうか」と思えますが、SEX禁止だけは「まぁそうか」と思えません。
何でSEXしちゃいけないんですか?
なんで素晴らしい女性の肌を楽しんではいけないのですか?
なんでオナニーしちゃいけないんですか?
もう我慢できません。SEXさせて下さい。

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A 回答 (22件中1~10件)

 こんにちは。



 《性行為》と 《姦淫》とは 別ですよ。

 《姦淫》とは ひとの自由意志を侵すものの場合です。
 《ひとの自由意志》というとき それは 相手の自由意志であることは むろんのことですが そこには 自分のそれも そして 自分や相手とそれぞれ深くつながりのある第三者のそれも 入ります。

 あるいはまた 《深くつながりがある》という意味は 一たん おのれの自由意志によって 互いに相手の意志をとうとび 自分勝手に それを踏みにじらないし 裏切ることもしないと決めたもののことです。そのようにすでに成立している自由意志のことをも含むということです。
 これを侵す行為は 一般に 倫理に違反するという言い方をします。平俗的には 不倫と言います。

 わたしたちは 自分の・つまり人間の 能力と意志とで この世界における行動が どうにかなるというわけのものではないようです。《人生 思うようには 行きません》。
 性行為にしても 同じです。あるいは 性欲にしても 同じです。それを 自分でおさえることも おさえないことも 思ったようにいくわけではないようです。
 すべては ゆるされています。ただし すべてが 益になるわけではないそうです。すべてが ゆるされていると聞きます。ただし すべてが 益になるとは限らないもののようです。
  すべて すべきことは ほんとうは こころが分かっているのではないでしょうか。
 また たとえ すべきではないという一つの判断を持った場合でも その場の待った無しという情況に わたしたちは 屈服することがあり得るのではないでしょうか。あとで取り返しのつかない姦淫をおこなうよりは いま差し迫った情況にかんがみて たとえ破廉恥なことでも わたしたちは おこなうことがある。こうも思います。
 さらにさらに この考察を練り上げていってくださいませんか?
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この回答へのお礼

さらに練り上げるって、哲学に縁のないこの、ただのHentaiにですか?

要約すると、つまり不倫は姦淫で、誰も傷つけないSEXは性行為であり姦淫ではないということでしょうか。それなら助かるのですが。
誰かを傷つけるようなSEXは自分の思い通りに行う事は出来ない。
誰かを傷つけるようなSEXはゆるされているけど益にはならない。
すべきことは自分の良心が分かっているのでその良心に従えばいい。
状況に応じて良心で取捨選択すれば良い。

こんなところでしょうか?
誰かを傷つけるような行為は、SEXにかかわらずしてはいけないと僕の良心は感じます。
誰も傷つけないSEXはお互いの身体の世話、欲求の解消であり善行だと思います。愛の交流だと思います。
しかし、誰も傷つけないSEXとしてもイエス様の目の前でそれが出来るでしょうか。
そもそも、なぜそれを人に見られたくないと思うのか。それはSEX自体悪と感じているからでしょうか?
いや、僕的にはSEX自体は善だけれども、見物する者が悪しき感想を抱くようだから警戒して見せたくないのではないでしょうか。
見物する者の悪しき感想とはひやかしたり怒ったりするわけですが、それが何故なのかは僕にはよく分かりません。イエス様にも怒られるかも知れませんが、それが何故なのか僕にはよく分かりません。わいせつ物陳列罪ということが。
僕はただのHentaiだからそれを見かけたら一緒に興奮してあとでオナニーをします。世の中これしか無かったら僕は別に見られても平気だと思います。一緒に興奮することは悪なのでしょうか。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/27 12:15

 No.18&16&14&3です。


 次のわたしの文章を補う意味で 引用をいたします。
 ☆☆ (No.3)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 また たとえ すべきではないという一つの判断を持った場合でも その場の待った無しという情況に わたしたちは 屈服することがあり得るのではないでしょうか。あとで取り返しのつかない姦淫をおこなうよりは いま差し迫った情況にかんがみて たとえ破廉恥なことでも わたしたちは おこなうことがある。こうも思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ▲ (アウグスティヌス)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 魂は 
 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(* 端的には 情欲のことです)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 
 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り
 そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。
 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。

 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。

 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。

 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。

 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。
 しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。
 (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

何度もご回答ありがとうございます。

やはり、僕には難解すぎてせっかくの補足も逆に分からないことが増える事態になってしまいました。切りがないのでそろそろ締めたいと思います。

内容はどうも、自分の肉体的な欲望を満たす目的の行為は恥ずべきことが、人の為にそういった行為をするのなら容易に許されると、そのような内容でしょうか。間違っていたら済みません。
僕は恥ずべきことと思うとさらに燃えてしまいます。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/31 11:17

そもそも「姦淫」とは一体何を意味するものでしょう。


イスラム教の一夫多妻制はキリスト教からみたら「姦淫」にあたるのでしょうか。
それとも3Pでなければそれにあたらないのでしょうか。
そしてそれを質問者様ご自身でお考えになったことがおありでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%A6%E6%B7%AB

人間の歴史上「結婚制度」というものがどのようなニーズに応じて方々で成立してきたのでしょう。
自らの子孫を確実に残したい、または我が子ではないかもしれないという不安や懸念を払拭するための男性側のニーズ。
子供を産んだあとこそが重要で、いかに安心して子供の養育を安定化させたいと願う女性側のニーズ。
以上の2つは最低限な理由として挙げられるかと思われます。

先史時代以前ならいざ知らず、日常的に姦淫を行うという事態というものは、想像ないし欲求するよりも案外「実現しにくい」ものなのかもしれません。

浮気というものがそれを容易に為し得る人にとってはさほど違和感を抱かない一方で、相対的にモテない人或いはそれを容易に実現しにくい人にとっては「倫理感」を理由に糾弾に走らせるものかもしれないのと同様に、
「安易に想像或いは欲求するほどには容易に実現しにくい」性質であるからこそ、初めから禁止規定に組み込んでしまったほうが「多くの成しえない人々の不満が解消し心安らかになる」とも言えるのではないでしょうか。

ただの一私見に過ぎません。失礼致しました。
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この回答へのお礼

現在の様に妊娠をコントロールできなかった頃に出来上がった習慣なのでしょうね。宗教によって色々「姦淫」の解釈は違うけれども妊娠をコントロールしにくいという問題のため、昔から簡単にはSEX出来なかったかも知れません。

なかなか出来ないことの気休めとして、SEX自体を悪いものとしてしまったのかも知れません。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/31 10:57

>何でSEXしちゃいけないんですか?


全然、いけなくありません。
強姦はダメですがもっと過激にお考え下さい。

むしろ、人間は間違ってしまいましたね。
つまり、逆だったということ。

ゴリラと人間の違い・・・でしょうか。
ゴリラは姦淫の嵐、やたらにSEXしますから、膣の中で
複数のオスの精子が切磋琢磨して、元気なのが残り、
弱い精子のオスは淘汰される。

人間は、イエスの遥か前から、嵐のような姦淫はしてなくて、
膣の中で、複数のオスの精子が争うことは無かったんですね。

と言うことの結果、ゴリラと人間の精子の元気さは
プロサッカー選手と杖ついた老人くらい異なり、
人間は、女性が妊娠しにくいレベル、つまり、精子が卵子に到達しない
萎えた男が増えていると言うことになっているそうです。
あまりに、戒めすぎました。人類、滅亡の危機です。

>もう我慢できません。SEXさせて下さい。
常に3P以上にすることを代々の家訓として下さい。
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この回答へのお礼

あのボノボの群れはすごいですよね。僕は道端でちょっとイイ女性がいたらすぐに飛びつきたくなるので、ああいう群れは憧れです。みんなもっとおおらかにやればいいのに。

ただ、子供がなかなか出来ないというのは僕にとっては好都合ですけどね。ある程度中出ししてもいいよというなら。
人類は滅亡しても構いません(笑)

