プロが教えるわが家の防犯対策術!

 次の文章の説く実態について 解説やら批判やらをおしえてください。具体的な感覚や実態が分からないのです。

 ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~
 オタクに関する相反するイメージに遭遇する。一方で われわれは オタクは 対人関係が苦手で 他者との接触を回避する傾向がある ということを知っている。だが  他方で オタクには 明らかに他者を求める欲求がある。オタクの多くがインターネットの熱心なユーザーである。彼らは しばしば同人誌を作り さらにはコミケのような同人誌の即売会を組織したり それに参加したりする。・・・

 このような二重性を どのように統一的に解釈すればよいのか? だが この点に関しては 解釈は容易であるように思える。・・・
 オタクが交際を求める他者は 一般に 同じ《趣味》を共有するオタク仲間である。つまり それは 類似性――それぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性――を 本質とする他者である。ところで 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。そうであるとすれば オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。
 (III オタクという謎 pp.109-110)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 一点 論点のようなものも示します。
 ▲ 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。
 ☆ のは まったく真実だと考えますが そもそも ひとは 他者の内に 自分とのその差異を捉えることが出来るでしょうか? 捉えられるのは 自分の中にも かすかにでもある性格などに限られませんか?
 差異としての他者を捉えることが出来れば このような《オタク》の交際における片寄りは 批判すべきだということになりますが 出来なければ オタクでなくても そのような交際における片寄りは ひとにとって 一般的だとも考えられます。
 この点についても よかったら ご回答の筆を伸ばしてみてください。

A 回答 (17件中1~10件)

1つ思ったことは


色々なオタクを一緒くたにしてるような感じを受けました。
同人誌を作るオタと引きこもりオタは
全く別の種類だと思います。

また、これはアニメやゲームオタクの事を
オタクと言っているのでしょうか?
オタクには鉄道オタク等もいますし
むしろ鉄道オタク何かは積極的なイメージを受けます。

この回答への補足

 tantan0330 さん ご回答をありがとうございます。

 おしえてもらった情報は わたしには 新鮮な感じがあります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 オタクには鉄道オタク等もいますし
 むしろ鉄道オタク何かは積極的なイメージを受けます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そうなんですか。少しづつ分かっていくかも分かりません。
 大澤真幸の定義をかかげておきます。
 ▲ (大澤:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 それにしても オタクとは何か? 
 昔からいる趣味人とどう違うのか?
 そもそも 専門家とどう違うのか?
 オタクは 無論 アニメ マンガ コンピューター等の特定の主題で区画できる虚構の領域に没頭する人々である。だが これだけでは 趣味人や専門家との区別が分からなくなる。オタクを専門家や一般の趣味人から区別する特徴は 意味の重さと情報の密度の間の極端な不均衡である。一般には 意味の重さと情報の密度との間には 比例的な関係がある。要するに 有意味なことだから情報が集積されるのである。
 だが オタクに関しては こうした法則が成り立たない。情報は 有意味への参照を欠いたまま つまり意味へとつながる臍の緒をもたないまま それ自体として追求され 集められていくのである。ある事柄の《意味》は 常に より包括的なコンテクスト 外側のコンテクストへの参照を前提にしている。それに対して 《情報》は そうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。オタクは 自らが関心を向ける情報的な差異に関して それをより包括的なコンテクストに位置づけて その重要度を説明することができないのである。
 (pp.87-88)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この定義だから
 ★ 色々なオタクを一緒くたにしてるような感じを受けました。
 ☆ なのでしょうか? あるいは 別の違った定義がありうるのか? まだまだ広がっていくのでしょうか? そうでもないのでしょうか?

 ★ 積極的なイメージを受けます。
 ☆ という場合は 一般に話し合いができるということですよね? つまり 特別に《他者ないし他者性を避ける》ということでもないと捉えてよいですか? 
 いづれにしても ありがとうございます。

補足日時:2009/06/06 14:45
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他者性を抜き取った他者を要求しているのではなく、コミュニケーションがヘタで得意な話題が無いとうまく接する事が出来ないということなのではないですか。


実際にオタクが対人関係が苦手か。そういうイメージで語られる事はありますが。分かりません。
アニメ マンガ コンピューター等の特定の主題で区画できる虚構の領域に没頭する人々がオタクで趣味人と区別するとすると。
(演劇やオペラやドラマも含むのかな)
意味の重さと情報の密度はあまり関係無い気がします。
もともと、意味の重みが無いから趣味なんじゃないでしょうか。

この回答への補足

 kanota さん ご回答をありがとうございます。

 kanota さん まづ知っておいてください。わたしは ほとんど何もピンと来ていないのです。むろん 大澤がここで言っていることは 論理上の意味として分かりますが いったいそれが どう《オタク》と呼ばれる人びとに じっさいに当てはまっているのか 分からないのです。
 たしかに おっしゃるように
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 他者性を抜き取った他者を要求しているのではなく、コミュニケーションがヘタで得意な話題が無いとうまく接する事が出来ないということなのではないですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ となれば 《他者を 何が何でも嫌がるのではなく また 他者性を避けているのでもない》と考えられます。言いかえると 少しでもうまく普通に話せる相手をみつけて ひとと接するようにしているのですし それは ゆくゆくは 他者との交通(まじわり)をふつうにおこなっていこうということだと考えられます。
 つまり 方向が違ってきます。逃げ腰なのではなく 徐々に推し進めていこうという前向きであるとなります。

