No.6ベストアンサー
- 回答日時:
「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。
武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。
ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返っている史実があります。
※ 岩波新書「武田信玄と勝頼」197ページに記載。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31863126
この松田新六郎が、武田家の滅亡後にどうなったのかは分かりませんが、1581年末の段階でも、武田勝頼の勢力はとりあえず揺るぎないもの、北条家を捨てて武田家に寝返るに足るものと認知されていたということを示します。
武田家があまりにも急速に崩壊した理由ですが、
(1) 木曽義昌、穴山信君という二人の「信玄の娘婿」が、いち早く織田・徳川に寝返ったこと。
穴山信君は、武田家の中でも有数の知行と兵力を持ち、江尻城主として駿河を預かっている立場でした。この穴山が裏切ったとなれば、徳川と北条の連合軍が駿河から甲斐へ一斉に攻め込んでくることになります。
木曽義昌の寝返りと共に、織田信忠が率いる織田主力軍が伊那方面から武田領国に侵入し、3月2日に高遠城を攻め落として諏訪付近に達しました。この段階で武田領国は甲斐と信濃の二つに分断されたことになります。後は「掃討戦」となり、勝頼とその一家は3月11日に天目山で織田信忠麾下の滝川一益の軍勢に討ち取られました。
ここまで迅速に武田家が崩壊した理由ですが
「木曽殿と穴山殿が武田家から離反した以上、武田家に織田・徳川・北条に戦う力は残されていない」
と武田麾下の諸武将が判断した結果といえます。実際その通りでした。
ただ、木曽と穴山の寝返りを受け入れた織田信長が、他の武田諸将の寝返りは受け付けず、降伏して出てきた武田諸将をことごとく処刑したのは予想外だったと思いますが。
(2) 1582年、本能寺の変がなければ、他に3つの大大名が織田家に潰されるか軍門に下ることが確実でした。
越後の上杉景勝:
武田家の滅亡後、北陸を進んで能登と越中を制した柴田勝家率いる「織田家北陸方面軍」が、本能寺の変の当日に越中魚津城を攻略し、越後に乱入する所でした。
上杉景勝は、魚津城を救援するため出陣しようとしましたが、武田家の滅亡によって織田領となった信濃の北部から、別な織田軍(森長可など)が上杉家の本拠地の春日山城を襲う恐れがあり、動くことができませんでした。
同時に、上野にいる滝川一益が、三国峠を越えて越後に攻め入る構えを見せていました。旧暦の6月、真夏ですから、冬は雪に閉ざされる三国峠も容易に通行できます。小田原の北条氏は、明確にではありませんが織田家の軍門に下った状況でしたので、一益の越後侵攻を妨げる者はいません。
本能寺の変がなければ、越後一国を領するに過ぎない上杉景勝は、恐らく武田家よりもっとアッサリと織田の大軍に三方面から押し潰されていたでしょう。
中国の毛利輝元:
本能寺の変の時、備中高松城は羽柴秀吉率いる「織田家中国方面軍」の水攻めを受けていました。
毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が率いる毛利のほぼ全軍が救援に来ていましたが、高松城を包囲する築堤と水が障害になること、「織田家中国方面軍」と兵力が近似していたこともあり、毛利家側は手を出せない状況でした。