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/31 10:43

 回答番号:No.15


 日本の伝統的やりかたの中には、基本的に自然体があるようですね。
 その自然体って、何か偈汚れることもおあるけれど、そのままであれば、秩序的にも、結果的にもしんらいできるものではないでしょうか。
 無論成文化したり、意識化したりするのが難しいのですが。
 むしろ不可能なのではないでしょうか。空気をお椀に入れようとしても、つかみ処が無いですよね。
 そんなものでしょうか。

 ところでオナニーって、セックスが快感をもたらすなんてことがなければ、しないでしょうね。
 そしてセックスって快感だという観念がもう底の底であるのでしょうね。
 でもセックス以上の快感ってあるのでしょうね。そんな気がしますが。
 貴胡桃さんが回答番号:No.17でいっていることは、面白いだけでなく、(信者ではないが)イエスを実在としている私にもとても有効な、友好な知識です。
 斬新という思いがするのは、今まで知らなかったからでしょうね。
 何か立川流やタントラ仏教を連想しました。
 江戸時代には帯びとけ仏教というのも流行したそうです。
 人間の悲しいさが(性)ですね。気持ちいい、遂行感というのでしょうが、それによる暗示が根底にあるのですね、性というものには。
 そんな冷静を装っていられるのは、もう傘寿になるからかな。
 こんなことをいうなんてなにか自分がアウグスティヌスの次亜物みたいですね。
 やりたいときは押さえられないからね。結局そうでなくなったのかな。
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この回答へのお礼

日本の伝統的なやりかたというか文化だったら、最近増えている中年になるまで童貞の人とか居なかったんじゃないかという気がします。もっと女性もSEXを受け入れ易かったのではないかと。今みたいにそこまでこぎつけるのに大変な思いをする事はなかったんじゃないかと。それでいて、別に昔のそういった性の文化が世の中の混乱を招いたという話も知りませんし。

>ところでオナニーって、セックスが快感をもたらすなんてことがなければ、しないでしょうね。そしてセックスって快感だという観念がもう底の底であるのでしょうね。

そうなのでしょうか。

どんなに頭で禁止しようとしても身体の仕組みと違うのだから難しいですよね。僕は精神的なことよりかは具体的な生殖器の苦痛が大きいと思っています。またそれは本能的に女性に反応するようになっていると思います。精神が出来あがるのはそれありきででしょうね。

肉体にとっては、快感はSEXが1番、食が2番という気がします。
精神的な感動とかがそれとはまた別の話で存在すると思いますが、比べることは出来ませんが場合によっては肉体的な快感より素晴らしいこともあるのではないでしょうか。いやむしろそうだと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/31 10:33

  No.3&14&16です。



 もう練り上げてもらっていますので だいじょうぶなのですが 蛇足です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 絶対的なものに包まれた絶対的でないものの行動・・・のようなイメージが湧いてきたのですが。
 (β) それが不自由と感じる問題でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (α)のとおりだと思います。したがって――したがって です―― (β)は ぎゃくになると考えます。
 ○ わたしたちの心のおもむくところは 《絶対的でないものの行動》であるのですが それは 《絶対であるものに包まれて》いるゆえに 安心して 自由を自由に享受することができる。
 ○ 無根拠だからこそ 絶対なのであり それが 自由をあたえている。
 ○ 《真理は きみたちを 自由にする》と 《わたしは 道であり真理であり生命である》と言ったひとが 説明しました。

 ★ 絶対的な愛なる霊のちからのもとに、絶対的でないわが心のおもむくところの・・・でしょうか。
 ☆ はい そうだと思います。

 ★ 自分の心の中の自然な良心が、神と思われる《無根拠=霊》とは違うみたいな感じで、ちょっと残念な気もしますが。
 ☆ 愛なる神は 光ですが 人間の自然本性としての良心や理性なる光は いわば薄暮の明かりではないでしょうか。包まれ 照らされていれば だいじょうぶです。

 * アウグスティヌスは 《わたしは 閨(ねや=寝屋)の信実を尽くしました》と言っています。同時に 複数の相手を持ったことはないという意味です。
 * また 歳を取ってからも 朝起きてみれば 布団が汚れているのを見て 困ったものだと――かれは 聖職者の道をえらびましたから――嘆いています。
 * ただし わたしは キリスト・イエスを教祖とし そのおしえを教義とし 集団として組織をつくって 信徒があつまるところのいわゆる宗教は 個人の信仰が すでに その内面から外に出かけてしまっているので――信仰の対象である《無根拠》が あたかも単なる精神的な根拠となってしまったからには―― 信仰の自殺行為だと考えます。この宗教が 《姦淫するなかれ》という禁止命令を 後生大事に抱いています。自分のあたまで どうにかできると思っているのでしょうか。
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この回答へのお礼

薄暮の明かりが愛なる神の光に包まれている・・・
僕に湧いてくるような良心や理性は絶対的でなく薄暮の明かり。
絶対的な愛なる霊の光には包まれているけどそれを感じる事はできないのでしょうか。感じる事が出来たらそれは自分の心にあらわれたもの=自分の良心や理性ということになってしまって、自分の中に神の絶対的な光があるという事になってしまいますもんね。
人間は自由に行動しているがどんなに自分の良心に従っても不完全なので過ちも起こすが、それすら神の完全なる良心の元での営みであるので、いつかは必ず良きにはからわれることになるということでしょうか。だから全ては自由であると。
だとしたら、僕もそのような考えを持っています。

形とか儀式とかにこだわった現在の組織が間違った教義を温めているのでしょうか。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/31 10:07

No.6です。



>イエス様が良いと言ったのなら。

イエスが姦淫は善い事だと言ったというのは、私の記憶には無いです。

えっとですね。
聖書はイエスが書いたものじゃありません。
イエスはもちろん実在の人物じゃないので当然ですが。

あっちこっちから集めた物語をまとめあげ編集した人がいて、その人の所属する一派が「これが唯一の聖なる経典じゃ それ以外は間違い。俺たちが編集したものだけが本物」ってしちゃって、ほかの別のストーリーを真実だと言う派閥を異端として迫害していったんです。


人間が編集したものですから、ミスはつきもので、あちこちミスっています。
たとえば山の上の教訓。
他の文章の言葉を、山の上の教訓に挿入するということを故意になのかわかりませんがやっており、その一文のために文章全体の意味合いが違ってきてしまっています。
信者の人たちは山上の教訓をすばらしいと褒め称えていますが。。。



先日悪魔の遺伝子って本を読んでキリスト教の聖職者を思い浮かべた。
悪魔の遺伝子を持つ者。
表向きは慈悲深いが、実際やることは冷酷で無慈悲。
だが人々から愛され敬愛される。
これが悪魔の遺伝子を持つ人の特徴。

悪魔の遺伝子という障害ではなく、通常は別な名称で呼ばれている。
宅間死刑囚も同じ障害だった。
本では、この障害を持つ人々の話が遺伝学的な見地もからも見つめられ考察されていた。
まるっきり内容を支持するつもりはないが、遺伝子が絡んでいるという作者の意見は参考になった。

たとえばスターリンとか毛沢東とか、麻原とかがこの部類。
冷酷で残忍。でもすごく人気があり愛された人々。

ウイリアム症候群ってのだったかな?
嘘だとわかっているが、その自分に嘘をつき、害を与える人の言葉を支持し、嘘をつく人を崇拝してしまうって障害。

両者は依存関係にある。
聖職者と信者の関係もそう。

キリスト教が病的なまでに潔癖主義になったのは、アウグスティヌスがいたせいだと思う。
彼はセックス中毒で(障害)、そのために若いうちに結婚をした。
愛じゃなく性処理目当てで結婚をしたわけですが、(結婚すればいつでもできるということ?)、ただそれだけでは決して彼の欲望はおさまらず、妻だけじゃなくいろんな女と交わりを続けたのだそうです。
不倫の限りを尽くしたってわけですね。


この障害を持つ人は、善悪の判断ができる。
だが、困ったことにブレーキは正常に機能するが、ブレーキとアクセルの両方を踏み込んでしまうため、衝動が抑えられない。(脳のせいでそうなる)