 ここで大澤を擁護してもわたしにその意味が定まらないのですが どういうことを言っているかを知ってもらおうかと思います。論理としては いちおう通っていると思われ それが 果たして 現実に合っているのか こちらがいまの問題です。
 ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~
 オタクが 他者から撤退しつつ 他者を志向するという 表面上の矛盾は 容易に解消される。オタクは 自身と類似している限りでの他者との交流や連帯を求め 自身との差異を際立たせるような他者からは撤退しようとしているのだ。(p.111)

 こうした事実から 推論しうる仮説は こうである。本来 異質な他者たちを含む普遍的な社会空間を見通し得る超越的な視点の座が希求されていたのである。そうした視点の座が 今日では 同質的な他者たちのみが参加する 排他性の強い――しばしばサイバースペース上で展開する――共同性へと投射されているのではないか。
 つまり 社会性に関しても 普遍性が特殊性へと反転して現象するという逆説に オタクのもうひとつの不思議がある。(pp.113-114) 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 意味の重さと情報の密度はあまり関係無い気がします。 / もともと、意味の重みが無いから趣味なんじゃないでしょうか。
 ☆ このようにおっしゃるのも もっともな気がします。そして もし大澤の議論に即して捉えるなら それは この《意味の重みのない趣味》を同じくしている種類の他者たちをのみ求めて そこに集まった仲間たちの世界に すでに じんるいにとっての道だとかあるいは規範だとかを見ようとしているのだと。

 たぶん いまの時点でわたしが判断するとなると 二つに一つです。
 (α) オタクと呼ばれ自分たちもそう呼ぶと言われているようですが そのような人たちは まったく何の特別の意図もなく 自分たちの趣味に興じているだけだ。つまり 大澤は 考えすぎであるに過ぎない。
 (β) 大澤の指摘する傾向が おおむね 当たっている。

 尻切れトンボのままにて ご返事とします。

補足日時:2009/06/06 21:07
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自己実現ってすると変になります。

おたくです。昔は他者は否定するものとしてとらえられた。でも今は差異としてとらえる。自分が他者もいるが、とにかく自分にくわしく精いっぱいで、何をそんなにてんばっているだろうって感じです。
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この回答へのお礼

 pkuobe99 さん ご回答をありがとうございます。

 ○ どこでどうしてこうなったか分からないが これでも 精一杯やっているのだから いま少し時間を与えたまえ。
 ○ 昔にも モラトリアム(執行猶予)人間という言い方で 決断のつかないくせを持った人たちがいたではないか。何を――ぎゃくに言えば―― 苛立っているのか。
 ○ そのようなガリ勉志向が そもそも いけないのではないか。ゆとりと言ったって 掛け声だけに終わったりと もっと ほんとうに ゆとりを持って 生きたまえ。それには ゆったりとした時間を味わうわれわれを見習いなさい。

 まぁ ご自分についても
 ★ 何をそんなにてんばっているだろうって感じです。
 ☆ と謙虚でいらっしゃる。ぢゃ どちらも 誰でも ゆっくりと時間をかけて 互いに話し合っていけばいいぢゃないか こうなりましょうか?

 ★ 昔は他者は否定するものとしてとらえられた。でも今は差異としてとらえる。
 ☆ この《差異 つまり 他者》のもんだいは 重要だと考えます。これしかないとさえ考えます。つまり その互いの差異をうけとめ受け容れるなら――つまり その上で どれだけ重箱の隅をつっついて批判し合っても―― それは きわめて自由な建設的な社会のあり方ではないか こう考えます。たぶんそのためには わたしは
 ★ 自己実現
 ☆ あるいは 自己表現は 大事だと考えています。これについては ちょっと困りますか?
 また 何かありましたら ご投稿ください。

お礼日時:2009/06/07 08:35

こんにちは。


自分の考えになってしまいますが参加したいと思い失礼して書かせていただくことにしました。

私個人の定義によるオタクとは「趣味に執拗に没頭している人間」のことです。それに伴い人間関係や時には仕事さえおざなりにしてしまっているために社会的な生活にある種の支障をきたしてしまい、そのため多くの人から問題視されているもしくは毛嫌いされているのだと思います。(しかし生活がうまくいっていないなどということは他人からは分かりませんので結局身なりによって判断される場合が多いのではないでしょうか。他人の目を気にしなさすぎる外見などは以前よりかなり白い目で見られるようになったと思います。あくまで「他人」の咄嗟的な視線などに対するいい加減な自己解釈です。)

私は今回引用されている大澤さんという方の文章を初めて目にしましたが、私には「彼ら(オタク)は人間関係から遠ざかってまで趣味に熱中しているがそれでは無理が生じる。ネットなどで情報を得ることはできるし極力人に会わずに生活することも簡単にはなったがそれだけでは社会は立ち行かない。彼らは自己の意見や好みが他者と衝突するのを恐れるようになったが一方でこれは理解されたいという欲求の裏返しであると考えられる。これは人として当然の欲求であるが彼らはこれを同じ趣味趣向を持つ人間に対して求めている。しかし他者との違いを認識し受け入れた上で関係を築くことこそ重要なのである。なぜなら同じ価値観を持つ人間と考えを共有することはそうでない人とのそれに比べて非常に容易であるのだからそんなものはまともな経験とは呼べないのである。」といった具合で受け取りました。つまり問題の個所はオタクに対する単なる批判であり皮肉であると感じます。