この状況で、信長が「毛利を倒す時が来た。畿内にいる明智光秀以下の諸将を信長自らが率いて出馬する」と決断し、その準備のため京都の本能寺に滞在している時に起きたのが本能寺の変です。
本能寺の変がなければ、信長率いる主力部隊が備中に到着するという知らせと前後して備中高松城が陥落し、毛利軍は安芸へ退き、羽柴秀吉に領国の大幅割譲を条件とする和睦を申し出たでしょう。実際、高松城の包囲戦の段階で和睦交渉が進んでいました。
この和睦は、毛利家の領国の過半を信長に譲る過酷な者であったとされています。
四国の長曾我部元親:
元親は四国全体を概ね勢力下に収めていましたが、織田家の四国遠征軍(織田信孝、丹羽長秀)が本能寺の変の時点で大坂に集結し、まさに淡路島経由で四国に渡ろうとしていました。
四国には織田方についている三好氏の勢力があり、スムーズに渡海が出来たでしょう。元親の勢力は60万石程度と見積もられますが、織田軍の前では「鎧袖一触」に潰されたはずです。
(3) 本能寺の変がなければ、歴史には
「1582年 織田信長が武田勝頼と上杉景勝と長曾我部元親を滅ぼし、毛利輝元を降伏させた」
となったはずです。
この結果、毛利家と北条家を麾下に従えた織田家の勢力は、
東は越後、上野まで
西は長門と四国全域
まで広がり「残すは奥羽と九州のみ」となったはずです。
武田家滅亡後に、織田家が3つの大大名を同時に滅亡させる(降伏させる)体制に入っていたことから分かるように、1582年の織田家の兵力は、他の大名家の数倍に上る隔絶したものでした。ちょうど、今日のアメリカ軍のようなものです。
仮に武田家の諸将が叛かずに最後まで勝頼と共に戦ったとしても勝ち目はなかったと言えましょう。
詳しい説明ありがとうございます。
納得いきました。
有力家臣の裏切りが大きなきっかけになったのですね。
武田は危ない状態にあったといっても、やはりそれなりに強かったのですね。
No.5
- 回答日時:
勝頼を考える際に家康の存在は欠かせません。
長篠の戦いの前に三方原の戦いがあり、家康は信玄に散々な敗戦をしています。家康はこのときから短気を抑え、策略家になったと言われています。長篠の戦いでは信長の援助を受け鉄砲隊で勝利を収め、その後の勝頼との戦いでは調略を繰り返しながら領土を奪っていきます。領地支配に関しては基本的に信玄と同じような形態を取ったのではないでしょうか。そのことは「人は石垣、人は城」と表現した信玄と同じカラーを見て取れます。
ここで組織論になりますが、現代のオーナー社長から次の息子に移行する会社を思い浮かべると比較し易いと思います。父親が社長の時には能力主義で1億円以上の売上を管理する幹部が5人いたとします。その5人は父親社長と同年代、一緒に苦労した仲でお互いのことをよく知っています。その父親が病気で急死し、息子が社長を継ぎました。これからはITの時代ということで色々チャレンジしたいのですが、幹部のうち4人まではIT投資に反対します。そこへ業界に大資本が参入し、先にIT戦略を展開して会社の売上は減少します。息子は反対する幹部よりも自分と同年代の成長株な社員を優遇し、新しい事業を起こそうとします。4人の幹部は退職したり、転職したりします。こういうことはよく起こります。オーナー社長の会社で代替わりがうまく行かないことが多いのはこういうことです。外的な要因が小さければうまく行くこともありますが、勝頼の場合にも信長という大きな要因があり、リベンジを誓う家康という存在があったからこそ、能力が少々あったくらいでも生き残ることができなかったのではないでしょうか。
ありがとうございます。
徳川家康が短気を抑え策略家になったという話は面白いですね。
しかし、考えるべきは九対一ぐらいで家康より信長なのでは?