アウグスティヌスはこの障害に苦しんだが、自分ではどうにもならなかった。
宗教にすがったがだめだった。

ところが、精子には限界があり、人の何倍も性処理をしたために、人より早くインポテンツになった。
やっと性の奴隷から解放されたわけです。
すると今度は、自分を苦しめていた病的なまでの性欲に対し、病的なまでに敵意を持つことになり、信者に禁欲を推奨させたのだと思えます。
自分が苦しんだので、性欲はとんでもない悪魔だと思ったわけです。

で、聖職者はアウグスティヌスの望むとおり、性欲を克服できたのかというとぜんぜんでした。
それで、聖職者によっては自分を苦しめる性欲から開放されるために、去勢をしたりもしたそうです。

ある辞書によると、ある教皇は尼僧院を作りったが、それは実質は売春宿だったのだそうです。

聖職者専用の売春宿だったと思えます。
何故なら、そこで体を売っていたのは、今で言うならシスターなわけで、一般人が尼僧院にシスターを買いに行っていたという話を聞いたことがないから。
秘密裏に行われていたのだと思います。

このように、聖職者は一般信者には禁欲を説きながら、実際は自分たちはちっともやっていなかったわけです。
その聖職者たちは信者から敬愛された。という事実。

嘘だとわかっていてもその嘘をつき自分に害を与える人を愛するウイリアム症候群的な一般信者。


でも、、、見方を変えれば、ダ・ビンチ・コードにも登場しますが、地上の女神の体現者と交わることで地上で権力を得られると思って、聖なる儀式として尼僧たちと儀式として交わっていたのかもしれません。
じゃなければ信者から集めた金を、教皇が実質売春宿であった尼僧院の建設・運営に使わないでしょうから。


オウム真理教においても教祖と交わった女性信者はたくさんいて、彼の子供を生んでいます。
麻原には入籍している奥さんがいましたが、教祖自身はたくさんの女性信者と交わりをしていた。
麻原と交わった女性たちは、麻原を支持し熱愛していた。
女性たちはヒエロスガモスの概念をもって、儀式として麻原とセックスをしていたのだと思えます。

教団内では聖なる交わりとして、まっくらな中で全員裸になり、体が触れた相手とセックスをするという儀式があったのだそうです。
はたから見たら誰それかまわず一度にたくさんの相手を交わるスワップパーティー・乱交パーティーですが、宗教となると聖なる(性なる)儀式ってなるわけです。

そこまでは宗教だし大人同士の合意の行為なわけで、奥さんも了承していたのだから、他人がとやかく言う問題じゃあない。
だが、これがもしオウムが禁欲で性など堕落だと言っていたとしたら、口で言うことと実際やっていることが逆ってことになり、大ペテン師になってしまう。

大ペテン師にだまされていると知りながら、大ペテン師を愛したキリスト教徒たちと同じになる。




日本は、表向きは慈悲を宣伝文句にかかげながら実際は冷酷なあの宗教が入るまでは、性におおらかな民族だったんです。

たとえば夜這いって風習があった。
男が両親と住む娘のところに夜中忍び込んで娘と交わり、子供ができたら、結婚させてもらえたってくらい、女性の地位が高かったし大事にされていた。
キリスト教のように「女は糞尿のつまった容器である。なんでそんなものを抱かなきゃいけないんだ。」とはしなかった。


女性は悪魔だと嘯くキリスト教が日本にきて表向きの嘘の説教をまことしやかに言うようになるまでは、日本人は性に対しておおらかだった。


ということで、同意のもとならやってもいいと私は思うんですね。
ただし、責任を取れないのなら、やるべきじゃない。
乗り逃げする無責任な行為をしたら、当然集団から袋叩きにあう。
鬼畜として牢に入れられ動物として飼育され、自由などなくなりますから。
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この回答へのお礼

禁欲を説く聖職者が裏ではSEXをし、尼僧院が売春宿だった。なんという興奮するエピソードでしょう。この甘酸っぱさで抜けます。
性欲の処理については、今はキリスト教で「姦淫」とは本人たちまたは関係者が嫌な思いをするようなSEXのことだったわけで、それ以外のSEXが禁じられていたわけではないという流れです。これなら僕はイエスが説いたこととして信憑性があるなと思います。至って倫理的な話だと思うので。
そこで、別に聖職者がSEXしてもいいし、尼僧を売春婦にしても問題なければいいのかなと思います。しかし、本人たちはSEX自体いけないこと、と思っていて、その考えが真理とズレているので、自分の頭の中の考えと、正しき心でいるつもりでも実際にやってしまう行為の間で苦しんだということなのかも知れませんよね。

イエス自身は性欲をどうしていたのかと考えると、先の理由でべつに我慢していなかったという考えと、仏陀的に形あるものから解脱していたという考えがあると思います。しかし、解脱していたとしても生殖器の仕組みはあるのであり、必ず苦痛はあり、その苦痛を気にしない事が出来るという事に過ぎないのではないかと思います。僕は別にその苦痛に耐える行をする必要はないと思っています。

昔の日本はおおらかで良かったですよね。僕も別にSEXするのに罪悪感など感じません。誰も傷つかないならいいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/31 09:07

 No.3&14です。



 ★ 自分の自然な良心にただ、従えばいいと。それが自由なのかなと。
 ☆ そして しかも同時に その
 ○ 《良心》は 絶対的なものではない。
 ☆ という前提のもとに立てば よいのではないでしょうか?
 《絶対》は 《無根拠=霊》のほうであるようです。
 このことを キリスト・イエスが 指し示したと言われています。
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この回答へのお礼

>愛なる霊につつまれ おおわれ その無根拠なるちからのもとに わが心のおもむくところの最愛なるつれあいを探し求めるのではなかったでしょうか

絶対的な愛なる霊のちからもとに、絶対的でないわが心のおもむくところの・・・でしょうか。
絶対的なものに包まれた絶対的でないものの行動・・・のようなイメージが湧いてきたのですが。
それが不自由と感じる問題でしょうか。自信はないけど。
やはり難しいですね。

自分の心の中の自然な良心が、神と思われる《無根拠=霊》とは違うみたいな感じで、ちょっと残念な気もしますが。

僕などのために何度も回答して下さってありがとうございました。

お礼日時:2009/05/29 00:10

 倫理観、道徳観で穢れることがいけないのだと思います。


 美しい女性や、そういう人との性行為を自然だと思う意識であることが必要だというのではないでしょうか。
 そのように神の作ったような意識で行うことだというのではないでしょうか?
 そういう意識に為りなさいということ、穢れた意識をでることはとても難しいのですが、おろおろするものでもないし、問題を持つこと自体がもう困ったことだと存じますが。
 結局、有り方の問題でしょう?
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この回答へのお礼

倫理観、道徳観ですか。
誰かが作ったような疑わしい倫理観、道徳観と
自分に自然に湧いてくる倫理観、道徳観がありますが、
前者に従うことなら苦痛ですが後者に従うことなら気持ちいいです。
なんでもかんでも無秩序にしていいとは思いませんけど・・・
条件に合うSEXなら、自然だと思います。

これまでの流れだと、SEXが全面的に禁止されているのでなく、
問題がなければいいみたいなので、納得します。
もう苦しむこともないでしょう。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/28 23:31

 No.3です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエス様は「姦淫してはならない」と言ったそうですが、僕はSEXがしたくてたまりません。
 他の戒めは良心と突き合わせても「まぁそうか」と思えますが、SEX禁止だけは「まぁそうか」と思えません。
 何でSEXしちゃいけないんですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ふたつの前提を――No.3の内容をあらためてですが 少しちがうかたちでも 述べつつ――確認します。
 性行為と姦淫とは別だという第一点は はっきりしています。
 もう一点は 《イエス様》を持ち出すこととか 《してはならない》というように わざわざ 禁止命令のかたちで表現されることとか そういったかたちで 或る種の仕方で 《権威》を わたしたちの思惟や行為に先立って 置くということについてです。
 これは 言いかえると わたしたちの自然本性としての《自由意志》とそれの限界の問題になります。おそらく 人間の自由な意志行為は 限界があるでしょうから この自由意志を超えるものはなにかの問題にもなるでしょう。それが 証拠に 神としての《キリスト・イエス》が持ち出されてきています。