最後のあなたの意見に対しては同感です。
しかしこの大澤さんが言いたいことは、「他者の中に自分との差異をむしろ見つけ出し受け入れ、比較しながら成長するのが人間である」ということなのではないかとも思いました。難しいことだけれどもそこから「逃げる人間=オタク」と「逃げない人間=一般的な人間」がいるのだという具合でオタクが批判されるべきだという彼なりの理由を提示しているのではと解釈しました。
さらに厳密に自分なりの考えで言うならば「オタク性への警鐘」ではないかと。先ほども申し上げたようにオタクと非オタクとの線引きは傍目に容易ではなく結局自分勝手(主観です)な「オタク性」からこそ脱却しなければならない、つまりこれは社会全体や個人全ての問題ということとして理解することもできるのではないでしょうか。

また「交際における片寄り」とおっしゃった部分ですが、これは確かに一般的になってきていると思います。これは私なりには「一般人のオタク化」、「非オタク(と自認する人間)の無意識化でのオタク化」だと思います。誰もが好きなことややりたいこと(例えば趣味など)に異常に没頭している社会、多くの人間が面倒で難しいことをできるだけ遠ざけ良い思いだけしたり割を食うのを極力避けている社会になってきたのではないでしょうか。
この種の「片寄り」が一般的なことに思える私たちはもしかすると大きな間違い、誤認をしているのかもしれないと感じました。

(私は他人の考えや行動をとりあえず肯定的に受け入れようとするところがありますがこれはまさにこの問題に通じている、「自分が他者に合わせるのではなく他者が自分に同調してくれたら都合がいいのに」という思惑が無意識に働いているため自分の思いたいように捉えているだけなのかもしれません。)

この回答への補足

 andrear さん こんにちは。あぁ やってくれましたね。きわめて簡潔にまとめてくださいましたね。ご回答をありがとうございます。

 いちばんの目からうろこは 
 ★ 「一般人のオタク化」、「非オタク(と自認する人間)の無意識化でのオタク化」
 ☆ というご指摘でした。
 ★ 「オタク性への警鐘」
 ☆ ですね。昔なら
 ○ 一億総オタク化
 ☆ と情報媒体なら 言いだすでしょうね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 誰もが好きなことややりたいこと(例えば趣味など)に異常に没頭している社会、多くの人間が面倒で難しいことをできるだけ遠ざけ良い思いだけしたり割を食うのを極力避けている社会になってきたのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ どうも みなが《同じ穴の狢》なのだといった兆しのある情況のようであり これをきちんと捉えなければならない。

 そうして 処方箋も提出してもらっています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかしこの大澤さんが言いたいことは、「他者の中に自分との差異をむしろ見つけ出し受け入れ、比較しながら成長するのが人間である」ということなのではないかとも思いました。
 難しいことだけれどもそこから「逃げる人間=オタク」と「逃げない人間=一般的な人間」がいるのだという具合でオタクが批判されるべきだという彼なりの理由を提示しているのではと解釈しました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり
 ★ 「逃げない人間=一般的な人間」
 ☆ の存在ですね。さらに引用のみの再掲です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「彼ら(オタク)は人間関係から遠ざかってまで趣味に熱中しているがそれでは無理が生じる。ネットなどで情報を得ることはできるし極力人に会わずに生活することも簡単にはなったがそれだけでは社会は立ち行かない。
 彼らは自己の意見や好みが他者と衝突するのを恐れるようになったが一方でこれは理解されたいという欲求の裏返しであると考えられる。
 これは人として当然の欲求であるが彼らはこれを同じ趣味趣向を持つ人間に対して求めている。しかし他者との違いを認識し受け入れた上で関係を築くことこそ重要なのである。
 なぜなら同じ価値観を持つ人間と考えを共有することはそうでない人とのそれに比べて非常に容易であるのだからそんなものはまともな経験とは呼べないのである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (わたしは 大澤は 犯罪につながった事例を前面に押し出して来て議論しているので ちょっと引いた気持ちと恰好で 紹介したようです)。

 《逃げない人間》 これがむつかしいとなっているでしょうか? それほどでもない情況でしょうか?

補足日時:2009/06/07 09:06
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「オタクは他者性を避けていない。

