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心の哲学の議論を見ていると、他者には意識があることが前提として語られています。
自分の意識が存在すること、これは確実です。しかし、他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。そんな不確実な「他人の意識」というものを前提として議論が進められる「心の哲学」に、私は疑問を持っています。皆さんはどうお考えでしょうか。よろしくお願いします。

A 回答 (18件中11~18件)

漢字の存在という言葉ですが、在の方は空間的存在、存の方は時間的存在を意味するという話を聞いたことがあります。

西洋科学の方法論で在の方は簡単に扱えますが、存の方は手に負えていないのではないでしょうか。かといって本家の中国やインドが西洋化に血眼になっているので案外日本にだけ時間的存在の概念は現存しているのかもしれません。日本でもほとんどの人が自我意識(俗にいう心)の存在なしでも生きていけると考えていると思います。本当は(人間として)生きているということは自我意識があるということだと思うのですが・・・
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ちょっと抜けてました。



心の存在としての、自分や他人や、意識などの、目に見えないもの、観測機器で観測できないものは、一切合切証明のしようがありません。

それは、多くの人の同意を取り付けたことで、証明したことにしよう、と言うような話だと思います。
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こんばんはー。


ぼくも確かめられないと思います。
確かめられるような気がするという人は多いですが、それを確認した人は、歴史上ではまだいないみたいですねー。
そもそも原理的に無理だと思います。

同時に、自分に意識があることが確実、というのはやはり?です。
自我の存在を証明するものなどいまは在りません。
あなたは頭蓋骨内のタンパク質ではないのか? と言われてもなかなか反論できませんし。

今後どんだけ科学が発達しても、主観と客観が相容れることは、当分はこないんじゃないでしょうか?
ものすご~~く文化が発達したら、あるいは、我々の使う客観性や論理とはなにであろうか?と言うような問題が解決したら、あるいはあり得るのかもしれませんが。

疑問はごもっともだと思います。
ぼくも宗教哲学心理学は皆仮説だと思ってます。
当面の間、現実をうまく説明できる、現実という名の仮説だ、ということで話は進むのではないかなーと思います。
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♯2です。



>他者の意識はともかくとして、他者の存在自体は確実だと思うのですが?

つまり、自我の認識している世界は全て自我の作り出した幻想に
過ぎないかもしれない、ということです。
「自我」以外の「存在」を証明するには、「自我」以外の「客体」に
より「自我」と「自我以外の存在」が客観的に証明できなければ
なりませんが、それらの全てを認識しているのは「自我」だけで
しかなく、結局「自我」以外の「存在」は証明できないのです。

この回答への補足

補足ありあがとうございます。
自我以外の存在が客観的に証明できないのは理解できました。
ただ、riddle09さんの用語ですと「他者」と「他者の意識」の区別がよくわかりません。そこのところを詳しく説明してくださるとありがたいです。

補足日時:2009/05/30 18:35
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意識の存在というのは空間的なものではないと思います。

空間的に存在していないものの存在というものはどういうものかということになるのではないでしょうか。
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 はてさて。


 まず、自分の意識が存在することが確実、というのはデカルトの「我思う~」という命題から導きだされた前提なんですが、果たしてそれそのものだって結構怪しげなんじゃないか、なんてことが昨今の脳科学では次々と発見されていて、自分の意識というのはほとんどあとづけ的に現出したものに無理やり意味づけしただけのものにすぎないのかも、なんて具合に『わたし』が『わたし』なのはたまたま『わたし』と想起した結果でしかない、という可能性もあったりするんです。
 たまたまかもしれないんですよ、『わたし』って。
 それに、自分の意識が常にリジッドなものなのかといえば、居眠りしていて人に生返事しているときの自分はどれだけ自分なのかとか、道っ端で転んでみっともない声をあげたときの自分がどれだけ自分なのか、旧くから問われてきたように夢の中の自分はどれだけ自分なのかということからも、自分というものは自分が思ってるほど自分じゃなくって、自-意識される自分というのは自分のごくごく一部分を再帰的に抽出しただけのものにすぎないのかもしれないんです。
 また、他者の意識についても、機械が思考できるかという命題に対する検証方法としてのチューリング・テスト(詳しくはWikipediaを)によって、思考していると認められた対象の正体がいつまでも機械なのか人間なのかが明かされぬまま、いつまでもそれとの関係をつづけねばならない、と仮定したときどうその対象の『意識』と関係してゆくかと考えたとき、それがどれだけ不確かであっても意識あるものととしてしか関係できないのではないかと思われます。まして、チューリングテストの結果を判定するわたしだってほんとうに思考しているかどうかだって怪しげ(P.K.ディックの世界ですね)なんですしね。

 とりあえず、「他人の意識の」存在は、1+1が2になるのと同様の議論を進めるための大前提と考えるのが健全かと。

テューリング・テスト:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5% …
P.K.ディック:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3% …
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この回答へのお礼

自分の意識の存在自体があいまいなものであるというご指摘に唸らざるをえませんでした。私の意識というものの確実性から考えないといけませんでした。

>>とりあえず、「他人の意識の」存在は、1+1が2になるのと同様の議論を進めるための大前提と考えるのが健全かと。

結局は大前提として置かなければならないものということになるのですか。神への信仰と似たようなものかもしれません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/30 14:18

その前に。



そもそも他者は存在するのか?
他者が存在すると認識しているのは自我だけであって、客観的に他者の
存在は証明されていません。
存在が証明されてすらいないものに意識があるかどうかを議論する事は
ナンセンスで意味があるとは思えません。

この回答への補足

>>他者が存在すると認識しているのは自我だけであって、客観的に他者の
存在は証明されていません。

これはどういうことでしょうか?他者の意識はともかくとして、他者の存在自体は確実だと思うのですが?

補足日時:2009/05/30 14:20
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>>[自分の意識が存在すること、これは確実です。

しかし、他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。]

この考えに論理破綻が存在するので、わからなくなるだけでしょうね。
「自分の意識の存在」というのは外から見れば「他者の意識の存在」ということですね。だから「自分の意識の存在」を容認するやいなや他者の意識の存在」も容認しないわけには行かないのですね。
逆に言えば、「自分の意識の存在」が無ければ「他者の意識の存在」も無いということになりますね。

この回答への補足

ちょっと質問があります。「自分の意識の存在」は他者から見れば「意識があるように見える自分の存在」であり、「他者の意識の存在」と言いかえることは不適当ではないでしょうか。
ですから、「自分の意識の存在」を容認したとしても、それが「他者の意識の存在」を容認することにはならないと思うのですが?

補足日時:2009/05/30 14:21
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