 わたしたち人間の思惟も行為も まったく 自由です。なぜなら 上に触れた神ないし絶対者は 無根拠だからです。自由でないと言う人は 神ないし絶対者とは何かが分かった人です。あるいは 観念において この神を 自分の頭の中に 忍び込ませておいて それが ほんとうの神なのであると思いこんでしまう。そこから すべてを 自分の考えにのっとって 判断し裁いてしまう。
 つまり おれは神を乗っ取ったと思い込む場合にしか 《人間は自由ではない》とは言わないわけです。

 ところが それでも わたしたちは 思念や振る舞いの中で 性愛にかんする事柄に限っては
 ★ 何でSEXしちゃいけないんですか?
 ☆ というふうに 或る種の制限や禁忌をもうける傾きがあります。あるいは 
 ○ イエスの母マリアは 処女だった。とか
 ○ イエスは じつは 妻帯していたのだ。とか
 ☆ 言って おもしろがっています。興味が起こるようです。
 イエスという男は ふつうの人間であって 大食漢の大酒飲みです。神は 無根拠だから 無根拠として このイエスという人間に 宿ったというおとぎ話であるに過ぎません。無根拠のことを 《霊》とも言ったりします。幽霊と同列にあつかうという意味です。
 話を端折りますが このように《性関係に関して タブーをもうけたりするまでに ひとが敏感である》のは 一方で 人間の行為にかんして すべて 自由であるというのに その他方で 《無根拠ということが どういうわけか 現実的である》と感じているからではないでしょうか。
 ○ 《霊》は 人間にとって 普遍的である。
 ☆ というわけです。しかも
 ○ この無根拠でありながら 普遍的な現実である霊に わたしたちの良心と呼ぶこころは どうも つながっている。
 ☆ のではないかと感じているからではないでしょうか?

 ところが 
 ○ この霊は 愛である。
 ☆ と言われてしまいました。たぶん わたしたち人間の移ろい行く自分勝手な愛を 霊なる愛は つつんでいるということなのでしょう。
 そうでなければ この世は すべて 飲めや歌えやとなっていることでしょう。言ったもん勝ちであり やったもん勝ちになります。
 この情況の中に 自分も位置していることをはっきり確認して その上で
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 なんで素晴らしい女性の肌を楽しんではいけないのですか?
 なんでオナニーしちゃいけないんですか?
 もう我慢できません。SEXさせて下さい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という叫びを わたしたちは 聞かなければなりません。
 何がわるいのでしょう? 何が 歯車を 妙な方向に回転させているのでしょう? どこで わたしたちの人間関係は 狂ったのでしょう?

 人間関係における両性の口説きという交通(まじわり)のあり方が 変わったのではないか。
 ▲ (万葉集 巻一・1番)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 籠(こ)もよ み籠持ち           
 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち       
 この丘に 菜摘(つ)ます児(こ)         
 家聞かな 名告(の)らさね       

   そらみつ 大和の国は        
   おしなべて われこそ居れ       
   しきなべて われこそ座(ま)せ        

 われにこそは 告らめ          
 家をも名をも                
 (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))と解説されます。
 このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられてしまった。
 アマテラスの《天界》――お二階さん――に近いほど 《自由》だと思われている。つまり 人びとは 自由でなくなっている。
 そもそもは 愛なる霊につつまれ おおわれ その無根拠なるちからのもとに わが心のおもむくところの最愛なるつれあいを探し求めるのではなかったでしょうか? その自由。この人間の自由。おのれの心のおもむくところに従って しかも 矩を超えずです。この自由の方程式が どこからか 故障してしまっています。
 そういう問題ではないでしょうか? そういう問題ではないのでしょうか?

この回答への補足

brageloneさん、熱意のこもったご回答ありがとうございます。
僕は素朴な認識しか持っておらず、即席で考えているだけで、brageloneさんの表現を理解する知識に乏しく、
ご期待に沿えそうもないので申し訳なく思います。

恐れ多いですが素人なりに考えてみようかと思いますが、とてもご期待にそえる内容とはならないと思います。すみません。

神は僕という人間が勝手に作りだしたもので、本来は人間は全くの自由である。人間は自分が勝手に作り出した神によって自分を裁いたり行動の自由に制限を設ける。つまり自分で自分を裁いている。自分の中の判断は神のものと思いこんでいる。
人間は本来全てにおいて自由なのに、性愛に関してはタブーを設けてしまう。
イエスは普通の人間で、神が宿ったというのはおとぎ話(無根拠だから無根拠として?…む、難しいです)。
以下は難解でよく分かりませんが、無根拠=霊で、人間はそれを現実的に感じ普遍的なもので、良心がそこにあると感じる・・・でしょうか。それによると性愛は制限されるものと感じられる。
霊は愛と言われた。自己満足的な愛を無根拠な霊=愛(良心)が包んでいる。(自分勝手を思いやりの理性で抑えているということでしょうか…間違っていたら済みません)
それで、(ちょっとまた憶測ですが)霊とか冷静な愛とか良心とか神にまつわることは無根拠であり人間の勝手なイメージであるのに、その幻みたいなことを根拠にして性愛は制限されるべきとどうして言うのか?
・・・ということでしょうか。

補足日時:2009/05/28 22:57
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この回答へのお礼

肝心の以下は本当によく分からないです(僕は素朴に自然の神様はいると思っているだけで…)が、また憶測で考えると…
高次の神様になる程自由だが低い所の人間は不自由である。
先に説明された無根拠な愛を根拠にして最愛の人を探すのではなかったか? 人間の自由。自由の方程式の故障…

難しいですが、人間は自由に自分の無根拠な愛なる霊に従って行動すればいいのに、なぜか不自由だと思われている。なぜこれで不自由に感じるのか…という問題でしょうか。間違ってたら済みません。

合っていたとしたら
キリスト教で言われた「姦淫する事なかれ」はおとぎ話であり、勝手に人間が不自由を作り出しているだけだ、と思えて来ました。自分の自然な良心にただ、従えばいいと。それが自由なのかなと。
それくらいしか分かりません。
つたなくて申し訳ありません。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/28 22:57

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Qオナニーは、キリスト教では罪になりますか?

宗教のカテゴリーがないので、こちらで質問させて頂きます。

キリスト教では、オナニーは罪になりますか?
もし、罪になるとしたら、その根拠として、聖書のどの箇所にどの様に書かれているかも含めて教えて頂ければ、有難いと思います。