」という観点からの回答まで

「他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。」

この前提は正しいようにも思えますが、大澤真幸氏の指摘する差異・差異性とは見掛けの姿・行動なのかその心、考え方なのかにより、大澤真幸氏の論の評価も変わってきそうですね。
「他者の他者たる所以は 差異性にこそある。」ということですが日本人である私が日本人を客観的統計的に見る限りさほどの差異などないように思えますね。むしろ、みんな金太郎飴のようにしか見えませんね。金太郎飴の種類違い同士がなめあってみてもさほどの味の違いなどないのではとも思えますね。(外的差異性)
米国の金太郎飴、ロシアの金太郎飴、フランスの金太郎飴の味の違いは普通日常では味わえないものですが、ネットを利用すれば、言葉だけ理解できれば、仮想空間などで味わうことも出来るということは考えられますね。(内的差異性)
同じ趣味の世界という枠の中で差異性は互いに確認できると思いますね。私の息子が、仮想空間のゲームの中では世界中のマニアがいるが人柄や考え方は国柄によりおのずと差異があるといってました。
さて、私が何をいいたいかといえば、大澤真幸氏の言う差異性が単なる表面的(外的)な浅い差異性のことぐらいしか念頭においていないのではないのかといっているのです。(理解の程度の疑い)
人間の差異性というのは形でもなければ、見栄えでもなければ、お世辞の付き合い方でもないのですね。何を考えているのかが本当の差異性といえば、考えだけの内的空間のほうがより詳細に差異性を互いに判断できると思いますね。
このカテでも私とbragelonneさんは考え方(内的)は明らかに違ってますよね。でも趣味的には同じ穴の狢でしょう。
そのような差異性を前提とすれば、「おたく」というのはより進んだ人間の差異性の追及の姿ともとり得ますね。(可能性)
だるま大師が10年壁に向かって過ごしたことと比較すると「おたく」のほうがもっとダイナミックですね。
「オタク」は、だるま大師のように他者性を避けてはいないですね。むしろ積極的に差異を楽しんでいるように思えますね。ただそれが、ネクタイをした金太郎飴やわけのわからない学者飴との日々の退屈な会話ではないことは確かですね。
このように、価値観を何処(外的、内的)に置くかにより、「おたく」の評価も180度違ってきますね。
ということで、わたしは、大澤真幸氏には組しない派ですね。
「おたく」は21世紀の新人類の姿かもしれないですしね。
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この回答へのお礼

 mmky さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 「おたく」は21世紀の新人類の姿かもしれないですしね。
 ☆ 勇ましいというべきご見解のようですね。そして
 ★ 何を考えているのかが本当の差異性といえば、考えだけの内的空間のほうがより詳細に差異性を互いに判断できると思いますね。
 ☆ このご認識は 基本的に 共同性を持ちますね。そして
 ★ だるま大師が10年壁に向かって過ごしたことと比較すると「おたく」のほうがもっとダイナミックですね。
 ☆ これも 案外というべきでしょうか おっしゃるように 発展の《可能性》においては そのようにうなづけるところがありますね。
 ★ 「オタク」は、だるま大師のように他者性を避けてはいないですね。
 ☆ と つなげられると 少し飛躍を感じました。
 ★ むしろ積極的に差異を楽しんでいるように思えますね。
 ☆ これは そういう部分もあると推し測られます。また 上で触れたように 潜在的な可能性として 考えられます。
 ★ ただそれが、ネクタイをした金太郎飴やわけのわからない学者飴との日々の退屈な会話ではないことは確かですね。
 ☆ たぶん 大澤の見方によれば ネクタイに反抗し学者から遠ざかるという傾向がもし共通にあるとした場合を考えるなら それは そのような仲間として 金太郎飴だと言っているとは思います。

 ということで わたしの判定は まだ正直なところ こうもりのように あっちへ行ったりこっちへ来たりです。

 ★ 私の息子が、仮想空間のゲームの中では世界中のマニアがいるが人柄や考え方は国柄によりおのずと差異があるといってました。
 ☆ そういう部分は 現実であろうと確認しました。

 澄みません。まだ煮え切りません。

お礼日時:2009/06/08 00:16

大澤真幸というひとも不可能性の時代という本も質問者様のこのスレで知っただけで、理解がずれているかもしれませんが、オタクについては興味がありましたので面白く読ませていただきました。

質問者様のご質問は、要するに当該論文にあるあいまいさというか、徹底しきらない論点についていらだっておられる、すっきりしたいということなんでしょうね。
以前ちょっと話題になった斉藤環氏の「戦闘美女の云々」同様に
著者が適当に刺激的で与し易い対象であるオタクを持ち出した気分ははっきりしていると思いますが、ことはオタクにとどまらず、ひとはなぜ仲間を求めるのか、群れたがるのかといったような普遍的なことにつながっていくのではないかと思います。
>オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。
人間にとって他者とは本来がわけのわからない異邦人、または敵対者になる可能性のある怖い存在なので、ましてオタクという社会的不適合者などにとってはとても歯が立たない存在であることは確かです。そういう意味で大澤氏の指摘はまことに鋭いと思います。
そこで質問者様のご質問なのですが、人間一般が他者に対するアプローチの第一段階として必ず行うことは、他者と自分との類似性ではないでしょうか。それが発見できなければ彼は接触をあきらめるか、または敵とみなして攻撃を始めるかもしれません。他者と自分との間に差異があるのは当然のことだと思いますし、それはさておいて自分との類似性の確認に懸命になる以上、それに対して敏感であるのは当然だと思います。ひとがリスクを冒してでも他者と接触を試みるのはその差異が自分にとっての利益になるだろうという進化論的な思い込みがあるからではないでしょうか(好奇心の満足、スキルの拡大など)。
普通人もオタクもそれらの基本においては同じだろうと思います。ただそのアプローチにおいてオタクが極力他者の中の類似性を最重点において探索をしていることは間違いないでしょうね。これは程度問題であって、彼らが男らしくないとか意気地が無いとか社会通念上の問題がなくもないことは否定できないにせよ、おおっぴらに非難するようなものではないとは思いますが、どうでしょうか。