No.4
- 回答日時:
武田勝頼は正式な当主ではなく、嫡男信勝が成長するまでの代理「陣代」です。
今は甲斐武田20代当主として認識されている向きもありますが、元々武田信玄が後継者に指名したのは信勝でした。勝頼は諏訪頼重の娘、諏訪御料人を母に信玄の4男として生まれました。そして諏訪領の安定を求めた信玄の考えにより諏訪氏を後継して諏訪四郎勝頼と名乗りました。つまり養子として他家に出た訳です。そのころは信玄嫡男の義信が存命で、武田家の後継に問題がなかったからです。
しかし、義信のクーデター事件の後は急遽、一番後継に近しいところに位置しましたが信玄はあくまでも一親戚衆の1人として扱いました。これは武田信豊や穴山信君など同じ位置に過ぎません。 信玄としては一度、他家に出た勝頼を直接後継者に指名するよりも親戚衆として武功を積み上げさせて家臣団に認めさせるつもりだったかも知れません。しかしこれが徒となったみたいです。
また勝頼も信玄没後、自分の家臣団形成を急ぎすぎた節があります。そういう時は往々にして新旧の諍いが起こるのも世の常と言えましょう。
勝頼としては自分を武田の後継者として認めさせたい。父、信玄を越えたい。という気持ちがあり、焦りもあって強引に物事を運ぶ。重臣達はそんな勝頼を危なっかしく思い、また信玄以来の古法に則って物事を運びたいと考えお互いの気持ちが折衷できなかったのではないのでしょうか。
いくら指揮官が優秀でも配下が統一出来てなくては軍隊としては野力を発揮させることは難しいですから。
No.3
- 回答日時:
脆かったというより、時代に負けた(運が悪かった)っと言ったほうが適当ではないでしょうか。
信玄亡き後の武田家も、信玄を支えた屈強な名だたる武将が支え続けています。
ただ、やはり長篠の戦いから武田家が衰退したのは確実ですね。
勝頼は戦に対するセンスや技術は高かったですが、時勢を読むには疎かった面があり、長篠城をなかなか落とせない苛立ちも相まって、「負け戦」の可能性の高い戦を自らの決断で受けています。
結果、武田家を支えた重鎮や猛将の多くを失いました。
もしあそこで攻城を諦め、撤退していれば、態勢を立て直して再起を図る、ということも可能であったかもしれません。
ただ、甲相駿三国同盟を破棄した場で、武田家の命運には厳しいものがありましたね。
内陸部で「背」を作れない状況を自らの手で作ってしまい、結果的に戦力を分散せざるを得ない布陣となってしまいました。
長々と話は逸れましたが、
>なぜ他の大名家に比べて武田勝頼の元での組織は脆かったのでしょうか?
本来であれば「相続争い」が必然に近い当時で、家督相続がすんなりと行われてしまった、というのが大きいと思います。
「相続争い」=内戦に近いですから、デメリットばかりと受け取りがちですが、逆に言えば「内部での敵を掃討する(屈服させる)」という意味合いでは非常に重要なことでもありました。
これが無い=不信感を持つ者はそのまま
ということですから、結果的に結束力に綻びが生じやすくなります。
また、武田家当主に勝頼が就任した当時から、勝頼は様々な方針を断行しています。
これによって、信玄当主当時から仕えていた名将達は、武田家の先行きに不安感を持っていたことも大きいと思います。(先見の明のある武将や、有能な武将ほど、これを感じていた、と考えられます。)
ありがとうございます。
家督争いにもメリットはあるわけですね。
まあ、上杉はそこでつけこまれて縮小したし、伊達政宗は反対派もある中で5年間であれだけの偉業を遂げたので、争いがないに超したことはないでしょうけどね。家督争いがあれば、その時点で領土は大きく縮小していたかもしれませんね・・
>ただ、甲相駿三国同盟を破棄した場で、武田家の命運には厳しいものがありましたね。
内陸部で「背」を作れない状況を自らの手で作ってしまい、結果的に戦力を分散せざるを得ない布陣となってしまいました。
とはいえ、この時点では北条と同盟を結んでいましたよね(?)
それに、今川の領地は獲得できたしで、三国同盟破棄は結果的に悪くなかったと思いますけどね。
確かに、長篠では戦わずに、しっかりと戦力を整えて、北条と一緒に戦っていれば少なくともあそこまでの結果にはならなかったでしょうね・・もったいないものだ・・
No.2
- 回答日時:
武田の家督を継いだ瞬間に、西の織田、南の徳川から攻略・調略を
受けたからでしょう。
ただでさえ、代替わりすると新しい当主に対する不安感から人心が
動揺するのに、武田の場合は前の当主(謙信)が偉大であったが為に
その度合いが高かったのは間違いありません。また、本来は家督を
継ぐはずではなかった人物(勝頼)が継いだために、家臣達の序列が
大きく変わる可能性が生じ、冷遇されると思った者は織田や徳川の
調略に容易く付け込まれてしまったのでしょう。そういう状況では
他の家臣にも動揺が広がり、結果としてあれほど強く結束していた
(ように思われた)家臣団があっという間に崩壊して行った、と。
上杉は、家督相続時に泥沼の争いをしたお陰で、反対派は一掃され
結果として勝利した景勝の権威・権力が強化されました。そのため
武田と同じような事態は起こらなかったのでしょう。
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