Aベストアンサー

こちらをご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%8B%E3%83%BC

私はカトリック信者ですが、
神父さん曰く、「そんなもん罪なわけないでしょ」とのことです。

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。

Qキリスト教で禁止されること

キリスト教の教えで禁止されていることを教えてください。
食事など、生活にかかわっていくことを知りたいと思っています。

Aベストアンサー

 こんにちは。プロテスタントは宗教の名前ではなく、カトリックに反発してできた宗教の総称ですので、様々な宗派があります。ですのでプロテスタント全てに当てはまるというのは難しいと思います。
 一応カトリックですが、生活にかかわって来る事で一番身近なのは「大斎(だいさい)小斎(しょうさい)」だと思います。対象となるのは14歳~60歳までで、病人や妊娠されている方は除きます。詳しくは↓に書いています。
http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_danjiki.php
 現在これは全てのカトリック信者が守っているかと言われるとかなり微妙です。例えば金曜日に肉を食べないといっても、給食とかお弁当を取っている人は無理ですし、なるべく守り、その基準は個人の采配にまかすといった感じだと思います。私も一応は守るようにはしています。
ちなみに灰の水曜日とは↓に説明されていますが、カトリックではこの日から四旬節に入ります。カトリック国のカーニバルはこの四旬節に入る前に楽しんでおこう!というお祭りです。これから40日間復活祭まで心を静かに節度をもって生活をします。石井美樹子さんの西洋の食事の本では、四旬節中肉食を禁止して節制するので復活祭では四旬節中食べられていた鰊をなげて喜んだそうです。現在はそこまで厳しくはないですが、暴飲暴食を謹んで節制すると思います。カトリック信者同士で「四旬節なのに太ったよ~」とか会話する事があります(私太りました(^_^;))。
 ちなみに灰の水曜日、復活祭は移動祝日なので毎年変わります。関係ないですが、復活祭では卵が復活のシンボルとしてよく食べられますし、多産のシンボルの兎もモチーフになります。
http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_hainosuiyou.php
http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_sijyunsetu.php
 食事に関してはあとは特にないと思いますが、ミサの中で聖体拝領という儀式があります。これはキリストの体をいただくという行為で、実際は丸く小さなモナカの皮のようなものを司祭からいただきます。食事は少なくともこの聖体拝領の1時間前までに済ませる事が決められています。ただミサが始まって聖体拝領までが1時間ぐらいかかりますので(もちろんマチマチで違いますが)、ミサが始まる直前に慌てて食事しなかったら大抵対丈夫です。これも昔はミサが終わってから朝食をとるとか、ミサ自体が始まる1時間前とか色々あったようですが、現在はゆるやかになっています。
 食事以外では中絶、同性愛、離婚、避妊も禁止されています。前の教皇ヨハネ・パウロ・2世も今の教皇ベネディクト16世も超保守派ですので、これは変わる事はないでしょう。特に中絶は様々な議論がされています。カトリック国であるアイルランドの歌手シニード・オコナーが中絶反対に反対するとして、テレビで前教皇の写真を破った為ものすごいブーイングがあった事があります(その為か以前ライブでものすごくブーイングされて歌えなかった映像を見た事があります)。
http://www.cdjournal.com/main/artist/artist.php?ano=112884
 プロテスタントにはない事ですが、カトリックには様々なお祈りの道具や絵や像があります(これをプロテスタントの方は偶像崇拝といいますが、カトリックではあくまでもこれを道具として祈ると位置付けています)。ロザリオやスカプラリオ、十字架、像、メダイなどがありますが、多くの信者は購入すると司祭(神父)に祝別してもらいます。感じとしては上で十字を切ってもらうのが多いです。これを人にプレゼントしたりするのは構いませんが、販売や転売するのは罪になります(準秘跡ですので)。
http://goseitai-to-seibo-no-sito.web.infoseek.co.jp/send%20de%20hushiginomedai.html
 他には主日(日曜日)と祝日にミサに行く、年に一度はゆるしの秘跡(いわゆる懺悔です)、年に一度は聖体拝領を受けるなどの決まりはあります。あとは大罪とかありますので、詳しくは↓をご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA
 あとは特にないと思いますが(飲酒も喫煙も特に禁止されていません。喫煙される司祭もいらっしゃいます)、もっと詳しい方がいらっしゃると思います。プロテスタント諸派の事は分かりません。
 ご参考までにm(__)m。
 

 

 こんにちは。プロテスタントは宗教の名前ではなく、カトリックに反発してできた宗教の総称ですので、様々な宗派があります。ですのでプロテスタント全てに当てはまるというのは難しいと思います。
 一応カトリックですが、生活にかかわって来る事で一番身近なのは「大斎(だいさい)小斎(しょうさい)」だと思います。対象となるのは14歳~60歳までで、病人や妊娠されている方は除きます。詳しくは↓に書いています。
http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_danjiki.php
 現在これは全てのカトリッ...続きを読む

Qなぜ神は人間に性欲を残したのですか?

タイトルのままですが・・・。
何故ですか?
繁殖の為に必要というなら動物の様に発情期があって
も良いではないですか。
それなら期間も短いし欲望に苦しむ男性も少ないでしょう。

又一部の動物の様に交尾したら後は死が待っている状態なら
どれ程の人間が救われるでしょう。
大体この性欲(特に男性)がなければ世界の半分以上の犯罪
はなくなるのではないでしょうか?

ただ単に性犯罪がなくなるという意味ではなく
それに関連した物欲も減るのではないでしょうか?
俗的な言い方をすれば良い女を得る為に余計な
努力はしなくて良いとか・・・。

人は神に似せて造られのではないですか?
それなら何故煩悩を増長させる様なものを残したのですか?
それを乗り越えよ!というのが神の意思なのですか?

気楽に回答頂ければと思います。

Aベストアンサー

神という概念は 人間の歴史において、社会に秩序を必要とした時に作られた道徳に対してその権威化のために人間の中のそれなりの知恵者とかが 創作した概念とも言えます。

おそらく最初に「神」という言葉が生まれた源泉、つまりその語源をたどれば、そこにいきつくと思います。 

しかし、その中でも強力な権力と結びついてしまった一神教の神の概念は 創造主とか造物主とかいうこの宇宙を作った存在としての神という概念であったため、  この存在を科学する哲学者達が そういう存在は存在するかとう命題を真剣に考えるようにもなったわけです。

そこにて発見されてきた「神」の概念は、創作というよりも、謎は謎、わからない神秘はわからない神秘であり、 そういう地点の知的発見の歴史であり、  そのすごさへの驚きの世界であったはずです。

科学への畏敬の念とか 存在への感謝(自分で存在した人はいなくて、いつしか気がついたらここに存在自覚者として存在していただけです。 わたしもあなたも。)とか、 命への連鎖への感慨とか、 そう感じる心の存在自体への驚きとか、 そういう命どうしとしての 人間が私たちであることへのリスペクトとかとかの概念です。


神が存在するかどうかは また別の問題として考えたいところなのすが、そちらの質問が 動物も含めた性の姿を 神は何故?という地点で質問されているので、一応 神がすべてを作られたと簡単に考えておいて 話を進めることにしたわけです。 しかし神というとあまりにも擬人化もされてきました言葉でもあるので、 そのへんを簡単に解説してみたわけです。

そんな中で 人間の性や性欲の世界を 眺めなおすと性の世界は、まったく文明の社会の一般常識とはまた違った 新鮮な神からの贈り物の世界としても見えてくる世界です。

まず、こう考えてください。

五感がほとんど感じられないそういう病気にかかったとします。 (私は実は青年の頃、そんな感じの時期が何年かありました。)何をたべても、少しもおいしくないんです。 例えば どんなに昆布とカツオで 丁寧にしっかりと出しを取って、おいしい味噌汁を作ったり、 あるいはすぐれたスープを作ったとしても  全部 無味無臭の純水と同じでなんの味すら感じないとしたら、。   あるいは、視覚であれば、どんな美しい夕日を見ても、 青空を見ても、雲の流れを見ても、 何も何も感じず すべてが灰色に感じられたら、。

聴覚で言うならば、 どんな優れたクラッシックのオーケストラを聴いてもただ眠くなるだけ、 海の波の音も、 木々の風の音も、 これなどは聞こえてないに等しい感じであったとしたら、。

海の潮の香り、 草いきれ、 若さがムンムン息づいてくるような森の木々たちの香り、 そうしたものが たとえ森林浴をしたところで まったく感じられないとしたら。

…。

私の体験からは 感じるということが この命 この意識、 この心の世界でどれだけ大切なことなのか、 あまりにも明白なのです。

逆に 私は ある集団暴力下のおかれていた時に、都会の片隅のおんぼろアパートの二階にて、恐怖のために夜中にうなされては目を醒ますような神経であった只中にて、  風呂場件トイレの小さな湯船似使っていた時、 真冬にて、ふと何かを感じて窓を開けたら 二階まで延びていた大きな木の大きな葉っぱの上に、 たった今 雪が降り積もりだしたところだったのですが

keukegenさん、  なんといったらいいのか

たったそれだけのことなのに、 その葉っぱが たった一枚の葉っぱがどれだけ私の魂の奥深くまで癒し 心やすらげてくれたことか。

それは 今では想いでの一つにすぎませんが、 たった一枚の葉っぱですら、今でもその時の感動を思い出すと、ふつふつと涙がでてきそうになります。   静かでした  ただただ、静かで幸せでした。


本来神が 与えてくれた私たちの体は、 その葉っぱ以上に奥深く美しく心癒す存在であるはずなんです。  科学者や哲学者が発見した神の世界からは そういった世界が見えてくるはずなんです。

しかしながら、神話の神の世界は違いますよね。 

秩序のために 欲望を否定します。 欲の皮突っ張った欲張り爺になんかなるなよ。 みにくい争いはやめよう。 それは社会規範であると同時に道徳にもなっていきました。  心の中での規範です。  そこに性欲のような強い欲は、その悪の象徴のような感じになってしまったわけです。

不浄という概念の発祥です。

それは どの宗教からも生まれた概念ですが、一神教、なかでもキリスト教にてとくに強められてしまってもいます。

こうなると、 神から与えられたありのままの欲エネルギーとかの世界は「見つめる」以前に 最初から歪んで醜く見えるようにもなってしまいます。 それが不浄の概念の世界です。

ほんとうは すべて逆な現象が起こってしまっているということです。

キリスト自体は、 「野のユリを見よ、何もしないのにどんな着飾った人よりも美しいではないか。ましてあなた方は 何を着飾る必要があるのか」といった意味の事を それこそ実際に命をかけて語ってくれた人ではないですか?