この回答への補足

 amazo007 さん ご回答をありがとうございます。

 中庸と言いますか 大かたの意見の落ち着くところを明らかにしていただいたと思います。
 まづ 質問の前提について明らかにしておきます。
 大澤も 決して 出過ぎたまねは していないのです。
 ▲ (『不可能性の時代』 III オタクという謎)~~~~~~~~~~~
 このように オタクという現象には さまざまな逆説と謎が詰まっている。本章は そうした謎を解いたわけではない。まずは 謎を謎として提起したのである。(p.118)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして わたしも――そこからの新たな主題の探究に踏み込めたらいいなとは思いますが―― まづは その情況をしっかりと把握しなければならないという段階での設問なのです。 
 ★ 斉藤環氏の「戦闘美女の云々」
 ☆ を知らないのですが 大澤に関しては 上のような事情です。

 さて あらためて 落ち着くところを確認しておきます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 普通人もオタクもそれらの基本においては同じだろうと思います。ただそのアプローチにおいてオタクが極力他者の中の類似性を最重点において探索をしていることは間違いないでしょうね。
 これは程度問題であって、彼らが男らしくないとか意気地が無いとか社会通念上の問題がなくもないことは否定できないにせよ、おおっぴらに非難するようなものではないとは思いますが、どうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして この情況において andrear さん(No.4)は 逆に わたしたちの誰もに 多かれ少なかれ この《オタク化》の波が 知らないうちに襲って来ているかも知れないと指摘されてもいます。

 amazo007 さんのご指摘の中で こういう側面についてはどうだろうかと思ったことが ひとつあります。
 ○ 他者との差異性 および 類似性
 ☆ これらを前提にして
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ひとがリスクを冒してでも他者と接触を試みるのはその差異が自分にとっての利益になるだろうという進化論的な思い込みがあるからではないでしょうか(好奇心の満足、スキルの拡大など)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というごく普通のご指摘が まづあります。ということなのですが ここに 何かもう一つつけ加えて欲しいなぁと感じたのですが 考えるに それは 流行りの言葉かも知れませんが
 ○ 共生
 ☆ これも 当然の如く はたらいている。たぶん 当たり前すぎたのだろうと思いますが これを 先の差異性や類似性と同じく 前提に明示的につけ加えていただければと思った次第です。がどうでしょう?
 こんなお応えになりました。

 * そう言えば わたしは どういうわけか――伊東美咲が見たかったからか――テレビで《電車男》を見ました。そのことを いま思い出しました。だから 《コミケ》が分かったのだと思います。

補足日時:2009/06/08 10:25
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敏速なご返事をいただきありがとうございます。


大澤氏の著書を読まない中であまり深く貴質問に関わることもできないとは思いますが、NO4 様の前向きなご回答に比べて、私のものはちょっとそっけなさ過ぎる気もしましたし、そんなことも貴補足にお答えしようと思った理由です。
「電車男」は直接読んでいませんが、コミケ(小説にはなかったそうですが)のことも含めてオタクの社会復帰のようなテーマがあるのでしょうね。コミケというのは、彼らが創作物を開けた場に公開するということではまさにオタクの認知化への彼らの前向き行動の一歩なのですね。サブカルを彼らの身内だけで楽しむということに関しては私はさほどの価値は認めてはいませんが、その過程でサブカルなりに洗練を極めて良質な日本文化のひとつになっていく可能性はおおいにあるのだろうと思います。オタクが仲間で群れるという傾向は(具体的にいって自閉症患者の自立と社会復帰へのひとつの治療法ということ以外には)コミケに象徴されるようにまさに文化創造への一歩前進という意味で、社会全般に良い影響を与えるというようなことでは価値のあることだろうかと思うのですが、これもちょっと消極的に過ぎるでしょうか。
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この回答へのお礼

 amazo007 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 まづ 大澤じしんの考えというのは 別にしておいてもらって構わないと思います。ここに引いた文章だけで考えたいただいて構わないでしょう。いわば出汁にするのですが そういう論じ方もあろうかと考えます。一つの窓が開いていて そこを問題にするというだけで いいのだと思うのです。主眼は オタクの妥当な認識にまづあります。

 ★ コミケ(小説にはなかったそうですが)
 ☆ あぁ そうですか。小説のほうは 知らないのです。他にもテレビだか舞台だかがあったようですね。
 そう言えば このコミケは分かったのですが かれらの
 ▲ 同人誌
 ☆ が どういうものであるかは まだ知りません。内容ですね。でも
 ★ コミケというのは、彼らが創作物を開けた場に公開するということではまさにオタクの認知化への彼らの前向き行動の一歩なのですね。
 ☆ ということなのですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 サブカルを彼らの身内だけで楽しむということに関しては私はさほどの価値は認めてはいませんが、その過程でサブカルなりに洗練を極めて良質な日本文化のひとつになっていく可能性はおおいにあるのだろうと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とさらに進んで 好意的に前向きに捉えることも ありなのですね。それとして そのまま うなづけます。