そこを、 「山上に垂訓」という有名な 過去の教えへの反逆の教えの中で セックスについて彼がこんなふうに言ってしまったので、 いよいよ、へんな矛盾がキリスト教徒の中に起こってしまったんです。

「あなた方は 姦通はするなと教えられてきている しかし私は言う、心の中でも姦通するならそれは姦通したことになるのだ。」

実人生にては いろいろな深い意味合いがこれだけでも感じられる部分、そこを おそらくは弟子達が キリストの話のその続きを すでに不浄の概念を持って聞いていたので理解不能となってしまって記述漏れの形になってしまったのでしょうが、   なんと 後のキリスト教徒たちは、心の中でも つまりイメージの世界にてもセックスを想像してはならないというふうに受け取ってしまったんです。

いよいよ不浄感も膨らみますし、 逆な発情とかも歪んだ形でも起こってしまいます。   よく考えてみてください。 もしキリストの言った意味が、その部分だけ昔の教えへの反逆ではなく強調だったとするならそれも可笑しな文脈ですが、 それよりも何よりも、 キリストがすでに姦通の罪を犯してしまっているということになるはずなのですが、_?

なんでこんな簡単なことに弟子達やキリスト教徒たちは気がつかなかったのでしょう?

私有財産制の所有欲も ここにはまた絡んできたりして こうしてセックスはいよいよ汚らわしいというイメージのものとなってしまっています。
(このへんの詳しいことは 今は略しますが)

同じ 欲望でも支配欲とか所有欲(独り占めの欲、現代でのそのへんのごまかしの心)とか、権力欲とかが絡むと すべてが実際に醜くもなっていきます。

が、そういう心からではなく 男女が純粋にセックスを楽しむことが出きるときには それは なんと、まさに  どんな美しい山や川や、海や夕日や朝日や青空や雲や 草花より以上に すばらしい世界に気がつけるせかいなんです。

実は 神は 一切 誰をも助けない存在です。 哲学が発見したという神の世界とか キリストが語るような神の世界はそういう世界なんです。

人間がすべて発見してゆくしか無いんです。 あるいは自分の足で進んでいくしかないんです。 じぶんで考え 自分で乗り越えていくしかないんです。  助け合えるのも人間どうしだけ。

しかして、それが すでに実際に与えれていて この大地に私たちは今を生き そしてこれからを生きてゆく存在だということです。

だから、この問題は 経験者や正しい科学者とか哲学者とかに悩みがあったら質問してください。  また あなた自身が 悩みを解決してあげられるようになって欲しい課題です。  詳しく書くのはそのためです。

性欲で悩んでおられるとのこと、 もしそれが社会全体の問題としての悩みならば、大枠は上記の回答をさらに探ってゆけば、答えは見えてくるかと思います。

奥さんも子供の愛している でも男性としてほんとうは欲求不満な状態だ。   うーむ。 ということでも悩んでおられるならば  もう少し、具体的に深く突っ込んだ回答にもしてゆきたいのですが。

現在、独身なのですか?   私は現在61歳で、84歳の母と暮らしてる独身です。

ワーキングプアーの肉体利労働者ですが、 よろしければ、 お気楽に個人的な迷いとかも書いてみてください^^。
 

神という概念は 人間の歴史において、社会に秩序を必要とした時に作られた道徳に対してその権威化のために人間の中のそれなりの知恵者とかが 創作した概念とも言えます。

おそらく最初に「神」という言葉が生まれた源泉、つまりその語源をたどれば、そこにいきつくと思います。 

しかし、その中でも強力な権力と結びついてしまった一神教の神の概念は 創造主とか造物主とかいうこの宇宙を作った存在としての神という概念であったため、  この存在を科学する哲学者達が そういう存在は存在するかとう...続きを読む

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Q割礼の宗教的意味は?

小説やキリスト教関係の本を読んでいると、ユダヤ人が伝統的に割礼をするという場面がでてきますが、どのような宗教的意味があるのでしょうか?

Aベストアンサー

 
  参考URLに、一応ユダヤ教での「宗教的意味」を説明したページを挙げて置きます。このページで述べられているように、「割礼」は、ユダヤ教における「基本的戒律」で、律法での「神との契約」の証であるとされます。典拠は、参考URLは『レヴィ紀』を挙げていますが、この書物は「律法概説書」で、細かい律法規定が細かく記されています。レヴィというのは、レヴィ=ストロースなどの「レヴィ」ですが、これはイスラエルの十二支族のなかで、「祭儀」を扱う支族で、レヴィ人というのは、世襲の下級祭司のことです。レヴィ人に関係する規定というのは、律法規定のことになるのです。
 
  ところで、この「割礼」の話は、『創世記』において、アブラハムが、神の命令に従って旅を初めて、ある所で、神の聖なる領域に近寄った時、神がアブラハムを殺そうとしたので、妻サライが、彼の「前の皮」を取って、これを神に示した所、神は満足してアブラハムを殺さなかったというような挿話が入っています。この話は、『レヴィ紀』が成文化される前の話で、当然、ユダヤ人のこの古い習慣を、彼らの大いなる「父祖」であるアブラハムに根拠付けようと言う話なのです。アブラハムは、知らなかったということになります。しかし、妻が機転をきかして、彼に割礼を施し、神に示したので、神は「契約」を結ぶことをアブラハムが確かに確認したという意味で、アブラハムに害せず、これを認めたのだとも云えます。
 
  こうして「割礼」は、ユダヤ人にとっては、神聖な神との「契約」の意味を持ちますが、『新約聖書』においてパウロは(「ローマ人」か「コリント人」か、またはどれかの書翰のなかです)、「割礼を受けた者(ユダヤ人)も、受けていない者(異邦人)も、キリストは分け隔てなく救ってくださる」と宣言しています。ここでキリスト教がユダヤ教から明白に分離したのだとも云えます。「割礼の契約」を「旧約(旧い契約)」として、「キリストとの霊の交わり=洗礼」を新しい契約=「新約」として、キリスト教の独自性を主張していることになります。
 
  とはいえ、割礼は、宗教的にユダヤ教では、契約と関連付けて理解されますが、衛生的目的の合理性や、成人男子として女性と結婚して性交するのは、「包茎」状態では困るので、「成人式」のなかの儀式として本来あった可能性があります。アブラハムは現に、幼児割礼を受けていないのです。「律法」の色々な煩瑣な規定は、その時代と状況の文化で考えると、衛生上や健康上、病気などの問題において、十分合理的な根拠があったものがあります。例えば、「血を食べてはならない」と『レヴィ紀』などに記されていますが、これは、生の血は消化に悪いとか、砂漠地帯では、腐敗しやすいということがあります。豚肉を食べてはならないはイスラム教の戒律ですが、『レヴィ紀』にも同じ規定があったはずです。この理由も、砂漠地帯では、豚肉は腐敗し易いので、食べない方が健康を害しないという合理的理由があったのでしょう。
 