 そう言えば――この言葉ばかりですが―― 電車男は(その伊藤敦司+伊東美咲によるテレビ版ですが) 見た限りでは けっこう文学作品としておもしろいと思いましたよ。つまり 《信頼関係》が 主題であると受け取ったことを 少しづつ 思い出して来ました。ただ 女性――エルメス――のほうは どうも仏ごころが有り余っていると言いますか 少々無理をしているのではないかとは 思いました。でも 実話なんですかね。ただし 脚色があるのですかね。
 社会の側が 声をかけていくのも いいのでしょうね。

 * このあと bananasand さんが何やらむつかしいことを投稿してきていますよ。

お礼日時:2009/06/08 14:15

秋葉原に入ると溶け込んでしまってどちらが秋葉原かわからなくなる


私からみると、大澤氏の言っていることは、ちょっと的を外してますね。

この差異性には、質的差異と量的差異があって、ベクトルの向きと大きさと言うか、
つまり、ここにオタクが回避している他者と求める他者の違いがあるんですよ。
ベクトルの向きの同一性を共有し、その大きさを褒め、褒められて
楽しんでいるに過ぎません。

単純で明快だと思います。

あとは、ベクトルの角度の少しのぶれで発生するうねりや、
音楽-アート間の共鳴なども楽しめますが質的差異を不快に感じ
拒絶していると言うことです。

この回答への補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 なんか今回は むつかしいですね。
 ★ 秋葉原に入ると溶け込んでしまってどちらが秋葉原かわからなくなる / 私からみると、
 ☆ そう言えば 大昔 わたしも その駅のほうです その駅で乗り換えに苦労したことを思い出しました。でも おっしゃっているのは その街のほうでしょうね。その
 ★ 私からみると、大澤氏の言っていることは、ちょっと的を外してますね。

 その中身は
 ★ 単純で明快だと思います。
 ☆ つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この差異性には、質的差異と量的差異があって、ベクトルの向きと大きさと言うか、
 つまり、ここにオタクが回避している他者と求める他者の違いがあるんですよ。
 ベクトルの向きの同一性を共有し、その大きさを褒め、褒められて
楽しんでいるに過ぎません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ さて まづ
 ★ ここにオタクが回避している他者と求める他者の違いがある
 ☆ ことは 大澤も 次の意味で言っていますね。
 ▲ 差異を感じる人々を回避して 類似性を感じる人々を求める。
 ☆ このことは たぶん はっきりしているのでしょう。その上で 
 ★ 質的差異と量的差異があって、
 ☆ ということは mmky さん(No.5)がおっしゃるように  
 ■ 考え方としての差異性と類似性 および 趣味としての差異性と類似性
 ☆ といったところでしょうか? すなわち
 ★ ベクトルの向きの同一性を共有し、その大きさを褒め、褒められて / 楽しんでいるに過ぎません。
 ☆ ということは
 ○ 趣味・傾向としての類似性において 他者を求め そこで仲間をつくっている段階だ。
 ☆ となるでしょうか?

 ううーん。いくらか これまでの論調からすれば 後退した感じですね。そのための視点が控えているのでしょうか? ううーん。どうも今回としては 言わばそのご指摘にとどまっているという感じですね。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あとは、ベクトルの角度の少しのぶれで発生するうねりや、
 音楽-アート間の共鳴なども楽しめますが質的差異を不快に感じ / 拒絶していると言うことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり
 ★ ベクトルの角度の少しのぶれで発生するうねりや、 / 音楽-アート間の共鳴なども楽しめますが
 ☆ の部分を 積極的に 社会への志向性として捉えることができるのではないかと見ようとする一つの基調が あったのですが その点は どうでしょう? 
 たぶん 程度問題ではあるのでしょうが どうですかね。
 それにしても bananasand さんからすれば 
 ★ 〔* 他者における考え方としての〕質的差異を不快に感じ / 拒絶していると言うことです。
 ☆ という側面が 強い。目を そこから背むけるわけには行かない。そういう事例は 重かつ大だ。というご見解でしょうか。そうなんでしょうね。
 そう言えば 大澤も 案外なのかどうか その傾向があるように思います。というのは やはりどうしても すでに犯行にまで到ったという事例と問題とがあることを 重視しているようですから。
 その点については わたしは ここでは 触れることを避けていたのですが ことの実態を把握するには 必要であるかも知れません。そうだとすれば その議論の一端を紹介することにします。
 ▲ (大澤:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~
 身体の直接性からの撤退と 身体の直接性への回帰とは いかにして共存するのだろうか?
 さらに振り返ってみると オタクには ごく初期の段階から このような互いに背馳しあう二つのベクトルが共存していた。オタク的な虚構の最も中心的なジャンルが ポルノグラフィ――しばしば《記号化された身体》へのロリコン的な欲望――であることを考えたらどうだろうか。
 ・・・
 いかにして身体からの逃走と身体への回帰が 同一線分上に並ぶことができるのか?
 問題を解く鍵は 身体の問題は他者性の問題でもある ということである。・・・(中略――ここで 《M》と呼ばれるロリコン系の犯行者についての分析がなされている――)・・・
 身体こそは 対他関係の原点である。このことを考慮に入れることが 身体をめぐる逆説を解く重要な手がかりである。 (p.118)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/06/08 15:26
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この回答へのお礼

 ☆ ただ――ただ です ただ――これまでのご投稿にもあったように このような二つの別のベクトルにしても やはり程度問題であって 一般のわたしたちにも ないとは言えないように思われます。

 ですから ここでは 二つの段階の問いがあるわけですが ひとつは いかにして 犯行にまでは到らないようにするかです。これは たぶん 犯罪心理など別様の考察を要求するのではないかと思います。
 もうひとつは これら二つのベクトルを 日常生活の段階と領域において 言わばくすぶっている状態にあっても これをよき方向へ開きみちびいていく。開いていくには どうすればよいか。ではないでしょうか?
 つまり 一般の人びとにも 多少は この《オタク化》の要素があるとするなら 同じ問題として取り組むことが出来るでしょうし その必要が 大いにあることになります。
 こういった方向を目指しましょうか? どうでしょう?

 ただしすでに 提案をもらってもいます。
 ○ No.1 tantan0330 さん:鉄道マニアは むしろ積極的な印象が持たれるようだ。
 ○ No.2 kanota さん:趣味は趣味として捉えればよい。
 ○ No.3 pkuobe99 さん:少しの時間の猶予を与えたまえ。
 ○ No.4 andrear さん:誰にも《オタク化》の要素はあるかも知れぬ。ふつうに《逃げない人間》が世の中には いるものであるから その率先によって 《他者性ないし差異性》を受け容れる方向を打ち出していくべきだし これを実践していくことが望ましい。
 ○ No.5 mmky さん:差異性を 考え方として差異と趣味嗜好としてのそれとに分けて扱え。(= No.8 bananasand さん) 
 ○ No.6 amazo007 さん:オタクと非オタクとの間で 程度問題だという見方も重要
 ○ No.7 amazo007 さん:《コミケに象徴されるようにまさに文化創造への一歩前進という意味》も捉えよ。
 ○ No.8 bananasand さん:他者において類似性を捉え求めるその《ベクトル》を ベクトルとしてまづ捉えよ。その奥に・底に 差異性をさらに見つめるようにしたまえ。
 ○ 番外 eyasi2012 さん:《間を大事にせよ》(【Q:日本人は 死んだのでしょうか】)

 かなり心強いようにも思いますが さて どう再出発すればよいでしょう?
 何か突破口のようなものがありましょうか?

お礼日時:2009/06/08 15:37

難しいことは全く言っていません。



大澤氏は、他者のと量的な差異を明確に指摘していないと
言っています。そこに違いがあり、そこが欠落しています。
例えば、がらっと話を変えて、高校野球少年と
イチローの違いは、同じベクトルを向いているのに
その差は非常に大きくあくまでも他者であると言うことです。

フィギュア好きの高校生とボーメの差でしょうか。

質的な差のみが他者であるとする思考そのものが、
オタクをその理解から遠ざけています。

まずは、以上が前段で単純な話です。

次は、ベクトルの微妙なズレによるうねりですね。
これがあって、初めて、洗練されていくのではないでしょうか。
文章にしろ、形状にしろ、色彩にしても、
理解されている者に晒されて、批判され、褒められて、
それを楽しみつつ完成だと思う方向に近づいてゆくものでしょう。

そして、他の分野とのコラボです。
全く違うベクトルなのに共鳴して、きれいなハーモニーが
感じられるということでしょうか。
アニメは、非常に多くの分野を含んで調和が生まれてますね。
ストーリー、アニソン、作画、声優などなど、
それぞれが独立して学問としても成立する体系があって、
すでにいわゆる「オタク」からは離脱している感がありますけどね。
ま、分野にもよりますが・・・。

話を元に戻しますけど、オタクのオタクたる所以は、
個室の中で一人「こと」に没入していることであって、
その「こと」以外は、もともと無いのですよ。
だからこそ、質の差=ベクトルの角度を云々しても
話にならない訳で、対象は、量の差、言い換えると、
その「こと」自身の質の差と思いますね。

あと、オタクと非オタクを考えるとき、人と「こと」は分ける必要が
あると感じますがどうでしょうか。
知り合いにロリコンでフィギュアに没頭するキャンプ好きの空手家も
おりますからね。彼は、オタクかどうか・・・見る角度によりますね。

この回答への補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 大澤氏は、他者の〔* 考え方などの質的な差異〕と量的な差異を明確に指摘していないと / 言っています。そこに違いがあり、そこが欠落しています。
 ☆ これでよろしいでしょうか? しかも
 ○ 量的な差異が それ自体において 質的な もしくは 段階や次元を異にするという差異にまで達することがある。
 ☆ というところでしょうか? すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 高校野球少年と / イチローの違いは、同じベクトルを向いているのに / その差は非常に大きくあくまでも他者であると言うことです。

 フィギュア好きの高校生とボーメの差でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 個人的ないとなみが 個人の範囲にとどまる場合と それに留まることなく――同じ種類のいとなみでありつつ―― 社会の知るところとなり 公共的な役にも立つ場合と つまりは前者から後者への変身がありうる。というところでしょうか?
 だから
 ★ 質的な差のみが他者であるとする思考そのものが、 / オタクをその理解から遠ざけています。
 ☆ と。