  割礼は、衛生状態や実用的な合理性があり、成人式と関連していた他に、世界中の文化にある「男根崇拝」というものとも関係があるはずです。日本やインドなどで、この崇拝はあり、神社の神が、男根の形をした石であるなどということがあります。ギリシアでもローマでも、中近東でもインドでも日本でも、こういう崇拝はあった訳で、それは「生殖力」のシンボルであるとすると、ユダヤ教の神が(『旧約聖書・創世記』のなかで)言った、「生めよ増えよ」という言葉は、生物や人間に対する祝福の言葉であって、「生殖力」を祝ったのだとも考えられ、「割礼」は、生殖力ある成人となって、神との契約を結ぶというのが、基本の意味としてあったとも云えます。
 
  ギリシアやローマのプリアポス(男根神)崇拝とか、古典ギリシアの大理石彫刻の成人男性像やアポローンなど男性神のファロスが、少年の形で表現される(つまり、包茎状態で、アポローンの像などは刻まれています)ということは、どういう意味なのか、色々とシンボルや古代の宗教概念などが関係して来て、非常に広い文化横断的な意味があるのですが、とりあえず、ユダヤ人の「割礼」については、宗教的な意味と、それに隠れた、実用的合理的意味があったということです。
  
  >ユダヤ人について(3)
  >http://village.infoweb.ne.jp/~fwgj9369/mystery/Jewish(3).htm
  

参考URL:http://village.infoweb.ne.jp/~fwgj9369/mystery/Jewish(3).htm

 
  参考URLに、一応ユダヤ教での「宗教的意味」を説明したページを挙げて置きます。このページで述べられているように、「割礼」は、ユダヤ教における「基本的戒律」で、律法での「神との契約」の証であるとされます。典拠は、参考URLは『レヴィ紀』を挙げていますが、この書物は「律法概説書」で、細かい律法規定が細かく記されています。レヴィというのは、レヴィ=ストロースなどの「レヴィ」ですが、これはイスラエルの十二支族のなかで、「祭儀」を扱う支族で、レヴィ人というのは、世襲の下級祭...続きを読む

Qホテルマンって大変ですか?

私は現在大学4年で、就職も決まり春からホテルで勤務することに
なりました。いろんなとこで、人にホテルに決まったというと、
ホテルは厳しいよとか長くもたないよなど言われます!
そんなに他の仕事より大変なんでしょうか? 
ホテルで働いている人、仕事内容を知っている人、どうか教えてください。
ちなみに私のこれからの仕事は、フロントor飲食店のウエイターです。

Aベストアンサー

リゾートホテル経験者です。

確かに、ラクな仕事ではありません。
一言で言うと「体力勝負」です。

ホテルにもよりますけど、盆暮れ正月のよーな繁忙期は朝6時~夜11時過ぎまで、休み時間は食事かトイレ位で何日かぶっ通しで働きました。もう、あんなに朝起きるのが辛いと思ったコトはなかった位、しんどかったです。夜勤がないだけまだましでした。
夜勤があると、ほとんど眠れないらしいです。

それに、そういう時に限ってトラブルが多かったり、お客様から手痛いクレームを頂戴するコトもあります。逆に繁忙期過ぎてから、休みを取ってやってきた同業者から、こっちが手薄な時を見透かしたよーなクレームを貰ったりするのもまた手痛い、なんてコトもあります。

確かにすんごく疲れますが、現場仕事は常にお客様から見られていますから、疲れた顔だけは許されないし、もちろんヒマな時にしゃべくったり欠伸なんざもっての他!当たり前だけどそういうは新人さんのうちはタイヘンだろうと思います。

現場では、年下の後輩に現場でコキ使われたり、子供っぽいシゴキみたいなコトをされるケースもあります。こういう言い方はよくないかもしれませんが、大卒の方で高卒の元ヤンにコキ使われるなんて・・って怒っちゃう人も結構いましたね。

でも社会に出たら年齢に関係なく、先輩から学ばなくてはいけないことがたくさんある訳で、それはどこの業界でも同じです。
体力勝負なのも同じ。忙しい時期に休めないのも同じです。デスクワークでも、残業が多いのに加えて早朝ミーティングもやるような仕事なら、シフト制の不規則な仕事と変わりないと思います。

なので、考えようによっては、ホテルだからって特別大変と構える必要はないと思いますけど、どうでしょう?私はホテル以外にもいくつか仕事してましたが、そのうちのどれかもう一回できるなら、迷わずホテルの仕事を選びますね。今は家庭に入っているのでムリですが。

確かに大変だし激ヤセもしましたが、何より接客していてお客様の反応がダイレクトに返ってくるのが、大変だけど楽しかった。顧客の方からお土産やお礼のお手紙を頂いた時は、嬉しくて本当に涙が出ました。
また、大変な仕事を乗り越えた者同士結束が固くなって、未だにホテル時代の同僚とは仲良くしてますし、いろんな意味で学べることがたくさんありました。

後は、ウェイターはや宴会部門、飲食関係は絶対ホテルの中では経験すべきだと思います。できれば現場のほとんどの部門を経験できればいいと思います。なぜなら将来現場を離れて管理部門等に行く事があれば、絶対役に立ちますし、顔が広ければそれだけ仕事はしやすいです。現場を分からない管理部門程嫌われるモノはないですからね。

そして、気遣いと、お客様の視点でホテルを見ることを忘れないで下さい。気遣いは押し付けになりがちな事だし、カンタンなようで非常に難しいけど、ホテルマンとしては大事なコトなんです。

長くなってしまった。すみません。
いつか、この人を目標にする!というホテルマンと出会えればラッキーだと思います。私はそういう人に恵まれてきたので、楽しく仕事ができたと思ってます。
楽しんでお仕事をして下さいね。

リゾートホテル経験者です。

確かに、ラクな仕事ではありません。
一言で言うと「体力勝負」です。

ホテルにもよりますけど、盆暮れ正月のよーな繁忙期は朝6時~夜11時過ぎまで、休み時間は食事かトイレ位で何日かぶっ通しで働きました。もう、あんなに朝起きるのが辛いと思ったコトはなかった位、しんどかったです。夜勤がないだけまだましでした。
夜勤があると、ほとんど眠れないらしいです。

それに、そういう時に限ってトラブルが多かったり、お客様から手痛いクレームを頂戴するコトもありま...続きを読む

Qキリスト教の人と結婚したらどうなる?

今付き合ってる彼の家はクリスチャンだそうです。彼自身は熱心な信者と言うわけでもないようですが、やはり彼と結婚したら生活に何か影響が出てくるのでしょうか?

私はバツイチの子持ちなのですが、私や子供も入信しなければいけないのでしょうか?またキリスト教でも離婚をしてはいけない派閥があると聞きましたが、バツイチの人と結婚するのはどうなんでしょう?

また私の家は熱心ではないですが仏教徒です。しかも親戚にお寺があると言う、家柄です。
宗教の違いと言っても怪しい宗教ではないですし、私自身キリスト教系の学校に通っていた為、なじみが全く無いわけではありません。特にキリスト教に対する偏見などもありません。

ただ、先日神社であったお祭りに出かけた時「お参りする?」って聞いたら「宗教が違うからしないほうがいいような気がする・・・」と言われ、これが宗教が違うと言う事なのか!と実感してしまいました。
またクリスマスもやはり毎年ミサに参加しているそうで、「良くある『ホテルで2人でディナー』とかは出来ないの?」と聞くと「親戚とか集まるからクリスマス位は・・」ということでした。イヤ特にホテルのディナーに行きたいわけではありません。私も去年のクリスマスは子供と一緒に近所の教会へ行ってみたほどなので。ただそういった「宗教的行事」などは強制参加になるのでしょうか?

お付き合いしていく分には特に支障はないようなのですが、今まで自分が当たり前にやってきた宗教行事(お葬式、法事等)とかけ離れた世界の事が日常的に繰り広げられてるようで結婚後の想像がつきません。
また宗教が違うと結婚の際もめたりする事は考えられるのでしょうか?何か体験談等ありましたらお聞かせください。

今付き合ってる彼の家はクリスチャンだそうです。彼自身は熱心な信者と言うわけでもないようですが、やはり彼と結婚したら生活に何か影響が出てくるのでしょうか?

私はバツイチの子持ちなのですが、私や子供も入信しなければいけないのでしょうか?またキリスト教でも離婚をしてはいけない派閥があると聞きましたが、バツイチの人と結婚するのはどうなんでしょう?

また私の家は熱心ではないですが仏教徒です。しかも親戚にお寺があると言う、家柄です。
宗教の違いと言っても怪しい宗教ではないですし、...続きを読む

Aベストアンサー

私自身クリスチャンですが、クリスチャンの中にも色々あります。彼がどのぐらい生活の中に宗教を入れているか、によって違います。また、結婚となると彼のご家族とのお付き合いもあると思いますので、彼のご家族の信仰に対する姿勢も関係してきますね。「相手も絶対にクリスチャンじゃなきゃイヤ!」って方もいらっしゃいますし。

一般的なクリスチャンの生活です。日曜日は教会に行く。礼拝ですね。そして毎日聖書を読む。朝夕お祈りをする。食事の前にも必ずお祈りをする。週に1回は聖書の勉強会みたいなのに出席する。奉仕で教会の掃除をする。教会の運営に携わる。などでしょうか?また、結婚式の仲人も神式だったら引き受けないとか、身内の結婚式でも神式だったら式場の外で待っているとか、お葬式でお焼香はしないし、手を合わせたりの行為(人を拝む)はしないとか、お供えものは頂かないとか、初詣もしないし、七五三もしない。お祭りや地蔵盆も拒否っていう人も。

私のクリスチャン生活。礼拝に出席する。聖書は時たま。寝る前にお祈りする。食事の前のお祈りはおなかがすいているので出来ない(笑)。勉強会は気が向いたとき。奉仕はしない。教会の運営にも携わらない。結婚式は何でも出席する。お葬式も数珠持って拝むし、お焼香ももちろんする。お供え物は頂ける物はなんでも!初詣もするし、息子はきっちり三歳と五歳に七五三しましたよ。お祭り大好き!地蔵盆も息子と行きました。(これを読んで怒るクリスチャンの方もいらっしゃるかと・・・)

と、言うように一般にクリスチャンといっても千差万別。また、カソリックやプロテスタントとの違いもあります。彼はミサというのでしたら、カソリックでは?プロテスタントではミサとは言いません。

彼と彼の家族がバリバリのクリスチャンだったら、あなたと子どもさんも宗教行事に参加でしょうね。でもあくまで自由参加。私の夫も行ったり行かなかったりです。でも教会の人達は「ご主人も参加してもらおうね」とか言ってきます。心の中で「大きなお世話!」と言ってしまっている私がいます。(主よ お許しください)その辺を彼がどう思うか、彼の家族がどう思うかによって変わりますよね。

具体的に話が進んで行っているのですね。お幸せに。

私自身クリスチャンですが、クリスチャンの中にも色々あります。彼がどのぐらい生活の中に宗教を入れているか、によって違います。また、結婚となると彼のご家族とのお付き合いもあると思いますので、彼のご家族の信仰に対する姿勢も関係してきますね。「相手も絶対にクリスチャンじゃなきゃイヤ!」って方もいらっしゃいますし。

一般的なクリスチャンの生活です。日曜日は教会に行く。礼拝ですね。そして毎日聖書を読む。朝夕お祈りをする。食事の前にも必ずお祈りをする。週に1回は聖書の勉強会みたいなの...続きを読む

Qキリスト教が占いを忌むのは何故ですか?

説教が分かりません。

旧約聖書のイスラエル(ヤコブ)の子ヨセフの夢解きは、
今日(こんにち)の夢判断や夢占いではないのですか?

新約聖書の東方の三博士が星を頼りにキリスト誕生を予知したのは、
今日(こんにち)の占星術や星占いではないのですか?

Aベストアンサー

キリスト教が占いを嫌うのは、草創期以来勢力を広げてゆく過程で古来の呪術やら占いによるお告げの類が競争相手となってきたからなんじゃないでしょうか?神の言葉より占い師の言葉を信じられたんじゃ困りますものね。
「今日の占星術」とおっしゃっていますが、占星術の歴史はおそらくキリスト教よりも長いはず。布教の過程ではかなり手を焼いたのではないでしょうか。現在でもアメリカあたりでは教会の言葉より占い師の言葉に従う人もいて教会をなやませているようですね。
ヨセフや当方の三博士の件は、占い師の指示に従ったわけではないので問題ないんだと思いますよ。

Q住所に記されてある「大字」や「字」とはどうゆう意味なのですか

こんにちは。よろしくお願いします。
住所に記されてある「大字」の意味がよく分かりません。
私が勤めてある会社にも明記されてありまが、私の実家の住所には明記されていません。
これはどのような意味なのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

他の方の回答の繰り返しになる部分もありますが…

「字」というのは、江戸時代頃から使われていたと思われる土地の区分です。
ほとんどの場合、かなり狭い範囲(今でいう何丁目レベルよりも狭い)を差すようです。
だいたい同じような意味で「町」という言い方もよくします。(市町村というときの町と同じ文字ですが、違う意味の言葉です)
「字」が何か「町」が何かというはっきりとした定義づけは恐らくありません。
江戸時代からの地名が消えて、新しい地名がついている場合も多いと思いますが、その地名のことも、「字名」や「町名」ということが多いようです。
ちなみに、「緑ヶ丘一丁目」という地名であれば、「~~丁目」まで含んでひとつの町名ということになります。

「大字」についてですが、
明治時代になり、廃藩置県に市町村制と、新しい国づくりをするときに、いくつかの町村が合体して、もう一回り規模の大きい町村になるということが全国的に起こりました。
そのときに、もともとの村(町)名が消えてしまうのを防ぐためでしょうか。
もともとの村名は「大字名」になりました。
たとえば、「いろは村」と「ほへと村」が合体して、「ちりぬる町」になったときに、「ちりぬる町大字いろは~~」や「ちりぬる町大字ほへと~~」が生まれたわけです。
これは、明治政府が出した命令文書が残っているので来歴がはっきりしています。

つまり、もともと「字」という言葉があって、明治時代になって、それより大きな範囲の「大字」というものが作られたということです。

ちなみに、「大字いろは」の場合は、「大字~~」の部分まで含んでひとつの地名ということになります。

実際上の表記として、「大字」の部分を省いて表記することが広く行われていますが、登記簿謄本など地名を正式に書いてある文書を確認すると、「大字」がついていることが多いと思います。
「字」もついていることがありますが、これは、明治からの長い歴史の中で市町村合併や区画整理、住居表示などいろいろな理由で、地名変更が起こり消えてしまっている可能性が大きいです。

「大字」についても、同様の理由で、まったく違う地名になっていることが増えています。新しく地名を作ったときには、「字」やら「大字」やらをつけるという決まりはないので、普通はつけません。

「ちりぬる町大字いろは字あいう123番地」
  ↓
「ちりぬる町いろは二丁目123番地」

こんな風に変わっていきます。

質問とは関係ありませんが、「~~丁目」というのも、非常によく使われる地名ですが、「丁目」というのも何ら定義づけのあるものではなく、単に全国的によく使われている表現ということになります。

ちょびっと不正確なところもあるかもしれませんが、だいたい理解に役立つつもりです^^;

まだ、疑問がありましたら、重ねてお尋ねください^^

他の方の回答の繰り返しになる部分もありますが…

「字」というのは、江戸時代頃から使われていたと思われる土地の区分です。
ほとんどの場合、かなり狭い範囲(今でいう何丁目レベルよりも狭い)を差すようです。
だいたい同じような意味で「町」という言い方もよくします。(市町村というときの町と同じ文字ですが、違う意味の言葉です)
「字」が何か「町」が何かというはっきりとした定義づけは恐らくありません。
江戸時代からの地名が消えて、新しい地名がついている場合も多いと思いますが、その地名...続きを読む


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