 つまりはさらに
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 オタクのオタクたる所以は、

   個室の中で一人「こと」に没入していることであって、

 その「こと」以外は、もともと無いのですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このいとなみの一本でありつつ その量が――同じ種類の内で――質的に洗練され次元の高いものになりうると解していいでしょうか?
 ★ ベクトルの微妙なズレによるうねりですね。 / これがあって、初めて、洗練されていくのではないでしょうか。
 ☆ そしてその例としては
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) 文章が 公開されて 批判・反批判を経て 練られていく。
 (2) 他の分野とのコラボ――アニメは、非常に多くの分野を含んで調和が生まれてますね。
 ――→ すでにいわゆる「オタク」からは離脱している感がありますけどね。 / ま、分野にもよりますが・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは
 ○ No.7 amazo007 さん:《コミケに象徴されるようにまさに文化創造への一歩前進という意味》も捉えよ。
 ☆ と軌を一にすると見てよいでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あと、オタクと非オタクを考えるとき、人と「こと」は分ける必要があると感じますがどうでしょうか。
 知り合いにロリコンでフィギュアに没頭するキャンプ好きの空手家もおりますからね。彼は、オタクかどうか・・・見る角度によりますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは 《趣味》の問題と《オタクの「こと」》の問題とは違うと。同じ内容であっても 単なる趣味の問題になりうると。

 ひとつに
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 他者における差異性と言うが 類似性をもった他者との間で仲間を組む組まないにかかわらず オタクのいとなむ《こと》は そのいそしみ具合いで 量の問題が洗練されて質の次元に変身し そこではすでに 何のことはない 社会のいとなみに入っていくのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう視点でしょうか? 
 ○ 未来がある。
 ☆ ということですね。
 前回 汲み損ねました。

補足日時:2009/06/08 21:43
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こ、これは、おたくといわれると、かかないといけません~



と言っても簡単に、
おたくが他者性を避ける、それはあります。
一般に内向的な人や、例えば研究者、技術者、というタイプは、内にこもるのが得意ですし、避ける傾向はあります。個人にもよりますが。
でもそれは言い換えると、プラスの面を見れば、一つのことを追求できる能力です。

また、では外向的な人はなんの問題もないのか、というと、
外向的な人は、他者性依存の傾向があります。
他者性にどっぷり寄りかかって、人付き合いにこそ生きる価値を見いだす、という依存心です。
いえ、外向的な人は、他者性に依存しているからこそ、他人に文句を言いたくなるのでは? と思います。内向の人は、他者性に依存しない人が多いですし。(心や自分の内面に依存しているので)

これらは、自分の存在価値を、どこに見いだすか? という点で、内向の人も外向の人も、その自らの直観をよりどころにしている、というだけに過ぎません。
こういう直観依存症は、人間である限り避けがたいと思います。

内向と外向が、お互い悪口を言い合うなら、このように指摘できると思います。
でも僕はプラスに見るほうが好きですが。
こういうタイプの違いは、批判するよりは、お互いに相手は自分にない長所を持っているのだから、その長所を見て協力し合うほうが、ずっと上手く行くと思います。
もちろん理想です。現実問題、そんな上手くは行きませんが。
一つの指針です。
まあ、でもとことん批判し合うのも必要だとは思います。雨降って地固まる、というか。
では~。
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この回答へのお礼

 sheep67 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ○ 一般的に言って 互いの差異を認め受け容れ――批判すべきは 自由に批判し合い――共生をはかる。
 ☆ このふつうの目的のもとに 質問しています。そして そのように受け応えていただきました。
 ★ こういうタイプの違いは、批判するよりは、お互いに相手は自分にない長所を持っているのだから、その長所を見て協力し合うほうが、ずっと上手く行くと思います。
 ☆ つまりほかに 短所 と言うよりは 欠陥ですね――それもわたしの場合 話し合いが出来ない この一点です――この欠陥については その存在を愛し(つまりは その人の発言の機会をどこまでも認めとことん守り 絶対的に守り) 批判するという側面も含めています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もちろん理想です。現実問題、そんな上手くは行きませんが。
 一つの指針です。
 まあ、でもとことん批判し合うのも必要だとは思います。雨降って地固まる、というか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これで 共通の土俵に立ちましたね。土俵と言うより そういう過程ですね。つねに 過程でしょうね。ですから
 ★ 理想
 ☆ というよりは
 ○ つねに問い求めの過程にある。
 ☆ ということなんでしょうね。《理想と現実と》をひっくるめた《いま・ここなる現実》なのでしょうね。

 これも 《直観》なのですが

 ★ 直観依存症は、人間である限り避けがたいと思います。
 ☆ ということで
 ★ おたくが他者性を避ける、それはあります。
 ☆ を少し外向き・前向きにしていただいて
 ★ 外向的な人は、他者性依存の傾向があります。
 ☆ を少し内向きにもしてもらって 互いに歩み寄りをしていけば いいのでしょうか?

 たぶん 何らかの仕事を――つまり その時の一回限りの企画でも 日常のどこまでも続く仕事でも これらを―― 共におこなっていけば けっこう互いに分かり合っていくのではないですか? 
 いまここでも こうやって話し合いの場についてはいますし。

 たぶん まだわたしに主題つまり質問をどのように設定すればよいかが分かっていないのだと思います。もう少し開いています。

お礼日時:2009/06/09 09:11

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